プロローグ 中編
芹は途中で自分の家には寄らず、俺の家に直行した。制服くらい着替えて来いと言ったが面倒だし制服のままでも支障はないとそのままで部屋に招くこととなった。皺になるからとブレザーだけはハンガーに掛けてそのまま机に向かわせた。
「だから今日の授業で大事なのはこの公式で、これを因数分解することで……」
「そっか、こうすれば簡単になるね。赤ペン赤ペンっと」
勉強を初めて3時間くらい。芹が思いのほか真面目に勉強しているのが意外だった。中学の時は勉強を教えても俺の部屋が気になるのか全然集中していなかった記憶がある。ベッドの下とかを探ろうとする芹を脳天チョップで止めて文句を言われたり、集中して勉強させるためにご褒美として自作のクッキーを焼いたりと芹との勉強会はものすごく苦労と工夫を重ねてきたのだ。
それが今では楽しそうに俺が教えるのを素直に聞いている。
「なあ」
「どうしたの、澄ちゃん? どこか間違えたかな」
「いや、合ってるし式のこと十分に理解してる。別に俺が教えなくても大丈夫そうなくらい」
「そんなことないよ。澄ちゃんが教えるのが上手だから私にもわかるんだよ」
「別に俺が上手いわけじゃないんだけど。でも中学の頃もっと不真面目だったよな。俺の部屋あさったり、クッキー食べさせてってねだったりしてさ」
「今はもうこの部屋に来るのが凄く落ち着くからね。クッキーも美味しかったなぁ……私のために澄ちゃんが焼いてくれたクッキー。でも食べさせてってお願い、聞いてくれなかったよね」
「それはお前があまりにも非常識なシチュエーションを要求したからだ」
芹が要求したシチュエーションとは、1つのクッキーの端を俺が咥えてその反対側を芹が少しずつかじっていくというものだ。
なんでもその当時見ていたドラマのワンシーンにそういうシーンがあったらしい。多分ポッキーゲームというやつだろう。
当然俺は拒否した。が他の芹の要求はだいたい呑んでいた記憶がある。言うなればクッキーゲームと表現すべきか。これをやらされるのに比べればマシだと思ったのだろう。思い出しただけで恥ずかしくて死にたくなる。
「それよりこれだけできるんだったら授業も真面目に受けれるんじゃないか? 確かに鷲谷先生の授業は眠くなるけどさ」
「う~ん。でも私、澄ちゃんいないとすぐにダメになるから。今は二人きりだからできてるだけで……」
「二人きり……」
二人きりという言葉に思わず反応してしまう。父さんも母さんも仕事で帰るのは遅くなる。俺に兄弟はいないしこの家には俺と芹だけ。
『秘密の勉強会だろ?』頭の中に涼の茶化す言葉が反復する。ふと見ると芹のカッターシャツの向こうにピンク色の物が見えた。下着だ。ピンクのブラが芹の肩や胸をおおっている。
芹がブレザーの下に夏服を着ていることに初めて気づいた。透けた下着を、芹の女性的な部分を強調するそれを見て思わず喉が鳴る。心臓が一気に加速した。送り出された血液が顔を覆うように巡る。熱い。
いやいや、相手は芹だぞ。甘えん坊で妹みたいな女の子だ。女の子……なのだ。そう頭の中で葛藤していると不意に頬に冷たいものが当たった。
これは芹の手だ。
「うわっ!?」
「大丈夫? 澄ちゃん、真っ赤だよ? 凄く熱い。ひょっとして体調悪い?」
芹が心配そうに俺の頬を撫でる。俺を見るクリクリとした瞳に吸い込まれそうだと錯覚する。思わず顔を背けた。
「べ、別に何でもない。それより俺がいなきゃダメって、そんな事いつまでも言ってられないぞ。」
このままではおかしくなってしまいそうだと突き放すように露骨に話題を変えた。
「俺たちも高校卒業したら別々の進路になるのが普通だし、あと2年で俺たちの環境は変わるんだ」
芹の目を見ないように顔を逸らしながら頭に浮かんでくる言葉を紡ぎ出す。そうだ。いつまでもこんなこと続けられないんだと自己を正当化するように息もつかずに話す。
「む、変わっても私は澄ちゃんの側にいたいよ」
「いたいって思っててもそううまくいくわけ無いだろ。別に卒業だけじゃない。例えば……もしかしたら俺が明日トラックにはねられて死んじゃうかもしれない。そうなったら芹は……」
「澄ちゃん!!」
俺の照れ隠しのためのまくし立ては芹の怒声で遮られた。両手で俺の頬を持って自分の方へと向ける。芹は怒っていた。眉を吊り上げ唇をかたく締め、頬を赤くしている。だけどその目はどこか悲しそうで申し訳ない気分になる。
「死ぬなんて言わないで」
「い、いやただの例え話で、冗談で……」
「それでも! そんなこと考えたくないよ……」
「わかった、わかった。もう言わない。冗談でも死ぬなんて言わない。だから離してくれ。近い。」
「嘘! だって澄ちゃん本当のこと言うときはいつも私を真っ直ぐ見てくれてた!」
俺は無意識に目線を逸らしていたらしい。だって仕方ないじゃないか。目の前には芹の顔があって、吐息が掛かるくらい近くて、なんだかいい匂いがしてて、少しずつ暖かくなっていく芹の手が気持ちよくて、なんだか恥ずかしくてまっすぐになんて見れない。
「こっちみて」
「…………」
