第33話 歩幅を計る男
観測者の事件から、二週間が経った。
市内は表面的には静かだったが、その間に、別種の事件が、少しずつ動き始めていた。
通り魔。
夜、人通りの少ない裏道で、男が一人歩く女性を背後から襲い、軽い切創を負わせて逃げる、という事件が、市の北部で三件続いた。
被害者はいずれも入院には至らなかった。腕や肩を浅く切られただけ。
ただ、傷の入り方が、三件とも同じだった。腕の外側、肘から手首にかけて、刃が一本走る形。
所轄は連続通り魔として捜査本部を立ち上げたが、無差別の犯行と判断していた。
その所轄の知り合いから、俺は内々に連絡を受けた。
「人手が足りねえんだ。聞き込みだけでいい、付き合ってくれ」
単純に、夜の聞き込みに、もう一人欲しい、という用件だった。
俺は事務所で、ちひろにその話を伝えた。
ちひろは新しいノートを開いて、刑事から預かった現場の地図を眺めた。
三件の現場を、ちひろが線で結んだ。
「特に、共通点はなさそうですね」
「うん」
「住宅街、駅近、川沿い。場所もバラバラや」
「せやから、無差別と見られてる」
「うちは、無差別がいちばん嫌いです」
「俺もだ」
俺たちは、夜の現場周辺を、聞き込みに回った。
深夜に近い住宅街は、人の流れが薄かった。
ある居酒屋の店主から、興味深い証言があった。
「ここ最近、夜中に同じお客さんが来るんだ。注文はいつもビール一杯。十分で帰る」
「変わってますね」
「うん。けど、変なのはそれだけじゃなくてさ、その人、店の前に立つ通行人を、ずっと窓越しに見てるんだよ」
「観察してる、ってことですか」
「そう。それも、人の顔じゃない。足元を、見てる」
ちひろがメモを取った。
「足元、ですか」
「うん、足元」
俺はその店の窓越しに、外を眺めた。
夜の通りを、何人か、人が歩いていく。
ふつう、人を見るとき、顔か、せいぜい上半身を見る。
その通行人の中に、姿勢のいい女性が一人、通り過ぎていった。
歩幅が、揃っていた。
元自衛官か、警備員、あるいは、舞台俳優か。
訓練を受けた、整った歩き方。
俺の頭の中で、ある仮説が固まり始めた。
「ちひろ、被害者三人の歩き方、防犯カメラで見られるか」
「警察にデータあるはずですわ」
翌日、所轄から映像をもらった。
三人の被害者、いずれも夜遅く帰宅する女性。
歩き方を見比べると、奇妙な共通点があった。
歩幅が、信じられないほど、揃っていた。
ふつう、夜道を歩く女性は、足元の段差や、人の気配で、歩幅が乱れる。
しかし、この三人は、足の運びが、機械のように一定だった。
一人は元自衛官、一人は警備会社のパート、一人はジムのインストラクター。
三人とも、何らかの形で「整った歩き方」の訓練を受けた経歴があった。
犯人は、無差別ではない。
歩幅で、相手を選んでいた。
「歩幅フェチって、おるんですね」
「いるね。観察癖の延長だ」
「うち、また鳥肌立ちましたわ」
居酒屋の店主に、もう一度話を聞いた。
窓越しに通行人を見ている「ビール一杯の男」の特徴を、店主は覚えていた。
四十代、痩せ型、地味な服装。
名前も住所も知らないが、いつも同じ駅の方向から歩いてくる、と。
俺は所轄に、その情報を渡した。
所轄は翌日には、防犯カメラの履歴から、男の身元を割り出した。
元警備員。
警備会社を三年前に解雇されていた。
解雇の理由は、勤務中の「不適切な観察行動」だった、と人事が証言した。
住人の中で、特定の歩き方の人物を、執拗に追跡することがあった、という。
俺たちは、その夜、男の自宅マンションの近くで、出待ちをした。
ちひろを車に残して、俺は街灯の影に立った。
男は、深夜近くにマンションを出てきた。
濃い茶色のコートに、深く被った帽子。手はポケットに入れたまま、こちらをまっすぐ見ているわけではない。けれど、視線の向きと、首の角度が、わずかにずれている。
