一章 六話 健吾
翌朝、空は薄く曇っていた。
海沿いの町特有の湿った風が、古い家の窓を微かに鳴らしている。
和華奈はほとんど眠れなかった。
昨夜、母から渡された封筒。
そこに書かれていた住所と、差出人の名前を、何度も見返していた。
『伊奈健吾』
伊奈。
久遠と同じ姓だった。
偶然ではない。
そう思った瞬間、喫茶店で見た久遠の横顔が脳裏によみがえる。
朝食の席でも、母はほとんど何も話さなかった。
味噌汁の湯気だけが、静かに揺れている。
「・・・・・・会いに行くの?」
箸を置きながら、母が小さく訊ねた。
「うん」
和華奈は短く答える。
「聞きたいことが、たくさんあるから」
母は少しだけ困ったように笑った。
安心しているようにも、怖がっているようにも見えた。
家を出る直前、母がふいに呼び止める。
「和華奈」
「なに?」
母は迷うように視線を伏せた。
「あの人を、嫌いにならないであげて」
和華奈は答えられなかった。
父を知らない。
けれど、ずっと置いていかれたと思っていた。
怒っているのか。
悲しいのか。
自分でも分からない。
ただ胸の奥に、重たいものだけが沈んでいた。
電車に揺られ、さらに地方線へ乗り換える。
窓の外には灰色の海が広がっていた。
人気のない駅で降りると、潮の匂いが濃くなる。
観光地でもない。
時間だけが取り残されたような港町だった。
スマートフォンの地図を頼りに坂道を上る。
やがて、古い喫茶店が見えた。
木製の看板。
色褪せた白い壁。
店先には「営業中」の札。
・・・・‥ここ?
父がいる場所としては、あまりにも普通だった。
和華奈は息を整え、扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
「いらっしゃい」
低く穏やかな声がした。
店内に客はいない。
カウンターの奥に立っていた男を見た瞬間、和華奈の呼吸が止まった。
若い。
思わず、そう感じた。
二十代半ばほどにしか見えない。
黒髪。
整った顔立ち。
穏やかな目元。
写真で見た父と、ほとんど変わっていなかった。
男は数秒、静かに和華奈を見つめた。
その目が、わずかに揺れる。
「和華奈」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が強く軋んだ。
「久しぶり、だな」
その声には、奇妙な実感があった。
まるで昨日まで一緒に暮らしていたみたいに。
父だ。
頭では理解している。
けれど、現実感がなかった。
自分より年上にすら見えない父親。
異常だった。
「・・・・・・どうして」
ようやく、それだけを絞り出す。
「どうして、何も変わってないの」
健吾は静かに目を伏せた。
「まずは座りなさい」
「答えて」
和華奈の声が強くなる。
「母さんは老いたのに、なんで父さんだけ……」
言葉が詰まる。
次の言葉は、無意識に零れた。
「・・・・・・私も」
健吾は小さく息を吐いた。
「本当は、普通に老いて死にたかったよ」
冗談みたいな言い方だった。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
健吾はカウンターの内側で、ゆっくりコーヒーを淹れ始めた。
「飲めるか?」
「今そんなのどうでもいい」
「緊張してる時ほど、温かいものを飲んだ方がいい」
その言い方が妙に自然で、和華奈は反論できなかった。
差し出されたカップ。
その指先を見た瞬間、妙な感覚に襲われる。
・・・・・・知っている。
幼い頃、熱を出した夜。
額に触れてきた手の感触を、身体だけが覚えていた。
けれど次の瞬間、和華奈はその記憶ごと振り払うように視線を逸らした。
「この店は、始めて五年くらいだ」
遠くで、古い冷蔵庫の駆動音が鳴っていた。
その低い音だけが、妙に現実を繋ぎ止めている。
「和華奈は、久遠に会ったんだな」
心臓が跳ねた。
「・・・・・・なんでその名前を」
健吾は苦く笑った。
その笑い方に、和華奈はぞくりとする。
似ていた。
久遠と。
困ったように、どこか寂しそうに笑うその顔が。
