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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第9章 聖女の沈黙――彼女が罪を認めた本当の理由

 王都には、二種類の沈黙がある。

 一つは、夜明け前の沈黙だ。

 市場の屋台がまだ開かず、馬車の車輪も石畳を叩かず、教会の鐘すら眠っている時間。人々がまだ夢の中にいて、王都そのものが息を潜めているような静けさ。

 もう一つは、恐怖の沈黙だ。

 見てはいけないものを見た時。

 聞いてはいけない名を聞いた時。

 正しいと思っていた世界の足元に、暗い穴が開いていると気づいた時。

 人は、声を失う。

 レオン・アルバートは、後者の沈黙の中を歩いていた。

 王都地下第二礼拝堂から生還して、半日。

 彼の外套の内側には、沈黙の鐘の接続鍵、白い仮面の金属札、第二礼拝堂の記録札、そして王家の密書と魔力記録板がある。

 証拠は増えた。

 だが、時間は減った。

 処刑まで、あと二日。

 聖女セラフィーナ・エルシアの死は、ただの処刑ではない。

 彼女の身体に宿る魔王因子を、王都地下装置へ回収し、王都全体を巨大な聖遺物兵器に変えるための儀式だ。

 そして、彼女はそれを知らない。

 少なくとも、自分の死がそこまで利用されるとは知らない。

 自分が罪を被れば終わる。

 自分が死ねば王都を守れる。

 そう信じている。

 だから、会わなければならなかった。

 彼女に伝えるために。

 あなたの死は、救いではない。

 敵の計画の一部になっている、と。

     *

 地下牢へ入る道は、通常なら三つしかない。

 正面の監獄塔。

 王城西側の看守用搬入口。

 そして、異端審問庁から繋がる審問官専用通路。

 その全てが、今は封鎖されている。

 レオンは逃亡犯だ。

 見つかれば即座に拘束される。

 場合によっては、その場で斬られる。

 だが、王宮にはもう一つ、正式な地図に載らない道があった。

 王女クラウディアが教えてくれた道だ。

 王宮礼拝堂の告解室。

 その床下。

 古い王族用の避難路。

 今は使われていない。

 いや、使われていないことになっている。

 礼拝堂の裏手にある小さな扉を、クラウディア王女が開けた。

 彼女は喪服のような黒い外套を着ていた。

 侍女長マリナを失ってから、まだ一日も経っていない。

 それでも彼女の目は泣き腫らしていなかった。

 泣く時間を、後回しにした者の顔だった。

「この先は、地下監獄の旧祈祷室へ繋がっています」

 クラウディアは低く言った。

「今は物置として扱われていますが、壁一枚隔てれば、セラフィーナの牢がある区画へ出られます」

「監視は」

「正規の通路ほどではありません。ですが、完全にないわけではありません」

「十分です」

「十分ではありません」

 クラウディアの声は硬かった。

「レオン。あなたは今、王都で最も見つかってはいけない人間です」

「それは光栄ですね」

「冗談を言っている場合ですか」

「言っていないと、少し考えすぎるので」

 クラウディアは、わずかに目を伏せた。

「セラフィーナも、そういうところがありました」

「彼女が?」

「ええ。いちばん苦しい時に、いちばん穏やかに笑うのです。周囲を不安にさせないために」

 レオンは黙った。

 その笑みを知っている。

 牢の中で見た。

 裁判記録の中でも見た。

 あれは、強さではない。

 強さとして扱われてしまった、悲鳴だ。

「王女殿下」

「何でしょう」

「今回は、あなたも危険です」

「分かっています」

「もし見つかれば、密書の件も露見する」

「ええ」

「王女としての立場を失うかもしれない」

「もう、半分失っています」

 クラウディアは微笑んだ。

 美しい笑みではなかった。

 だが、王女として作った笑みよりも、ずっと人間らしかった。

「マリナが死にました。セラフィーナの名を汚すために。私を黙らせるために。なら、私はもう黙りません」

「……強いですね」

「怖いだけです」

「怖い?」

「ええ。怖いから、動いています。動かなければ、怖さに潰される」

 レオンは頷いた。

 勇者ユリウスも、怖がっていた。

 セラフィーナも、たぶん怖がっている。

 自分も怖い。

 それでいいのだろう。

 恐怖は、人間である証拠だ。

 レオンは床下へ続く階段を見た。

 暗い。

 狭い。

 湿った空気が上がってくる。

「では、行きます」

「私も途中まで」

「危険です」

「案内なしでは迷います」

「地図は覚えました」

「地図に載っていない扉があります」

「なら、お願いします」

