二章 第十一話 帰結
五年の歳月が流れた。
健吾たちは諏訪でしばらく身を隠した後、さらに北へ向かった。山々に囲まれた小さな集落の外れにある古民家を譲り受け、そこで新たな人生を始めた。
屋根は雨漏りし、畳は擦り切れていた。
それでも健吾は不満を覚えなかった。
夜になれば千鶴と和華奈の寝息が聞こえる。
それだけで十分だった。
誰にも追われず、愛する者たちと同じ屋根の下で眠る。
かつての彼には、それだけで夢のような暮らしだった。
まずは家の修復から始めた。段差を減らし、襖や障子を外して空間を広げ、傷んだ屋根や壁を少しずつ直していった。
家の近くには放置された畑があり、健吾はそれも買い取った。最初は鍬の使い方すら満足に分からず、植えた苗を枯らし、収穫の時期を逃し、猪や鹿に荒らされることも珍しくなかった。しかし失敗を重ねるたびに土の声を覚え、季節の移ろいを知り、少しずつ農夫としての腕を磨いていった。
朝は夜明けとともに畑へ出て、夕暮れまで土と向き合う。汗と泥にまみれて帰れば、千鶴が夕食を用意して待っている。囲炉裏の火が揺れ、鍋の湯気が立ち昇り、和華奈の笑い声が家の中に響く。
そんな何気ない毎日が、健吾には何よりも愛おしかった。
和華奈も五歳になった。
父の後を追いかけて畑を駆け回り、虫を見つけては歓声を上げる。休日になれば家族三人で出掛けることも増えた。湖畔で弁当を広げ、山道を歩き、ときにはキャンプもする。
夜になれば焚き火を囲み、満天の星空を見上げ、眠気に負けて千鶴にもたれかかる和華奈。その小さな頭を優しく撫でる千鶴、その光景を眺めるたび、健吾は胸の奥が静かに満たされていくのを感じていた。
しかし、その終わりはあまりにも突然だった。
冬の終わり頃、和華奈が高熱を出したのである。
普段は滅多に風邪など引かない子だっただけに、千鶴はひどく心配し、健吾も落ち着かなかった。翌朝には二人で和華奈を連れて町の病院へ向かい、診察を受けさせた。
結果はただの風邪だった。
大事には至らず、薬を受け取って帰る頃には熱も少し下がり始めていた。帰り道、千鶴は何度も安堵の息を漏らし、和華奈は後部座席で穏やかな寝息を立てている。その寝顔をバックミラー越しに見ながら、健吾もようやく肩の力を抜いた。
和華奈を抱いた千鶴が車へ向かう。
その背後で新設された防犯カメラが赤く点滅していた。
数日後。
顔認証システムに引っ掛かった一枚の映像が、偶然にも月読の情報網へ流れ込むことになる。
異変に気付いたのは、それから数日後だった。
夕暮れ時、畑仕事を終えて帰宅する途中、山の稜線は赤く染まり、冷たい風が枯れ草を揺らしていた。見慣れた景色のはずなのに、胸の奥には拭いきれない違和感が残る。
誰かに見られているような感覚が背中にまとわりつき、理屈では説明できない不安がじわじわと広がっていく。長い逃亡生活の中で磨かれた勘が、危険の接近を告げていた。
健吾は何食わぬ顔で帰宅すると、家の周囲を慎重に探った。そして深夜、その予感は現実となる。
侵入者は若い男だった。
気配の消し方からして月読の一族の者に違いない。
男は細心の注意を払って家へ近付いていたが、健吾から見ればまだ未熟だった。
健吾は音もなく背後へ回り込み首を掴んだ。
「動くな」
「!?」
男は驚愕の表情を浮かべる。
「月読の者か?」
「・・・・・・・・・」
男は何も言わない。
妖術を用いて首筋へ一撃を入れた。
男は声を上げる暇もなく崩れ落ち、そのまま意識を失った。
素早く縄で縛り上げ、口も塞ぐ。
ここへ来た時点で答えは出ている。居場所は知られたのだ。
この男が戻らなければ、次はもっと大勢がやって来るだろう。
そう考えた瞬間、五年間守り続けてきた穏やかな日常が、音もなく崩れ始めていることを悟った。
家へ戻ると、千鶴は健吾の顔を見た。
そして何も聞かなかった。
「見つかったのね」
静かな問いに、健吾は黙って頷く。
千鶴は泣きもせず、責めもせず、そのまま押し入れを開けて旅支度を始めた。その背中には諦めではなく、いつか来るかもしれないこの日のために覚悟を固めていた強さが滲んでいた。
和華奈だけが不安そうに二人を見上げる。
「どこか行くの?」
健吾はしゃがみ込み、娘の頭を優しく撫でた。
「ああ。少し遠くへな」
「キャンプ?」
「そんなものだ」
和華奈は嬉しそうに笑った。
その無邪気な笑顔を見ていると胸が締め付けられる。嘘をついているという後ろめたさが込み上げたが、幼い娘に真実を話せるはずもなかった。
深夜になると、必要最低限の荷物だけを積み込み、三人は家を出た。
住み慣れた古民家が月明かりの下に静かに佇んでいる。春になれば畑を耕し、夏には収穫を喜び、秋には家族で笑い合った場所だった。二度と戻れないかもしれないと思うと、胸の奥が重く沈む。
