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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第10章 処刑前夜――証人たちは消されていく

 処刑前夜の王都は、祭りの前に似ていた。

 中央広場には、朝から人が集まっていた。

 処刑は明日だ。

 まだ聖女セラフィーナ・エルシアが広場へ引き出されるわけではない。

 それでも人々は、黒い処刑台を見に来た。

 大工たちが最後の補強を行い、王国兵が柵を設置し、聖教会の司祭たちが聖銀粉を撒いている。その周囲を、民衆が遠巻きに眺めていた。

「本当に、明日なんだな」

「聖女様が……」

「聖女じゃない。裏切り者だろ」

「でも、まだ信じられないよ」

「勇者様も来るらしいぞ」

「勇者様が見届けるなら、やっぱり本当なんじゃないか」

「王女殿下も参列されるって聞いた」

「じゃあ、王家も教会も勇者も、みんな認めてるってことだろ」

 言葉は、広場の空気に溶けていく。

 誰もが不安だった。

 誰もが答えを欲しがっていた。

 聖女は本当に裏切ったのか。

 魔王因子とは何なのか。

 なぜ、世界を救ったはずの女が、死刑台に立たされるのか。

 けれど、人は不安の中に長くいられない。

 だから、強い物語を求める。

 聖女は裏切り者だった。

 勇者は正しかった。

 王国は民を守っている。

 教会は災厄を清める。

 それは分かりやすい。

 分かりやすい物語は、人を安心させる。

 たとえ嘘でも。

 レオン・アルバートは、広場を見下ろす古い時計塔の影にいた。

 粗末な外套をまとい、帽子を深く被っている。

 今の彼は、異端審問官ではない。

 逃亡犯だ。

 王都の掲示板には、彼の似顔絵が貼られている。似てはいないが、時間が経てば人々は特徴を覚える。若い男、黒髪、灰色の目、審問官だった男。目撃情報には報奨金。

 長く表を歩くことはできない。

 それでも、彼は広場を見ていた。

 処刑台。

 断罪剣を据える台座。

 その下に隠された聖銀導線。

 中央大聖堂へ伸びる封印回路。

 地下聖堂の沈黙の鐘。

 七本目の封印柱。

 処刑台は、死刑のための舞台ではない。

 王都を巨大な器に変えるための装置だ。

 レオンは、外套の内側に手を触れた。

 そこには、沈黙の鐘から持ち帰った接続鍵がある。

 そして王女の密書。

 エルネストの魔力記録板。

 ライネルの記録魔石。

 証拠は揃いつつある。

 だが、証拠は語らなければ意味がない。

 語る者がいなければ、紙も石もただの物だ。

 だから、証人が必要だった。

 勇者ユリウス。

 王女クラウディア。

 騎士ライネルの妹エリス。

 聖女セラフィーナ。

 そして、審問官レオン。

 処刑当日、中央広場に王都中の民衆が集まる。

 そこで公開処刑を、公開裁判に変える。

 そのためには、全員が生きて広場へ立たなければならない。

 当然、敵もそれを許さない。

 証人は、消される。

 処刑前夜とは、証拠が燃やされる夜だ。

「レオン」

 背後から声がした。

 勇者ユリウスだった。

 今日の彼は、昨日よりもさらに目立たない服を着ている。

 ただし、顔が良すぎる問題は解決していない。

「八点」

 レオンが言うと、ユリウスは顔をしかめた。

「何が」

「変装」

「昨日より下がったぞ」

「帽子の被り方が不自然だ」

「勇者は帽子を被る訓練を受けていない」