 クラウディアは小さく頷いた。

 二人は、王宮礼拝堂の床下へ降りた。

     *

 旧避難路は、王族のために作られた道だった。

 壁には古い王家紋章。

 床には柔らかい赤石。

 天井は低いが、粗末ではない。

 逃げる時でさえ王族が泥に足を取られないよう、丁寧に整えられていた。

 レオンは、少しだけ嫌な気分になった。

 同じ地下でも、第二礼拝堂とは違う。

 あちらには、名前を奪われた実験体の骨が積まれていた。

 こちらには、王族が安全に逃げるための赤石の道がある。

 国というものは、こういう差でできている。

 誰かの逃げ道と、誰かの墓穴。

 それらが同じ地下にある。

「ここを通るたび、思うのです」

 クラウディアが前を歩きながら言った。

「王族は、逃げる道だけは用意されているのだと」

「逃げなければならない時もあるでしょう」

「ええ。でも、民にはない道です」

 彼女の声には、自嘲があった。

「私は今まで、守られる側でした。守られていることを当然だと思っていたわけではありません。でも、守られることに慣れていました」

「今は違うと?」

「守られることに慣れたままでは、証人にはなれません」

 レオンは、少しだけ彼女を見直した。

 王女は強くなったのではない。

 怖さを抱えたまま、役割を選び直したのだ。

 それは、強さよりも信頼できる。

 しばらく進むと、道は二手に分かれた。

 クラウディアは右を示す。

「左は王城外壁へ。右が地下監獄です」

「王族用の避難路が監獄へ?」

「昔は、王族が地下礼拝堂へ密かに祈りに行くための道だったそうです。監獄になったのは後の時代です」

「祈る場所が監獄になる。王国らしいですね」

「否定しません」

 右の通路へ入ると、空気が一気に冷たくなった。

 壁の石が変わる。

 王宮の赤石から、監獄の黒石へ。

 同じ地下道なのに、境目がはっきりしている。

 まるで、人間をこちら側とあちら側に分ける線のようだった。

 クラウディアは足を止めた。

「この先の扉を開けると、旧祈祷室です」

「殿下はここまでで」

「いいえ」

「ここから先は危険です」

「だからこそ、ここまでで引き返すなら、私は一生後悔します」

「セラフィーナに会うのですか」

 クラウディアは一瞬、言葉を失った。

 会いたい。

 だが怖い。

 その表情だった。

「……会う資格があるでしょうか」

「資格で会うものではありません」

「では、何で」

「会いたいなら、会えばいい」

 クラウディアは、驚いたようにレオンを見た。

「あなたは時々、審問官らしくないことを言いますね」

「逃亡中なので」

「便利な身分ですね」

「おすすめはしません」

 クラウディアは小さく笑った。

 そして、扉に手をかけた。

「会います」

 古い扉が、静かに開いた。

     *

 旧祈祷室には、埃が積もっていた。

 壊れた燭台。

 古い聖句。

 空の祭壇。

 だが使われていない部屋特有の静けさの奥に、監獄の匂いが混じっている。

 石。

 鉄。

 聖銀。

 そして、長く閉じ込められた人間の気配。

 レオンは壁に耳を当てた。

 遠くで看守の足音。

 二人。

 間隔は長い。

 旧祈祷室は監視の外側にある。

 今なら動ける。

 クラウディアが小さな鍵を取り出した。

「この壁の奥に、礼拝用の覗き窓があります。昔は王族が囚人の懺悔を聞くために使われたそうです」

「悪趣味ですね」

「ええ」

 壁の一部が動いた。

 細い通路。

 大人一人がようやく通れる幅だ。

 そこを抜けると、鉄格子の裏側へ出た。

 セラフィーナの牢。

 彼女は、寝台ではなく床に座っていた。

 白い囚人服。

 短く切られた銀髪。

 聖銀の枷。

 黒い封言の首輪。

 両手を膝の上に重ね、目を閉じている。

 祈っていた。

 だが、レオンにはもう分かる。

 祈りは、穏やかなものだけではない。

 祈りは時に、痛みを逃がすための呼吸だ。

「セラフィーナ」

 クラウディアが名を呼んだ。

 セラフィーナの瞼が震えた。

 ゆっくりと目を開ける。

 青い瞳が、まずレオンを映し、次にクラウディアを映した。

 その瞬間。

 彼女の表情が崩れた。

「クラウディア様……」

 それは、これまでレオンが聞いたどの声とも違っていた。

 死刑囚の声でも、聖女の声でもない。

 友人の名を呼ぶ、ひどく弱い声。

 クラウディアは鉄格子に近づいた。

「セラフィーナ」

「どうして、ここへ」

「箱を開けました」

 セラフィーナの唇が震えた。

「そう、ですか」

「遅くなって、ごめんなさい」

 その言葉を聞いた瞬間、セラフィーナは目を伏せた。

「謝らないでください」

