銀龍の涙
アルジェが飛び込んできた翌日の夕方のことであった。
意識を取り戻したアルジェはわずかに指先に力を込めて動かした。
いくらか楽になったものの毒はまだ抜けきっておらず、身体の自由が利かない。
アルジェを寝かせている布団から物音がしたのを聞きつけたカグヤはアルジェが意識を取り戻したことを確認すると彼女の傍に寄り添った。
「目覚ました?」
カグヤはアルジェに優しく声をかけるとそっと彼女の手を取った。
カグヤの手の温もりがアルジェの手を通して彼女に伝わる。
「カグヤ……」
「もう話せるようになった?」
カグヤに尋ねられたアルジェは小さく首を縦に振った。
「そう。じゃあ昨夜何があったのか教えて」
「キメラから襲撃を受けた。不覚……」
アルジェは昨夜起きた出来事を簡潔に語った。
彼女は人間の姿でいたところを他のキメラに奇襲を受けたのである。
キメラの姿であれば鉄壁を誇る彼女といえど人間の姿でいる間は普通の人間とさほど大差はない。
キメラ自体はなんとか退けたものの毒が回ってしまい、朦朧とする意識の中でカグヤの元を尋ねたというのが昨夜の一連の出来事の真相であった。
「カグヤ、私はマスターに捨てられてしまった……」
アルジェは今回の一件でマスターであるレンから見切りを付けられてしまったことを実感していた。
精神的に脆い部分のある彼女にとってマスターが存在しなくなることは死の宣告にも等しい事象であった。
今の彼女に拠り所はない。
「じゃあさ、あーしのところに来る?」
カグヤは落ち込むアルジェに自分が拠り所になることを提案した。
「アルジェにとってはあーしもマスターなんでしょ?キメラがマスターの元にいるのは何もおかしいことじゃないし」
「しかし、カグヤにはアルムがいるのでは」
「そこはあーしがなんとかするから大丈夫」
アルジェがアルムの存在を理由に答えあぐねるとカグヤはアルジェを安心させるように冗談めかして答える。
「そうだ。お腹すいてるでしょ。何か用意したげる」
カグヤはアルジェを労わるように言うと台所へと向かっていった。
何を思ったか冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、戸棚から食パンを持ち出すとそれをトースターにかけた。
カグヤは以前アルジェがハルヒの作ったベーコンエッグを美味しそうに食していたのを覚えていたため、自分なりに再現しようと試みたのである。
「あれ?ちょっと焼きすぎちゃったかな?まあ大丈夫でしょ」
カグヤはスマホ片手に目玉焼きと焼きベーコンを作り、トーストが出来上がるとそれを小皿の上に盛り付け、アルジェの前に差し出した。
焼きたての目玉焼きとトーストからは仄かに温かい湯気が立ち上る。
「はいどうぞ。ハルヒと比べたら出来は保証できないけど、たぶん食べられる」
カグヤはアルジェに口をつけるように促した。
カグヤは妹のハルヒと違い自炊が不得手であるため、自作の料理の味は保証できない。
しかしアルジェのために作った手料理であることはアルジェにとって大きな意味があった。
アルジェはゆっくりとトーストを手に取り、それを小さく頬張った。
「カグヤは私のマスターなのに私に優しい」
「何かをしてもらうんだから労うのは当たり前ってことよ。アルジェは前にあーしのために戦ってくれたし、ようやくこれでお返しができたってところかな」
カグヤはアルジェに優しさを向ける理由を伝えた。
何かをしてもらったらお礼をするのがカグヤにとっての当たり前であり、今回は過去クロウキメラと戦ってもらったお礼のつもりであった。
「あーしはアルジェが過去にどんなことしてたとかそんなの気にしないよ。だから、アルジェさえよければあーしと一緒にいよ?」
カグヤはこれまでのアルジェの行動をすべて不問にすることを宣言すると改めて彼女に同棲を呼びかけた。
レンの元にいたときとまるで違う対応にアルジェの思考は彼女の中の常識の範疇を超え、これまで抱いたことのない感情が芽生えた。
トーストを乗せていた小皿の上に透明な液体が音を立てて滴り落ちた。
カグヤが視線で液体の出処を追うとアルジェの目元にたどり着いた。
アルジェは表情を変えないまま涙を流しており、彼女もまたこれまで示したことのない反応に困惑していた。
「これは……何?」
「それは涙っていってね、人間が特定の感情を抱いたときに出てくるもの……って言えばいいのかなぁ」
カグヤは涙のことを曖昧に説明した。
専門的な知識など持ち合わせていないため、彼女の知識ではそう説明するのが精いっぱいであった。
「人間の……感情?」
カグヤの説明を聞いたアルジェの脳裏にアルムの言葉が過った。
『人間は感情の生き物って言われててね。時々その感情で理屈を超えたことを起こすんだ』
アルムの言葉通り、アルジェは感情によってこれまで発生しなかった事象を起こしたのである。
自らがその具現者となったことにより、ついに感情の存在を受け入れたのである。
「カグヤ。私は貴方と共にいたい。私のマスターは貴方こそが相応しい」
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。その言葉を待ってたんだー。なんてね」
アルジェはカグヤに対して明確な自我を示した。
レンとの主従関係を自らの意志で破棄し、新たにカグヤをマスターに指名するというキメラにとってはあり得ないイレギュラーであった。
それを受けたカグヤはオタクっぽい言動で茶化しつつもアルジェの意志を受け入れた。
「過去の命令をすべて破棄する。マスター、命令を」
「そうだなぁ……じゃあ『あーしのために戦って』なんてどう?」
「承知した」
こうしてアルジェは新たにカグヤをマスターに選び、改めて主従関係を結んだのであった。