「今後の課題だな」

「今後があればな」

 ユリウスは広場を見下ろした。

 処刑台を見た瞬間、彼の表情から軽口が消えた。

「明日、あそこにセラフィーナが立つ」

「ああ」

「そして俺は、本来なら勇者として処刑を見届ける役だった」

「今もその予定だ」

「分かっている」

 ユリウスは聖剣を布で包んだまま、腰に下げていた。

 勇者が処刑式に参列するのは当然だ。

 だから彼は表から広場へ入れる。

 敵は、彼をまだ利用できると思っている。

 民衆の前で勇者に聖女の罪を認めさせる。

 そして処刑する。

 それが、ギルベルト王弟とオズワルド聖務卿の筋書きだ。

「利用されるのは得意か」

 レオンが問うと、ユリウスは苦く笑った。

「半年ほど訓練された」

「なら、今度は利用し返せ」

「ああ」

 その声には、迷いが残っていた。

 だが逃げる気配はない。

 それで十分だ。

「エリスは?」

「南区の隠れ家にいる。だが、長くは持たない」

「監視が?」

「いや、もっと悪い」

「何だ」

「隠れ家の周囲に、王弟の私兵が集まり始めている」

 レオンは目を細めた。

「早いな」

「エリスが記録魔石を持っていることに気づいたのかもしれない」

「あるいは、気づく前に消すつもりか」

「どちらにせよ、今夜動く」

 処刑前夜。

 敵が最初に狙うなら、エリスだ。

 彼女は王族でも勇者でもない。

 守る兵もいない。

 消しても大きな騒ぎになりにくい。

 しかも、ライネルの手紙と記録魔石を持っている。

 最も弱く、最も危険な証人。

 レオンは広場から目を離した。

「行くぞ」

「分かった」

「殺すな」

「またそれか」

「王弟の私兵を勇者が殺せば、処刑前に反逆者として拘束される」

「分かってる」

「本当に?」

「努力する」

「私の台詞を取るな」

「便利なんだよ」

 二人は時計塔を降りた。

 王都の夕暮れは、赤かった。

 処刑台の黒い木枠が、その赤を吸っているように見えた。

     *

 エリス・フォードの隠れ家は、南区の廃工房だった。

 もともとは染物職人の作業場だったらしい。

 中庭には割れた染料壺が転がり、壁には青や赤の染みが残っている。何年も使われていないため、外から見ればただの空き家だ。

 だが、だからこそ隠れ家に向いていた。

 少なくとも昨日までは。

 レオンとユリウスが近づいた時、周囲の空気はすでに変わっていた。

 路地に人がいない。

 南区は貧しい地区だが、夜でも完全に無人になることは少ない。酔った男、野良犬、帰宅する労働者、窓からこちらを見る老婆。そうした気配があるはずだった。

 今は、ない。

 意図的に人払いされている。

 ユリウスが低く言った。

「囲まれてるな」

「見える範囲で六人」

「見えない範囲で倍か」

「少なく見積もってな」

「楽しい夜だ」

「勇者らしくない感想だ」

「勇者らしい感想は?」

「民を守るため、ここで退くわけにはいかない」

「それ、言わされる側だとかなりしんどいな」

「知っている」

 二人は路地の影に身を寄せた。

 廃工房の正面には、商人風の男が二人。

 だが靴が軍用だ。

 裏手には、荷車を押す男。

 荷車の中には布がかけられている。おそらく武器か、火薬か。

 屋根の上に弓兵が一人。

 さらに、路地の角に白い仮面。

 聖教会もいる。

「正面から行くか?」

 ユリウスが問う。

「勇者らしいな」

「褒めてるか?」

「まったく」

