第40話 盗聴器の家
ちひろは事務所で机に突っ伏しながら、参考書を睨んでいる。
「草薙さん」
「うん」
「なんで数学って、アルファベット混ぜるんですかね」
「数字だけじゃ飽きるからじゃない」
「絶対違いますわ!」
その時、インターホンが鳴った。
午後六時過ぎ。
ちひろが玄関を開けると、三十代くらいの女性が立っていた。
細い肩を縮め、周囲を気にするように何度も後ろを見ている。
「……相談、できますか」
声が小さい。
「どうぞ」
女性は松下由香と名乗った。
ソファへ座っても、落ち着かない様子でバッグを抱えている。
草薙が湯呑みを置いた。
「何があった」
由香は少し迷ってから言った。
「家の会話が……漏れてるんです」
ちひろが顔を上げる。
「漏れてる?」
「夫と別居協議中で……弁護士さんと家で話した内容を、次の日には向こうが知ってるんです」
「録音されたとか?」
「分かりません。でも、細かい言葉まで知ってて……」
由香は指先を強く握る。
「気味が悪くて」
草薙が聞く。
「旦那さん、家には?」
「今は別居してます。でも鍵は昔のままです」
「交換は」
「怖くて、まだ」
草薙は少し考えた。
「家、見に行こう」
その夜。
由香のマンションは、市内中心部の少し古い分譲マンションだった。
リビングは綺麗に片付いている。
だが、どこか落ち着かない空気があった。
人が安心して住んでいる部屋じゃない。
ちひろが小声で言う。
「なんか、息苦しい部屋ですわ」
「監視されてると思うと、人は部屋で休めなくなる」
草薙は壁際をゆっくり見て回る。
時計。
観葉植物。
照明。
そしてコンセントの前で止まった。
「ちひろ」
「はい」
「ドライバー」
カバーを外す。
その内側。
小さな黒い機器が貼り付いていた。
ちひろが目を細める。
「……ありますやん」
「盗聴器」
「うん」
さらに確認すると、寝室と玄関付近からも同型の機器が見つかった。
三箇所。
どれも、素人が適当に置いた感じではない。
「草薙さん、これ」
「設置位置が慣れてる」
「盗聴慣れしてる人間ですやん」
由香の顔が青くなる。
「やっぱり……」
草薙は機器には触れなかった。
「写真を撮って、警察へ届けてください」
「外さないんですか?」
「証拠になる。勝手に触るより、そのままの方がいい」
ちひろがスマホで撮影する。
「旦那さん、仕事は?」
「以前、防犯設備会社に勤めてました」
草薙とちひろの目が合う。
「なるほど」
由香は唇を噛んだ。
「離婚の話をしてから、人が変わったみたいになって……」
「暴力は」
「直接は。でも、ずっと監視されてる感じがして」
帰る前。
草薙は玄関の鍵を見た。
「鍵、交換した方がいい」
「今日すぐに」
「あと、今夜は一人でいない方がいい」
由香は小さく頷いた。
その夜。
所轄が動くまで、草薙たちはマンション近くで待機していた。
雨がまた降り始める。
深夜零時前。
マンション入口へ、一人の男が現れた。
四十代。
キャップを深く被っている。
だが、迷いなく建物へ入ろうとした。
「旦那さんですわ」
「うん」
男は、まだ使えると思っていた古い鍵を差し込む。
だが、回らない。
交換済みだった。
男の動きが止まる。
その瞬間。
「何してるんですか」
草薙が背後から声を掛けた。
男が振り返る。
目が据わっていた。
「……お前か」
「鍵、もう使えないよ」
「夫婦の問題だ。部外者は引っ込んでろ」
「盗聴器まで使う問題は、もう夫婦だけじゃない」
男の顔が歪む。
「由香が悪いんだ」
「そう思うのは自由」
「俺を裏切った」
「だから監視した?」
「俺は守ってただけだ!」
声が急に大きくなる。
次の瞬間。
男が前へ踏み込んだ。
右足が大きく上がる。
上段回し蹴り。
半歩だけ斜め内側へ入る。
蹴りの軌道から、自分の頭を外す。
振り上がった男の足を、両手で抱えるように掴んだ。
上段蹴りは、足が高く上がる分、軸足が弱くなる。
草薙は掴んだ足を少し持ち上げながら、自分の身体を内側へ回転させた。
男が回転して倒れる。
「うわっ――」
背中から地面へ落ちた。
その直後。
ちひろが飛び込んだ。
男の右手首を取り、そのまま地面へ押さえ込む。
「暴れんといてください」
男は起き上がろうとした。
だが、ちひろが肩へ体重を乗せる。
「警察もう来ます」
遠くでサイレンが近づいていた。
男はようやく力を抜いた。
所轄での調べで、男は盗聴器の設置を認めた。
離婚協議を有利に進めるため。
そして、「妻が自分を裏切っていないか確認したかった」と供述した。
「確認したところで、壊れるだけなのにね」
帰り道。
コンビニの明かりが、雨上がりの道路へ滲んでいた。
ちひろが傘を回しながら言う。
「草薙さん」
「うん」
「さっきの技、プロレスで見たことありますわ」
「ドラゴンスクリューですよね」
「上段蹴りって、見た目派手ですけど、外された瞬間めちゃくちゃ危ないんですね」
「実戦で高い蹴りほど、失敗すると戻れない」
「覚えときますわ」




