第9章 聖女の沈黙――彼女が罪を認めた本当の理由
王都には、二種類の沈黙がある。
一つは、夜明け前の沈黙だ。
市場の屋台がまだ開かず、馬車の車輪も石畳を叩かず、教会の鐘すら眠っている時間。人々がまだ夢の中にいて、王都そのものが息を潜めているような静けさ。
もう一つは、恐怖の沈黙だ。
見てはいけないものを見た時。
聞いてはいけない名を聞いた時。
正しいと思っていた世界の足元に、暗い穴が開いていると気づいた時。
人は、声を失う。
レオン・アルバートは、後者の沈黙の中を歩いていた。
王都地下第二礼拝堂から生還して、半日。
彼の外套の内側には、沈黙の鐘の接続鍵、白い仮面の金属札、第二礼拝堂の記録札、そして王家の密書と魔力記録板がある。
証拠は増えた。
だが、時間は減った。
処刑まで、あと二日。
聖女セラフィーナ・エルシアの死は、ただの処刑ではない。
彼女の身体に宿る魔王因子を、王都地下装置へ回収し、王都全体を巨大な聖遺物兵器に変えるための儀式だ。
そして、彼女はそれを知らない。
少なくとも、自分の死がそこまで利用されるとは知らない。
自分が罪を被れば終わる。
自分が死ねば王都を守れる。
そう信じている。
だから、会わなければならなかった。
彼女に伝えるために。
あなたの死は、救いではない。
敵の計画の一部になっている、と。
*
地下牢へ入る道は、通常なら三つしかない。
正面の監獄塔。
王城西側の看守用搬入口。
そして、異端審問庁から繋がる審問官専用通路。
その全てが、今は封鎖されている。
レオンは逃亡犯だ。
見つかれば即座に拘束される。
場合によっては、その場で斬られる。
だが、王宮にはもう一つ、正式な地図に載らない道があった。
王女クラウディアが教えてくれた道だ。
王宮礼拝堂の告解室。
その床下。
古い王族用の避難路。
今は使われていない。
いや、使われていないことになっている。
礼拝堂の裏手にある小さな扉を、クラウディア王女が開けた。
彼女は喪服のような黒い外套を着ていた。
侍女長マリナを失ってから、まだ一日も経っていない。
それでも彼女の目は泣き腫らしていなかった。
泣く時間を、後回しにした者の顔だった。
「この先は、地下監獄の旧祈祷室へ繋がっています」
クラウディアは低く言った。
「今は物置として扱われていますが、壁一枚隔てれば、セラフィーナの牢がある区画へ出られます」
「監視は」
「正規の通路ほどではありません。ですが、完全にないわけではありません」
「十分です」
「十分ではありません」
クラウディアの声は硬かった。
「レオン。あなたは今、王都で最も見つかってはいけない人間です」
「それは光栄ですね」
「冗談を言っている場合ですか」
「言っていないと、少し考えすぎるので」
クラウディアは、わずかに目を伏せた。
「セラフィーナも、そういうところがありました」
「彼女が?」
「ええ。いちばん苦しい時に、いちばん穏やかに笑うのです。周囲を不安にさせないために」
レオンは黙った。
その笑みを知っている。
牢の中で見た。
裁判記録の中でも見た。
あれは、強さではない。
強さとして扱われてしまった、悲鳴だ。
「王女殿下」
「何でしょう」
「今回は、あなたも危険です」
「分かっています」
「もし見つかれば、密書の件も露見する」
「ええ」
「王女としての立場を失うかもしれない」
「もう、半分失っています」
クラウディアは微笑んだ。
美しい笑みではなかった。
だが、王女として作った笑みよりも、ずっと人間らしかった。
「マリナが死にました。セラフィーナの名を汚すために。私を黙らせるために。なら、私はもう黙りません」
「……強いですね」
「怖いだけです」
「怖い?」
「ええ。怖いから、動いています。動かなければ、怖さに潰される」
レオンは頷いた。
勇者ユリウスも、怖がっていた。
セラフィーナも、たぶん怖がっている。
自分も怖い。
それでいいのだろう。
恐怖は、人間である証拠だ。
レオンは床下へ続く階段を見た。
暗い。
狭い。
湿った空気が上がってくる。
「では、行きます」
「私も途中まで」
「危険です」
「案内なしでは迷います」
「地図は覚えました」
「地図に載っていない扉があります」
「なら、お願いします」
クラウディアは小さく頷いた。
二人は、王宮礼拝堂の床下へ降りた。
*
旧避難路は、王族のために作られた道だった。
壁には古い王家紋章。
床には柔らかい赤石。
天井は低いが、粗末ではない。
逃げる時でさえ王族が泥に足を取られないよう、丁寧に整えられていた。
レオンは、少しだけ嫌な気分になった。
同じ地下でも、第二礼拝堂とは違う。
あちらには、名前を奪われた実験体の骨が積まれていた。
こちらには、王族が安全に逃げるための赤石の道がある。
