一章 五話 帰郷
数日が過ぎた。
久遠の言葉が頭から離れなかった。
気付けば新幹線の予約画面を開いていた。
新幹線を降りると、懐かしい潮風の匂いがした。
古い商店街、駅前には学生の頃と変わらない風景が広がっていた。
学生時代から何も変わっていない景色。
和華奈は小さく息を吐く。
実家は海沿いの古い町にある。
幼い頃から母と二人で暮らしてきた家だった。
父の顔は、ほとんど覚えていない。
和華奈が幼い頃、父は突然消息を絶った。
事故なのか、失踪なのか、それすら分からない。
警察も長くは動かなかった。
父の写真は、一枚だけ残っていた。
写真の中には、端正な顔立ちの父と若い母が並んでいた。
今の母とは別人みたいに無邪気な笑顔だった。
だから和華奈も、いつしか聞かなくなった。
玄関を開ける。
「ただいま」
少し間を置いて、奥から声が返る。
「おかえり、和華奈」
母は笑いながらエプロンで手を拭いた。
「急に帰ってくるなら連絡しなさい。魚、もう一匹買ってきたのに」
母は台所に立っていた。
昔から変わらない、柔らかな声、小柄な背中。
母の髪には白いものが混じり、目尻には細かな皺が刻まれていた。
・・・・・・なのに。
私だけが、あの日から取り残されている。
夕食の支度を手伝いながら。
本当は訊きたくなかった。
答えを知れば戻れなくなる気がした。
それでも和華奈は口を開いた。
「ね、母さん・・・・・・」
母は味噌汁をよそっていた。
「大学時代の同級生とね、すごく似ている子が今年ウチの大学に入学してきたの」
「・・・・・・え?」
その瞬間、母の手が止まる。
ほんの一瞬だけ、本当に一瞬だけ、けれど和華奈は見逃さなかった。
母は何かを知っている。
「本当にそっくりなの。名前まで同じ」
母はしばらく動きを止めたあと、小さく深呼吸をしてから和華奈の好物を運んできた。
「・・・どんな子?」
「男の子よ」
「名前は?」
「久遠」
「苗字は?」
「あ、久遠・・・伊奈久遠くんよ」
静寂、波の音だけが聞こえる。
母の背中が小さく揺れた。
やがて母は小さく息を吐いた。
まるで、何年も閉じたままだった箱を開けるみたいに。
「そう」
母は静かに笑う。
「とうとう会ったのね」
和華奈の背筋が凍る。
「・・・・・・知ってるの?」
母は答えない、代わりに和華奈の顔を見つめた。
その目はどこか悲しかった。
「あなたね」
母は静かに言った。
「大学生の頃から変わらなくなったでしょう」
和華奈は言葉を失う。
「やっぱり気付いてた?」
「母親だもの」
少しだけ笑う。
「お父さんも同じだったの」
空気が止まる・・・波の音さえ遠くなる。
「変わらないって・・・・・・」
「お父さんは生きているわ」
和華奈は言葉を失った。
生きている。
その言葉だけが頭の中で反響する。
何度も。
何度も。
生きている。
じゃあ、どうして会いに来なかったの。
どうして私は知らなかったの。
その後に。
「今も、会っているわよ」
「・・・・・・え?」
「月に一度くらいだけどね」
母は少しだけ視線を逸らした。
理解が追いつかない。だが整理はできる。
父は生きている。
母は会っている。
そして私だけが知らなかった。
「いつも和華奈のことばかり訊いてくるの」
「待って」
和華奈は思わず額を押さえた。
「何それ、どういうこと?」
「怒ってもいいのよ」
失踪したんじゃなかったの?
死んだわけでも、消えたわけでもなく、母は今も父と会っている。
なのに、私だけ知らなかった。
「父さんは、どこに住んでいるの?」
「そうね、直接会ってみた方がいいのかも」
母は引き出しから一通の封筒を取り出した。
差出人の欄。
そこに書かれていた名前を見た瞬間。
和華奈の呼吸が止まる。
『伊奈健吾』
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