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悠久の慈愛―神代残響―  作者: 月見


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8/19

二章 伊東健吾 一話 保護

雨が降っていた。

港町の朝は静かだった。

健吾は窓ガラスに映った自分を見る。

二十代半ばにしか見えない顔。

だが鏡の向こうには、八十年以上の人生が積み重なっていた。

店の窓を叩く雨粒の音だけが、一定のリズムで響いている。

健吾は一人でカウンターを磨いていた。

昨日まで誰も座らなかった席。

そこに娘が座っていた。

和華奈が座っていた席を何となく見つめる。

そこには当然誰もいない。

だが娘が座っていた気配だけは、まだ残っている気がした。


「怒ってたなぁ」


思わず苦笑する。

当然だ、二十年以上、父親を名乗る資格もない。

それなのに、会えば昔のまま娘扱いしてしまう。

悪い癖だ、健吾は布巾を置く。

窓の外では灰色の海が揺れている。

久遠なら何と言うだろう。

きっと・・・


『健吾、言わなければ伝わらないよ』


とでも言う。

あの人は昔からそうだった。


逃げるな、誤魔化すな、相手が傷付くとしても真実を伝えろ。

優しいくせに、そういう所だけは妙に厳しい。

健吾は小さく息を吐く。


「相変わらず無茶言うよな」


そして遠くを見る。

灰色の海。

その向こうにあるはずもない景色が、ふと脳裏に浮かぶ。


黒煙、焼け落ちた家々、焦げた匂い。

腹の底から離れない飢え。




――昭和二十年八月。


戦争は終わった。

だが、健吾にとって地獄はまだ終わっていなかった。

父は顔も覚えきれない年齢の時に、徴兵され、戦死したと母から聞いた。

母も連日続いた空襲で亡くなった・・・・・・。

家すらも空襲で焼失し、行く当てもなくなった。

親戚を頼ろうにも、皆それぞれ生きるだけで精一杯だった。

なによりも少ないし、居場所すら知らない・・・健吾はそれだけまだ幼かった。

戦争は終わったのだ。

ラジオでは平和が来たと言っていた。

けれど健吾には何も変わらなかった。


腹は減る、夜は寒い。

明日どう生きるかも分からない。

それだけだった。

配給の列に並ぶ、貰えるものは少ない。

時には何時間並んでも空振りだった。

配給袋を抱えた大人達は、子供を見る余裕すらなかった。

港へ行けば、同じような子供が何人もいた。

親を失った子、家を失った子、名前すら分からなくなった子。

皆、生きることだけで必死、健吾もその一人だった。

誰かが盗めば殴り合いになる。

食べ物が落ちれば奪い合いになる。

優しさより空腹が勝つ、そんな時代だった。

それでも健吾は盗まなかった。

父がそう教えたからではない。

母がそう言ったからでもない。

ただ、怖かったのだ。

誰かから何かを奪うことが、奪われた顔を見てしまうことが。

だから腹を空かせたまま耐えた。

そして九月が近づいた頃には、骨ばかりの身体になっていた。


ある日の夕方だった。

港の倉庫街の裏、健吾は壁にもたれながら座り込んでいた。

三日ほど、まともな物を口にしていなかった。

最後に食べたのは、誰かが落とした芋の欠片だった気がする。

もう記憶も曖昧で、立ち上がる力もない。

空は赤く夕焼けだけが綺麗だった。


『ああ・・・・・・』


ぼんやり思う。


『死ぬのかな』


不思議と怖くなかった。

もう疲れていた。

目を閉じる。

波の音が聞こえる。

遠くで船の汽笛が鳴る。

そして――。


「そんな所で寝ると風邪を引くよ」


声がした。

静かな声だった。

怒ってもいない。

驚いてもいない。

ただ当たり前のように話しかけてくる。

健吾は重い瞼を開く、逆光で顔はよく見えなかった。

だが一人の男が立っていた。


黒い髪、若い男だった。

汚れていない、白いスーツを着込んでいる。

二十代いや、十代後半くらいだろうか?

けれど、その目だけは妙に落ち着いていた。


「・・・・・・あんた誰?」


弱々しい声が出る。

男は少し困ったように笑った。


「通りすがりかな」


そう言って紙包みを差し出す。

米の匂いがする。

食べ物だ。

健吾の腹が情けなく鳴った。

男は笑わなかった。

ただ静かに言う。


「食べなさい」


その言葉に逆らう力は、もう残っていなかった。

健吾は反射的に紙包みを胸へ抱え込んだ。

誰にも取られたくなかった。

震える指で開く、中には握り飯が二つ入っていた。

白い米だった。

それだけで涙が出そうになる。

戦後の食糧事情では、白米など滅多に見られない。

まして孤児の健吾には縁のない代物だった。


「食べないの?」


男が首を傾げる。

健吾は慌ててかぶりついた。

塩の味がした。

それだけなのに、驚くほど美味かった。

胃が痛む。

空っぽだった身体が、急に生き返ろうとしている。

夢中だった、一つ目を食べ終える頃には、周囲のことなど見えていなかった。

気付けば二つ目も半分ほど消えている。

健吾が握り飯を飲み込む様子を、久遠は静かに見ていた。

そこでようやく我に返った。

男は何も言わず、近くの木箱に腰掛けていた。

急かしもしない、見張りもしない。

ただ夕焼けの海を眺めている。

不思議な人だった。


「・・・・・・うまかった」


男は小さく笑った。


「それは良かった」


たったそれだけだった。

恩着せがましさもない。

見返りを求める様子もない。

だから逆に警戒した。

戦争が終わってから、親切には裏があることも知っていた。


「何が目的なんだ」


男は目を瞬かせた。


「目的?」

「飯くれたろ」

「うん」

「だから何かあるんだろ」


男はしばらく考えていた。

やがて困ったように笑う。


「生きて欲しかっただけかな」


その言い方は妙だ。

まるで、“何度も死を見送ってきた人間”みたい。

健吾は言葉を失った。

そんな理由があるのだろうか、食べ物が貴重な時代だ。

見知らぬ子供に渡す理由にならない。

男は立ち上がる。

白いスーツの裾を軽く払った。

夕陽を背負う姿は妙に綺麗である。


「名前は?」


健吾は少し迷った。

だが嘘を吐く理由もない。


「・・・・・・伊東健吾」


男は静かに頷く、その名前を大事そうに胸へしまうみたいに。


「そうか」


そして自分の胸を指差した。


「私は久遠」


男はそう言ってから、少しだけ考えるように目を細めた。


「・・・・・・伊奈久遠」


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります

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