「謝らせて」

「クラウディア様」

「友人から預かったものを、怖くて開けられなかった。私は王女なのに。あなたは一人で、ずっと」

「違います」

 セラフィーナは首を振った。

「あなたを巻き込みたくなかったのです。本当は、箱など預けるべきではありませんでした」

「それでも預けた」

「はい」

「なら、私は受け取るべきでした。もっと早く」

 クラウディアの声が震えた。

 涙はまだ落ちない。

 だが、堪えているのが分かった。

「マリナが死にました」

 セラフィーナの顔色が変わった。

「マリナ様が……?」

「あなたの名を汚すために殺されました。聖女信奉者の犯行に見せかけられて」

「そんな……」

 セラフィーナの手が、膝の上で強く握られる。

 枷が小さく鳴った。

「私のせいで」

「違う」

 レオンが言った。

 セラフィーナがこちらを見る。

「殺した者のせいだ」

「でも、私が」

「あなたが黙っても、人は死んでいる」

 レオンは鉄格子の前に立った。

「ライネルも、エルネストも、マリナも。ロイドも死にかけた。あなたが罪を被れば誰も傷つかないという前提は、もう崩れている」

 セラフィーナは、何も言わなかった。

 レオンは続ける。

「第二礼拝堂を見た」

 その言葉に、彼女の身体が硬直した。

「ユリウスと共に。旧聖堂の奥だ。魔王城最奥と同じ構造の礼拝堂があった。拘束台、七本の聖銀柱、沈黙の鐘。過去の適合実験で死んだ者たちの骨もあった」

 セラフィーナの瞳が揺れる。

「そこまで……」

「ああ」

「見てしまったのですね」

「見た」

「では、もう」

「戻れない」

 レオンは静かに言った。

「あなたがそう言った通りだ」

 セラフィーナは目を伏せた。

「だから、調べないでくださいと申し上げたのに」

「忠告は聞いた」

「聞いていません」

「聞いた上で無視した」

「それを聞いていないと言うのです」

 クラウディアが、ほんの少しだけ笑いそうになった。

 だが、すぐに表情を引き締めた。

 レオンは外套の内側から、聖銀の接続鍵を取り出した。

 沈黙の鐘から持ち帰ったものだ。

 セラフィーナの目が、それを見た瞬間に変わった。

「それは」

「鐘と聖銀柱を繋ぐ接続鍵の一つだ。あなたの処刑台と繋がっている」

 セラフィーナは息を止めた。

「処刑台……」

「ああ。あなたの処刑は、魔王因子を消すためではない。あなたの身体から因子を回収し、沈黙の鐘へ流すための儀式だ」

 牢の中の空気が、重く沈んだ。

 セラフィーナは、しばらく何も言わなかった。

 顔色が白い。

 もともと青白い肌が、今は紙のように見えた。

「そんな」

 ようやく漏れた声は、あまりに小さかった。

「そんなはずは……」

「あなたは、自分が死ねば因子ごと消えられると思っていたのか」

「……はい」

「誰にそう聞いた」

「誰にも」

「自分で判断した?」

「魔王因子は、器の死と共に崩壊する。そう、ゼルヴァ様の記憶に」

「魔王の場合は、器が限界だった。あなたは違う」

 レオンは一歩近づいた。

「エルネストが言っていた。あなたは、これまでで最も安定した器だと」

 セラフィーナの喉元の首輪が、淡く光った。

 その言葉自体が封じられていたのかもしれない。

 彼女は苦しげに息をした。

「私は……」

「あなたの死で終わらない。むしろ始まる」

「……」

「オズワルドは、あなたの自己犠牲を計画に組み込んでいる」

 セラフィーナは、鉄格子に手を伸ばした。

 聖銀が指先を焼く。

 じり、と嫌な音がした。

 クラウディアが息を呑む。

「触ってはいけません」

 レオンが言うと、セラフィーナは小さく首を振った。

「私が……私が間違えたのですか」

 その声は、壊れかけていた。

「私が黙ったから。私が裁かれることを受け入れたから。だから、皆が」

「違う」

「でも」

「あなた一人に背負えるほど、この罪は軽くない」

 セラフィーナは目を上げた。

 レオンは彼女を見据えた。

「王家の罪だ。聖教会の罪だ。勇者の沈黙、魔術師の偽証、審問庁の不作為、民衆の恐怖。その全部が積み重なっている。あなた一人が間違えたからではない」

「それでも、私は選びました」

「ああ」

「罪を被ることを」

「ああ」

「なら、私の責任です」

「責任があるなら、生きて責任を取れ」

 セラフィーナの目が見開かれた。

 クラウディアも息を止める。

 レオンの声は、静かだった。

「死んで終わらせるな」

     *

 沈黙が落ちた。

 地下牢の遠くで、看守の足音が響く。

 ゆっくりと近づき、やがて遠ざかる。

 セラフィーナは、鉄格子の前に立ったまま動かなかった。

