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『骨法探偵 草薙仁』 〜真実は歪みの中にある〜  作者: やはぎ・エリンギ


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第39話 生きていた男

 六月の終わりだった。


 雨が降るのか降らないのか分からない、湿った夜。


 事務所の窓を少し開けると、遠くの高架線路を走る電車の音だけが聞こえていた。


 ちひろは机でコンビニの肉まんを食べていた。


「草薙さん、これ絶対カロリー高いやつですわ」


「美味い?」


「めちゃくちゃ美味いです」


「じゃあ正義だ」


「その理論、だいぶ危険です」


 インターホンが鳴った。


 時計は夜九時を回っている。


 ちひろが玄関を開けると、三十代くらいの女性が立っていた。


 髪は少し乱れていて、傘を持つ手が震えている。


「……すみません、急に」


「どうされました?」


 女性は、言いづらそうに喉を動かした。


「死んだ人を、見たんです」


 事務所の空気が少し止まった。


 草薙が椅子に座ったまま視線だけ上げる。


「入って」


 女性は深く頭を下げ、中へ入った。


 名を、吉田美穂と言った。


 温かいお茶を出すと、ようやく少し呼吸が落ち着く。


「見たのは、誰」


 草薙が聞く。


「元彼です」


「いつ」


「先週の金曜、夜の十一時くらい」


「どこで」


「南駅のホームです」


 美穂は、自分でも信じ切れていない顔をしていた。


「一年前に死んだんです。交通事故で」


 ちひろがメモを止める。


「葬儀も?」


「出ました」


「棺は見ました?」


 美穂は少し間を置いた。


「……開いてません」


 草薙の目が細くなる。


「事故の状況は」


「夜の高速道路で、トラックに」


「遺体確認は?」


「病院で、損傷が酷いからって」


 ちひろと草薙の視線が、一瞬だけ合った。


 妙だった。


 草薙が聞く。


「名前」


「竹内和也です」


 依頼を受けた翌日。


 ちひろは所轄経由で死亡届を確認した。


 死亡診断を出した病院。


 葬儀社。


 火葬許可。


 書類は、綺麗すぎるほど綺麗に揃っていた。


「草薙さん」


「うん」


「病院と葬儀社、同じ系列ですわ」


「小さいグループだね」


「地方の介護と葬儀まとめてやってる会社みたいです」


「事故処理は?」


「夜間。遺族確認も最低限」


 草薙はソファへ深く座った。


「ちゃんと隠す気なら、もっと上手くやる」


「突発的だね」


 草薙はそう言って、書類を机へ置いた。


「追い詰められて、勢いで死んだことにした感じ」


 さらに調べると、竹内には借金があった。


 勤務先での金銭トラブルも出てきた。


 美穂との別れ話でも揉めていたらしい。


 そして事故後、保険金は発生していない。


「金目的ではないですわ」


「逃げだね」


「人生ごと?」


「うん」


 数日後。


 竹内に協力していた男の存在が浮かんだ。


 元同僚。


 名前は坂口。


 今は小さな中古車業者で働いている。


 俺たちは、業者の倉庫へ向かった。


 鉄骨の古い倉庫。


 油の臭い。


 坂口は最初、何も知らないと否定した。


「死んだ人間のことなんか知るかよ」


 だが、草薙が事故当日の書類を机へ置いた瞬間。


 坂口の顔色が変わった。


「……誰から聞いた」


「病院、葬儀、火葬。全部近すぎる」


「探偵か?」


「そうだ」


 坂口が舌打ちした。


「くだらねえ」


 次の瞬間。


 坂口が草薙の胸倉を両手で掴んだ。


 強く引く。


 普通なら、上体が前へ持っていかれる。


 だが草薙は引かなかった。


 膝をわずかに緩め、身体を沈める。


 掴まれた両腕の内側へ、自分の身体を滑り込ませた。


 腰が、坂口の重心より低く潜る。


 そのまま草薙は、自分の右腰を相手の下腹へ深く入れた。


 密着。


 坂口の身体が、腰へ乗る。


 乗った瞬間。


 草薙は背中を丸めるように、小さく前へお辞儀した。


 腰が支点になる。


 坂口の両足が、床から浮いた。


「うおっ――」


 身体が前方へ崩れる。


 草薙は腕で振っていない。


 相手が掴んで引いた力と、自分の体重移動だけで投げていた。


 坂口の背中が床へ落ちる。


 その直後。


 ちひろが飛び込んだ。


 右足首を抱えるように取り、膝を畳ませる。


 さらに手首を返して固定。


「暴れんといてください」


 坂口は呻きながら動きを止めた。


 その日の夜。


 坂口は所轄で認めた。


 竹内は死んでいなかった。


 借金。


 勤務先の横領。


 恋人との関係悪化。


 全部から逃げるために、「死んだこと」にした。


 病院側には、金を渡していた。


 夜間事故で確認を曖昧にし、火葬まで急がせた。


 棺を開けなかったのも、不自然さを消すため。


「和也、ずっと言ってたんです」


 坂口がうなだれる。


「もう人生リセットしたいって」


「だから死んだことにした?」


「……あいつ、壊れてたんです」


 竹内本人は、その三日後に見つかった。


 地方都市のネットカフェ。


 別人名義。


 帽子を深く被り、髭まで伸ばしていた。


 逮捕時、竹内は抵抗しなかった。


「……見つかると思ってた」


 それだけ言った。


 事件が終わったあと。


 事務所へ戻る。


 ちひろがお茶を淹れていた。


「草薙さん」


「うん」


「死んだことにして逃げるって、理解できます?」


「少し」


「え」


「人生を全部やり直したくなる時はある」


「草薙さんでも?」


「あるよ」


 ちひろは少し黙った。


「でも、死んだことにしたら、残された人が死ぬほどしんどいです」


「うん」


「そこ想像できなくなった時点で、かなり壊れてますわ」


 草薙は答えなかった。


 窓の外を見る。


 高架線路を、終電が通り過ぎていく。


 しばらく沈黙。


 そのあと。


 ちひろが急に言った。


「そういえば草薙さん」


「何」


「今日の投げ、めちゃくちゃ綺麗でした」


「腰投げ?」


「相手が浮く瞬間、ちょっとテンション上がりました」


「危ない感想だね」


「戦闘見てるの楽しいですわ」


「やめなさい」


 その瞬間。


 事務所の棚が、ミシッ、と音を立てた。


 ちひろが振り向く。


 積み上がっていた格闘技雑誌が、雪崩みたいに落ちてきた。


「うわっ!?」


 ドサドサドサッ!!


 ちひろが埋まる。


 草薙が静かに言った。


「たぶん原因これだよ」


「絶対そうですわ!!」

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