国というものは、こういう差でできている。
誰かの逃げ道と、誰かの墓穴。
それらが同じ地下にある。
「ここを通るたび、思うのです」
クラウディアが前を歩きながら言った。
「王族は、逃げる道だけは用意されているのだと」
「逃げなければならない時もあるでしょう」
「ええ。でも、民にはない道です」
彼女の声には、自嘲があった。
「私は今まで、守られる側でした。守られていることを当然だと思っていたわけではありません。でも、守られることに慣れていました」
「今は違うと?」
「守られることに慣れたままでは、証人にはなれません」
レオンは、少しだけ彼女を見直した。
王女は強くなったのではない。
怖さを抱えたまま、役割を選び直したのだ。
それは、強さよりも信頼できる。
しばらく進むと、道は二手に分かれた。
クラウディアは右を示す。
「左は王城外壁へ。右が地下監獄です」
「王族用の避難路が監獄へ?」
「昔は、王族が地下礼拝堂へ密かに祈りに行くための道だったそうです。監獄になったのは後の時代です」
「祈る場所が監獄になる。王国らしいですね」
「否定しません」
右の通路へ入ると、空気が一気に冷たくなった。
壁の石が変わる。
王宮の赤石から、監獄の黒石へ。
同じ地下道なのに、境目がはっきりしている。
まるで、人間をこちら側とあちら側に分ける線のようだった。
クラウディアは足を止めた。
「この先の扉を開けると、旧祈祷室です」
「殿下はここまでで」
「いいえ」
「ここから先は危険です」
「だからこそ、ここまでで引き返すなら、私は一生後悔します」
「セラフィーナに会うのですか」
クラウディアは一瞬、言葉を失った。
会いたい。
だが怖い。
その表情だった。
「……会う資格があるでしょうか」
「資格で会うものではありません」
「では、何で」
「会いたいなら、会えばいい」
クラウディアは、驚いたようにレオンを見た。
「あなたは時々、審問官らしくないことを言いますね」
「逃亡中なので」
「便利な身分ですね」
「おすすめはしません」
クラウディアは小さく笑った。
そして、扉に手をかけた。
「会います」
古い扉が、静かに開いた。
*
旧祈祷室には、埃が積もっていた。
壊れた燭台。
古い聖句。
空の祭壇。
だが使われていない部屋特有の静けさの奥に、監獄の匂いが混じっている。
石。
鉄。
聖銀。
そして、長く閉じ込められた人間の気配。
レオンは壁に耳を当てた。
遠くで看守の足音。
二人。
間隔は長い。
旧祈祷室は監視の外側にある。
今なら動ける。
クラウディアが小さな鍵を取り出した。
「この壁の奥に、礼拝用の覗き窓があります。昔は王族が囚人の懺悔を聞くために使われたそうです」
「悪趣味ですね」
「ええ」
壁の一部が動いた。
細い通路。
大人一人がようやく通れる幅だ。
そこを抜けると、鉄格子の裏側へ出た。
セラフィーナの牢。
彼女は、寝台ではなく床に座っていた。
白い囚人服。
短く切られた銀髪。
聖銀の枷。
黒い封言の首輪。
両手を膝の上に重ね、目を閉じている。
祈っていた。
だが、レオンにはもう分かる。
祈りは、穏やかなものだけではない。
祈りは時に、痛みを逃がすための呼吸だ。
「セラフィーナ」
クラウディアが名を呼んだ。
セラフィーナの瞼が震えた。
ゆっくりと目を開ける。
青い瞳が、まずレオンを映し、次にクラウディアを映した。
その瞬間。
彼女の表情が崩れた。
「クラウディア様……」
それは、これまでレオンが聞いたどの声とも違っていた。
死刑囚の声でも、聖女の声でもない。
友人の名を呼ぶ、ひどく弱い声。
クラウディアは鉄格子に近づいた。
「セラフィーナ」
「どうして、ここへ」
「箱を開けました」
セラフィーナの唇が震えた。
「そう、ですか」
「遅くなって、ごめんなさい」
その言葉を聞いた瞬間、セラフィーナは目を伏せた。
「謝らないでください」
「謝らせて」
「クラウディア様」
「友人から預かったものを、怖くて開けられなかった。私は王女なのに。あなたは一人で、ずっと」
「違います」
セラフィーナは首を振った。
「あなたを巻き込みたくなかったのです。本当は、箱など預けるべきではありませんでした」
「それでも預けた」
「はい」
「なら、私は受け取るべきでした。もっと早く」
クラウディアの声が震えた。
涙はまだ落ちない。
だが、堪えているのが分かった。
「マリナが死にました」
セラフィーナの顔色が変わった。
「マリナ様が……?」
「あなたの名を汚すために殺されました。聖女信奉者の犯行に見せかけられて」
「そんな……」
セラフィーナの手が、膝の上で強く握られる。
枷が小さく鳴った。
「私のせいで」
「違う」
レオンが言った。
セラフィーナがこちらを見る。
「殺した者のせいだ」
「でも、私が」