 焼けた指先から、薄い煙が上がっている。

 それでも、彼女は手を離さない。

「レオン」

「何だ」

「あなたは、残酷です」

「よく言われる」

「きっと、あまり言われていません」

「最近増えた」

 セラフィーナは、少しだけ笑った。

 泣きそうな笑みだった。

「死ぬほうが、簡単でした」

「知っている」

「本当に?」

「生きるほうが面倒だ」

「面倒、ですか」

「責任も、罪も、後悔も、生きていなければ続かない」

「だから、死んではいけないと?」

「ああ」

「あなたは、本当に審問官なのですね」

「逃亡中だが」

「それでも」

 彼女は目を伏せた。

「あなたは、私を裁こうとしている」

「違う」

「違いません。私の自己犠牲を、あなたは許さない。私が逃げたかった場所まで追いかけてきて、そこに光を当てる」

「それは審問ではなく、嫌がらせに近いな」

「はい」

 クラウディアが、今度こそ少しだけ笑った。

 だが、セラフィーナはすぐに顔を引き締めた。

「レオン。私は、なぜ黙ったのかを話さなければなりませんね」

「話せるのか」

「封言の首輪は、直接的な告発を封じます。ですが、過去の記憶としてなら、少しは」

 首輪が淡く光る。

 彼女は喉に手を当てた。

「苦しいなら、やめてもいい」

「いいえ」

 セラフィーナは首を振った。

「もう、黙ってはいけないのですね」

 彼女はゆっくりと息を吸った。

 そして語り始めた。

     *

 セラフィーナ・エルシアが聖女として選ばれたのは、七歳の時だった。

 故郷の村で、流行病が起きた。

 小さな村だった。

 薬師も一人しかおらず、医師などいない。

 冬の終わり、子どもたちが次々に高熱を出し、大人も倒れた。教会の司祭は祈ったが、祈りは熱を下げなかった。

 その時、セラフィーナは母の手を握って祈った。

 ただ、死なないでほしかった。

 母に。

 隣の家の幼い弟に。

 いつもパンをくれた粉屋の老夫婦に。

 みんなに。

 すると光が降りた。

 病人の呼吸が穏やかになった。

 熱が下がった。

 村の人々は泣いて喜んだ。

 奇跡だ、と言った。

 聖女だ、と言った。

 セラフィーナは、嬉しかった。

 誰かが助かるのは嬉しい。

 自分の手で人が救えるのは、温かかった。

 けれど、それはすぐに怖さへ変わった。

 人々が、彼女を見る目が変わったからだ。

 セラフィーナちゃん。

 そう呼んでいた人々が、聖女様と呼ぶようになった。

 彼女が泣けば、村人は不吉だと怯えた。

 彼女が笑えば、神の祝福だと喜んだ。

 ただの子どもでいる時間は、少しずつ消えていった。

「私は、祈られることが怖かったのです」

 セラフィーナは言った。

「祈るのは好きでした。誰かを助けたいと思うことは、今でも嘘ではありません。でも、人々が私に祈るようになると、私は人ではなくなっていきました」

 クラウディアは、黙って聞いている。

 レオンも、口を挟まなかった。

「聖女になってから、私は多くの場所へ行きました。戦場、疫病の村、飢饉の土地。そこでたくさんの人を助けました。でも、助けるたびに、私は少しずつ遠くなりました」

「何から」

 レオンが問う。

「人間から」

 セラフィーナは微笑んだ。

「奇跡を起こす者は、失敗してはいけません。怒ってはいけません。憎んではいけません。迷ってはいけません。疲れたと言ってはいけません。人々は聖女に、いつも正しい祈りを望みます」

「あなたは、それに応え続けた」

「応えたかったのです」

「なぜ」

「そうしなければ、私の力には意味がないと思っていました」

 その答えは、あまりに彼女らしかった。

 レオンは少しだけ苛立った。

 そしてその苛立ちが、彼女にではなく、彼女にそれを当然と思わせた世界へ向いていることに気づいた。

「魔王討伐の旅も、最初は同じでした」

 セラフィーナは続けた。

「勇者様がいて、ライネル卿がいて、エルネスト様がいて、監察官様がいて、私は聖女として同行しました。人々は私たちに祈りました。魔王を倒してください。家族の仇を討ってください。世界を救ってください、と」

「重かったか」

「はい」

 セラフィーナは素直に頷いた。

「でも、勇者様も同じでした。彼は明るく振る舞っていましたが、夜には一人で剣を磨きながら、手が震えていることがありました」

 ユリウスの顔が脳裏に浮かぶ。

 勇者だから強いのではない。

 怖くても進むから勇者なのです。

 彼女は、そう言ったのだろう。

「ライネル卿は、旅の途中で何かに気づいていました。王都から届く指令文、聖教会の封印記録、魔王の出現地点。それらが不自然だと。彼は私に言いました。『聖女様、もし王都へ戻ったら、地下の記録を調べてください』と」