「じゃあどうする」

「裏手の荷車から潰す。火を使われるとエリスが危ない」

「分かった」

「私は荷車へ行く。あなたは屋根の弓兵を」

「了解」

「殺すな」

「三回目だぞ」

「大事なことだ」

 ユリウスは小さく息を吐き、壁を蹴って屋根へ上がった。

 勇者の身体能力は、やはり普通ではない。

 音も少ない。

 顔は目立つが、動きは隠密向きだった。

 レオンは路地を低く走った。

 荷車の男は、まだこちらに気づいていない。

 荷車の布の下から、油の匂いがする。

 やはり火を使うつもりだ。

 エリスの家を焼いた時と同じ。

 証人を焼く。

 証拠を焼く。

 記憶を焼く。

 彼らのやり方は、いつも分かりやすい。

 レオンは背後から男の膝裏を蹴った。

 男が崩れる。

 口を開く前に、首筋へ短剣の柄を叩き込む。

 気絶。

 荷車の布をめくる。

 油壺、火付け石、煙幕玉。

「悪趣味な品揃えだな」

 レオンは油壺の栓を抜き、中身を排水溝へ流した。

 その時、屋根の上で短い悲鳴が上がった。

 弓兵が落ちてくる。

 いや、落とされた。

 ユリウスが屋根の上から顔を出す。

「殺してない」

「聞く前に言うのは不安になる」

「本当に殺してない!」

 正面の二人が気づいた。

「敵襲!」

 声が路地に響く。

 同時に、白い仮面が術式を展開した。

 聖銀の鎖が地面を走り、廃工房の扉へ向かう。

 中のエリスを拘束する気か。

 レオンは短剣を投げた。

 鎖の術式核に当たる。

 火花。

 術式が乱れる。

 ユリウスが屋根から飛び降り、正面の男二人の間に着地した。

 聖剣はまだ抜かない。

 抜けば、勇者と分かる。

 だから彼は布に包んだままの剣で、二人の手首と腹を打った。

 速い。

 容赦はないが、殺してはいない。

「うまいな」

 レオンが言うと、ユリウスは即座に返す。

「褒めるな。調子が狂う」

「では、まだ雑だ」

「それも腹立つな!」

 廃工房の扉が開いた。

 エリスが顔を出す。

 目が怯えている。

 だが、胸元にはしっかり布包みを抱えていた。

「レオン様!」

「中へ戻れ!」

「でも」

「証拠を離すな!」

 エリスが頷き、扉を閉めようとした。

 その瞬間、路地の奥から黒い光が走った。

 魔王因子に侵された兵。

 黒い血管が首筋まで浮かび、目の白目が濁っている。

 以前よりも状態が悪い。

 ほとんど理性がない。

 その兵が、斧を振り上げて扉へ突進した。

 ユリウスが間に入る。

 布が裂け、聖剣の光が漏れた。

「くそっ」

 彼は聖剣を抜いた。

 金色の光が路地を照らす。

 その瞬間、王弟の私兵たちが硬直した。

「勇者……?」

「勇者ユリウス様だと?」

 動揺が走る。

 ユリウスは兵の斧を受け止めた。

「エリスを連れて出ろ!」

 レオンは扉へ走った。

 エリスを引き出す。

 彼女は震えていたが、走れる。

「裏へ」

「はい」

「魔石は?」

「ここに」

「絶対に落とすな」

「はい!」

 レオンはエリスを連れて裏口へ向かう。

 だが、そこには別の白い仮面が立っていた。

「ライネル・フォードの妹ですね」

 穏やかな声。

「その魔石を渡しなさい。あなたには、それを持つ意味が分からない」

 エリスはレオンの背後で震えた。

 レオンは短剣を構える。

「意味なら分かっている」

「あなたではなく、彼女に聞いています」

 白い仮面はエリスを見た。

