二章 四話 覚悟
昭和二十年九月二十七日
健吾は、ゆきずりで出会った久遠の家にいた。
一日だけと、考えていても、行先がない。
出たところで暮らしていけるあてもない。
何よりも久遠が、幸せそうに面倒みてくれる。
甘えてしまっている自覚はある。
奥から、良い香りがする。
焼ける鯖の脂の匂い、味噌汁の湯気、炊き立ての米。
いつもの朝食の支度中だった。
すでにご飯と味噌汁、漬物が卓に並び、あとは焼魚を待つだけになっていた。
久遠は当時の男性としては長髪の類である。
女性にするにはおかっぱよりやや短く、何より洗練された髪型でもあった。
その容姿で着物に割烹着で料理していると、男には見えなかった。
「ああ~、ごめん遅くなったね、鯖焼けたよ~」
バタバタと久遠は焼き上がった魚を卓に並べた。
二人で手を合わせてから食事をした。
久遠との朝食や生活にも、ようやく慣れてきていた。
少し前から、健吾の戸籍と学校先を探していたようで、伊奈健吾といつの間にか名前を変えることになり、学校にも通うようになった。
本当は嫌だった。苗字を変えることに・・・
ただ久遠に、成人したら苗字を戻したらいい。と説得されしぶしぶ納得した。
「今日は少し遠いとこに用事があるんだ」
「へー」
あまり興味がない。朝食を食べることに夢中だ。
「もし学校から戻って、私がいなかったら、鍵は庭の使ってないヒビの入った植木鉢の下に、置いておくから、それで家に入って」
そういえば庭の二桁に及ぶ植木鉢は、暮らした当初は何一つ使われていなかった。
今では色々な花が植えられている。
庭には小さな畑も作られて、いつの間にか野菜を作っている。
「台所にいとこ煮おいてあるから、お腹すいたら食べて」
どうみても男がいうセリフではない。
おかんである・・・
健吾は「またか」という顔をした。
「おう、わかった、大丈夫、そんくらい心配すんなって」
ご飯をいそいそと流し込み、健吾は学校に向かった。
その頃。
玉音放送からまだ一か月余り
東京では、もう一人『日本の終わり』を背負う男が動いていた。
その男は頼りない足取りで黒塗り車の後部座席に乗り込んだ。
黒のモーニングコートに、縞模様のズボン、襟元が鳥の翼のように折り返されたウイングカラーシャツにネクタイを締め、ベスト(三つ揃え)もしっかりと着用し、黒い革靴を履き、シルクハットを手にしている。
この時代ではかなりの高貴な服装である。
単身で乗り込んだ後部座席には、何故か先客がいた。
歳は十代後半の少年に見える。白いスーツを着ていた。
「久しぶりだね」
「あ・・・あなたでしたか、えっと今は・・・」
「久遠だよ、今はそう名乗っているんだ」
「そうでしたか久遠・・・あなたにふさわしい」
「昔の名は、さすがに今の時代には合わなくてね」
男は口調を改め、前方の運転手へ目を向けた。
「出してくれ」
「承知いたしました」
運転手は、一度も後部座席を振り返らなかった。
白いスーツの少年に視線を向けることもなく、合図を出した。
四台の車列が静かに走り出す。
ただ、妙だった。
運転手は少年の存在をまるで認識していない。
後部座席の会話すら、耳に入っていないようだった。
車窓の外では、焼け落ちた商店街の骨組みだけが黒く空へ突き出ていた。
「今からどこに行くんだい」
全てを把握しているような顔をしつつ久遠はあえて問うた。
「アメリカ大使館に向かっている」
「溜色の車はどうしたの?それにサイドカーも付けてないし」
「今回は非公式な訪問なんだよ」
「なるほどそれで黒塗りの車に乗っているんだね」
指先だけが、僅かに震えていた。
車列は、その身分に対して驚くほど少なかった。
「本当にいいのかい。これから君は裁かれに行くようなものだ」
「そうだろう」
「極東委員会は、君を許さないだろうね」
「・・・・・・・・・」
「死より重いものを背負うかもしれない」
「分かっている」
車内は蒸し暑い、しかしシルクハットを握る指は力みを感じる。
車窓に映る自分から、一瞬だけ目を逸らした。
彼は目を閉じ、何も語らなかった。
沈黙がしばらく車内を支配した。
遠くの復興工事の槌音が響いている。
久遠は、値踏みするような静かな視線を向けていた。
幾度も大王や、後の為政者を見てきた目だった。
権威だけを振りかざし、責を他者へ押し付けた者たちを、彼は数え切れぬほど知っている。
「もし君が望むなら、私は・・・」
「大丈夫だ」
虚勢かもしれない、だが彼は、震える指先を膝の上で握り締めたまま、静かに目を開いた。
「まさか責任を一人で背負う気かい?辞するだけで済むとは考えられないけど」
「もちろん甘い考えなどない」
「ムッソリーニは逃亡中パルチザンに銃殺され、ヒットラーは地下壕で自殺した。世界は、敗者に優しくない」
久遠は、未来ごと背負おうとする男を、静かに見つめていた。
「逃げるわけにはいかない」
彼は静かに言った。
「たとえ世界史に悪名を残そうとも、もし、この身に意味があるのならば、戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行った全ての責は、私が負うべきだ」
久遠は驚きのあまり口を少し開いた。
やがて、その表情は静かな微笑へ変わっていく。
「私は君の意思を尊重するよ。見届けるよ」
車は赤坂の駐日アメリカ大使公邸に到着した。
前後の車両から近習の者が降り、護衛の対象の男の車のドアを開けた。
「そうだ。一つだけ」
「?」
「君が思うほど、向こうも一枚岩じゃない」
「・・・・・・」
「それだけだよ」
「・・・・・・あなたには、どうかこれからも見守って欲しい」
「ああ、もちろんだ」
彼は車から降り目的の建物に向かう。
建物には若い軍服姿の男が出迎えていた。
久遠はしばらく見届けたあと、何事なかったかのように車から降り、運転手に近寄って目を合わせた。
運転手が一瞬だけ目を瞬かせた。
まるで今、初めて“そこに誰かいた”ことに気付いたみたいに。
久遠が静かに歩きだし、敷地の外周まで距離を置いた。
40分程経過した後、彼は建物の中から出てきた。
要件を済ませたようだ。
ただ、出迎えていた若い軍人の隣には、長身の老軍人の姿もあった。
二人は思いのほか親しげに言葉を交わしている。
遠目から一頻り見届けた後、久遠は踵を返し、付近に駐車していた車へ向かった。
「ありがとう、わがままを聞いてくれて」
「本当ですよ、管理するこっちの身になってください」
久遠は苦笑いを浮かべるだけで返した。
「もういいよ、出してくれ」
久遠を乗せた車はそのまま消えていく。
走りだしている車内で、久遠は太古の昔を思い出していた。
『狭野・・・・・・』
久遠は静かに目を閉じた。
遠い昔――
この国がまだ国ですらなかった頃。
同じように、国を背負おうとした男がいた。
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