「あなたは?」

「信じました。でも、信じたくありませんでした」

 セラフィーナの声が揺れた。

「魔王は悪で、王国は人々を守るもの。聖教会は祈りの場所。そう思っていたかったのです」

 それは、クラウディアの密書にあった言葉と似ていた。

 王国を憎まないでください。

 憎むべきは、人の弱さです。

 信じていたものを疑うのは、痛い。

 だから人は、見ないふりをする。

 聖女でさえ。

「魔王城の最奥で、私は真実を見ました」

 セラフィーナの声が、さらに低くなった。

 牢の中なのに、空気が魔王城の奥へ沈んでいくようだった。

     *

 魔王ゼルヴァは、玉座に座っていなかった。

 彼は、吊られていた。

 黒い鎖に両腕を引かれ、胸に聖銀の杭を打たれ、背からは無数の魔石管が伸びていた。

 角はあった。

 翼もあった。

 けれどそれは生まれ持ったものではない。

 因子に肉体を変えられた跡だった。

 魔王の目は、赤く光っていなかった。

 むしろ、ひどく疲れた人間の目だった。

 誰かを憎む力すら、もう残っていない目。

『来たか』

 声が、セラフィーナの頭の中に響いた。

 魔王の声。

 けれど、その響きは怪物ではなく、人だった。

『聖女』

 セラフィーナは足が動かなかった。

 ユリウスが聖剣を構え、ライネルが周囲を警戒し、エルネストが測定器を震える手で握っていた。

 監察官は、何かを記録していた。

 その顔は、すでに青ざめていた。

『殺せ』

 魔王は言った。

『頼む。もう、終わらせてくれ』

 セラフィーナは、その言葉を聞いた瞬間、魔王に触れた。

 触れてしまった。

 聖女の祈りは、時に相手の痛みに触れる。

 病を癒す時、傷を閉じる時、彼女は相手の苦しみを少しだけ感じる。

 だが、あの時流れ込んできたものは、苦しみという言葉では足りなかった。

 記憶。

 焼けるような痛み。

 長い暗闇。

 名前を奪われる恐怖。

 王子だった頃の記憶。

 西方辺境の小国アストリア。

 青い旗。

 妹の笑い声。

 停戦交渉へ向かう馬車。

 襲撃。

 白い仮面。

 聖銀の拘束具。

 そして、器という言葉。

 ゼルヴァ・アストリア。

 それが、魔王になる前の名だった。

 彼は魔王ではなかった。

 魔王にされた。

 王国に。

 聖教会に。

 平和のためという言葉に。

『この力を、人の手に渡すな』

 ゼルヴァは言った。

『私はもう、戻れない。だが、次の器を作らせるな』

 セラフィーナは泣いていた。

 自分でも気づかないうちに。

 魔王を前にして。

 人類の敵と教えられてきた存在を前にして。

 彼女は、彼のために泣いた。

 彼は笑った。

 ひどく弱い笑みだった。

『聖女。お前は、人を憎まないのか』

『憎みたくありません』

『なら、苦しいぞ』

『はい』

『それでも、祈るのか』

『はい』

 ゼルヴァは、目を閉じた。

『なら、終わらせてくれ』

     *

 セラフィーナは、そこで言葉を止めた。

 首輪が黒く光っていた。

 苦痛が喉を締めている。

 クラウディアが鉄格子に手を伸ばしかけ、すぐに止めた。

 触れられない。

 それがまた痛ましい。

「もういい」

 レオンは言った。

「十分だ」

「いいえ」

 セラフィーナは首を振った。

「ここからが、私の罪です」

「あなたの罪?」

「はい」

 彼女は目を伏せた。

「私は、魔王因子を引き受けました」

 黒い首輪が強く光る。

 それでも彼女は続けた。

「ゼルヴァ様の身体は、もう限界でした。でも因子だけは生きていました。あのまま装置ごと崩壊すれば、因子はどこへ流れるか分からない。王都へ繋がる導線も、一部見えました。誰かが、これを持ち帰ろうとしているのだと分かりました」

「だから、自分が器に?」

「一時的に、です」

「一時的?」

「はい。私は、王都へ戻った後、七つの封印柱を断ち、因子を消滅させる方法を探すつもりでした」

「だが戻ったら拘束された」

「はい」

「そして罪人にされた」

「はい」

「なぜ抵抗しなかった」

 セラフィーナは長く沈黙した。

 ここからが、本題だ。

 彼女が罪を認めた本当の理由。

「最初は、抵抗するつもりでした」

 彼女は言った。

「魔王は作られた存在であり、王国が因子を兵器として利用しようとしている。そう告発するつもりでした。クラウディア様に密書を預けたのも、そのためです」

「なら、なぜ」

「王都を人質に取られました」

 クラウディアの顔が強張る。

 レオンは黙って続きを待った。

「聖務卿オズワルド様は、私に言いました。王都にはすでに予備封印が張り巡らされている。私が真実を語れば、民衆は混乱する。混乱すれば信仰が乱れる。信仰が乱れれば封印も乱れる。そして魔王因子は暴走する、と」

「それは脅しだ」

「はい。けれど、完全な嘘ではありませんでした」

 セラフィーナは苦しそうに言った。

「私は、王都地下に因子の導線があることを知っていました。七つの封印柱の存在も、断片的には知っていました。もし本当に暴走すれば、王都の民が」

「だから、黙った」

「はい」

「聖女が裏切り者だったという物語を、受け入れた」

「はい」

「民が王国の罪に耐えられないと思ったから?」

「……はい」

 レオンは目を閉じた。

 分かっていた。

 だが、本人の口から聞くと重い。

 セラフィーナは、真実より嘘を選んだ。

 民を守るために。

 王都を守るために。

 そして、自分を捨てるために。

「聖女が裏切り者だった」

 セラフィーナは静かに言った。

「それは残酷な物語です。でも、分かりやすい悪です。人々は悲しみ、怒り、私を憎むでしょう。それでも明日は来ます。王国を信じ、教会で祈り、子どもにパンを焼き、畑へ行くことができます」