「お兄様は死にました。戻りません。いまさら真実を暴いて、何になりますか」

 エリスの呼吸が乱れる。

「あなたが黙っていれば、これ以上誰も傷つかない。聖女は明日、正しく処刑されます。王都は救われます。お兄様も、王国の騎士として名誉ある死を与えられる」

 甘い言葉だった。

 脅しではない。

 慰めの形をした毒。

 エリスの手が、布包みを抱く力を弱めた。

 レオンは何も言わなかった。

 今、彼が否定すれば、エリスは彼の言葉に頼る。

 それでは証人になれない。

 証人は、自分の足で立たなければならない。

 白い仮面は続ける。

「あなたはまだ若い。これから生きていけます。兄の死に縛られる必要はない」

 エリスは俯いた。

「兄は」

 声が震えている。

「兄は、名誉がほしかったわけではありません」

 白い仮面の動きが止まった。

 エリスは顔を上げた。

 涙が浮かんでいる。

 だが、瞳は逃げていなかった。

「兄は、聖女様を疑うなと書きました。王都の地下を調べると書きました。怖かったはずです。それでも書いたんです」

「だから?」

「だから、私も黙りません」

 彼女は布包みを胸に抱きしめた。

「兄を、嘘の中に埋めたままにはしません」

 白い仮面の声が冷えた。

「残念です」

 術式が展開する。

 レオンが踏み込もうとした瞬間、背後から金色の光が走った。

 ユリウスだ。

 聖剣の光が、白い仮面の術式を焼き切る。

「残念なのはそっちだ」

 勇者は肩で息をしていた。

 背後には、倒れた魔王因子兵。

 生きている。

 気絶しているだけだ。

「エリス」

 ユリウスは言った。

「君の兄は、最後まで騎士だった。俺はそれを知ってる。だから明日、君が話す時は、俺も隣に立つ」

 エリスの目から涙がこぼれた。

「勇者様……」

「俺は、君の兄に顔向けできないことをした。だから、今度は逃げない」

 白い仮面が後退する。

 レオンは逃がさなかった。

 足元へ短剣を投げ、壁際へ追い詰める。

「誰の命令だ」

「聖教会は、常に王都のために」

「暗唱はいい。誰の命令だ」

 白い仮面は笑った。

「明日、すべて終わります」

「終わらせない」

「あなた方が何をしても、断罪剣は立ちます。処刑台はすでに七本目の柱として完成している。聖女の死は避けられません」

 レオンの目が細くなる。

「七本目が処刑台だと、なぜ言った」

 仮面の男が、わずかに黙った。

 失言。

 だが、もう遅い。

 ユリウスも気づいた。

「処刑台そのものが柱……」

「確定だな」

 レオンは低く言った。

 白い仮面は口を閉ざした。

 もう何も言わないつもりだ。

 レオンは彼を拘束し、エリスへ向き直った。

「行くぞ。ここはもう使えない」

「はい」

「魔石は守れたな」

「はい」

「なら、あなたは明日、証人になる」

 エリスは青ざめた顔で、それでも頷いた。

「兄のために」

「兄のためだけではない」

 レオンは言った。

「あなた自身のためにもだ」

 エリスは一瞬驚き、それから小さく頷いた。

 遠くで鐘が鳴った。

 夜の第一鐘。

 処刑前夜が、正式に始まった。

     *

 王宮では、クラウディア王女が病に倒れたことになっていた。

 少なくとも、王宮内の公式記録にはそう書かれた。

 夕刻、王女の私室前に王宮医師が呼ばれ、侍女たちが慌ただしく出入りした。ほどなくして、ギルベルト王弟の代理騎士が廊下に立ち、王女は高熱のため明日の処刑式参列を見合わせるかもしれない、と告げた。

