二章 六話 呪い
昭和二十ニ年 秋。
異変が起きたのは、健吾が十歳になった頃だった。
学校から帰宅した夕方。
海から吹く風は、夏の熱を少しずつ押し流し始めていた。
庭先では赤蜻蛉が低く飛び、空は薄橙色へ染まりかけている。
久遠の家へ来てから、もう二年近くが過ぎていた。
最初は居候のつもりだった。
一日だけ。
そう思っていたはずなのに、気づけば、朝になれば学校へ通い、帰れば夕飯の匂いがして、風呂が沸き、布団が敷かれている生活が当たり前になっていた。
久遠は相変わらずだった。
毎朝、早起きして朝食を作り、庭の畑を世話し、洗濯をし、近所付き合いまで妙に上手い。戦後の混乱が続く時代の中で、久遠の周囲だけ、不思議と穏やかな時間が流れていた。
時々、本当に何者なのか分からなくなる。
若い、どう見ても十代後半くらいにしか見えず、けれど時折見せる表情だけが妙に古かった。
遠い景色を見る目、誰かを見送るみたいな目、子供の健吾でも、それだけは何となく理解できた。
その日も、学校から戻った健吾は、いつものように庭で洗濯物を取り込んでいた。
秋の陽射しは短い。
暗くなる前に片付けないと、久遠がまた慌てる。
「やべっ」
背伸びしていた拍子に、手を滑らせた。
洗濯籠が傾き、慌てて掴もうとして、庭先の木柱へ右手を強くぶつける。
「あっ」
鈍い痛み、見ると、手の甲の皮膚が少し裂けていた。
赤い血がじわりと滲む。
「いってぇー」
大した怪我ではない。消毒でもしておけば済む程度、そう思っていた。だが・・・
「・・・・・・は?」
傷が、閉じていく、まるで時間が巻き戻るみたいに、裂けていた皮膚が、ゆっくりと元へ戻っていく。
滲んでいた血が止まり、傷口が塞がり、赤みまで消えていく。数分後には、そこには何の痕跡も残っていなかった。
綺麗な皮膚、怪我をする前とまったく同じ手、健吾は呆然と見つめる。
意味が分からない。夢でも見ているみたいだった。
その時だった。背後で、気配を感じた。
振り返ると、そこには久遠が立ち尽くしていた。
動かない、いつもの柔らかな笑顔が消えていた。
その顔を見た瞬間、健吾の背筋が冷える。
「・・・・・・久遠?」
久遠は数秒沈黙したあと、静かに言った。
「健吾、今度、出掛けようか」
その声音だけで、健吾にも分かった。
これは、ただの怪我の話ではないのだと。
数日後。
健吾は久遠と共に、大きなホテルに来ていた。
煌びやかな照明、磨き抜かれた床、見上げるほど高い天井、戦後日本とは思えない空間だった。
外には焼け跡が残り、配給へ人々が列を作っているというのに、ここだけ別世界みたいだった。
「・・・場違いなんだけど」
健吾が顔を引きつらせる。
久遠は苦笑した。
「今日は定例会みたいなものだから」
「定例会?」
「親族会議かな」
軽く言うが、健吾は嫌な予感しかしなかった。
廊下には、戦後とは思えないほど静かな空気が流れていた。
絨毯は足音を完全に吸い込み、従業員達は、誰一人こちらを見ない。
まるで、『見てはいけないもの』を知っているみたいだった。
エレベーターが最上階で止り、扉が開いた瞬間、空気が変わった。
静かだった。
大広間には、何十人もの男女がいる。
和装、洋装、年齢も様々だが、全員どこか『普通ではない』健吾は本能的に理解した。
同じだ自分と、その瞬間、一斉に視線が向き音が途切れる。
「・・・・・・穢れた血か」
誰かが呟いた。
健吾が近付くと会話が止まる。
女性が子供の肩を抱いて後ろへ下がる。
男たちは視線だけ向けて何も言わない。
健吾の眉が歪む、会場全体が、自分を汚物みたいに見ている気がした。
胸が苦しい、耳鳴りがする、照明が微かにちらつく。
「何なんだよ」
久遠が静かに前へ出た。
「この子はまだ子供だよ」
その声は穏やかだった。
けれど次の瞬間、大広間から音が消えた。誰も言い返さない。一族にとって、久遠はそれほど特別な存在だった。
だがそれでも完全には消えない。むしろ、『久遠が庇っている』という事実が、周囲を余計に苛立たせているようだった。
健吾が歩くたび、会話が止まる。
扇子で口元を隠す女、露骨に距離を取る男、子供を背後へ下がらせる母親。
その全員が、『恐れている』というより、『触れてはいけないものを見る目』をしていた。
その時、大広間のざわめきが、不意に張り詰める。
グラスの触れ合う音すら消え、誰かが来る。
誰も命令されていない。
それでも、その男が現れた瞬間、誰もが自然に声を潜めていた。
健吾は無意識に振り向き、そして息を呑む、美しい・・・最初に浮かんだ感想は、それだった。
銀髪、白い肌、静かで切れ長の赤い瞳、男だった。だが、女より美しかった。
年齢は十代後半ほどにしか見えない。けれど・・・
『人間ではない』
健吾の本能が、そう叫んでいた。
その男は、静かに久遠を見る。
「定例会やっときてくれましたね、父上」
肌が粟立つ、父上・・・?
