二章 八話 確執
昭和三十三年、秋。
ホテルの大広間は、相変わらず眩しかった。
天井から吊るされたシャンデリアが幾重にも光を弾き、磨き上げられた床に白く滲んでいる。
楽団の演奏、正装した男女の笑い声、銀の盆を手に歩く給仕たち。十年前と、何も変わっていない。
変わったのは、自分だけだった。
健吾は壁際に立ち、グラスの中の琥珀色の液体を軽く揺らした。
十年前なら、この空気だけで拳を握っていた。
今は違う、妖力の制御も覚えた。感情に任せて暴走することもない。
それでも・・・・・・この場所を好きになれたことは、一度もなかった。
「相変わらず苦手だな」
思わず漏らすと、隣にいた久遠が小さく笑った。
「十年も経ったんだから、少しは慣れると思ったんだけどね」
「無理だよ」
即答すると、久遠は困ったように肩を竦めた。
その仕草があまりに昔のままで、健吾は少しだけ笑いそうになる。
この人だけは、時間の外側にいる。
時が経過しても、何一つ変わらない。
能力暴走事件以来、健吾は一族の集まりを避け続けてきた。
久遠には何度も誘われ、そのたびに断った。
今回だけは、半ば強引だった。
だから余計に、居心地が悪い、会場のあちこちから視線を感じる。
好奇心、警戒、そして軽蔑。
耳を澄まさなくても、囁きは届いた。
「素戔嗚尊の血だろ」
「久遠様もよく連れて来る」
「昔、騒ぎを起こした子だ」
健吾は聞こえないふりをした。
その時、近くを通った若い女性が会釈をする。健吾も反射的に頭を下げたが、彼女は次の瞬間、何かを思い出したように表情を硬くし、別の集団へ逃げるように戻っていった。
またか、健吾は苦く笑う。
敵意ばかりではない、むしろ大半は違う、ただ距離を置かれる。
それが一番堪えた。
慣れている・・・・・・慣れてしまった。
けれど、慣れることと傷付かないことは違う。
胸の奥の澱は、十年経っても消えていなかった。
「健吾・・・」
久遠が静かに声を掛ける。
「そろそろ考えてみない?」
「・・・何を」
嫌な予感しかしなかった。
「将来のこと」
「ああ・・・・・・」
健吾は顔をしかめた。
「またその話か」
「大事なことだよ」
そして、案の定だった。
「恋人とか」
健吾は額を押さえた。
「だから何度も言ってるだろ。俺は普通に恋愛する」
「なら、その相手を一族から選んでほしい」
思わず笑った。
乾いた笑いだった。
「一族から?」
「そう」
「なんで」
久遠はすぐには答えなかった。
会場の向こうへ視線を向ける。
年配の夫婦が談笑している、穏やかな笑顔だった。
長い年月を共に過ごした者だけが持つ空気、久遠はそれを見ていた。
ほんの少しだけ、羨ましそうに。
「長く生きる者同士の方が、分かり合える」
静かな声だった。
「人は思ったより早く歳を取る」
健吾は黙ったまま聞いていた。
「昨日まで元気だった人が、気付けば杖を使うようになる」
久遠は笑う。
だがその笑顔には、疲れがあった。
「私は何度も見てきた」
愛した人が老いる姿を、弱る姿を、眠るように旅立つ姿を、同じ苦しみを味わわせたくない。
置いていかれる側になってほしくない。
久遠が本当に言いたいことは分かる。だが、それでも受け入れられなかった。
「それは久遠の価値観だ」
久遠が目を伏せる。
「俺は長生きしたいわけじゃない」
「健吾・・・・・・」
「普通でいいんだよ」
結婚して、子供を作って、歳を取って、そして死ぬ、それだけでいい。
その言葉を聞いた瞬間、久遠の表情が僅かに曇った。
健吾は知っている・・・・・・久遠は別れを嫌う。
何千年生きても克服できない、だから孤独なのだ。
「俺は、久遠みたいになりたくない」
口にした瞬間、後悔した・・・本心ではない、けれど止まらなかった。
「何百年も生きて、大切な人を全部見送って、最後に一人で残るなんて」
喉が熱くなる。
「俺には無理だ」
久遠は何も言わなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、健吾は自分が酷いことを言ったのだと理解した。
けれど謝れなかった。
その時だった、会場の空気が変わった。
談笑していた人々が、自然と道を開ける。
音楽は流れている。
けれど、その一角だけ音が遠ざかったように静まり返っていた。
銀髪、赤い瞳、年齢という概念から切り離された、美しい顔。
月読だった。
誰もが敬意と畏怖を向ける存在。
健吾は眉をひそめた。
相変わらず、苦手だった。
「久しぶりだな」
月読が静かに言う。
「十年ぶりくらいか」
「そんなところだ」
健吾は素っ気なく答えた。
月読は気にした様子もない。
「大人になったな」
「どうも」
「妖力制御は」
「問題ない」
「暴走は」
「してない」
まるで尋問だった。
会うたびにこれだ。