「王国が魔王を作ったという真実では、明日が来ないと?」

「少なくとも、多くの人の心は壊れます」

「壊れた心を、嘘で支えるのか」

「はい」

「その嘘は、次の器を作る」

 セラフィーナは目を閉じた。

 痛みに耐えるように。

「分かっています」

「分かっていなかった」

「……はい」

「あなたが死ねば終わると思っていた」

「はい」

「だが終わらない。敵は、あなたの死を使う」

「はい」

「なら、あなたの沈黙はもう誰も救わない」

 セラフィーナの肩が、小さく震えた。

 それは、泣く前の震えではない。

 自分が信じていた支柱が折れる震えだった。

 クラウディアが、静かに言った。

「セラフィーナ」

 セラフィーナが顔を上げる。

「あなたは、私たちを守ろうとしてくれたのですね」

「……」

「でも、私たちは守られるだけの人形ではありません」

 クラウディアの声は、柔らかかった。

 だが、王女としての芯があった。

「私も怖いです。王家の罪を知ることも、民の前に立つことも、父や叔父と向き合うことも怖い。でも、それでも私は知りました。箱を開けました。だから、あなた一人が私たちの代わりに死ぬ必要はありません」

「クラウディア様」

「友人なら、分けてください」

 セラフィーナの瞳が揺れた。

「罪も、責任も、恐怖も。全部一人で持っていかないで」

 それは、王女ではなく友人の言葉だった。

 セラフィーナは、もう何も言えなかった。

     *

 長い沈黙の後、レオンは言った。

「魔王因子を完全に消す方法を教えてほしい」

 セラフィーナは、まだ目を伏せたまま答えた。

「危険です」

「今さらだ」

「成功する保証はありません」

「成功しない方法を選ぶよりはいい」

「失敗すれば、王都全体が」

「分かっている」

「私が死ぬだけでは済まないかもしれません」

「だから、あなた一人で決めるな」

 セラフィーナは、ゆっくりと顔を上げた。

 レオンは真っ直ぐに彼女を見る。

「方法を」

 彼女は深く息を吸った。

 そして、これまでよりもはっきりした声で言った。

「七つの封印柱を、同時に破壊する必要があります」

「同時?」

「はい。一つずつ壊せば、残りの柱が因子を補完します。最悪の場合、鐘が自動で鳴ります」

「場所は?」

「六つは、王都の要所です。中央大聖堂地下、王城地下、旧聖堂、北門、東水門、西防壁」

「六つ?」

「最後の一本は、隠されています」

「処刑台か」

 セラフィーナが息を呑んだ。

「もう、そこまで」

「第二礼拝堂で導線を確認した。処刑台そのものが七本目の封印柱だ」

「なら、処刑を止めるだけでは」

「足りない。処刑台を破壊する必要がある」

「はい」

 クラウディアが静かに言った。

「七つの封印柱を同時に破壊し、鐘を鳴らさないようにするのですね」

「いいえ」

 セラフィーナは首を振った。

「鐘は、鳴らします」

 レオンとクラウディアが同時に彼女を見る。

「先ほど、鳴らしてはいけないと言ったはずだ」

「あれは、通常の鳴らし方です。因子を王都へ流すための鳴動。それは絶対に止めなければなりません」

「では?」

「逆に鳴らします」

「逆?」

「沈黙の鐘は、本来、封印を広げるためのものではありません。初代聖王の時代には、災厄を一点へ戻し、消滅させるための器でした。けれど王国はそれを改造し、因子を広げる装置に変えた」

