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『骨法探偵 草薙仁』 〜真実は歪みの中にある〜  作者: やはぎ・エリンギ


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第38話 即日高収入


依頼人は五十代の女性で、息子の様子がおかしいと言い、両手をきつく握ったまま座った。

「警察に相談するべきか、迷っていて。まだ、何も起きていないので」

依頼人の名は森下久子で、息子の森下亮は二十一歳、大学を休学中だという。一ヶ月前から夜に出かけるようになり、急に羽振りが良くなり、けれど顔色は日に日に悪くなっていった。問い詰めると「短期のバイトだ」とだけ言って、何のバイトかは答えないという。

「亮さんのスマホ、見られましたか」

「一度だけ。見慣れないアプリが入っていました。メッセージが全部、時間が経つと消えるやつで」

草薙が少し黙った。ちひろはスマートフォンを向けながら草薙を見た。何かを考えている顔だった。

「亮さんは最近、免許証か、保険証のコピーを取られたような話をしていませんでしたか」

久子が少し止まった。

「免許証の写真を送った、と言っていました。バイトの登録に必要だからと」

草薙の眠そうな目が、少しだけ変わった。ちひろはそれを見た。

「久子さん。亮さんを、責めないであげてください」

「え」

「亮さんは、たぶん、もう逃げられないと思い込んでいます。責めると、もっと深くに行きます」

久子が帰った後、ちひろが言った。

「草薙さん、亮さん、何をやってるんですか」

「まだ確定じゃないよ。ただ、形は見えてる」

「もうちょっとちゃんと言うてください」

「即日で高収入。免許証の写真。消えるメッセージ」

「それ、並べると、何になるんですか」

「受け子か、出し子だよ」

ちひろが少し止まった。

「受け子って、お年寄りから現金を受け取る役ですよね。詐欺の」

「そうだよ。最近は強盗の実行役まで含めて、SNSで人を募集してる。応募すると、まず免許証を送らせる」

「なんで免許証を」

草薙が少し間を置いた。

「逃げられなくするためだよ。家族構成も住所も、全部握られる。『抜けたら家族に何をするか分からない』と脅される。だから一度入ると、自分から抜けられないと思い込む」

ちひろが少し黙った。

「亮さん、最初は軽い気持ちやったんでしょうね。即日で現金もらえるって」

「たいていそうだよ。最初は荷物を受け取るだけ、と言われる。気づいたときには、もう免許証を握られてる」

「指示してる人は」

「顔も名前も知らないよ。アプリのメッセージだけ。指示役は安全な場所にいて、絶対に表に出ない。捕まるのは、いつも受け子と出し子だけだ」

「使い捨て、ですか」

「そうなるよ」

ちひろがメモ帳を見た。今まで書いてきた事件の記録だった。

「草薙さん、これ、整える者と同じ構造やないですか。人を使って、自分は出てこない」

「似てるよ。ただ、こっちは現実に、街のあちこちで動いてる」

草薙は、亮の生活パターンを久子から細かく聞き取った。夜に出かける曜日。戻る時間。アプリの通知が来る時間帯。

「亮さんが次に出かけるのは、たぶん明日の夜だよ。週末の前に、現金を動かす」

「どうやって分かるんですか」

「久子さんの話だと、亮さんは木曜の夜に必ず出てる。給料日後の高齢者の引き出しに合わせてる」

ちひろが少し考えた。

「草薙さん、亮さんを止めるんですか。それとも、捕まえるんですか」

「止めるよ。亮さんは加害者だけど、被害者でもある。捕まえるべきは、亮さんじゃない」

「でも、もうやってしまったことは」

「やってしまったことは、消えないよ。ただ、ここで止まれば、まだ戻れる場所がある。深くに行く前なら」

ちひろは、その言葉をスマートフォンで録った。

翌日の夜、亮が指定された場所に向かうのを、二人は離れて追った。亮は若い男だった。痩せていて、何度も後ろを振り返り、誰かに見られていないかを気にしていた。すでに、追われる人間の歩き方になっていた。