自分ではなく、能力しか見ていない。
そう思えてならなかった。
「なら安心した」
月読は淡々と言った。
「お前は素戔嗚尊の血だ」
その瞬間、健吾の中で何かが冷えた。
また、それか。
また血の話だ。
また呪われた一族の話だ。
「だから?」
低く返す。
月読は一瞬だけ沈黙した。
「警戒は必要だ」
「俺を?」
「違う」
月読は即答した。
「力をだ」
赤い瞳が健吾を真っ直ぐ見据える。
「私はお前を恐れているわけではない」
静かな声だった。
感情がないわけではない。
感情を捨てているだけだ。
「恐れているのは結果だ」
会場が静まり返る。
「私は数千年見てきた」
月読は静かに言う。
「力を制御できると思った者が、どれほど簡単に壊れるかを」
その声に感情はなかった。
だからこそ重い。
「友を殺した者もいた」
「家族を焼いた者もいた」
「国を滅ぼした者もいた」
誰も反論しなかった。
そこにいる誰もが、何らかの形で似た話を知っていたからだ。
月読の赤い瞳は、少しも揺れない。
「私はそれを見てきた」
その答えに、健吾は笑った。
今度は隠さなかった。
露骨な嘲笑だった。
「結局そこなんだな」
周囲がざわつく。
久遠が小さく眉を寄せた。
だが健吾は止まらなかった。
止める気もなかった。
「俺はルールは守る」
月読を真っ直ぐ見据える。
「能力も管理する。秘密も漏らさない。迷惑もかけない」
会場が静まり返った。
誰も口を挟まない。
「でもな」
健吾は続ける。
「仲良くする気はない」
空気が凍った。
月読の赤い瞳だけが、静かに健吾を見つめている。
「十年前」
健吾は静かに言った。
「俺が暴走した時」
会場がさらに静まる。
「久遠以外は、敵を見る目をしていた」
誰も否定しない。
「あんた達は俺じゃなくて、俺の力を見ていた」
拳が軋む。
「化け物を見るみたいにな」
沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は肯定ではなかった。
会場の奥から、年配の男が口を開く。
「健吾」
低い声だった。
健吾は視線だけ向ける。
男は月読の側近の一人だった。
「当時のお前は危険だった」
会場がさらに静まる。
「妖力が暴走し、周囲の者が何人も恐怖した。恐れるなという方が無理だ」
健吾の表情が硬くなる。
すると今度は別の女が言った。
「でも、久遠様と月読様が助けてくださったでしょう」
「そうだ」
「だから今ここにいる」
「私達はお前を排除しなかった」
「排除しなかった?」
健吾は笑った。
乾いた笑いだった。
「それを恩だと言うのか」
誰も答えない。
健吾は続けた。
「俺が欲しかったのは許可じゃない」
拳を握る。
「普通に扱われることだった」
十年前の記憶が蘇る。
冷たい視線。
囁き声。
呪われた血。
危険な一族。
問題児。
誰も直接は言わない。
だが、誰も否定もしなかった。
「だから俺は、あんた達を信用してない」
健吾は、必要以上に踏み込んできた。
「数千年見てきたんだろ」
健吾は一歩踏み出した。
「じゃあ聞く」
会場が息を呑む。
「お前は、その中で何人救えた」
月読は答えなかった。
赤い瞳の奥で、僅かに光が揺れる。
救った者はいる、数えきれないほど。
だが・・・・・・救えなかった者もまた、数えきれない。
健吾の言葉は、そのすべてを掘り起こした。
「あんた達のルールには必要最低限付き合う。それで十分だろ」
重い沈黙が落ちた。
やがて月読は小さく息を吐く。
怒りは見せなかった。
ただ静かに健吾を見る。
「お前は自由に生きればいい」
やがて月読は言った。
「だが忘れるな」
赤い瞳が細くなる。
「お前が傷付くのは勝手だ」
空気が張り詰める。
「だが、お前の隣にいる者まで巻き込むな」
健吾の瞳が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
月読は見逃さなかった。
「その力が暴走すれば、傷付くのはお前だけではない」
「脅しか」
「事実だ」
即答だった。
その声は冷たかく、だが久遠だけは知っていた。
月読が誰よりも、壊れた一族を見てきたことを、健吾は視線を逸らした。
二人の間に立つように、久遠だけが静かに佇んでいた。
家族になってほしい。
ただ、それだけなのに、月読も、健吾も、大切な者同士、だからこそ、譲れない。
数千年生きても、国が滅びても、時代が変わっても、その願いだけは叶わない。
久遠は静かに目を閉じた。失うことには慣れなかった。
結局、自分は昔から何も変わっていない。
愛した者たちが離れていく。
それを見送ることしか出来ない。
その事実だけが、何千年経っても変わらなかった。
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