「逆鳴らしをすれば、因子を回収ではなく消滅へ向けられる?」

「はい」

「条件は」

 セラフィーナは、喉元を押さえた。

 首輪が光る。

 言葉を封じようとしている。

 だが、彼女はそれでも続けた。

「聖女の祈り」

 首輪が黒く光る。

「勇者の聖剣」

 声がかすれる。

「王族の血」

 クラウディアが、静かに拳を握った。

「そして」

 セラフィーナはレオンを見た。

「審問官の真実宣告」

 レオンは眉をひそめた。

「真実宣告」

「神前裁判で、虚偽を断つための術式です。あなたなら使えるはずです」

「通常は被告人の嘘を暴く術だ」

「今回は、裁判そのものに向けます」

「国家の嘘へ?」

「はい」

 セラフィーナの顔色が悪くなる。

 それでも、彼女の目にはもう逃避だけではないものがあった。

「王国が作った嘘。聖教会が守った嘘。私が受け入れた嘘。それらを、真実宣告で断つ必要があります。そうしなければ、鐘は逆には鳴りません」

「なぜ審問官が必要なんだ」

「この儀式は、裁きとして作られたからです」

「処刑も裁判も、装置の一部か」

「はい」

「悪趣味だな」

「はい」

 セラフィーナが少しだけ笑った。

「本当に」

 その笑みは、前よりも人間らしかった。

 弱く、疲れていて、それでも少しだけ生きている笑みだった。

「ただし、真実宣告には代償があります」

 彼女は言った。

「宣告者自身が嘘をついていれば、術式は失敗します。自分の心に嘘があっても、命を削られます」

「分かっている」

「本当に?」

「たぶん」

「たぶんでは困ります」

「では、これから分かる」

 クラウディアが小さく息を吐いた。

「あなたたちは、どうして二人とも危ないことを淡々と言うのですか」

「職業病です」

「聖女病でしょうか」

 セラフィーナが、ほんの少し困った顔をした。

「その病名は嫌です」

「では、治してください」

 クラウディアは優しく言った。

「生きて」

 セラフィーナは黙った。

 その言葉が、いちばん難しいのだ。

 レオンは鉄格子越しに彼女を見る。

「セラフィーナ」

「はい」

「あなたは、どうしたい」

 彼女はすぐには答えなかった。

 これまで何度も、彼女は「必要なこと」を語った。

 王都のため。

 民のため。

 王国のため。

 真実に耐えられない人々のため。

 だが、レオンが聞いているのはそれではない。

 彼女自身の望みだ。

「私は」

 セラフィーナの声は小さかった。

「王都を救いたいです」

「それは分かった」

「民を守りたい」

「それも分かった」

「クラウディア様を、勇者様を、エリス様を、あなたを、これ以上巻き込みたくない」

「もう巻き込まれている」

「……はい」

「その上で、あなたはどうしたい」

 セラフィーナの唇が震えた。

 言葉が出てこない。

 聖女としてではなく。

 死刑囚としてでもなく。

 一人のセラフィーナとしての言葉。

 それを探すことに、彼女は慣れていない。

「私は」

 彼女は目を伏せた。

「死ぬのが、怖いです」

 その一言は、牢の中に落ちた。

 とても小さく。

 けれど、とても重く。

 クラウディアが息を詰めた。

 レオンは、何も言わなかった。

 セラフィーナは続けた。

「怖くないと思っていました。必要なら死ねると思っていました。でも本当は、怖かった。処刑台の夢を見ます。首輪の冷たさを感じます。朝が来るたび、あと何日だと数えてしまいます」

