第9話 ちひろの友達
その日、ちひろは学校の帰り道に友人の橘 莉央と一緒に歩いていた。
莉央は一蘭女子学園の同じクラスで、いつも明るくてよく笑う子だった。ただ、その日の莉央は少し表情が固かった。
「莉央、どうしたん。さっきから後ろ気にしてるやないの」
「ごめん、ちひろ。最近、後をつけてくる人がいて」
ちひろは足を止めずに、さりげなく後ろを確認した。
いた。
三十代くらいの男が、一定の距離を保って歩いていた。目線が莉央に向いていた。
「いつから」
「一週間くらい。家の近くにもいることがあって」
「警察には」
「まだ。証拠がないし、気のせいかもって思って」
ちひろは少し考えた。草薙さんだったら今すぐ確認しに行くと思った。
「莉央、先に駅のコンビニで待ってて」
「え、ちひろ何するの」
「ちょっと確認してくるだけやから」
莉央が先に行くのを見送ってから、ちひろは立ち止まって後ろを向いた。
男がいた。ちひろと目が合った瞬間、男は少し動揺した顔をして立ち止まった。
「すみません」ちひろが言った。「さっきからうちの友達の後ろ歩いてますよね。何か用がありますか」
男が少し笑った。
「お嬢さん、危ないから帰りな」
「危ないのはそっちのセリフやと思いますけど」
男の笑いが消えた。
「邪魔するな」
男がちひろの横を通り過ぎようとして、肩で押してきた。
ちひろは引かなかった。
押してきた力の方向に、半歩だけ体を開いた。男の重心が押した方向に流れた。その瞬間、ちひろは男の右腕を両手で取って、体の外側に向かって巻き込んだ。丹田に力を入れて、体幹ごと回転させた。腕だけで引っ張るのではなく、体重そのものを男の重心の隙間に滑り込ませる動きだった。
男がよろめいた。ちひろはそのまま男の腕を外側に折り曲げながら体を入れ替えて、男の肘を上から押さえた。手首が内側に返された状態で、肘の関節が逆方向に曲がりそうになって男の体が止まった。
「痛い痛い痛い」
「動かんといてください。関節いきますよ」
男が止まった。ちひろは圧を一定に保ちながら、スマートフォンを取り出して男の顔を動画で撮った。
「うちの友達に近づくのやめてください。今日のこと、全部記録しましたから」
男が「分かった、分かった」と言って、ちひろはゆっくり手を離した。
男は少し距離を置いてから、低い声で言った。
「あの子が誰の娘か、お前知ってるか」
「知りませんけど、関係ないですよね」
「俺は見張り役だ。あの子を守るために雇われてる。お前みたいな素人が邪魔すると、こっちが困る」
ちひろが少し止まった。
「見張り役」
「そうだ。余計なことをするな」
男が立ち去った。ちひろはしばらくその場に立っていた。
コンビニに入ると莉央が待っていた。ちひろの顔を見て、莉央が言った。
「ちひろ、大丈夫? 何かあった?」
「莉央、聞いてもいい? あの人、見張り役って言ってたんやけど」
莉央の表情が変わった。笑顔が消えて、少し困ったような顔になった。
「やっぱり気づいた。ごめん、ちひろ」
「どういうこと」
莉央が少し間を置いてから言った。
「うちのお父さん、堅気じゃないの。組の人間で。だから、わたしに何かあったら困るって、こっそり人をつけてくれてて。でも、それが返って怖くて」
ちひろは少し黙った。
「怖いのは、知らない人がついてきてることだったんやね」
「そう。誰だか分からないから。ストーカーだと思ってた」
「お父さんに言えばよかったんやないの」
「お父さんに心配かけたくなくて。それに、組の話ってあまりしたくなくて、普段は」
ちひろは少し考えた。
「うち、さっきその人を制圧してしもたんやけど」
莉央が固まった。
「え」
「ちょっと腕を取って、肘を押さえただけやけど」
「ちひろ、わたしは知らないけど、あの人組の人間よ?」
「えっ」
二人が同時に固まった。それから同時に笑い出した。
その夜、ちひろは道場に戻って草薙に報告した。
「草薙さん、今日ちょっとやらかしましたわ」
「何を」
「友達のストーカーだと思って制圧したら、実はヤクザの見張り役でした」
草薙が少し間を置いた。
「ヤクザの組員を制圧したのか」
「はい」
「怪我は」
「向こうも、うちも、してないです」
「動画は撮ったか」
「撮りました」
草薙がまた少し間を置いた。
「正しい判断だったよ」
「え、怒らへんのですか」
「なんで怒る」
「ヤクザの組員に手を出したんですよ」
「友達が怖がってたから動いた。証拠も残した。肘の圧だけで制圧して怪我もさせてない。何も問題ないよ」
ちひろは少し拍子抜けした。
「草薙さん、普通そこは怒るんやないですか」
「ちひろの判断は正しかったよ。ただ」
「ただ、何ですか」
「その友達のお父さんに菓子折り持って挨拶した方がいいかもしれないよ」
「なんでですか!」
「組の人間の娘さんと友達なら、関係は良い方がいいから」
「草薙さん、それ普通の感覚ですか!」
草薙は白板の前に向き直った。特に気にしていない顔だった。
「ちひろ、その友達はいい子なのか」
「はい。めちゃくちゃいい子ですよ」
「じゃあいい友達ができたよ。それでいいじゃないか」
ちひろは少し黙った。それから笑った。
「草薙さん、たまにすごいこと言いますね」
「普通のことだよ」
翌日、莉央がちひろに言った。
「ちひろ、お父さんに話したら、その子はすごいって笑ってたよ」
「笑い事やないですよね」
「で、今後はちゃんと制服の人に分かるようにするって。知らない人がついてきたら怖いって言ったら、素直に謝ってくれた」
「よかったですわ、それは」
「ちひろって、強いんだね。びっくりした」
ちひろは少し照れてから言った。
「うちは草薙さんの道場で習ってるだけですよ。技術は草薙さんのものやから」
「でも動いたのはちひろじゃん」
ちひろはその言葉を、少しの間考えた。
動いたのは自分だった。草薙さんの技術を借りて、自分が判断して動いた。
それはたしかに、自分のことだった。
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