亮が公園のベンチに座って、スマホを見た。指示を待っている。

草薙が近づいて、隣に座った。

「亮さん」

亮が跳ねるように立ち上がった。

「だ、誰ですか」

「お母さんに頼まれた。座って」

「関係ないでしょ。放っといてください」

「免許証、握られてるね」

亮の動きが止まった。

「抜けたら家族に何かされる、と思ってる。違うか」

亮が、何も言わなかった。目に、怯えがあった。

「亮さん。それは、抜けさせないための嘘だよ。免許証を握られても、警察に相談すれば、家族ごと保護される。今、相談すれば、まだ間に合う」

「……信じられるわけない」

「信じなくていいよ。ただ、このまま続けたら、次は受け取るだけじゃ済まない。強盗の実行役をやらされる。そのとき、捕まるのは亮さんだよ。指示してる人間は、絶対に出てこない」

亮の手が、震えていた。

そのとき、公園の入り口から、別の男が歩いてきた。三十代くらいの、体格のいい男だった。亮の様子を見張りに来た「上の駒」だった。男は草薙を見て、足を速めた。

「おい、そいつ誰だ。何話してる」

男が亮の腕を掴もうと手を伸ばした。草薙はその手首を、外側から取った。

「亮さんは帰る。あんたは関係ない」

男が空いた手で、草薙の顔に拳を振ってきた。草薙は半歩、体を開いた。拳が空を切る。空振りした男の腕の付け根、脇の下に、草薙が肘を下から入れた。骨法の肘打ちで、体重を乗せた一点だった。男の腕が上がって、脇が開いた。開いた瞬間に草薙が男の手首を取って、外側に返した。小手返しで、男の体が自分の腕に引かれて横を向き、地面に膝をついた。

ちひろが、植え込みの陰から出て、男の背中側に回り込んだ。男の右腕を取って、内側に折り込み、地面に固定した。

「動かんといてください。警察、もう呼んでます」

男が舌打ちした。

「俺も、雇われてるだけだ」

「知ってるよ」草薙が言った。「あんたも、たぶん、抜けられないと思ってる側だ」

男が、何も言わなくなった。

亮は、ベンチに座り込んだまま、泣いていた。ちひろが隣に座った。

「亮さん。今日、止まれてよかったですわ」

「……俺、もう、終わりだと思ってた」

「終わりやないですよ。終わりにしようとしてた人がいただけです」

亮が顔を上げた。

「お母さん、心配してました。それだけは、本当ですよ」

亮が、また下を向いた。今度は、少しだけ違う泣き方だった。

所轄が来て、見張りの男を連行した。亮は、久子と一緒に、警察の相談窓口に向かった。免許証を握られていたことも、指示のアプリのことも、全部話した。指示役のアカウントは、すでに消えていた。海外のサーバー経由で、たどれなかった。指示役本人は、その夜も、どこか安全な場所にいて、別の若者に同じメッセージを送っていたはずだった。

捕まったのは、見張りの男と、亮だけだった。亮は被害者性を考慮されて、立ち直るための時間をもらえることになった。

帰り道、ちひろが言った。

「草薙さん、指示してる人は、結局、捕まらなかったですね」

「捕まらなかったよ」

「悔しくないですか」

「悔しいよ。でも、亮さんは止まれた。今日できたのは、それだけだよ」

「それだけ、って」

草薙が少し間を置いた。

「一人、深くに行く前に止まれた。それは、小さくないよ」

ちひろは少し黙った。

「草薙さん。即日高収入とか、簡単に稼げるとか、ああいうの、うちの学校でも回ってきますわ。同級生のところに」

「そうだろうね」

「うち、止め方、ちゃんと覚えときます。今日のやり方」

「覚えなくていい世の中が、一番いいよ」

「それは、ほんまですわ」

夕方の商店街に、灯りがついていた。二人は並んで歩いた。草薙は、いつもの眠そうな目に戻っていた。

(了)


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