二章 十話 巣立ち
翌日、健吾は久遠の家を訪ねた。
久遠は変わらず、古い家で暮らしていた。
数回、リフォームをしていたが当時の面影は残っている。
庭の柿の木は幹を太くし、縁側の板は少し色褪せていた。だが久遠だけは、昔とほとんど変わらない姿で、茶を淹れていた。
「珍しいね。そんな顔して来るなんて」
久遠は湯呑みを置きながら言った。
健吾は座らなかった。
「久遠」
「うん?」
「別れを言いに来た」
久遠の手が、ほんのわずか止まった。
それから、いつものように静かに笑った。
「理由を聞いてもいい?」
健吾は黙った。
だが、久遠の前で嘘をつくことはできなかった。
「恋人がいる」
「うん」
「子どもができた」
久遠の表情が変わった。
驚きではない。
恐れでもない。
ただ、すべてを理解した者の顔だった。
「月読には?」
「まだ知られていない」
「相手の人は、一族の人じゃないんだね」
「ああ」
「・・・・・・馬鹿だね」
久遠はそう呟いた。
「妻を守ろうとして、一族ごと消えた男がいた」
静かな声だった。
「子を連れて逃げて、二十年後に見つかった者もいた」
健吾は黙る。
「君も同じだ」
「・・・・・・かもしれない」
「それでも行くんだね」
久遠は目を伏せた。
長い沈黙が落ちた。
責められると思った。
愚かだと言われると思った。
分かっている。久遠が賛成するはずはない。
健吾自身でさえ、自分の選択が正しいと言い切れなかった。
だが、久遠はため息をついただけだった。
「健吾・・・」
「何だ」
「別れって言ったね、つまり一族から逃げるつもりなら、今日から全部捨てなさい」
健吾は顔を上げた。
久遠は奥の部屋へ行き、古い革のトランクを持って戻ってきた。
「これを持っていって」
蓋を開けると、中には札束が詰め込まれていた。
健吾は言葉を失った。
「久遠、これは」
「月読が置いていったんだよ、私に何かあった時の為に」
「そういえば資産家だったな」
「こんな形で役に立つ日が来るなんてね」
健吾は何も言えなかった。
久遠は淡々と続けた。
「通帳もカードも駄目。免許証、保険証、名刺、会員証。身元が分かるものは全部捨てること。駅の防犯カメラも避けて。できれば車も乗り捨てなさい。追う側は、まず金の流れを見る」
「・・・・・・詳しいな」
「長く生きてるからね」
久遠は小さく笑った。
その笑顔は優しかったが、目は笑っていなかった。
「諏訪へ行きなさい」
「諏訪?」
「月読とは別の一族がいる。素戔嗚尊の系譜を名乗る者たちだよ。あそこなら、少なくとも君を捕まえて月読へ売ったりはしない」
健吾は眉を寄せた。
「信用できるのか」
「少なくとも、月読とは仲が良くない」
「それは信用の理由になるのか」
「今の君には、十分な理由だよ」
久遠は、机の引き出しから古い手帳を取り出した。
紙片に住所と名を書き、健吾へ渡す。
「ここを訪ねて。偽造の身分証明書の手配を頼んでおく。名前も経歴も変えなさい。千鶴さんにも、子どもにも、別の人生を用意する」
健吾は紙片を握りしめた。
「久遠・・・・・・」
「言っておくけど」
久遠は、健吾の言葉を遮った。
「私は賛成しているわけじゃない」
その声は、静かだった。
「君がどれほど危ないことをしようとしているか、分かっている。千鶴さんにも、生まれてくる子にも、平穏な人生を約束できるわけじゃない。逃げた先で、もっと苦しむかもしれない」
「・・・・・・分かってる」
「それでも行くんだね」
健吾は答えられなかった。
答えの代わりに、拳を握った。
久遠はその手を見て、少しだけ目を細めた。
「手放せないんだね」
健吾の喉が詰まった。
「ああ」
ようやく出た声は、情けないほど低かった。
「手放せない」
久遠は立ち上がった。
そして、健吾の前まで来ると、幼い頃にそうしたように、そっと頭に手を置いた。
「なら、行きなさい」
健吾は目を閉じた。
「君は昔、何も持っていなかった」
久遠の声が、耳の奥に沈んでいく。
「今は違う。守りたいものがある。なら、そのために生きなさい」
「・・・・・・すまない」
「謝るくらいなら、幸せになりなさい」
久遠は手を離した。
絶対に、久遠の本心は反対している。
けれど、この家は健吾にとって実家だ。
