第19話 写真の中の嘘
依頼人の坂田剛は三十代前半、スーツの襟が少しよれていて、昨夜ほとんど眠れなかったのだろう、目の下に薄い影があった。結婚三年目の妻が浮気しているのではないかと疑っているが、確信が持てないと言い、震える指でスマートフォンを差し出した。
「その写真を見せてもらえますか」
草薙が受け取って画面を開く。ちひろも横から覗き込んだ。写真には、坂田の妻らしき女性が見知らぬ男と肩を寄せて歩いている姿が写っていた。夜景の前で笑っているように見える。
だが草薙は、写真を見た瞬間に眉をわずかに寄せた。
「影の方向がおかしいな」
「影ですか?」とちひろが言う。
「人物の影と、背景の建物の影の向きが違う。同じ場所で同じ時間に撮ったなら、影は同じ方向を向くはずだよ」
ちひろは写真を拡大し、建物の影と人物の影を見比べた。
「ほんまや……。人物の影だけ、光源が違う方向から当たってますわ」
「合成の可能性が高い。送ってきた人物の動機を確認する必要があるね」
坂田は唇を噛んだ。「友人から送られてきたんです。『お前の奥さん、怪しいぞ』って……」
草薙は坂田の声の震えを聞きながら、写真のメタデータを確認した。編集ソフトの痕跡が残っている。さらに調査を進めると、写真を送ってきた友人が画像加工をしていたことが判明した。元データには、坂田の妻とはまったく別の女性が写っていた。
どうやらその友人は、坂田の妻を狙っていたらしい。
坂田は妻に謝罪し、夫婦は話し合いの時間を持つことになった。草薙は依頼が終わったことを告げ、坂田は深々と頭を下げて帰っていった。
その夜。道場の戸が乱暴に開いた。
「余計なことをすんな!」
怒鳴り声とともに、坂田の友人の男が入ってきた。酒の匂いが強い。目は血走り、拳を握りしめて草薙に向かってくる。
ちひろが一歩下がった。草薙は静かに立ったまま、男の足の運びを見た。
男は横にステップしながら間合いを詰めてくる。肩の高さ、肘の角度、呼吸のリズム。草薙には、次に何が来るかが分かった。距離を詰めながら、横から肘を打ち込んでくるつもりだ。
草薙は広背筋に力を入れ、丹田を締めたまま、体全体が一つの塊として動く状態を作る。余計な力は抜き、ただ重心だけを整える。
男の肘が動いた瞬間、草薙は一歩だけ、男の斜め前に踏み込んだ。
踏み込みの重さが床に伝わる。男の肘が空を切る。草薙はその勢いをそのまま掌底に乗せ、鎖骨に打ち込んだ。腕の力ではない。体重そのものが流れ込む。
男の肩が崩れた。草薙はその肩に腕を差し入れて巻き込み、腰を入れて回す。
男の体が宙を回り、畳に落ちた。
ちひろがすぐに動き、男の腕を取って関節を固めた。
「終わりですよ」
男は呻き声を上げるだけで、もう抵抗できなかった。
警察に引き渡したあと、草薙はちひろを家まで送ることにした。夜風が少し冷たく、街灯の下でちひろの影が揺れた。
「草薙さん、さっき踏み込んだだけなのに相手が落ちましたよね。掌打がすごかったですわ」
「体重を乗せた踏み込みで、相手の重心を崩す掌打を当てたよ。腕の力じゃなくて、脱力することで体重そのものが乗る」
ちひろは歩きながらメモ帳を取り出し、草薙の言葉を素早く書き留めた。彼女の筆圧は強く、文字はまっすぐだった。
「……ほんま、草薙さんはすごい人ですわ」
草薙は何も言わず、ただ前を歩いた。ちひろの足音が後ろからついてくる。そのリズムが、今日の事件の余韻を少しだけ和らげていた。
ちひろは家に着くと、メモ帳を胸に抱えたまま深く息をつき、静かに玄関の扉を開けた。