「あなたが黙っても、人は死んでいる」
レオンは鉄格子の前に立った。
「ライネルも、エルネストも、マリナも。ロイドも死にかけた。あなたが罪を被れば誰も傷つかないという前提は、もう崩れている」
セラフィーナは、何も言わなかった。
レオンは続ける。
「第二礼拝堂を見た」
その言葉に、彼女の身体が硬直した。
「ユリウスと共に。旧聖堂の奥だ。魔王城最奥と同じ構造の礼拝堂があった。拘束台、七本の聖銀柱、沈黙の鐘。過去の適合実験で死んだ者たちの骨もあった」
セラフィーナの瞳が揺れる。
「そこまで……」
「ああ」
「見てしまったのですね」
「見た」
「では、もう」
「戻れない」
レオンは静かに言った。
「あなたがそう言った通りだ」
セラフィーナは目を伏せた。
「だから、調べないでくださいと申し上げたのに」
「忠告は聞いた」
「聞いていません」
「聞いた上で無視した」
「それを聞いていないと言うのです」
クラウディアが、ほんの少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに表情を引き締めた。
レオンは外套の内側から、聖銀の接続鍵を取り出した。
沈黙の鐘から持ち帰ったものだ。
セラフィーナの目が、それを見た瞬間に変わった。
「それは」
「鐘と聖銀柱を繋ぐ接続鍵の一つだ。あなたの処刑台と繋がっている」
セラフィーナは息を止めた。
「処刑台……」
「ああ。あなたの処刑は、魔王因子を消すためではない。あなたの身体から因子を回収し、沈黙の鐘へ流すための儀式だ」
牢の中の空気が、重く沈んだ。
セラフィーナは、しばらく何も言わなかった。
顔色が白い。
もともと青白い肌が、今は紙のように見えた。
「そんな」
ようやく漏れた声は、あまりに小さかった。
「そんなはずは……」
「あなたは、自分が死ねば因子ごと消えられると思っていたのか」
「……はい」
「誰にそう聞いた」
「誰にも」
「自分で判断した?」
「魔王因子は、器の死と共に崩壊する。そう、ゼルヴァ様の記憶に」
「魔王の場合は、器が限界だった。あなたは違う」
レオンは一歩近づいた。
「エルネストが言っていた。あなたは、これまでで最も安定した器だと」
セラフィーナの喉元の首輪が、淡く光った。
その言葉自体が封じられていたのかもしれない。
彼女は苦しげに息をした。
「私は……」
「あなたの死で終わらない。むしろ始まる」
「……」
「オズワルドは、あなたの自己犠牲を計画に組み込んでいる」
セラフィーナは、鉄格子に手を伸ばした。
聖銀が指先を焼く。
じり、と嫌な音がした。
クラウディアが息を呑む。
「触ってはいけません」
レオンが言うと、セラフィーナは小さく首を振った。
「私が……私が間違えたのですか」
その声は、壊れかけていた。
「私が黙ったから。私が裁かれることを受け入れたから。だから、皆が」
「違う」
「でも」
「あなた一人に背負えるほど、この罪は軽くない」
セラフィーナは目を上げた。
レオンは彼女を見据えた。
「王家の罪だ。聖教会の罪だ。勇者の沈黙、魔術師の偽証、審問庁の不作為、民衆の恐怖。その全部が積み重なっている。あなた一人が間違えたからではない」
「それでも、私は選びました」
「ああ」
「罪を被ることを」
「ああ」
「なら、私の責任です」
「責任があるなら、生きて責任を取れ」
セラフィーナの目が見開かれた。
クラウディアも息を止める。
レオンの声は、静かだった。
「死んで終わらせるな」
*
沈黙が落ちた。
地下牢の遠くで、看守の足音が響く。
ゆっくりと近づき、やがて遠ざかる。
セラフィーナは、鉄格子の前に立ったまま動かなかった。
焼けた指先から、薄い煙が上がっている。
それでも、彼女は手を離さない。
「レオン」
「何だ」
「あなたは、残酷です」
「よく言われる」
「きっと、あまり言われていません」
「最近増えた」
セラフィーナは、少しだけ笑った。
泣きそうな笑みだった。
「死ぬほうが、簡単でした」
「知っている」
「本当に?」
「生きるほうが面倒だ」
「面倒、ですか」
「責任も、罪も、後悔も、生きていなければ続かない」
「だから、死んではいけないと?」
「ああ」
「あなたは、本当に審問官なのですね」
「逃亡中だが」
「それでも」
彼女は目を伏せた。
「あなたは、私を裁こうとしている」
「違う」
「違いません。私の自己犠牲を、あなたは許さない。私が逃げたかった場所まで追いかけてきて、そこに光を当てる」
「それは審問ではなく、嫌がらせに近いな」
「はい」
クラウディアが、今度こそ少しだけ笑った。
だが、セラフィーナはすぐに顔を引き締めた。
「レオン。私は、なぜ黙ったのかを話さなければなりませんね」
「話せるのか」
「封言の首輪は、直接的な告発を封じます。ですが、過去の記憶としてなら、少しは」