誰かが息を呑む音がした。
健吾は意味が分からなかった。思わず久遠を見る。
久遠は困ったように笑った。
「相変わらず堅いなぁ月読、それにその【父上】は、もう時代遅れだから、そろそろ久遠と変えてくれないかい」
『月読』
その神名が落ちた瞬間、大広間の空気がさらに沈んだ。
健吾でも知っている神の名だった。
月読は、ゆっくり健吾へ視線を向ける、その目だけで、身体が強張った。
見透かされる。内側の血まで。
「素戔嗚の系譜か」
静かな声、感情は薄い、だが、その奥に僅かな警戒があった。
「随分濃く出ている」
健吾は反射的に睨み返した。
「何だよそれ」
周囲がざわつく、月読へそんな態度を取る者など、ほとんどいないのだろう。
だが健吾は止まらなかった。
「さっきから呪われただの何だの・・・・・・!」
些細なころかもしれない。
しかし十歳の健吾には、全てを否定され、侮蔑と憎悪を一身に会場全体から受け耐えられるほど、まだ成長していなかった。
久遠まで、困った顔をする。それが一番苦しかった。
感情が爆発しかける。
胸の奥が熱い、熱い、熱い。
視界が熱かった。
怒っているのか、泣きそうなのか、健吾自身にも分からなかった。
その瞬間、照明が明滅した。
窓ガラスが震え、背筋が冷える。
「・・・!?」
健吾の周囲で、目に見えない圧力が渦巻き始める。
悲鳴、グラスが砕け、誰かが後退る。
月読だけが、何一つ動じていない、ガラスが震えても、悲鳴が上がっても、その赤い瞳だけは、凪いだ水面みたいに静かだった。
「健吾!」
久遠が叫ぶ、だが止まらない。
なんでそんな目で見る。
なんで俺だけ。
なんでこんなこと言われなきゃいけない。
俺、何もしてないのに、久遠まで困った顔する。
押し込めていた感情が、一気に噴き出し、ざわめいていた空気が、一瞬で静まる。
その瞬間、月読の姿が消えた。
いや、健吾の目が追えなかっただけ、気付けば、目の前に立っていた。
月読は静かに健吾の額へ指を当てた。冷たい指先だった。
「眠りなさい」
その声が響いた瞬間、健吾の意識は暗闇へ沈んだ。
次に目を覚ました時、健吾はホテルの別室に寝かされていた。
頭が痛い身体が重い、そして自分自身が怖かった。
ベッド脇の椅子には、久遠が座っている。ひどく疲れた顔だった。
「・・・・・・ごめん」
健吾が呟く。
久遠は少し笑った。
「怪我人が出なくて良かった」
怒られると思っていた。
だが久遠は怒らない。その優しさが、逆に苦しかった。
「俺・・・・・・化け物なのか」
沈黙・・・久遠はしばらく答えなかった。
やがて静かに口を開く。
「違うよ」
その声は、少し掠れていた。
「でも普通でもない」
健吾は目を閉じる。胸の奥が重い。
すると、静かなノック音が響いた。
部屋へ入ってきたのは、月読だった。
空気が張り詰める。
月読は健吾を見る。感情の読めない目。
「制御訓練が必要です」
事務的な声だった。
「このままでは、いずれ周囲を傷付ける」
健吾の拳が震える。
月読は続ける。
「素戔嗚の血は感情と結び付きやすい。暴走性も高い」
まるで危険物の説明だった。
健吾は唇を噛む。
「・・・・・・じゃあ、どうしろって言うんだよ」
月読は静かに答えた。
「力を制御するか、封じるか、処分するか」
月読の声音には、善悪すらなかった。
ただ、危険な現象を処理する時みたいな、冷たい現実だけがあった。
まるで人間ではなく、危険物として扱われているみたい。
久遠は、何かを堪えるみたいに、静かに目を伏せていた。
その言葉だけが、冷たく部屋へ落ちた。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
流行りのジャンルでも、激しい格闘ものでもない作品ですが、テーマを出来るだけ伝えられるよう頑張っていきます。
もしよろしければ、反応いただけると執筆の励みになります。