そこに久遠はずっと暮らして実家として存在してきた。
心の支えにすら感じる。
「それと、私に連絡しないこと」
健吾は息を止めた。
久遠は笑っていた。
だが、その笑顔はあまりにも寂しかった。
「連絡を取れば、そこから辿られる。私も知らない方がいい。君がどこで、何という名で生きているのか。知らなければ話せない」
「・・・久遠」
「健吾・・・・・・」
久遠は、初めて少しだけ声を強めた。
「振り返らないで」
その一言で、健吾は理解した。
これは別れなのだ。
保護された日から、ずっと帰る場所だった。
実家・・・・・・帰れば、いつでも茶を淹れてくれた。
叱り、笑い、飯を食わせ、黙って隣にいてくれた。
その久遠を、自分は今、置いていく。
健吾は深く頭を下げた。
「今まで、ありがとう」
久遠は答えなかった。
ただ、健吾が顔を上げた時、いつものように微笑んでいた。
「行きなさい」
健吾はトランクを持った。
重かった。
現金の重さではない。
その夜、健吾は千鶴にすべてを話した。
人ではないものの血。
一族の監視。
長く共にいれば、必ず露見すること。
逃げなければ、子どもが奪われるかもしれないこと。
千鶴は黙って聞いていた。
途中で何度も顔色を失ったが、逃げ出さなかった。
最後まで聞き終えると、彼女は自分の腹に手を当てた。
まだ膨らんでもいないそこに、確かに命があるように。
「健吾さんは、逃げたいの?」
「違う」
健吾は首を振った。
「俺は、君たちと生きたい」
千鶴は目を閉じた。
長い沈黙のあと、震える声で言った。
「じゃあ、行く」
「いいのか」
「怖いよ」
千鶴は泣きながら笑った。
「でも、ここにいたら、この子を守れないんでしょう?」
健吾は頷いた。
千鶴は涙を拭った。
「なら、行く」
健吾は、今まで封印してきた妖術を使うことにした。
妖力の気配を出来るだけ出すことなく。
周辺の探知の技を使う。
実は、定期的に様子見に月読一族の誰かが伺っていた。
ただ、彼らも完璧ではない。
数十年、怪しいことをしていないこと幸いしたのか。
定期的な監視も形式的になっていた。
探知の技では一族らしき者はいない。
今なら、まだ逃げることが出来る。
気が付かれたらそれまでだ、逃げ切れるわけがない。
翌朝、二人は街を出た。
持っていけるものは少なかった。
衣類を数枚。山で使っていた道具。現金。久遠から渡された住所の紙片。
思い出になるものは、ほとんど置いていった。
写真も、手紙も、身元につながるものは捨てた。
駅の雑踏を避け、何度も道を変えた。
健吾は背後を振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなる。
千鶴は小さな鞄を抱え、健吾の隣を歩いていた。
その手を、健吾は強く握った。
「大丈夫?」
千鶴が尋ねた。
本当は、大丈夫なはずがなかった。
一族から逃げ切れる保証などない。
諏訪の者たちが、本当に助けてくれるかも分からない。
偽りの名で生きることが、千鶴にどれほどの苦しみを与えるのかも分からない。
それでも。
健吾は千鶴の手を握り直した。
「・・・心配するな」
千鶴は小さく頷いた。
その腹の中に、まだ名もない命がいる。
守るべきものが、そこにある。
健吾はその日、伊東健吾としての人生を捨てた。
家族を、手放さないために。
健吾が、去った後、久遠は縁側に座り、そのまま動かなかった。
数千年も生きた。
それでも我が子の見送りの寂しさに、慣れることない。
湯呑みを持つ手が力なく・・・お茶はとっくに冷めている。
縁側の奥にある棚には、昔からの道具がそのまま置かれている。
健吾が小さい時に遊んでいたおもちゃ。
キャンプ用品一式。
健吾が作った歪な竹細工。
庭では風が吹き、柿の葉が揺れていた。
幼い頃、やせ細り餓死しそうだった少年を思い出す。
あの日から何十年も経った。
負けん気の強い子どもは、ようやく自分の家族を選んだ。
「・・・・・・幸せになれ」
誰もいない庭へ向かって呟く。
返事はない。
ただ春の風だけが吹いていた。
その日を最後に、伊東健吾という男は記録から消えた。
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