首輪が淡く光る。
彼女は喉に手を当てた。
「苦しいなら、やめてもいい」
「いいえ」
セラフィーナは首を振った。
「もう、黙ってはいけないのですね」
彼女はゆっくりと息を吸った。
そして語り始めた。
*
セラフィーナ・エルシアが聖女として選ばれたのは、七歳の時だった。
故郷の村で、流行病が起きた。
小さな村だった。
薬師も一人しかおらず、医師などいない。
冬の終わり、子どもたちが次々に高熱を出し、大人も倒れた。教会の司祭は祈ったが、祈りは熱を下げなかった。
その時、セラフィーナは母の手を握って祈った。
ただ、死なないでほしかった。
母に。
隣の家の幼い弟に。
いつもパンをくれた粉屋の老夫婦に。
みんなに。
すると光が降りた。
病人の呼吸が穏やかになった。
熱が下がった。
村の人々は泣いて喜んだ。
奇跡だ、と言った。
聖女だ、と言った。
セラフィーナは、嬉しかった。
誰かが助かるのは嬉しい。
自分の手で人が救えるのは、温かかった。
けれど、それはすぐに怖さへ変わった。
人々が、彼女を見る目が変わったからだ。
セラフィーナちゃん。
そう呼んでいた人々が、聖女様と呼ぶようになった。
彼女が泣けば、村人は不吉だと怯えた。
彼女が笑えば、神の祝福だと喜んだ。
ただの子どもでいる時間は、少しずつ消えていった。
「私は、祈られることが怖かったのです」
セラフィーナは言った。
「祈るのは好きでした。誰かを助けたいと思うことは、今でも嘘ではありません。でも、人々が私に祈るようになると、私は人ではなくなっていきました」
クラウディアは、黙って聞いている。
レオンも、口を挟まなかった。
「聖女になってから、私は多くの場所へ行きました。戦場、疫病の村、飢饉の土地。そこでたくさんの人を助けました。でも、助けるたびに、私は少しずつ遠くなりました」
「何から」
レオンが問う。
「人間から」
セラフィーナは微笑んだ。
「奇跡を起こす者は、失敗してはいけません。怒ってはいけません。憎んではいけません。迷ってはいけません。疲れたと言ってはいけません。人々は聖女に、いつも正しい祈りを望みます」
「あなたは、それに応え続けた」
「応えたかったのです」
「なぜ」
「そうしなければ、私の力には意味がないと思っていました」
その答えは、あまりに彼女らしかった。
レオンは少しだけ苛立った。
そしてその苛立ちが、彼女にではなく、彼女にそれを当然と思わせた世界へ向いていることに気づいた。
「魔王討伐の旅も、最初は同じでした」
セラフィーナは続けた。
「勇者様がいて、ライネル卿がいて、エルネスト様がいて、監察官様がいて、私は聖女として同行しました。人々は私たちに祈りました。魔王を倒してください。家族の仇を討ってください。世界を救ってください、と」
「重かったか」
「はい」
セラフィーナは素直に頷いた。
「でも、勇者様も同じでした。彼は明るく振る舞っていましたが、夜には一人で剣を磨きながら、手が震えていることがありました」
ユリウスの顔が脳裏に浮かぶ。
勇者だから強いのではない。
怖くても進むから勇者なのです。
彼女は、そう言ったのだろう。
「ライネル卿は、旅の途中で何かに気づいていました。王都から届く指令文、聖教会の封印記録、魔王の出現地点。それらが不自然だと。彼は私に言いました。『聖女様、もし王都へ戻ったら、地下の記録を調べてください』と」
「あなたは?」
「信じました。でも、信じたくありませんでした」
セラフィーナの声が揺れた。
「魔王は悪で、王国は人々を守るもの。聖教会は祈りの場所。そう思っていたかったのです」
それは、クラウディアの密書にあった言葉と似ていた。
王国を憎まないでください。
憎むべきは、人の弱さです。
信じていたものを疑うのは、痛い。
だから人は、見ないふりをする。
聖女でさえ。
「魔王城の最奥で、私は真実を見ました」
セラフィーナの声が、さらに低くなった。
牢の中なのに、空気が魔王城の奥へ沈んでいくようだった。
*
魔王ゼルヴァは、玉座に座っていなかった。
彼は、吊られていた。
黒い鎖に両腕を引かれ、胸に聖銀の杭を打たれ、背からは無数の魔石管が伸びていた。
角はあった。
翼もあった。
けれどそれは生まれ持ったものではない。
因子に肉体を変えられた跡だった。
魔王の目は、赤く光っていなかった。
むしろ、ひどく疲れた人間の目だった。
誰かを憎む力すら、もう残っていない目。
『来たか』
声が、セラフィーナの頭の中に響いた。
魔王の声。
けれど、その響きは怪物ではなく、人だった。
『聖女』
セラフィーナは足が動かなかった。
ユリウスが聖剣を構え、ライネルが周囲を警戒し、エルネストが測定器を震える手で握っていた。
監察官は、何かを記録していた。