車へ向かおうとした、その時だった。
人の気配を察知した。
健吾は反射的に身構えたが、その姿を認めた瞬間、目を見開く。
道の先に人影が立っていた。
街灯もない夜道、その輪郭には見覚えがあった。
あり得ない。ここにいるはずがない。
だが、その人物が一歩前へ出た瞬間・・・・・・
健吾は息を呑んだ。
「・・・・・・久遠」
五年ぶりだった。
雪の気配を含んだ夜風の中、久遠は静かに立っている。昔と何も変わらないその姿は、まるで歳月だけが彼女を避けて通ったかのようだった。
「久しぶりだね」
穏やかな声だった。
しかし健吾は警戒を解かない。
「追っ手か」
「違うよ。むしろ、その逆かな」
久遠は小さく笑い、さらに一歩近付いた。
「千鶴さん、しばらく二人にさせて貰ってもいいかな?」
「あ・・・はい。わかりました」
千鶴は状況がわからずぽかんとしている和華奈を抱きかかえ、家の玄関の戸を開けて中に入った。
二人の姿が家に戻るのを確認してから久遠は話し始めた。
「月読には話をつけてある」
健吾は眉をひそめる。
「話をつけた?」
「君たち家族の処遇を、私に一任してもらったんだ」
あまりにも簡単に言う。
だが月読を知る健吾だからこそ、それがどれほど無茶な話なのか理解できた。
「認めるはずがない」
「認めさせたんだよ、他の者たちに示しがつかないとか、ひいきが過ぎるとか、甘やかしすぎるとか、本当に散々言われたんだから」
久遠は苦笑した。
その笑顔の裏にどれほどの苦労があったのか、健吾には聞かなくても分かった。五年間という歳月は、健吾たちだけが平穏に過ごしていた時間ではなかったのだ。
しばらく沈黙が流れた後、久遠は家に視線を向けた。
「これから健吾だけは別の場所で暮らしてもらう。けれど、千鶴さんとは今後も会っていい。ただし表立っては駄目だ。世間の目はあるからね。会うなら隠れてになる」
健吾は息を呑んだ。
完全な別離ではない。その事実だけで十分な救いだった。
久遠はさらに続ける。
「和華奈ちゃんには、会ってはいけない。能力に目覚めるかもしれないし、老化が遅くなるかもしれない。でも、まだ何も分からない。だから、それまでは普通の子として育ってほしいんだ」
歳をとらない父親がいると、その存在だけで、普通の生活を送るのは困難になる。
その言葉には一族の論理ではなく、久遠自身の願いが込められていた。
風が静かに吹き抜け、誰も口を開かないまま夜の静寂だけが辺りを満たしていく。
久遠はしばらく家を見ていた。
灯りの漏れる窓、千鶴の影、時折聞こえる和華奈の声。
その光景を見つめたまま、小さく息を吐く。
そして、まるで恐る恐る確かめるように尋ねた。
「ねえ、健吾・・・・・・幸せだったかい?」
あまりにも不意の問いだった。
健吾はすぐには答えられなかった。
脳裏に浮かぶのは、この五年間の日々だった。朝露の残る畑で土を耕したこと。収穫した野菜を抱えて帰った夕暮れ。囲炉裏を囲んだ食卓。家族三人で出掛けたキャンプ。焚き火の向こうに広がる満天の星空。そして、その隣で笑う和華奈と千鶴。
欲しかったものは、すべてそこにあった。
特別な力でも、不老の命でもない。ただ家族と共に生きるという、ごく当たり前の幸せだった。
その記憶を一つひとつ辿るうちに視界は滲み、気付けば涙が頬を伝っていた。
決して長いとは言えない、たった五年・・・その時間は健吾の人生の中で何ものにも代え難い輝きを放っていたのである。
「ああ・・・・・・」
そのまま健吾は膝を付いて崩れ落ちた。
「幸せだった」
声が震えた。
それだけで堰は壊れた。
「本当に・・・・・・」
続きを言おうとしても言葉にならない。
「本当に、幸せだった」
久遠は何も言わず、膝をつく健吾の頭をそっと胸に抱いた。
涙を流す健吾を隠してくれるみたいに・・・
健吾は涙を拭いながら深く頭を下げた。
「ありがとう」
それは心の底からの言葉だった。
「俺を拾ってくれた。家族の温もりを与えてくれた。俺の家族を庇ってくれた。今の俺があるのは全部、久遠のおかげだ」
久遠はその言葉を聞くと、どこか肩の荷が下りたように目を細めた。
「それなら良かった」
穏やかな声が夜気に溶ける。
その直後、夜空から白いものが舞い落ちた。
今年最後の雪だった。
静かに降る雪は大地を白く染めながら、過ぎ去った日々の足跡を優しく包み隠していく。
想いを胸の奥で確かめるように噛み締める。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。
もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。