 声が震える。

「私は聖女なのに」

「違う」

 レオンは遮った。

「あなたは人間だ」

 セラフィーナの瞳が濡れた。

 彼女は泣かない。

 泣きそうになっても、耐える。

 そういう癖がある。

 だが今、その癖がほどけかけている。

「人間なら、怖がっていい」

 レオンは言った。

「死にたくないと思っていい。助けてほしいと思っていい」

「でも」

「でも、はいらない」

 セラフィーナは唇を噛んだ。

 そして、ようやく言った。

「……王都を、助けてください」

「それは聞いた」

「レオン」

「何だ」

「私は、まだ……自分を助けてくださいとは、言えません」

 正直な言葉だった。

 彼女はまだ、自分の命を王都と同じ秤に乗せられない。

 それほど深く、聖女として育てられている。

 それほど長く、自分を後回しにしてきた。

「だから」

 セラフィーナは、泣きそうな顔で微笑んだ。

「王都を助けてください」

 レオンは頷いた。

「王都も助ける」

 そして、はっきりと言った。

「あなたも助ける」

 セラフィーナの表情が、止まった。

 クラウディアが、目を伏せた。

 沈黙。

 今度の沈黙は、恐怖の沈黙ではなかった。

 長く閉ざされた扉の前で、誰かが初めて鍵を差し込んだ時の沈黙だった。

「私は」

 セラフィーナは小さく言った。

「助かっても、いいのでしょうか」

「審問官として答えるなら」

 レオンは言った。

「その問いに、許可は不要だ」

「では、あなた個人としては?」

「助かってほしい」

 言った瞬間、自分の中で何かが決まった。

 恩があるからではない。

 正しいからだけでもない。

 彼女が死刑囚として死ぬことが許せないから。

 聖女として消費されることが許せないから。

 セラフィーナという一人の人間に、生きてほしいから。

 その感情を、もう私情として切り捨てることはできなかった。

 たぶん、それが真実宣告に必要なのだ。

 自分の中の嘘を、消すこと。

 セラフィーナは、今にも泣きそうだった。

 けれど最後まで涙は落ちなかった。

 代わりに、彼女は小さく頷いた。

「分かりました」

「何が」

「私は、王都を救うために協力します」

「あなた自身のためには?」

「……練習します」

 クラウディアが小さく笑った。

 レオンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「なら、まず練習だ」

「はい」

「言ってみろ」

「何をですか」

「私は生きたい、と」

 セラフィーナは目を見開いた。

「ここで?」

「ここで」

「今?」

「今」

「レオンは、本当に残酷です」

「さっき聞いた」

 彼女は困ったように視線を揺らした。

 クラウディアは優しく見守っている。

 やがて、セラフィーナは小さく息を吸った。

「私は」

 声が震える。

 首輪は光らない。

 誰も、その言葉を禁じてはいない。

 禁じていたのは、彼女自身だけだった。

「私は、生きたいです」

 その瞬間。

 牢の中の空気が、変わった。

 奇跡が起きたわけではない。

 枷が外れたわけでも、首輪が砕けたわけでもない。

 処刑判決も消えていない。

 敵もまだいる。

 王都の危機も終わっていない。

 それでも、その一言は確かに何かを変えた。

 聖女セラフィーナは、初めて自分の命を祈った。

     *

 遠くで、看守の足音が近づいてきた。

 クラウディアが顔を上げる。

「時間です」

 レオンは頷いた。

「次に会うのは処刑台かもしれない」

 セラフィーナは静かに言った。

「はい」

「怖いか」

「怖いです」

「よし」

「よし、なのですか」

「嘘ではない」

 セラフィーナは、少しだけ笑った。

「あなたは、本当に変な方です」

「よく言われる」

「それは、たぶん本当に言われていますね」

「最近な」

 クラウディアが壁の通路へ戻る準備をする。

 レオンも踵を返しかけた。

 その時、セラフィーナが呼び止めた。

「レオン」

「何だ」

「もし、私がまた自分一人で背負おうとしたら」

「ああ」

「止めてください」

 レオンは振り返った。

 セラフィーナは鉄格子の向こうで、まっすぐ立っていた。

 まだ囚人服のまま。

 枷も首輪もある。

 けれど、その目は少しだけ変わっていた。

 死を受け入れる目ではない。

 怖がりながら、それでも前を見る目。

「分かった」

 レオンは答えた。

「何度でも止める」

「お願いします」

「その代わり」

「はい」

「あなたも、私が一人で全部裁こうとしたら止めろ」

 セラフィーナは少し驚いた顔をした。

 それから、柔らかく頷いた。

「はい」

 足音が近い。

 もう行かなければならない。

 レオンとクラウディアは、壁の細道へ戻った。

 扉が閉じる直前、セラフィーナの声が聞こえた。

「レオン」

「まだ何か?」

「ありがとう」

 その言葉は、祈りではなかった。

 聖女の慈悲でもなかった。

 ただの感謝だった。

 レオンは、短く答えた。

「ああ」

 壁が閉じた。

 牢は再び隔てられた。

     *

 旧祈祷室へ戻ると、クラウディアはしばらく動かなかった。

 彼女は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。

「泣くなら、今のうちです」

 レオンが言うと、彼女は顔を上げずに答えた。

「本当に、あなたは時々ひどいですね」

「否定しません」

「泣きません」

「そうですか」

「後で泣きます。今は、やることがあります」

 彼女は顔を上げた。

 目は赤い。

 だが涙はない。

「七つの封印柱を同時に破壊する。聖女の祈り、勇者の聖剣、王族の血、審問官の真実宣告。これを処刑当日に揃える必要があるのですね」

「はい」

「無謀です」

「はい」

「成功率は?」

「低い」

「正直ですね」

「嘘をつくと真実宣告に支障が出そうなので」

 クラウディアは、わずかに笑った。

「では、私も正直に言います。怖いです」

「はい」

「でも、やります」

「頼りにしています」

「王女として?」

「証人として」

 クラウディアは頷いた。

「なら、証人として動きます」

 その時、旧祈祷室の外で物音がした。

 二人は同時に動きを止めた。

 足音。

 一人ではない。

 看守ではない。

 もっと静かで、統制された歩き方。

 白い仮面たちか。

 クラウディアが囁く。

「見つかった?」

「まだです」

 レオンは短剣に手をかけた。

 だが扉の向こうから聞こえた声は、意外なものだった。

「レオン。いるんだろう」

 ユリウスの声。

 レオンは扉を少し開けた。

 そこにいたのは、ユリウスだけではなかった。

 彼の後ろに、年若い女性が立っている。

 くすんだ金髪。

 青白い顔。

 ライネルの妹、エリス・フォード。

 彼女は胸元に、小さな布包みを抱いていた。

「どうしてここへ」

 レオンが問うと、ユリウスは疲れた顔で言った。

「彼女が思い出した」

「何を」

 エリスが、震える手で布包みを差し出した。

「兄の手紙の続きです」

 レオンは受け取った。

 布の中には、焦げた紙片と、小さな魔石が入っていた。

「これは」

「兄が任務で使っていた記録魔石です。手紙の封蝋の中に隠されていました。火事の後、残った封蝋を触った時、硬いものがあると気づいて」

 ユリウスが続ける。

「まだ起動していない。だが、ライネルが何かを記録した可能性がある」

 レオンは魔石を見つめた。

 死んだ騎士の記録。

 最後の証人。

 だが、それは第13話で使うはずの決定的証拠。

 ここでは、まだ中身を全て明かすべきではない。

 しかし、存在だけで十分だった。

「これで、証人は揃いつつある」

 クラウディアが言った。

「勇者、王女、騎士の妹、聖女、審問官」

「あと必要なのは」

 ユリウスが言う。

「時間と、作戦だな」

 レオンは魔石を外套へしまった。

「処刑まで二日」

 遠くで、地下監獄の鐘が鳴った。

 夜明け前を告げる鐘ではない。

 看守の交代を告げる鐘だ。

 だがレオンには、それが処刑台へ向かう秒読みのように聞こえた。

「作戦を立てる」

 彼は言った。

「公開処刑を、公開裁判に変える」

 誰も反対しなかった。

 無謀だ。

 危険だ。

 おそらく、死人が出る。

 それでも、全員の目に同じものが宿っていた。

 沈黙をやめる覚悟。

 セラフィーナは、牢の中で初めて「生きたい」と言った。

 ならば外にいる者たちは、それを現実にするために動かなければならない。

 処刑まで、あと二日。

 聖女の沈黙は終わった。

 次に終わらせるべきは、王国の嘘だった。


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