第20話 三十分の謎
その日は朝から二人で道場の掃除をしていた。窓を開け放つと、春の風が畳の匂いを揺らし、外の商店街のざわめきが遠くに聞こえた。ちひろは雑巾を絞りながら、草薙の横顔をちらりと見た。草薙は黙々と木刀の手入れをしている。
「草薙さん、依頼がないときは何をしてるんですか」
「考えてるよ」
「何を」
「いろいろ」
「いろいろって何ですか!」
ちひろが声を上げた瞬間、インターホンが鳴った。ちひろは雑巾を持ったまま立ち上がり、慌てて手を拭きながら玄関へ向かった。
扉を開けると、四十代の女性が立っていた。落ち着いた服装だが、目の下に疲れが滲んでいる。依頼人の名は村田洋子。夫のアリバイが崩せなくて困っていると言う。
「夫が……私の財産から無断で金を動かしたんです。でも本人は、会社にずっといたと言い張っていて……」
洋子は震える声で説明した。夫・村田健一は先月、午後一時から六時まで会社にいたと主張している。しかし金が動いたのは午後二時半から三時の間。会社から銀行までは往復三十分はかかる。
「一時と五時に確認された以外、三時間以上誰も見てへんのですね」ちひろが言った。「セキュリティカードの記録を確認できますか」
草薙はちひろを見て、少し頷いた。ちひろはその頷きの意味を理解している。草薙は言葉にしないが、必要な情報の筋道はすでに頭の中で組み上がっている。
翌日、セキュリティカードの記録が出た。健一は午後二時十分に会社を出て、三時五十分に戻っていた。銀行での手続きと往復の時間が完全に一致している。
洋子は記録を見て、肩を落とした。「……やっぱり、嘘をついていたんですね」
草薙は淡々と報告を終えた。ちひろは洋子にお茶を出し、少しだけ話を聞いた。洋子は「裏切られた気持ちが一番つらい」と言い、深く頭を下げて帰っていった。
道場を出て、夕方の商店街を歩く。店じまいの準備をする店員の声、揚げ物の匂い、子どもの笑い声。日常の音が二人の間を流れていく。
「草薙さん、今日は証拠もすぐ出てきて平和でしたね」
「そういう依頼もあるよ」
「草薙さん、引っかかりのある依頼と平和な依頼、どっちが好きですか」
「引っかかりのある方が好きだよ。違和感がないと物足りない」
「草薙さんって、謎がないと生きていけないんですよね」
「そうかもしれないよ」
草薙は歩きながら、街の看板や人の動きを無意識に観察している。ちひろはその横顔を見て、ため息をついた。
「うちがいなかったら、違和感を探して街をうろうろしてそうで」
「してるよ」
「してるんかい!」
ちひろの叫びが夕方の商店街に響いた。通りすがりの子どもが驚いて振り返る。草薙は特に気にしていなかった。ちひろは頭を抱えながらも、どこか楽しそうだった。
そのまま二人は並んで歩き、道場へ戻る道をゆっくり進んだ。今日の依頼は平和だったが、草薙の目はどこか遠くを見ている。次の“違和感”を探しているように。
ちひろはそんな草薙を横目で見ながら、心の中で思った。
(ほんま、この人は……放っといたら一生謎を追いかけて生きていくんやろな)
そして、そんな草薙の隣を歩く自分もまた、少しだけ誇らしかった。