その顔は、すでに青ざめていた。
『殺せ』
魔王は言った。
『頼む。もう、終わらせてくれ』
セラフィーナは、その言葉を聞いた瞬間、魔王に触れた。
触れてしまった。
聖女の祈りは、時に相手の痛みに触れる。
病を癒す時、傷を閉じる時、彼女は相手の苦しみを少しだけ感じる。
だが、あの時流れ込んできたものは、苦しみという言葉では足りなかった。
記憶。
焼けるような痛み。
長い暗闇。
名前を奪われる恐怖。
王子だった頃の記憶。
西方辺境の小国アストリア。
青い旗。
妹の笑い声。
停戦交渉へ向かう馬車。
襲撃。
白い仮面。
聖銀の拘束具。
そして、器という言葉。
ゼルヴァ・アストリア。
それが、魔王になる前の名だった。
彼は魔王ではなかった。
魔王にされた。
王国に。
聖教会に。
平和のためという言葉に。
『この力を、人の手に渡すな』
ゼルヴァは言った。
『私はもう、戻れない。だが、次の器を作らせるな』
セラフィーナは泣いていた。
自分でも気づかないうちに。
魔王を前にして。
人類の敵と教えられてきた存在を前にして。
彼女は、彼のために泣いた。
彼は笑った。
ひどく弱い笑みだった。
『聖女。お前は、人を憎まないのか』
『憎みたくありません』
『なら、苦しいぞ』
『はい』
『それでも、祈るのか』
『はい』
ゼルヴァは、目を閉じた。
『なら、終わらせてくれ』
*
セラフィーナは、そこで言葉を止めた。
首輪が黒く光っていた。
苦痛が喉を締めている。
クラウディアが鉄格子に手を伸ばしかけ、すぐに止めた。
触れられない。
それがまた痛ましい。
「もういい」
レオンは言った。
「十分だ」
「いいえ」
セラフィーナは首を振った。
「ここからが、私の罪です」
「あなたの罪?」
「はい」
彼女は目を伏せた。
「私は、魔王因子を引き受けました」
黒い首輪が強く光る。
それでも彼女は続けた。
「ゼルヴァ様の身体は、もう限界でした。でも因子だけは生きていました。あのまま装置ごと崩壊すれば、因子はどこへ流れるか分からない。王都へ繋がる導線も、一部見えました。誰かが、これを持ち帰ろうとしているのだと分かりました」
「だから、自分が器に?」
「一時的に、です」
「一時的?」
「はい。私は、王都へ戻った後、七つの封印柱を断ち、因子を消滅させる方法を探すつもりでした」
「だが戻ったら拘束された」
「はい」
「そして罪人にされた」
「はい」
「なぜ抵抗しなかった」
セラフィーナは長く沈黙した。
ここからが、本題だ。
彼女が罪を認めた本当の理由。
「最初は、抵抗するつもりでした」
彼女は言った。
「魔王は作られた存在であり、王国が因子を兵器として利用しようとしている。そう告発するつもりでした。クラウディア様に密書を預けたのも、そのためです」
「なら、なぜ」
「王都を人質に取られました」
クラウディアの顔が強張る。
レオンは黙って続きを待った。
「聖務卿オズワルド様は、私に言いました。王都にはすでに予備封印が張り巡らされている。私が真実を語れば、民衆は混乱する。混乱すれば信仰が乱れる。信仰が乱れれば封印も乱れる。そして魔王因子は暴走する、と」
「それは脅しだ」
「はい。けれど、完全な嘘ではありませんでした」
セラフィーナは苦しそうに言った。
「私は、王都地下に因子の導線があることを知っていました。七つの封印柱の存在も、断片的には知っていました。もし本当に暴走すれば、王都の民が」
「だから、黙った」
「はい」
「聖女が裏切り者だったという物語を、受け入れた」
「はい」
「民が王国の罪に耐えられないと思ったから?」
「……はい」
レオンは目を閉じた。
分かっていた。
だが、本人の口から聞くと重い。
セラフィーナは、真実より嘘を選んだ。
民を守るために。
王都を守るために。
そして、自分を捨てるために。
「聖女が裏切り者だった」
セラフィーナは静かに言った。
「それは残酷な物語です。でも、分かりやすい悪です。人々は悲しみ、怒り、私を憎むでしょう。それでも明日は来ます。王国を信じ、教会で祈り、子どもにパンを焼き、畑へ行くことができます」
「王国が魔王を作ったという真実では、明日が来ないと?」
「少なくとも、多くの人の心は壊れます」
「壊れた心を、嘘で支えるのか」
「はい」
「その嘘は、次の器を作る」
セラフィーナは目を閉じた。
痛みに耐えるように。
「分かっています」
「分かっていなかった」
「……はい」
「あなたが死ねば終わると思っていた」
「はい」
「だが終わらない。敵は、あなたの死を使う」
「はい」
「なら、あなたの沈黙はもう誰も救わない」
セラフィーナの肩が、小さく震えた。
それは、泣く前の震えではない。
自分が信じていた支柱が折れる震えだった。
クラウディアが、静かに言った。