 それは、穏やかな監禁だった。

 鍵は外からかけられた。

 窓の下には兵が配置された。

 侍女は入れ替えられ、幼い頃から仕えていた者は全員遠ざけられた。

 クラウディアは、寝台に腰掛けていた。

 熱などない。

 病気でもない。

 だが、彼女の周囲には病の芝居が用意されていた。

 薬湯。

 冷たい布。

 医師の診断書。

 王宮は、嘘を形にすることが得意だった。

「王女殿下」

 部屋の外から声がした。

 ギルベルト王弟の代理、バルツァー卿だ。

「お加減はいかがですかな」

「悪くありません」

「それは何より。ですが、明日は大事な儀式です。無理をなさらず、部屋でお休みください」

「聖女の処刑を、王族として見届ける義務があります」

「その義務は、ギルベルト殿下が果たされます」

「叔父上が?」

「はい」

「父王陛下ではなく?」

 一瞬、沈黙があった。

 扉の向こうで、バルツァー卿が笑う気配がした。

「陛下はご体調が優れません。王弟殿下が代理を務めるのは当然でしょう」

「そう」

 クラウディアは静かに言った。

「叔父上は、代理がお好きですね」

「殿下?」

「いいえ。独り言です」

 バルツァー卿はしばらく扉の前にいたが、やがて足音が遠ざかった。

 クラウディアは立ち上がった。

 部屋の中には、誰もいない。

 表向きは病人の休息のため、人払いされている。

 実際には、逃げ道を塞いだつもりなのだろう。

 だが、マリナは知っていた。

 この部屋には、王女付き侍女長だけが知る古い通路がある。

 かつて、王女が政略結婚から逃げようとした時代に使われたと伝わる、半ば伝説のような道。

 マリナは以前、冗談めかして言った。

 ――殿下。本当に逃げたくなった時のために、覚えておいてくださいませ。

 その時、クラウディアは笑った。

 王女が逃げるなど、物語の中だけだと思っていた。

 けれど今、その道が必要になっている。

 クラウディアは化粧台の下に手を伸ばした。

 木枠の奥。

 小さな金具。

 押す。

 壁の装飾板が、わずかに浮いた。

 その隙間から、古い紙片が落ちた。

 マリナの筆跡だった。

 殿下がこれを読んでいるなら、私はおそらく側にいないのでしょう。

 泣くのは後で。

 王女が泣く時は、必ず扉を閉めてからです。

 今は、逃げてください。

 左の通路は使えません。二十年前に崩れています。

 右へ。

 三つ目の燭台を回すと、礼拝堂の裏へ出ます。

 どうか、セラフィーナ様をお見捨てにならないでください。

 クラウディアの視界が、少しだけ滲んだ。

「マリナ……」

 泣くのは後で。

 そう書かれている。

 だから、泣けなかった。

 クラウディアは紙片を胸に押し当て、深く息を吸った。

「ありがとう」

 小さく言い、彼女は通路へ入った。

     *

 王宮の隠し通路は、狭く、暗かった。

 王女のドレスで通るための道ではない。

 だからクラウディアは、あらかじめ用意していた侍女服に着替えていた。髪を布で隠し、顔に薄く煤を塗る。鏡に映る自分は、王女には見えない。

 それが少しだけ新鮮だった。

 王女ではない自分。

 ただの一人の証人。

 通路の途中で、一度足音が近づいた。

 クラウディアは壁に身を寄せ、息を止めた。

 兵士たちの声。

「王女殿下は?」

「眠っておられる」

「本当に病か?」

「知らん。だが王弟殿下の命令だ。朝まで誰も近づけるな」

「明日の処刑、荒れそうだな」

「勇者様が見届けるんだ。問題ないだろう」

「聖女派が騒ぐかもしれない」

「騒いだら異端として捕らえればいい」

 足音が遠ざかる。

 クラウディアは拳を握った。

 聖女派。

 異端。

 彼らは、セラフィーナを信じる者をすでに罪人として数えている。

 明日の広場では、少しでも疑問を口にした民が捕らえられるかもしれない。

 それを止めるためにも、彼女は行かなければならない。

 三つ目の燭台を回す。

 壁が開く。

 そこは王宮礼拝堂の裏だった。

 だが、外へ出ようとした瞬間、声がした。

「殿下」

 クラウディアは凍りついた。

 振り向く。

 そこに立っていたのは、若い侍女だった。

 マリナの死後、新しく部屋に付けられた者の一人。

 名はリーネ。

 ギルベルト側の監視役だと思っていた。

 クラウディアは身構える。

「叫ぶつもりですか」

 リーネは首を振った。

「いいえ」

「では、なぜここに」

「マリナ様に、言われていました」

「マリナに?」

「殿下が礼拝堂裏から出てこられたら、これを渡すようにと」

 リーネは小さな袋を差し出した。

 中には、王家の古い印章と、短い地図が入っていた。

「あなたは、叔父上側では」

「そう見えるようにしろと、マリナ様に」

 クラウディアは言葉を失った。