観察に慣れた角度だった。
男は、街を歩く人を一人ずつ、視野の隅で捉えていた。
俺は街灯の影から、男との距離を、ゆっくり詰めた。
男の右肩が、わずかに前に出た。
男の体重は、左足から右足へ、ゆっくり移っている。
その移り方が、追いかけに入る前の重心移動だった。
ただ、男は、まだ俺に気づいていない。
別の通行人を、追おうとしている。
俺は声を掛けた。
「夜更けに、奇遇ですね」
男はようやく、俺の方を向いた。
目が、薄く笑った。
「……邪魔だ」
声は、低かった。
「邪魔は、誰の」
「俺の、観察の」
男はそう言って、自分の右手を、ポケットの中で握り直した。
ポケットの中の布が、引っかかった音がする。
刃物の柄の感触が、布に擦れる音だ。
俺は男との距離が二歩を切ったところで、自分の左の前腕を、男のポケットの出口の上に置いた。
受けるんじゃない、塞ぐ。
男の右手が、ポケットの中で止まった。
止まった瞬間、俺は右手で、男の右の手首を、ポケットの外から軽く取った。
ポケットの外から取れば、男は中の刃物を握ったまま、手を動かすことができない。
俺は男の手首を、外側に半回転、ひねり上げた。
手首の親指側の関節を、外側に返す。返された手首は、自分の腕に引っ張られて、肩までついてくる。
男の体が、俺の側にぐらりと寄った。
俺たちが「小手返し」と呼んでいる崩しだ。
崩した瞬間、俺は男の右の腕を、自分の腰の高さで止めた。
男の体重は、もう自分で支えていない。
俺の腕一本に乗っていた。
「動かないで」
男は、ゆっくりと、息を吐いた。
「……あんた、誰だ」
「ただの通行人だ」
「通行人は、こんな腕の取り方は知らない」
「俺は知ってる、ということだ」
刃物は、ポケットの中で、まだ握られたままだった。
俺は左手で、ポケットの外側を軽く押さえて、刃物の柄を、男に握らせたまま固定した。
ちひろが、所轄に通報した。
男は所轄に連行された。
取り調べで、男は意外に素直に犯行を認めた。
動機は、純粋に、男個人の歪みからくるものだった。
男は警備員だった頃、夜の巡回で、毎晩同じ時間に同じ道を通る人物を見続けてきた。
その人物たちの中に、極めて美しい歩幅で歩く者が、何人かいた。
歩幅の美しさに、男は深い恍惚を覚えていた、と話した。
しかし、男自身は、いくら自分で訓練しても、その整った歩幅を身につけられなかった。
憧れと、敵意が、男の中で混ざった。
ある日、自分が見つめていた相手が、ふと振り返って、男を不審そうに眺めたことがあった。
その瞬間、男は、その整った歩幅の持ち主を「壊したい」と思った。
持つことができないなら、壊してしまえばいい、という、子供の論理が、大人の中で歪んで定着していた。
男は、近隣の地図と、住人の生活パターンを、自分で半年がかりで調べ上げ、計画を実行した。
全部、男一人で組み立てた事件だった。
依頼主も、共犯も、いない。
俺はその取り調べの結果を、所轄から聞いて、しばらく息を吐いた。
ちひろが事務所で、ノートを閉じた。
「うち、こういう事件、いちばん寒いです」
「うん」
「誰の指示も入ってへん。ただ一人の人が、ずっと、自分の中の歪みを育てて、ある日、それを外に出した」
「うん」
「外の助けも、なかったから、止まらんかったんですね」
「うん」
ちひろが、ノートの表紙を撫でた。
「うち、合気道、続けます」
「歩幅、整え続けます」
「狙われるかもしれんぞ」
「狙われたら、また草薙さんが助けてくれます」
「助手のお願いとしては、雑だな」
「ええんですよ、雑で」
ちひろは、いつもより、半分だけ、笑った。
事件は、その日のうちに、完結した。
絵を描いている誰かは、この事件には、絡んでいなかった。
たまに、こういう夜がある。
俺は窓を閉めて、明かりを落とした。




