表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠久の慈愛―神代残響―  作者: 月見


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/19

一章 六話 健吾

翌朝、空は薄く曇っていた。

海沿いの町特有の湿った風が、古い家の窓を微かに鳴らしている。

和華奈はほとんど眠れなかった。

昨夜、母から渡された封筒。

そこに書かれていた住所と、差出人の名前を、何度も見返していた。


『伊奈健吾』


伊奈。

久遠と同じ姓だった。

偶然ではない。

そう思った瞬間、喫茶店で見た久遠の横顔が脳裏によみがえる。

朝食の席でも、母はほとんど何も話さなかった。

味噌汁の湯気だけが、静かに揺れている。


「・・・・・・会いに行くの?」


箸を置きながら、母が小さく訊ねた。


「うん」


和華奈は短く答える。


「聞きたいことが、たくさんあるから」


母は少しだけ困ったように笑った。

安心しているようにも、怖がっているようにも見えた。

家を出る直前、母がふいに呼び止める。


「和華奈」


「なに?」


母は迷うように視線を伏せた。


「あの人を、嫌いにならないであげて」


和華奈は答えられなかった。

父を知らない。

けれど、ずっと置いていかれたと思っていた。

怒っているのか。

悲しいのか。

自分でも分からない。

ただ胸の奥に、重たいものだけが沈んでいた。


電車に揺られ、さらに地方線へ乗り換える。

窓の外には灰色の海が広がっていた。

人気のない駅で降りると、潮の匂いが濃くなる。

観光地でもない。

時間だけが取り残されたような港町だった。


スマートフォンの地図を頼りに坂道を上る。

やがて、古い喫茶店が見えた。

木製の看板。

色褪せた白い壁。

店先には「営業中」の札。

・・・・‥ここ?

