二章 九話 衝動
平成に入って、世の中はずいぶん軽くなったように見えた。
駅前には新しいビルが建ち、夜になっても街は明るい。
誰もが携帯電話を持ち始め、見知らぬ土地の地図さえ小さな画面で確かめられる時代になっていた。
けれど、健吾の周りだけは違った。
独立して、半世紀近くが過ぎていた。
表向きには、もう月読の一族から離れている。
誰の命令も受けず、誰の顔色も窺わず、自分の名で暮らしている。
それでも自由になったと思えたことは、一度もなかった。
久遠の系譜の血は、逃げても消えない。
健吾には恋人がいた。
千鶴という。
山で出会った女だった。
一人で登っていた低山で、彼女は仲間とはぐれていた。
派手な遭難ではない。
分岐を一つ間違え、予定より少し奥へ入り込んだだけだ。
だが、夕暮れの山は人の心を弱らせる。
「すみません、登山口って、こっちで合ってますか」
そう声をかけてきた千鶴は、息を切らしながらも無理に笑っていた。
健吾は方角を示し、そのまま一緒に下山した。
それだけのはずだった。
けれど山の話をするうちに、何度も顔を合わせるようになった。千鶴はよく笑う女だった。
一度決めたら譲らない頑固さがあり、思ったことははっきり口にする。
それでいて、人の痛みに鈍くない。
過去についても無理に踏み込んでこない。
だが、離れもしなかった。健吾の沈黙を責めない。
その優しさが、かえって苦しかった。
一族ではない者とは長く暮らせない。
健吾は知っていた。
自分たちも歳は取る。だが、その歩みは人間より遥かに緩やかだった。
五年もすれば違和感になる。
十年も経てば疑念になる。
二十年も経てば、嘘では誤魔化せなくなる。
だから深入りしてはいけなかった。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、手放せなかった。
その日、千鶴は健吾の部屋を訪ねてきた。
春先の夕方だった。
窓の外には細かな雨が降っている。
濡れたアスファルトと土の匂いが、開けた窓から流れ込んでいた。
千鶴は玄関に立ったまま、しばらく靴を脱がなかった。
「健吾さん」
その声で、健吾は何かが変わると悟った。
「どうした」
「話があるの」
笑おうとして、失敗した顔だった。
健吾は何も言わず部屋へ通した。
湯を沸かす音だけが妙に大きく聞こえる。
千鶴は座布団の上で両手を握りしめ、出した湯呑みにも触れなかった。
何かあったのか。
病気か。
それとも・・・・・・。
そこまで考えて、胸が重く沈んだ。
千鶴は小さく息を吸った。
「子どもが、できたの」
一瞬、世界の音が遠のいた。
雨音も、やかんの鳴る音も、何も聞こえなかった。
健吾は千鶴を見た。
千鶴もまた、不安そうにこちらを見返している。
喜んでほしい。
けれど怖い。
そんな感情が入り混じった顔だった。
「・・・・・・本当か」
「うん」
胸の奥で何かが震えた。
嬉しかった。
それが最初に来た感情だった。
どうしようもなく、抗いようもなく、嬉しかった。
家族ができる。
自分には縁のないものだと思っていた。
守りたいものができる。
帰る場所ができる。
その事実だけで、胸が満たされそうになった。
だが次の瞬間。
背筋を冷たいものが走った。
昔、一族から逃げた者がいた。
愛した女と共に姿を消した男だった。
半年ほどは逃げ切ったらしい。
だが、見つかった。
妻は連れ戻された。
子は月読の管理下へ置かれた。
男は・・・・・・その後、誰も見ていない。
健吾は、その結末を知っている。
月読に知られれば終わる。
自分だけではない。
千鶴も。
生まれてくる子も。
守れなくなる。
「健吾さん?」
千鶴の声で我に返った。
彼女は怯えていた。
自分の沈黙を拒絶だと思ったのだ。
健吾は畳に手をつき、膝を寄せた。
「違う」
「え?」
「嫌だったんじゃない」
健吾は千鶴の手を取った。
冷えていて、小さく震えていた。
「嬉しいんだ」
千鶴の目が揺れた。
「本当に?」
「ああ」
掠れた声だった。
自分でも驚くほど。
千鶴は堪えていたものが切れたように泣いた。
健吾はその肩を抱き寄せる。細い身体のぬくもり、胸の奥で鳴る鼓動、腕の中にいる命。
そして、その腹の中にある新しい命。
失いたくない。絶対に。
その瞬間、健吾は理解した。
もう自分一人の問題ではない。
逃亡者でいるだけでは足りない。
追われる側でいては守れない。
月読が気づく前に消えるしかない。
戸籍も、仕事も、住んでいる場所も、これまで積み上げた全てを捨てる。
二度と見つからない場所へ行く。
それだけが、家族を守る方法だった。
千鶴の髪に触れながら、健吾は静かに決意する。
これまでの人生と別れる。
月読の目が届かない場所へ。
家族を連れて消える。
その考えだけが、胸の奥で燃えていた。
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