一章 二話 再会
講義は始まっている。
だが和華奈は、ほとんど内容を覚えていなかった。
黒板に文字を書きながらも、意識の半分は教室の一番後ろへ向いている。
窓際。
伊奈久遠。
十年前とまったく変わらない顔。
・・・・・・そしてもう一つ。
教卓近くの席、学生の指先から、微かな鉄の匂いが漂っていた。
紙で切っただけの小さな傷、本来なら気付くはずもない。
なのに分かった。
鉄の匂いだけが、そこにあった。
周囲の音も、人の気配も遠い。
その傷口だけが、妙に近かった。
『・・・・・・また』
無意識に指先へ力が入る。最近、時々ある。
匂い、音、気配、世界が突然、近くなりすぎる瞬間。
そして今日に限って・・・・・・あの男まで現れた。
他人の空似、そう思おうとした。
兄弟かもしれない。
親族なのかもしれない。
けれど胸の奥が、それを否定していた。
違う、そんなはずがない。
あの目を、和華奈は知っている。
大学時代、何度も見つめた目だった。
「・・・・・・先生?」
不意に学生の声が飛ぶ。
和華奈は我に返った。
「あ・・・ご、ごめんなさい」
教室が小さくざわつく、珍しい。
いつも冷静な伊東先生が、明らかに上の空だった。
休憩時間、学生たちが雑談を始める。
「戦国時代とかってさ、絶対盛ってるよな」
「分かる。創作入ってそう」
そんな軽口の中、久遠がふと呟く。
「いえ。もっと酷かったはずですよ」
久遠は静かに呟く。
「きっと、表現しきれていない」
その声には、妙な重みがあった。
空気が止まる。
久遠は一瞬だけ目を細め、小さく笑った。
「歴史書は、案外優しいものです」
久遠はそう言って笑った。
「残るのは、語れる話だけですから」
「・・・・・・え?」
「あ、ごめん、戦記物が好きでつい」
まるで、歴史に深い知識があるような口ぶりだった。
だが周囲の学生たちは・・・。
「うわ、歴史オタクっぽい」
「分かるわー」
と軽く笑うだけだった。
和華奈だけが言葉を失っていた。
授業が終わった。
学生たちが立ち上がる。
椅子が鳴り、笑い声が広がる。
いつもと同じ光景、そのはずだった。
「伊東先生」
廊下で呼び止められ振り返る、久遠だった。
「え・・・・・・」
「お久しぶりです」
穏やかな声だった。十年前と、何一つ変わらない。
背筋が震えて、言葉が出ない。
廊下を行き交う学生たちの声だけが、妙に遠く聞こえる。
久遠はそんな和華奈を見つめたまま、静かに微笑んでいた。
まるで、昨日別れたばかりのように。
「・・・どうして」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「どうして、あなたが・・・」
久遠は少しだけ困ったように目を細める。
「久しぶりだと、少し緊張しますね」
冗談のような口調、だがその言葉に、和華奈の胸がざわつく。
その一言だけで、六年という時間が急に軽く扱われた気がした。
「・・・変わってない」
和華奈は無意識に呟いていた。
久遠は答えなかった。
ただ静かに和華奈を見つめる。
その目が、ほんの少しだけ安堵したように見えて、和華奈の背筋が冷えた。
ざわついていたはずの廊下の音が、遠くなる。
学生たちの笑い声も、足音も、妙に薄い。
まるで、この場だけ世界から切り離されたみたいだった。
その沈黙が、肯定よりもずっと恐ろしかった。
「その内、分かりますよ」
久遠は和華奈から視線をそらす。
「何が?」
答えは返ってこなかった。
「・・・・・・伊奈くん、本当に誰なの?」
ようやく口にした問い。
だが久遠は少し考えるように沈黙し、やがて穏やかに笑った。
「伊奈久遠です」
「そういうことを訊きたいわけではない」
気付けば、そう聞いていた。
卒業式の日、桜の舞う校門、最後に交わした言葉。
自分ですら忘れたふりをしていた記憶だった。
「もちろん」
久遠は少しだけ笑った。
「思ったより早かったですね」
「何が?」
久遠は答えなかった。けれど、その笑みはどこか寂しかった。
和華奈は息を呑む。
大学時代、一度も見たことのない顔だった。
『いずれ会いましょう』
久遠の変わらない顔を見た瞬間、和華奈は父を思い出した。
父もまた、年齢の分からない人だった。
そして突然いなくなった。
六年前と何一つ変わらない久遠、背筋が冷える。
「・・・・・・怖い」
気づけば口から零れていた。
久遠の表情が、ほんの少しだけ曇る。
「すみません」
その謝罪が、妙に悲しそうで。
和華奈は胸の奥が痛くなるのを感じた。
怖いはずなのに、逃げたいはずなのに。
胸の奥には、それとは別の熱が残っていた。
懐かしかった。
それだけで十分なはずだった。
忘れたわけじゃない。
忘れないようにしていただけだった。
なのに・・・・・・
久遠の前に立つと、あの日の自分が息を吹き返してしまう。
それが、一番怖かった。
そして。
知りたいと思ってしまった。
知ってはいけない気がするのに。
それでも――
目の前の人から、目を逸らせなかった。
六年前。
自分は何も聞けなかった。
だから前に進めた。
けれど今は違う。
自分の身体は歳を取らない。
久遠は六年前と同じ姿。
そして、父も突然消えた。
偶然とは思えなかった。
『知りたい』
和華奈は強く拳を握った。
父のことを、久遠のことを、そして、自分のことを。
和華奈は、そう決意した。
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