父がいる場所としては、あまりにも普通だった。

和華奈は息を整え、扉を開けた。

小さなベルが鳴る。


「いらっしゃい」


低く穏やかな声がした。

店内に客はいない。

カウンターの奥に立っていた男を見た瞬間、和華奈の呼吸が止まった。

若い。

思わず、そう感じた。

二十代半ばほどにしか見えない。

黒髪。

整った顔立ち。

穏やかな目元。

写真で見た父と、ほとんど変わっていなかった。

男は数秒、静かに和華奈を見つめた。

その目が、わずかに揺れる。


「和華奈」


名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。


「久しぶり、だな」


その声には、奇妙な実感があった。

まるで昨日まで一緒に暮らしていたみたいに。

父だ。

頭では理解している。

けれど、現実感がなかった。

自分より年上にすら見えない父親。

異常だった。


「・・・・・・どうして」


ようやく、それだけを絞り出す。


「どうして、何も変わってないの」


健吾は静かに目を伏せた。


「まずは座りなさい」

「答えて」


和華奈の声が強くなる。


「母さんは老いたのに、なんで父さんだけ……」


言葉が詰まる。

次の言葉は、無意識に零れた。


「・・・・・・私も」


健吾は小さく息を吐いた。


「本当は、普通に老いて死にたかったよ」


冗談みたいな言い方だった。

けれど、その目は少しも笑っていなかった。

健吾はカウンターの内側で、ゆっくりコーヒーを淹れ始めた。


「飲めるか?」

「今そんなのどうでもいい」

「緊張してる時ほど、温かいものを飲んだ方がいい」


その言い方が妙に自然で、和華奈は反論できなかった。

差し出されたカップ。

その指先を見た瞬間、妙な感覚に襲われる。

・・・・・・知っている。

幼い頃、熱を出した夜。

額に触れてきた手の感触を、身体だけが覚えていた。

けれど次の瞬間、和華奈はその記憶ごと振り払うように視線を逸らした。


「この店は、始めて五年くらいだ」


遠くで、古い冷蔵庫の駆動音が鳴っていた。

その低い音だけが、妙に現実を繋ぎ止めている。


「和華奈は、久遠に会ったんだな」


心臓が跳ねた。


「・・・・・・なんでその名前を」


健吾は苦く笑った。

その笑い方に、和華奈はぞくりとする。

似ていた。

久遠と。

困ったように、どこか寂しそうに笑うその顔が。


「久遠は、自分から人の前に現れるタイプじゃない。必要だと判断した時だけ現れる」


健吾は少しだけ目を伏せた。


「・・・・・・まるで季節みたいにな」


その言い方が、妙に恐ろしかった。

人の人生ではなく、もっと長い時間を見ている人間の言葉だった。

和華奈は拳を握る。


「父さんは、なんでいなくなったの?」


今度は逃がさなかった。

喫茶店の空気が張り詰める。

健吾は窓の向こうの灰色の海を見つめた。

長い沈黙のあと、小さく息を吐く。


「話す時が来たんだな」

「父さん?」

「いや」


健吾は首を振った。


「俺が、話したくなかっただけだ」


和華奈は息を呑む。

そんなことを聞きたいんじゃない。

聞きたいのは一つだけだった。

二十年以上、胸の奥に沈み続けていた言葉。


「・・・・・・どうして」


声が震える。


「どうして、会いに来てくれなかったの」


健吾の表情が固まった。


「私はずっと、父さんが死んだと思ってた」


静寂。


「生きてるなら」


唇を噛む。


「一度くらい、会いに来てくれてもよかったじゃない」


健吾は答えなかった。

視線を落としたまま、長い間黙っていた。

やがて、小さく笑う。

ひどく弱々しい笑みだった。


「・・・・・・会いたかったよ」


和華奈が息を呑む。


「何度もな」


健吾は窓の外を見た。


「でも会えば、お前を巻き込む」


苦しそうに目を伏せる。


「だから会えなかった」


初めてだった。

目の前の男が、父親らしい顔をした気がした。


「情けないだろ」


和華奈は何も言えなかった。


「お前が普通に生きてくれたら、それで良かった」


静かな声だった。

怒鳴るでもない。

言い訳するでもない。

だからこそ重かった。


「でも、もう無理だな」


健吾はテーブルの上のカップへ視線を落とした。

湯気はもう消えていた。


「久遠がお前の前に現れたなら、始まったんだ」


和華奈の背筋が冷える。

始まった。

久遠も同じようなことを言っていた。

眠っていたものが。

自分の中で、始まったのだと。


「・・・・・・久遠は何者なの」


今度こそ、健吾は逃げなかった。

長い沈黙のあと、静かに口を開く。


「あいつは・・・・・・」


波の音。

冷蔵庫の駆動音。

壁時計の秒針。

和華奈は無意識に息を止めていた。

やがて、健吾は言った。


「久遠は、俺の父だ」


和華奈は瞬きを忘れた。

父。

その言葉だけが頭の中で反響する。

父。

久遠が。

父?

ようやく、声を絞り出す。


「・・・・・・どういう意味」


健吾はすぐには答えなかった。

ただ、少しだけ寂しそうに笑う。


「正確には、育ての親だ」


静かな声だった。


「俺が八歳の時に、拾われた」


和華奈は何も言えなかった。

久遠が。

父を。

育てた。

あの、学生にしか見えない久遠が。

健吾は苦笑する。


「そんな顔するよな」

「当たり前でしょ・・・・・・」


声が震えた。


「だって、久遠くんは・・・・・・」


健吾は首を横に振る。


「見た目で考えるな」


その一言だけで、空気が変わった。


「久遠は普通の人間じゃない」


ようやく出た言葉は、あまりにも単純で、あまりにも重かった。

和華奈の呼吸が浅くなる。


「・・・・・・そんなの」

「信じられない、か」


健吾は小さく笑った。


「俺も昔はそう思ってた」


窓の外で、灰色の海が押しては返す。


「最初に会った時、久遠は今と同じ姿だった」

「今と同じ?」

「ああ」


健吾は遠い記憶を見るように、目を細めた。


「俺が八歳の時だ」


和華奈は黙る。

そして、静かに続ける。


「終戦の年だった」


ここまでお読み頂き、ありがとうございます。


流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。


もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