第10話 死亡時刻のズレ
その日の午前中、道場に五十代の男性が来て傘を丁寧に畳んでから上がり、草薙の前に座った。
「弟のことで来ました。自殺と言われていますが、納得できなくて」
ちひろはスマートフォンをテーブルの端に置いて録画ボタンを押してから依頼人を見た。
依頼人の名は本田克也で、弟の本田誠は五日前の夜に自宅マンションのベランダから転落して死亡しており、警察は飲酒後の事故か自殺と判断していて遺書はなく目撃者もいなかった。
「克也さん。納得できない理由は何ですか」
「弟は酒を飲まないんです。アレルギーがあって、医者に止められてた。なのに血中からアルコールが検出された」
「死亡推定時刻は」
「夜の十一時から十二時の間と言われました」
「誠さんの部屋に誰かが来た形跡はありましたか」
「ドアに鍵がかかっていて、警察が開けました。中に誰かがいた様子はないと言われました」
「その夜、誠さんと連絡を取った人はいますか」
「同僚の岸本という男が、夜の九時ごろに電話したと言っていました。その時点では普通に話していたと」
草薙が白板に書いた。飲酒不可、アルコール検出、死亡推定時刻、九時の電話。
「誠さんの部屋の近くに住んでいる人で、その夜何か見た人はいましたか」
「隣の部屋の住人が、夜の十時ごろにベランダで誰かが話している声を聞いたと言っていました。でも警察はそれを重視しなかったようで」
草薙の目が少し変わり、ちひろはそれを見て推理が動き始めたと分かった。
「現場を見せてもらえますか」
マンションの一室に入るとベランダの手すりが腰の高さほどあり、草薙はそこに手をついて下を見てから部屋に戻り床と壁を順に見ていった。
「草薙さん、何を見てるんですか」
「グラスがない」
「え」
「アルコールが検出されたなら、何かで飲んだはずだ。グラスも缶も瓶も、何もない」
「片付けた可能性はないですか」
「飲んで死んだ人間が片付けるか」
ちひろは少し考えてからスマートフォンで部屋全体を撮った。
「草薙さん。十時にベランダで声がしたとして、死亡推定時刻が十一時から十二時というのはどういうことですか」
「推定時刻には幅がある。十時も可能性の範囲に入る」
「九時に電話していた岸本という人が、十時にここに来ていた可能性があるんですか」
草薙がちひろを見た。
「そうなる」
「じゃあアルコールは」
「口から飲ませることもできるし、注射でも血中に入れられる。医療の知識があれば」
「岸本さん、医療関係ですか」
克也が答えた。
「製薬会社に勤めています」
ちひろは口を閉じて草薙は白板に戻り、岸本の名前に丸をつけた。
岸本に話を聞きに行くと三十代の男で愛想よく応対したが、草薙が「十時にマンションに行きましたか」と聞いた瞬間に目が動いて「行っていません。九時に電話しただけです」と答えた。
「電話のあと、誠さんの様子がいつもと違うと感じませんでしたか」
「別に。普通でした」
「グラスについて聞きます。誠さんの部屋にグラスがありませんでした。あなたが持ち帰りましたか」
岸本の表情が固まり、草薙はそのまま続けた。
「アルコールアレルギーの人間が飲酒して転落した。でもグラスがない。声を聞いた隣人がいる。あなたには動機がありますか」
「何の話をしてるんですか」
「誠さんと事業のトラブルがあったと聞いています。克也さんから」
岸本の顔から笑顔が消えて少しの間があってから、椅子を引いて立ち上がろうとした。
「警察に話を持っていきます。グラスのこと、隣人の証言、製薬会社の社員という立場でアルコールを体内に入れる方法を知っていること。材料は揃っています」
岸本が止まって立ったまま少しの間黙っていてから、椅子に戻った。
岸本は話した。誠との共同事業で誠が資金を持ち逃げしようとしていたこと、電話で問い詰めたら逆に脅されたこと、衝動的に部屋に行ったこと。故意ではなく揉み合いになってベランダから落ちたと言ったが、グラスを持ち帰ってアルコールを仕込んだのは意図的だった。警察が来た。
帰り道、ちひろは草薙の隣を歩きながら言った。
「草薙さん、今回は争う事もなくて良かったですね」
「相手が話せる状況だったからね」
「グラスがないって気づいたとき、うちには全然分からへんかったですわ。あって当たり前のものがないって、意識しにくいですよね」
「ないものを見るのは難しい。でも慣れる」
「慣れるものなんですか」
「慣れたよ」
ちひろは少し考えてから聞いた。
「草薙さんはいつからそういう見方をするようになったんですか」
草薙が少し間を置いた。
「昔から」
「昔からって、生まれつきですか」
「さあ」
「さあって何ですか」
草薙はコンビニの前で止まった。
「肉まん食べる?」
「話変えましたよね今」
「寒い」
「それだけですか!」
草薙はすでにコンビニの自動ドアをくぐっていて、ちひろはため息をついてその後に続いた。
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