「セラフィーナ」
セラフィーナが顔を上げる。
「あなたは、私たちを守ろうとしてくれたのですね」
「……」
「でも、私たちは守られるだけの人形ではありません」
クラウディアの声は、柔らかかった。
だが、王女としての芯があった。
「私も怖いです。王家の罪を知ることも、民の前に立つことも、父や叔父と向き合うことも怖い。でも、それでも私は知りました。箱を開けました。だから、あなた一人が私たちの代わりに死ぬ必要はありません」
「クラウディア様」
「友人なら、分けてください」
セラフィーナの瞳が揺れた。
「罪も、責任も、恐怖も。全部一人で持っていかないで」
それは、王女ではなく友人の言葉だった。
セラフィーナは、もう何も言えなかった。
*
長い沈黙の後、レオンは言った。
「魔王因子を完全に消す方法を教えてほしい」
セラフィーナは、まだ目を伏せたまま答えた。
「危険です」
「今さらだ」
「成功する保証はありません」
「成功しない方法を選ぶよりはいい」
「失敗すれば、王都全体が」
「分かっている」
「私が死ぬだけでは済まないかもしれません」
「だから、あなた一人で決めるな」
セラフィーナは、ゆっくりと顔を上げた。
レオンは真っ直ぐに彼女を見る。
「方法を」
彼女は深く息を吸った。
そして、これまでよりもはっきりした声で言った。
「七つの封印柱を、同時に破壊する必要があります」
「同時?」
「はい。一つずつ壊せば、残りの柱が因子を補完します。最悪の場合、鐘が自動で鳴ります」
「場所は?」
「六つは、王都の要所です。中央大聖堂地下、王城地下、旧聖堂、北門、東水門、西防壁」
「六つ?」
「最後の一本は、隠されています」
「処刑台か」
セラフィーナが息を呑んだ。
「もう、そこまで」
「第二礼拝堂で導線を確認した。処刑台そのものが七本目の封印柱だ」
「なら、処刑を止めるだけでは」
「足りない。処刑台を破壊する必要がある」
「はい」
クラウディアが静かに言った。
「七つの封印柱を同時に破壊し、鐘を鳴らさないようにするのですね」
「いいえ」
セラフィーナは首を振った。
「鐘は、鳴らします」
レオンとクラウディアが同時に彼女を見る。
「先ほど、鳴らしてはいけないと言ったはずだ」
「あれは、通常の鳴らし方です。因子を王都へ流すための鳴動。それは絶対に止めなければなりません」
「では?」
「逆に鳴らします」
「逆?」
「沈黙の鐘は、本来、封印を広げるためのものではありません。初代聖王の時代には、災厄を一点へ戻し、消滅させるための器でした。けれど王国はそれを改造し、因子を広げる装置に変えた」
「逆鳴らしをすれば、因子を回収ではなく消滅へ向けられる?」
「はい」
「条件は」
セラフィーナは、喉元を押さえた。
首輪が光る。
言葉を封じようとしている。
だが、彼女はそれでも続けた。
「聖女の祈り」
首輪が黒く光る。
「勇者の聖剣」
声がかすれる。
「王族の血」
クラウディアが、静かに拳を握った。
「そして」
セラフィーナはレオンを見た。
「審問官の真実宣告」
レオンは眉をひそめた。
「真実宣告」
「神前裁判で、虚偽を断つための術式です。あなたなら使えるはずです」
「通常は被告人の嘘を暴く術だ」
「今回は、裁判そのものに向けます」
「国家の嘘へ?」
「はい」
セラフィーナの顔色が悪くなる。
それでも、彼女の目にはもう逃避だけではないものがあった。
「王国が作った嘘。聖教会が守った嘘。私が受け入れた嘘。それらを、真実宣告で断つ必要があります。そうしなければ、鐘は逆には鳴りません」
「なぜ審問官が必要なんだ」
「この儀式は、裁きとして作られたからです」
「処刑も裁判も、装置の一部か」
「はい」
「悪趣味だな」
「はい」
セラフィーナが少しだけ笑った。
「本当に」
その笑みは、前よりも人間らしかった。
弱く、疲れていて、それでも少しだけ生きている笑みだった。
「ただし、真実宣告には代償があります」
彼女は言った。
「宣告者自身が嘘をついていれば、術式は失敗します。自分の心に嘘があっても、命を削られます」
「分かっている」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「では、これから分かる」
クラウディアが小さく息を吐いた。
「あなたたちは、どうして二人とも危ないことを淡々と言うのですか」
「職業病です」
「聖女病でしょうか」
セラフィーナが、ほんの少し困った顔をした。
「その病名は嫌です」
「では、治してください」
クラウディアは優しく言った。
「生きて」
セラフィーナは黙った。
その言葉が、いちばん難しいのだ。
レオンは鉄格子越しに彼女を見る。
「セラフィーナ」
「はい」
「あなたは、どうしたい」
彼女はすぐには答えなかった。
