第18話 切り取られた声
依頼人の男は、椅子に座ったまま何度も手のひらを擦り合わせていた。
五十代半ば。スーツは整っているが、袖口がわずかに擦り切れている。疲労は隠しきれていない。
「……私の言葉が、別の意味で広がっているんです」
声がかすれている。
木下誠司。中規模企業の営業部長。
先月の社内会議の音声が外部に流出し、ハラスメント発言として拡散されているという。
「実際に言ったことは、違うんです。文脈を……切られている」
木下はUSBメモリを差し出した。
「完全版と、流出したもの。両方入っています」
「聞かせてもらえますか」
草薙は受け取り、ノートPCに差し込む。
横でちひろが画面を覗き込んだ。
最初に流出版を再生する。
『……結果が出せないなら、配置を考え直すしかないだろう。やる気がないなら――』
そこで音が切れる。
短い沈黙のあと、
『そんな人間は、うちにはいらない』
冷たい断定だけが残る。
ちひろが眉をひそめた。
「これは……切り方が露骨やけど、印象は悪いですわね」
「完全版を」
再生する。
『……結果が出せないなら、配置を考え直すしかないだろう。やる気がないなら、無理にこの部署にいる必要はない。本人に合う場所は他にもある。――そんな人間は、うちにはいらない、とは言わない。辞めさせるために仕事をさせているわけじゃないからな』
同じ声。だが意味はまるで違う。
「前と後ろを削って、真ん中だけ残してますわ」
ちひろが言った。
「そのうえで、“断定だけが残る位置”で切っている」
草薙は波形を拡大する。
無音部分の波が、不自然に平坦だ。
「ここ。編集点が二箇所ある」
「ほんまや……ちょっとだけザラついてる」
「ノイズの質が違う。元の録音とは別の環境で切り貼りしてる」
草薙は画面から目を離さない。
「誰がやったか、心当たりは」
木下は少しだけ視線を落とした。
「……八人参加していた会議です。その中に一人、評価に不満を持っていた部下がいます。斉藤という男です。ここ一ヶ月、明らかに態度が変わった」
「録音機器は?」
「会議は基本的に記録していません。ただ、個人でメモ代わりに録音している者がいるかもしれない」
「分かりました」
草薙はUSBを抜いた。
「現物を見に行きます」
翌日。
会社の会議室は、整然としているが空気が重い。
斉藤は三十代前半。椅子から立ち上がる動きが早すぎた。
「……何の用ですか」
「音声の件で少し」
「知りません」
草薙は机の上にタブレットを置いた。
「流出した音声と完全版、比較しました。編集点が二箇所。そこに同一のノイズが乗っている」
斉藤の視線がわずかに揺れる。
「環境ノイズじゃない。機器固有のものです。具体的には、安価なICレコーダーに多い高域の歪み」
ちひろが小さく息を飲む。
「同じ型を使えば、同じ癖が出る」
草薙は言葉を続ける。
「照合させてもらえますか」
斉藤の右手が、机の引き出しへ動いた。
「引き出し、開けんといてください!」
ちひろが踏み込む。
体を滑り込ませるように右側へ回り込み、腕の動線を塞ぐ。
斉藤の手が止まった。
草薙は静かに引き出しを開けた。
中に、小型の録音機器。
傷の入り方。使い込まれている。
「……これで録っていましたね」
斉藤は目を閉じた。
数秒、何も言わない。
やがて、力が抜けるように肩が落ちた。
「……はい」
「評価、納得いかなかったんです。何年やっても上がらない。あの人は、綺麗事ばかり言うくせに……」
「だから?」
「……潰せばいいと思った」
草薙は感情を乗せない声で言う。
「切り取ったのは、言葉じゃない。意味だ」
斉藤は何も返さない。
警備員が呼ばれ、やがて警察が来る。
機器は証拠として回収された。
帰り道。
夕方の光がビルの隙間に差し込んでいる。
「草薙さん」
「ん?」
「うち、さっき……勝手に動きましたわ」
「見てた」
「証拠、隠される思うて」
「正しい判断だよ」
ちひろは少しだけ笑う。
「前やったら、固まってたと思います」
「今は動けた」
「……はい」
歩きながら、ちひろは空を見上げた。
橙色が、ゆっくりと深くなる。
「言葉って、怖いですわね」
「怖いよ」
「同じ声でも、こんなに違って聞こえるんやから」
「だから切り取られる」
「人は全部を聞かない。都合のいい一部だけで判断する」
「ほな……どうしたらええんですか」
「全部を見るしかない」
「全部……」
「難しいけどな」
風が吹く。
遠くで車の音。
ちひろは小さく息を吐いた。
「でも、うちは今日、ちょっとだけ分かった気がしますわ」
「何を」
「切り取られたんは、声やのうて……人の見方なんやって」
草薙は少しだけ目を細めた。
「いい線いってる」
沈みかけた太陽が、ビルの向こうに消える。
光が落ちていく。
それでも、街の音は止まらない。
切り取られたまま、流れていく声のように。




