一章 四話 疑問
店内には静かなジャズが流れていた。
夕暮れの光が窓ガラスを赤く染めている。
和華奈は珈琲へ口をつけた。
苦味が舌に広がる。
それでも胸の奥のざわつきは消えなかった。
向かいには久遠がいる。
六年ぶりに会ったはずなのに、不思議なくらい自然だった。
まるで昨日まで一緒にいたみたいに。
それが余計に怖かった。
「先生」
久遠が静かに言った。
「何か聞きたいことがあるんでしょう?」
和華奈の肩が僅かに揺れる。
やはり見透かされている。
昔からそうだった。
自分が口にする前に、久遠は気付いている。
「・・・・・・あるよ」
和華奈はカップを置いた。指先が少し震えている。
「たくさんある」
久遠は何も言わない、ただ続きを待っていた。
「あなたは何者なの?」
沈黙、店員がカウンターで食器を片付ける音だけが聞こえる。
久遠は視線を窓の外へ向けた。
春の夕暮れ、行き交う学生たち。
誰もが普通の日常を生きている。
「難しい質問ですね」
「誤魔化さないで」
思ったより強い声が出た。
久遠は少しだけ困ったように笑う。
「誤魔化しているわけではありません」
「じゃあ答えて」
和華奈は久遠を見つめた。
六年前から抱き続けていた違和感、今日一日で膨れ上がった疑問。
もう見ないふりはできなかった。
「どうして変わらないの?」
久遠は少し考えた。
「変わっていますよ」
「嘘」
「先生もでしょ?」
「・・・・・・・・・」
「ただ、人より遅いだけです」
和華奈は視線を落とした。テーブルに映る自分の顔が見える。
「・・・・・・私みたいに」
その言葉だけは重かった。
和華奈自身もまた変わっていない。
だからこそ分かる。
これは異常だ。
偶然ではない。
久遠はしばらく沈黙した後、小さく息を吐いた。
「先生は、いつ頃から気付いていましたか」
「何が?」
「自分が歳を取っていないことです」
和華奈は視線を落とした。
「分からない」
正確には覚えていない。
二十五歳を過ぎた頃だったか。
友人たちが少しずつ変わっていく中で、自分だけが取り残されていることに気付いた。
「気付いたら、だった」
久遠は静かに頷く、驚きもしない。
信じられないという顔もしない。
それが逆に恐ろしかった。
まるで最初から知っていたみたいだった。
「それと」
和華奈は言葉を続ける。
「最近、おかしいの」
久遠の目がわずかに細くなる。
「何がです?」
和華奈は唇を噛んだ。
言葉にした瞬間、本当になってしまいそうで怖かった。
「昨日、講義中だった。学生が紙で指を切ったの、教室の一番後ろだったのに分かった。血の匂いだけが、すぐ隣にあるみたいに」
言葉が止まらなかった。
誰にも話せなかったこと。
誰にも理解されないと思っていたこと。
気付けば全部話していた。
久遠だけは黙って聞いている。
そして。
「・・・・・・何か知ってるの?」
「そうですか」
久遠は小さく呟いた。
「思ったより早かったですね」
和華奈の背筋に冷たいものが走る。
「何が?」
久遠は答えない、その沈黙が、何より雄弁だった。
「私は何なの?」
久遠は答えない。
代わりに、静かに和華奈を見つめた。
その目には同情も憐れみもなかった。
ただ長い時間を見てきた人間だけが持つ静かな優しさがあった。
「先生」
久遠は穏やかに言う。
「先生は、ご自身のことをどれだけ知っていますか」
予想外の言葉だった。
「十分知ってる」
「では、お父様は?」
「・・・・・・」
「先生の異常は、先生だけのものではありません」
「・・・・・・父を知っているの?」
久遠の指先が止まった。
ほんの一瞬、それだけだった。
カップを持ち上げ、一口だけ珈琲を飲む。
そして・・・
「先生のお父様は、どんな方でしたか」
久遠はそれ以上、語る気がなさそうだった。
店をでると、夜風が頬を撫でてきた。
父。
何年も避け続けてきたその存在が、急に現実味を帯びる。
和華奈は知らず拳を握った。
・・・・・・実家へ帰ろう。
答えがあるはず、確信だけはあった。
父の失踪は、ただの失踪ではない。
そして自分もまた・・・・・・知らないまま生きてきた。
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