これまで何度も、彼女は「必要なこと」を語った。
王都のため。
民のため。
王国のため。
真実に耐えられない人々のため。
だが、レオンが聞いているのはそれではない。
彼女自身の望みだ。
「私は」
セラフィーナの声は小さかった。
「王都を救いたいです」
「それは分かった」
「民を守りたい」
「それも分かった」
「クラウディア様を、勇者様を、エリス様を、あなたを、これ以上巻き込みたくない」
「もう巻き込まれている」
「……はい」
「その上で、あなたはどうしたい」
セラフィーナの唇が震えた。
言葉が出てこない。
聖女としてではなく。
死刑囚としてでもなく。
一人のセラフィーナとしての言葉。
それを探すことに、彼女は慣れていない。
「私は」
彼女は目を伏せた。
「死ぬのが、怖いです」
その一言は、牢の中に落ちた。
とても小さく。
けれど、とても重く。
クラウディアが息を詰めた。
レオンは、何も言わなかった。
セラフィーナは続けた。
「怖くないと思っていました。必要なら死ねると思っていました。でも本当は、怖かった。処刑台の夢を見ます。首輪の冷たさを感じます。朝が来るたび、あと何日だと数えてしまいます」
声が震える。
「私は聖女なのに」
「違う」
レオンは遮った。
「あなたは人間だ」
セラフィーナの瞳が濡れた。
彼女は泣かない。
泣きそうになっても、耐える。
そういう癖がある。
だが今、その癖がほどけかけている。
「人間なら、怖がっていい」
レオンは言った。
「死にたくないと思っていい。助けてほしいと思っていい」
「でも」
「でも、はいらない」
セラフィーナは唇を噛んだ。
そして、ようやく言った。
「……王都を、助けてください」
「それは聞いた」
「レオン」
「何だ」
「私は、まだ……自分を助けてくださいとは、言えません」
正直な言葉だった。
彼女はまだ、自分の命を王都と同じ秤に乗せられない。
それほど深く、聖女として育てられている。
それほど長く、自分を後回しにしてきた。
「だから」
セラフィーナは、泣きそうな顔で微笑んだ。
「王都を助けてください」
レオンは頷いた。
「王都も助ける」
そして、はっきりと言った。
「あなたも助ける」
セラフィーナの表情が、止まった。
クラウディアが、目を伏せた。
沈黙。
今度の沈黙は、恐怖の沈黙ではなかった。
長く閉ざされた扉の前で、誰かが初めて鍵を差し込んだ時の沈黙だった。
「私は」
セラフィーナは小さく言った。
「助かっても、いいのでしょうか」
「審問官として答えるなら」
レオンは言った。
「その問いに、許可は不要だ」
「では、あなた個人としては?」
「助かってほしい」
言った瞬間、自分の中で何かが決まった。
恩があるからではない。
正しいからだけでもない。
彼女が死刑囚として死ぬことが許せないから。
聖女として消費されることが許せないから。
セラフィーナという一人の人間に、生きてほしいから。
その感情を、もう私情として切り捨てることはできなかった。
たぶん、それが真実宣告に必要なのだ。
自分の中の嘘を、消すこと。
セラフィーナは、今にも泣きそうだった。
けれど最後まで涙は落ちなかった。
代わりに、彼女は小さく頷いた。
「分かりました」
「何が」
「私は、王都を救うために協力します」
「あなた自身のためには?」
「……練習します」
クラウディアが小さく笑った。
レオンも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、まず練習だ」
「はい」
「言ってみろ」
「何をですか」
「私は生きたい、と」
セラフィーナは目を見開いた。
「ここで?」
「ここで」
「今?」
「今」
「レオンは、本当に残酷です」
「さっき聞いた」
彼女は困ったように視線を揺らした。
クラウディアは優しく見守っている。
やがて、セラフィーナは小さく息を吸った。
「私は」
声が震える。
首輪は光らない。
誰も、その言葉を禁じてはいない。
禁じていたのは、彼女自身だけだった。
「私は、生きたいです」
その瞬間。
牢の中の空気が、変わった。
奇跡が起きたわけではない。
枷が外れたわけでも、首輪が砕けたわけでもない。
処刑判決も消えていない。
敵もまだいる。
王都の危機も終わっていない。
それでも、その一言は確かに何かを変えた。
聖女セラフィーナは、初めて自分の命を祈った。
*
遠くで、看守の足音が近づいてきた。
クラウディアが顔を上げる。
「時間です」
レオンは頷いた。
「次に会うのは処刑台かもしれない」
セラフィーナは静かに言った。
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「よし」
「よし、なのですか」
「嘘ではない」