俺はそれでも芹の顔が見られなかった。怖かった。嫌われるかもとかそういうのが怖いんじゃない。芹の方を向いたら何かが変わってしまいそうな気がして。俺と芹の関係はこんな緊張するものじゃなくて、もっと気楽であたりまえな感じなのだと信じていて。
「芹、俺は……」
「ん、ちゅっ……」
「んんっ!?」
唇に柔らかいものが触れた。思わずまっすぐに芹の方を見る。目の前には瞳を閉じた芹がいてその顔は真っ赤で、まつ毛少し濡れていた。触れた胸の奥から鼓動がこちらにも伝わってくる。
キス……された。
「んっ……ちゅっ。私怒ったから。私のこと見てくれない澄ちゃんに怒ったから。だからファーストキス、奪っちゃったから……」
手と唇を離すと芹は言い訳するように真っ赤な顔で俺を責めた。悪いのは嘘ばっかりつく俺だと。しかたないことなのだからと。
ファーストキスを奪ったって芹は言う。だけど
「……違う」
「え?」
「初めてじゃない」
これがファーストキスじゃない。そう言うと芹はショックを受けたようにしょぼくれた。
「そう……だよね。澄ちゃん、もう高校生だし優しいからキスくらいもうしてて当然で……ぐすっ」
芹は泣き出しそうになりながら話している。というかもうほとんど泣いてた。それを見て俺はため息をついて芹のことを指差した。
「え?」
「おまえ。芹が俺のファーストキスの相手だよ」
そう言うと芹は豆鉄砲を食らったような顔をした。
「どういうこと?」
「覚えてないか? 幼稚園の頃、お前の親戚のお姉さん、愛佳さんの結婚式の時、私も誓いのキスがしたいって俺にねだったの」
子供の頃親戚の結婚式に俺と芹は出席したことがある。愛佳さんには俺も当時お世話になったからって父さん、母さんと一緒に出席したのだ
「ううん、覚えてる。全部覚えてるよ。澄ちゃん恥ずかしがって嫌だって言って。それで私泣いちゃって、それで仕方ないからって私にキスしてくれたの。でも子供の頃の話だし前はノーカンだって」
「涼とかに言いふらそうとするから止めたんだよ。俺も忘れてたわけじゃない。ともかくそれが俺のファーストキス。だから今のはその……セカンドだ」
恥ずかしさを隠すようにぶっきらぼうにそう断言する。そう言うと芹は嬉しそうに微笑んだ。泣いてた子がなんとやら。泣きべそをかいた表情は消えうせていた。
「ねえ澄ちゃん」
「なんだよ」
俺は恥ずかしくてぶっきらぼうにそう答える。
「嫌だった?」
「…………別に。芹が突飛なことして俺が何とかするってのはいつものことだし、それが嫌なら、お前のこと突き放すし。お前はどうなんだよ。今のがその……セカンド?」
「うん。セカンド。澄ちゃんだけ……」
俺だけが芹の唇に触れたという事実はなぜだかとても心地よかった。
そしてなんで俺が芹にこんなこと言わなきゃならないんだと言い訳するように言葉が止まらない。芹が欲しい言葉はなんとなくわかるけれどそのとおりにするのは癪で喜ぶのは分かっているけど喉の奥から出てこなかった。
「澄ちゃん、こっち見て……」
さっきとはうって変わって優しい声色だった。俺は抵抗なく芹を見た。
芹は瞳を閉じていた。唇を突き出して、俺を待っていた。俺が言葉にできないって知っているから、素直になれないってわかってるから、行動で示して欲しいんだ。
俺からキスして欲しい。直ぐにそれがわかった。無意識に両手で芹の方を持つ。制服越しだけどその肩は小さくて震えていて、俺が受け入れるのか不安で、胸が苦しいんだ。
俺の心の中を様々な感情が渦巻く。このまま抱きしめたい。その瑞々しくて柔らかい唇に触れてみたい。芹を安心させてやりたい。喜ばせてやりたい。素直になりたい。自然と拒絶するという感情は湧き上がってこなかった。俺は心の底から芹を求めている。
それを自覚した以上やることは決まっている。
俺は芹の肩を持ち顔を近づけていく。
距離がどんどん、どんどんと近づいていくそしてそれが合わさったとき――
ぷるるるるる
「「ビクッ!?」」
あと1ミリもないってくらい近づいたとき不意に携帯が鳴った。
涼からだ。時計を見るともう9時を回っていた。約束の時間だ。気がつかなかった。
「も、もうこんな時間! じゃ、じゃあ私帰るね。今日は勉強を見てくれてありがとう! それじゃ!」
「お、おう、気をつけてな」
その着信を聞いて我に返ったのかパタパタと勉強道具を片付けて逃げるように玄関に飛び出していった。
おれもテンパっていて、止めたりすることもできずただ立ちすくんでいた。
一人になった部屋を携帯の着信音だけが無機質に鳴り響いている。
「はあっ、タイミングがいいんだか悪いんだか」
もしあのままキスしていたら自分を止めることができなかっただろう。テニス部顧問の言ってたように働かなければならない事態になる可能性があった。つーか十中八九ヤってた。そう考えればこの着信は天の助けなのだが、どうしてもこの着信を恨んでしまう気持ちを抑えられない。
ふと脇に置かれた鏡が目に入った。そこにはだらしなく頬を緩ませた俺自身が写っていた。
あれだけ幼馴染みだの妹だの言い訳してたくせに嬉しそうだなこいつ。そう心の中で自分にツッコミを入れた。
「ホント俺って勝手だよな」
そうため息をついて携帯を手に持った。