「久遠は、自分から人の前に現れるタイプじゃない。必要だと判断した時だけ現れる」
健吾は少しだけ目を伏せた。
「・・・・・・まるで季節みたいにな」
その言い方が、妙に恐ろしかった。
人の人生ではなく、もっと長い時間を見ている人間の言葉だった。
和華奈は拳を握る。
「父さんは、なんでいなくなったの?」
今度は逃がさなかった。
喫茶店の空気が張り詰める。
健吾は窓の向こうの灰色の海を見つめた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「話す時が来たんだな」
「父さん?」
「いや」
健吾は首を振った。
「俺が、話したくなかっただけだ」
和華奈は息を呑む。
そんなことを聞きたいんじゃない。
聞きたいのは一つだけだった。
二十年以上、胸の奥に沈み続けていた言葉。
「・・・・・・どうして」
声が震える。
「どうして、会いに来てくれなかったの」
健吾の表情が固まった。
「私はずっと、父さんが死んだと思ってた」
静寂。
「生きてるなら」
唇を噛む。
「一度くらい、会いに来てくれてもよかったじゃない」
健吾は答えなかった。
視線を落としたまま、長い間黙っていた。
やがて、小さく笑う。
ひどく弱々しい笑みだった。
「・・・・・・会いたかったよ」
和華奈が息を呑む。
「何度もな」
健吾は窓の外を見た。
「でも会えば、お前を巻き込む」
苦しそうに目を伏せる。
「だから会えなかった」
初めてだった。
目の前の男が、父親らしい顔をした気がした。
「情けないだろ」
和華奈は何も言えなかった。
「お前が普通に生きてくれたら、それで良かった」
静かな声だった。
怒鳴るでもない。
言い訳するでもない。
だからこそ重かった。
「でも、もう無理だな」
健吾はテーブルの上のカップへ視線を落とした。
湯気はもう消えていた。
「久遠がお前の前に現れたなら、始まったんだ」
和華奈の背筋が冷える。
始まった。
久遠も同じようなことを言っていた。
眠っていたものが。
自分の中で、始まったのだと。
「・・・・・・久遠は何者なの」
今度こそ、健吾は逃げなかった。
長い沈黙のあと、静かに口を開く。
「あいつは・・・・・・」
波の音。
冷蔵庫の駆動音。
壁時計の秒針。
和華奈は無意識に息を止めていた。
やがて、健吾は言った。
「久遠は、俺の父だ」
和華奈は瞬きを忘れた。
父。
その言葉だけが頭の中で反響する。
父。
久遠が。
父?
ようやく、声を絞り出す。
「・・・・・・どういう意味」
健吾はすぐには答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑う。
「正確には、育ての親だ」
静かな声だった。
「俺が八歳の時に、拾われた」
和華奈は何も言えなかった。
久遠が。
父を。
育てた。
あの、学生にしか見えない久遠が。
健吾は苦笑する。
「そんな顔するよな」
「当たり前でしょ・・・・・・」
声が震えた。
「だって、久遠くんは・・・・・・」
健吾は首を横に振る。
「見た目で考えるな」
その一言だけで、空気が変わった。
「久遠は普通の人間じゃない」
ようやく出た言葉は、あまりにも単純で、あまりにも重かった。
和華奈の呼吸が浅くなる。
「・・・・・・そんなの」
「信じられない、か」
健吾は小さく笑った。
「俺も昔はそう思ってた」
窓の外で、灰色の海が押しては返す。
「最初に会った時、久遠は今と同じ姿だった」
「今と同じ?」
「ああ」
健吾は遠い記憶を見るように、目を細めた。
「俺が八歳の時だ」
和華奈は黙る。
そして、静かに続ける。
「終戦の年だった」
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流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。
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