一章 七話 父娘
その一言に、和華奈の背筋が冷える。
太平洋戦争。
終戦直後。
時間の軸が、静かに歪んでいく。
健吾は続けた。
「親も家もなくなって、港で野垂れ死にかけてた俺を見つけて保護したのが久遠だ」
「・・・保護?」
「育てた、とも言えるし、見守っていた、とも言える」
最後の言葉だけが、妙に引っかかった。
『見守る』
普通なら親や教師に使う言葉だ。
けれど健吾の口から出るその響きは、もっと別の意味を含んでいる気がした。
健吾はそこで初めて、真正面から和華奈を見る。
「久遠はな、長く生きてるとか、そういうレベルじゃない」
「じゃあ、何なの?」
健吾は一拍置いた。
まるで、どこから話せばいいのか迷うように。
そして静かに言う。
「この国がまだ国家として成立していなかった頃から存在している」
「そんなの嘘よ」
健吾は黙る。
「国家成立以前?神話の時代ってこと?そんな人間いるわけないでしょ」
空気が、完全に止まった。
和華奈は理解できなかった。
国家として成立していなかった頃。
それがどれほど昔なのか、一瞬では想像もできない。
学校で習った歴史。
古墳時代。
弥生時代。
さらにその前。
そんな言葉が頭をよぎる。
けれど、それらは教科書の中の話だ。
遠い過去、現実とは繋がらない世界。
それが今、自分の父の口から語られている。
目の前にはコーヒーの湯気。
窓の外には港町の海。
古びた喫茶店。
あまりにも現実的な景色と、あまりにも非現実な話が噛み合わない。
「ふざけないで!」
気づけば立ち上がっていた。
椅子が大きな音を立てる。
「何それ?そんな話、信じられるわけ・・・・・・」
呼吸が乱れる、胸の奥が焼けるように熱かった。
怒りなのか、恐怖なのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。
健吾はふと苦く笑った。
「・・・・・・本当に、お前は母さんに似てきたな」
「父さんは知ってたんでしょ」
「私がこうなるって」
健吾は答えなかった。
視線だけが静かにテーブルへ向ける。
「だったら何で何も言わなかったの」
和華奈は眉を寄せる。
「怒る時の顔が、そっくりだ」
その声はどこか嬉しそうだった。
失った時間を見つめているように。
だから余計に胸が痛む。
二十年以上、父はそこにいなかった。
なのに、まるで昨日まで一緒に暮らしていたみたいな顔をする。
その優しさが腹立たしい。
その懐かしそうな目が苦しい。
「なんで私は、歳を取らないの?」
言葉がこぼれ落ちる、自分でも驚くほど弱い声だった。
健吾が視線を逸らす。
答えを知っている。
でも言いたくない。
娘を巻き込みたくない。
和華奈の喉が鳴る、聞きたくない、けれど知りたい。
胸の奥で相反する感情がぶつかり合う。
「こんなの・・・・・・人間じゃ」
声が震える。
「じゃあ私は何なの?人間じゃないの?母さんとも違う、友達とも違う、十年後も変わらないの?二十年後も?ずっと?」
誰に向けた言葉か分からなかった。
「少なくとも、普通の人間とは言えない」
健吾が静かに遮った。
店内がしんと静まる。
冷蔵庫の低い駆動音だけが遠くで鳴っていた。
「人間ではない」
健吾が言う。
「神でもない」
健吾はゆっくりと言葉を選ぶ。
「少なくとも、『そう呼ばれてきただけの何か』だ」
カップの中のコーヒーが、わずかに揺れる。
和華奈は言葉を失った。
神ではない、人でもない。
その曖昧な答えが、かえって恐ろしい。
理解できるものには名前がある。
だが理解できないものには名前がない。
久遠という存在は、そのどちらにも属していない気がした。
健吾は窓の外へ視線を向ける。
灰色の海が静かに波打っていた。
「久遠は見守ってきた」
ぽつりと言う。
「国ができるのも、動乱が起きるのも、平和の時代も」
その声音はどこか遠かった。
まるで自分の記憶ではなく、遥かな景色を語っているみたいに。
「天下を取った男が老いて死ぬのも見た」
和華奈は息を呑む、健吾が見たわけじゃない。
久遠が見てきた景色だ。
人の一生では到底届かない時間、想像するだけで目眩がした。
「そして時々、手を差し伸べてしまう」
健吾の声が少しだけ柔らかくなる。
「全部を見送る覚悟が出来ないんだよ、あの人は」
和華奈は顔を上げた。
健吾は苦笑していた。
どこか呆れたように。
けれど、誰より誇らしそうに。
「じゃあ私が知っていた久遠くんは何だったの」
健吾は少し笑う。
「分からない」
和華奈は額を押さえた。
「何もかも大きすぎて、頭がついていかない」
「昔も今も変わらない、面倒見が良くて、余計なお節介で、放っておけばいい人間を放っておけない」
少し間を置いてから話を続ける。
「故に神には成りえない」
言葉が落ちる。
喫茶店の空気は一瞬だけ止まったままの時間みたいになった。
カップの縁に触れていた指先だけが、やけに現実的に見える。
「優しい人だったのね」
和華奈の声は、ほとんど反射だった。
健吾はすぐには答えない。
窓の外の海を見たまま、昔の記憶を辿るように目を細める。
「俺が初めて会った時もそうだった」
ぽつりと呟く。
「本当なら見過ごせたはずなんだ」
和華奈は黙って聞いていた。
「戦後の孤児なんて珍しくなかった」
健吾は小さく笑う。
「俺一人救ったところで、世界は何も変わらない」
それでも、あの人は立ち止まった。
握り飯を差し出し、家へ連れて帰った。
風呂を沸かし、布団を敷いた。
ただそれだけのことをした。
けれど、その小さな選択が一人の人生を変えた。
健吾は静かに息を吐く。
「もう少し・・・・・・最初から話すとするよ」
健吾はそう言って窓の外を見る。
灰色の海、遠くの防波堤、砕ける波。
「終戦の年だった」
小さく呟く。
「俺は港で死ぬのを待っていた」
和華奈は息を止める。
「そこに久遠が現れた」
健吾は遠い記憶を見るように目を細める。
「今とまったく同じ顔でな」
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