セラフィーナは、少しだけ笑った。
「あなたは、本当に変な方です」
「よく言われる」
「それは、たぶん本当に言われていますね」
「最近な」
クラウディアが壁の通路へ戻る準備をする。
レオンも踵を返しかけた。
その時、セラフィーナが呼び止めた。
「レオン」
「何だ」
「もし、私がまた自分一人で背負おうとしたら」
「ああ」
「止めてください」
レオンは振り返った。
セラフィーナは鉄格子の向こうで、まっすぐ立っていた。
まだ囚人服のまま。
枷も首輪もある。
けれど、その目は少しだけ変わっていた。
死を受け入れる目ではない。
怖がりながら、それでも前を見る目。
「分かった」
レオンは答えた。
「何度でも止める」
「お願いします」
「その代わり」
「はい」
「あなたも、私が一人で全部裁こうとしたら止めろ」
セラフィーナは少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「はい」
足音が近い。
もう行かなければならない。
レオンとクラウディアは、壁の細道へ戻った。
扉が閉じる直前、セラフィーナの声が聞こえた。
「レオン」
「まだ何か?」
「ありがとう」
その言葉は、祈りではなかった。
聖女の慈悲でもなかった。
ただの感謝だった。
レオンは、短く答えた。
「ああ」
壁が閉じた。
牢は再び隔てられた。
*
旧祈祷室へ戻ると、クラウディアはしばらく動かなかった。
彼女は両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
「泣くなら、今のうちです」
レオンが言うと、彼女は顔を上げずに答えた。
「本当に、あなたは時々ひどいですね」
「否定しません」
「泣きません」
「そうですか」
「後で泣きます。今は、やることがあります」
彼女は顔を上げた。
目は赤い。
だが涙はない。
「七つの封印柱を同時に破壊する。聖女の祈り、勇者の聖剣、王族の血、審問官の真実宣告。これを処刑当日に揃える必要があるのですね」
「はい」
「無謀です」
「はい」
「成功率は?」
「低い」
「正直ですね」
「嘘をつくと真実宣告に支障が出そうなので」
クラウディアは、わずかに笑った。
「では、私も正直に言います。怖いです」
「はい」
「でも、やります」
「頼りにしています」
「王女として?」
「証人として」
クラウディアは頷いた。
「なら、証人として動きます」
その時、旧祈祷室の外で物音がした。
二人は同時に動きを止めた。
足音。
一人ではない。
看守ではない。
もっと静かで、統制された歩き方。
白い仮面たちか。
クラウディアが囁く。
「見つかった?」
「まだです」
レオンは短剣に手をかけた。
だが扉の向こうから聞こえた声は、意外なものだった。
「レオン。いるんだろう」
ユリウスの声。
レオンは扉を少し開けた。
そこにいたのは、ユリウスだけではなかった。
彼の後ろに、年若い女性が立っている。
くすんだ金髪。
青白い顔。
ライネルの妹、エリス・フォード。
彼女は胸元に、小さな布包みを抱いていた。
「どうしてここへ」
レオンが問うと、ユリウスは疲れた顔で言った。
「彼女が思い出した」
「何を」
エリスが、震える手で布包みを差し出した。
「兄の手紙の続きです」
レオンは受け取った。
布の中には、焦げた紙片と、小さな魔石が入っていた。
「これは」
「兄が任務で使っていた記録魔石です。手紙の封蝋の中に隠されていました。火事の後、残った封蝋を触った時、硬いものがあると気づいて」
ユリウスが続ける。
「まだ起動していない。だが、ライネルが何かを記録した可能性がある」
レオンは魔石を見つめた。
死んだ騎士の記録。
最後の証人。
だが、それは第13話で使うはずの決定的証拠。
ここでは、まだ中身を全て明かすべきではない。
しかし、存在だけで十分だった。
「これで、証人は揃いつつある」
クラウディアが言った。
「勇者、王女、騎士の妹、聖女、審問官」
「あと必要なのは」
ユリウスが言う。
「時間と、作戦だな」
レオンは魔石を外套へしまった。
「処刑まで二日」
遠くで、地下監獄の鐘が鳴った。
夜明け前を告げる鐘ではない。
看守の交代を告げる鐘だ。
だがレオンには、それが処刑台へ向かう秒読みのように聞こえた。
「作戦を立てる」
彼は言った。
「公開処刑を、公開裁判に変える」
誰も反対しなかった。
無謀だ。
危険だ。
おそらく、死人が出る。
それでも、全員の目に同じものが宿っていた。
沈黙をやめる覚悟。
セラフィーナは、牢の中で初めて「生きたい」と言った。
ならば外にいる者たちは、それを現実にするために動かなければならない。
処刑まで、あと二日。
聖女の沈黙は終わった。
次に終わらせるべきは、王国の嘘だった。




