第28話 観察者の予告
雑居ビルの二階で爆発があったのは、三日前の夕方だった。
幸い負傷者は出ていない。出火元は資料置き場、被害は段ボール数箱と窓ガラスが一枚。所轄が現場検証を入れ、爆発物の使用が確認されたあと、規模が小さかったこともあって、現場のキープアウトは二日で解かれた。
俺がその現場に呼ばれたのは、その翌朝だった。
知り合いの刑事から、電話が入ったのだ。
「規模は小さいんだが、煤の散り方が気色悪い。所轄の鑑識も首をひねって、調書を仕上げて引き揚げた。けど、お前に見せたい」
所轄の正式な依頼じゃない。あくまで個人的な相談だ。
現場の管理は、入居している運送会社に戻されていた。社長の了解は、刑事の方で取り付けてくれた。
俺は午前中にちひろを呼び出して、午後、現場に向かった。
「草薙さん、こっちです」
ちひろがビルの前で手招きする。制服の上にダウンを羽織って、肩にはいつものショルダーバッグ。学校帰りに直行してきたらしい。
「で、何でうちが現場に呼ばれたんですか」
「君は記録係だろ」
「うちは女子高生やで」
「兼業だから」
「兼業手当、出ますか」
「出ない」
ちひろは諦めた顔で、メモ帳を開いた。
建物の二階。
ドアは解錠されている。立ち入り禁止のテープは、入口の脇に丸めて置かれていた。
部屋に入ると、煤の匂いがまだ残っていた。焦げた紙とプラスチックの混じった、重い匂い。所轄が一通り採取を終えた現場とはいえ、空気の中には事件の余熱が漂っている。
俺は窓辺に立って、煙が走った跡を眺めた。
「予告があったって聞いたけど」
「はい。爆発の三十分前に、SNSの匿名投稿で『七時半に第三倉庫が爆ぜる』って」
「第三倉庫?」
「この建物の一階、運送会社の資料置き場です。けど、実際に爆発したのは二階の方」
俺はしゃがみ込んで、床の煤を指でなぞった。所轄が採取しなかった、隅の方の煤を慎重に。
爆発の中心は部屋の中央。けれど、煤の散り方が変だった。普通の爆発なら、中心から円形に煤が広がる。だがこの煤は、扇形に伸びている。風があったわけでもない、窓は閉じられていた。
「ちひろ、爆発のとき窓は」
「閉まってました。所轄も同じこと言うてはります」
「じゃあ、誰かが扇いだか、最初からこう散るように仕込まれてた」
何のために。
予告どおりに爆発させて、人を呼び寄せて、その上で誰かを観察するためかな。
俺は窓辺に戻って、外を見た。
道路を挟んだ向かいに、別のビルが建っている。三階の窓に、人の影が動いた気がした。
「ちひろ、向こうのビル、空きフロアって聞いた気がする」
「商業ビルですけど、三階は半年前から空室やそうです」
「じゃあ、いる方がおかしいな」
俺たちは現場を出て、向かいのビルに回り込んだ。
非常階段を上がる。三階の踊り場、ドアの前で、ちひろが俺の袖をつまんだ。
「草薙さん」
「ん」
「うち、たまに思うんですけど」
「何」
「この仕事、女子高生がやることちゃうと思うんです」
「俺もそう思う」
「思うんやったら連れて来んといて下さい」
「ちひろがいないと困る」
ちひろは何か言いかけて、結局メモ帳を強く握り直した。
ドアの向こうから、人の気配がする。呼吸の音までは聞こえないが、床に体重を移したときの、ほんのわずかな軋みが伝わってきた。
俺は呼吸を一つ落として、ドアを開けた。
空室の中央に、男が立っていた。
歳は三十前後。地味なグレーのジャケット。手には双眼鏡。窓の外を見ていた姿勢のまま、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「邪魔するよ」
「……関係者ですか」
男の声は驚くほど静かだった。声というより、音をなぞっているような響き。
「警察じゃない。爆発の調査を、ちょっと」
「そうですか。ご苦労様です」
男はそう言って、双眼鏡をそっと窓辺に置いた。
その動きを、俺は見ていた。
双眼鏡を置く位置が、窓ガラスにぴたりと張りつくような位置だった。指の腹で、ガラスの汚れを避けて置いた。普通の人間は、そんな所作はしない。
観察者だ。それも、長く続けてきた人間の。
「あなた、向かいの爆発の瞬間も、ここから見てましたよね」
「偶然です」
「双眼鏡で偶然は見ない」
男は微笑んだ。微笑む筋肉の動きは、目より先に頬の下から始まった。練習された笑みだ。
「証拠は」
「ない。ただの違和感」
「では、お引き取りを」
男は窓辺から、ゆっくり一歩こちらに踏み出した。
その一歩で、俺は身体を半歩横に置いた。
男の体重が、左足から右足に乗り変わる瞬間、踏み込みが深くなった。観察者の踏み込みじゃない。襲う側の踏み込みだ。
男の右手が、ジャケットの内側に滑り込んだ。
俺はその手首が抜ける前に、左肘を相手の前腕に当てに行った。
力で押し止めるんじゃない。男の動きの線の上に、肘の角を置く。前腕の内側にある神経が、骨に挟まれて鈍く痺れる。男の手が止まる。
止まった瞬間、俺は右手で相手の手首を掬い上げた。
手首の親指側、骨と骨の隙間に俺の親指を差し込んで、外側に返す。手首の関節は、外側に返されると逃げ場がない。男の身体が、自分の腕に引っ張られるようにして横を向いた。
そこで、俺は男の肩に左掌を当てた。
押すんじゃない。男が崩れていく方向に、ほんの少しだけ手を添える。すると男は、自分の倒れていく勢いに、自分で押し込まれるように床に膝をついた。
俺は男の腕を背中側に回し、手首を内側に折り込んで止めた。
「動かないで」
「……早いな」
「あなたの方が、もっと早く動こうとしたから」
ちひろが、ようやく息を吐いた。
「うち、ぼーっと見てただけやんか」
「拘束してくれ。あと、向かいの爆発現場、もう一回見せてもらおう」
男は警察に引き渡した。後で分かったのは、半年前から、この近隣の二十数人の住人の行動を、ノートに細かく記録していたということだった。
ノートは三冊。記録の精度は、警察も舌を巻いた。
爆発は、観察対象の一人の生活ルーチンを「狂わせる」ためのものだった。狂った行動を、ノートに書き足したかったらしい。
俺たちが事務所に戻った頃、ちひろがふと手を止めた。
「草薙さん、これ」
「何」
「警察が押収したノートの写真、見せてもろたんですけど」
ちひろが差し出したスマホの画面に、ノートの一ページが映っていた。
ぎっしりと書き込まれた中に、最後の方に貼られた写真。観察対象の一人を写したものだった。
その写真の右下、影の中に、小さく、人の手が写り込んでいた。
誰かが、観察者に資料を渡している瞬間。
その指の形に、俺はかすかに見覚えがあった気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいでないかもしれない。
ちひろは、その手の写真を、しばらく黙って見ていた。
「草薙さん、これ、ただの偶然と違うかもしれません」
俺は答えなかった。
答えなかった代わりに、その指の形を、頭の奥に小さく仕舞った。