 マリナは、そこまで考えていた。

 自分が死んだ後のことまで。

 リーネは震える声で続けた。

「私は怖いです。殿下。王弟殿下に逆らえば、家族がどうなるか分かりません。でも、マリナ様が言いました。怖いなら、怖いまま正しい扉を開けなさい、と」

 クラウディアは、彼女の手を握った。

「ありがとう」

「私はここまでです」

「十分です」

「殿下」

「何?」

「セラフィーナ様を」

 リーネは泣きそうな顔で言った。

「助けてください」

 クラウディアは頷いた。

「必ず」

 王女は礼拝堂を抜け、夜の王宮庭園へ出た。

 空には月があった。

 処刑前夜の月は、冷たく白かった。

     *

 同じ頃、地下監獄ではセラフィーナの牢に聖務卿オズワルドが訪れていた。

 白い祭服。

 金糸の刺繍。

 深く窪んだ双眸。

 彼はいつも通り穏やかだった。

 穏やかすぎて、牢の冷気よりも冷たかった。

 看守たちは下がり、聖教会の司祭だけが外に控えている。

 セラフィーナは牢の中で立っていた。

 聖銀の枷。

 封言の首輪。

 明日、処刑台へ引き出される死刑囚。

 だが、彼女の目は以前と違っていた。

 まだ怖い。

 死ぬことも、失敗することも、王都を救えないことも怖い。

 それでも、その怖さの奥に、小さな火が灯っている。

 生きたい。

 その言葉が、彼女の中に残っていた。

「明日です」

 オズワルドは言った。

「長かったですね、セラフィーナ」

「はい」

「あなたは、よく耐えました」

「耐えたことを、褒めに来られたのですか」

「ええ。あなたは最後まで聖女でした」

「私は、明日死ぬために聖女だったわけではありません」

 オズワルドの眉が、わずかに動いた。

「変わりましたね」

「そうでしょうか」

「レオン・アルバートの影響ですか」

「彼は、私を人間だと言いました」

「危険な言葉です」

「なぜ?」

「聖女は人間であってはならない。人間は迷い、恐れ、憎み、欲しがる。人間である聖女など、民は必要としていません」

 セラフィーナは静かに彼を見た。

「それは、民が決めることですか。それとも、あなたが決めたことですか」

「私は民を知っています」

「本当に?」

「人は弱い。真実に耐えられない。恐怖に飲まれれば暴徒になる。だから物語が必要なのです」

「裏切りの聖女という物語が?」

「はい」

 オズワルドはあっさり認めた。

「あなたは人々に愛されすぎた。だからこそ、あなたが罪を背負えば、人々は一つの悲劇として受け入れられる。王国は明日へ進める」

「その明日のために、また別の器を作るのですか」

 オズワルドの目が細くなった。

「どこまで聞きました」

「十分に」

「レオンですね」

「真実は一人のものではありません」

「彼は、明日まで生きられないかもしれません」

 セラフィーナの指が、わずかに震えた。

 だが彼女は視線を逸らさなかった。

「脅しですか」

「警告です」

「同じです」

「いいえ。私は本当に惜しいと思っています。彼は優秀な審問官です。正しい場所にいれば、国のために働けた」

「正しい場所とは、嘘の側ですか」

「秩序の側です」

 オズワルドの声は、初めて少しだけ硬くなった。

「セラフィーナ。あなたは優しすぎる。目の前の一人を見捨てられない。だから、国を動かすことが分からない。一人を救うために万人を危険に晒す。それは聖女の慈悲ではなく、幼い感傷です」

「では、あなたは万人を救うために一人を殺すのですか」

「必要なら」

「その一人が、二人になり、百人になり、名もない村になり、辺境の王子になっても?」

「必要なら」

 セラフィーナは目を閉じた。

 怒りではない。

 悲しみだった。

「あなたも、怖かったのですね」

 オズワルドの表情が消えた。

「何を」

「王国が滅びることが。民が死ぬことが。自分の祈りでは救えないものがあることが」

「私は恐怖で動いているのではありません」

「では、何で?」

「責任です」

「責任という名の恐怖です」

 牢の外の司祭が動きかけた。

 オズワルドが手で制する。

 彼は、セラフィーナを見つめた。

「あなたは、私を憐れんでいるのですか」

「いいえ」

 セラフィーナは首を振った。

「止めようとしています」

「同じことです」

「違います。憐れむだけなら、私はまた黙っていたでしょう」

 セラフィーナは一歩、鉄格子へ近づいた。

「私は明日、黙りません」

 その言葉が、地下牢に響いた。

 オズワルドは、しばらく彼女を見ていた。

 やがて、ゆっくりと笑った。

「ならば、明日は予定より賑やかになりそうですね」

「はい」

「あなたは後悔します」

「もう、しています」

 セラフィーナは言った。

「たくさん後悔しています。黙ったこと。レオンを巻き込んだこと。クラウディア様を傷つけたこと。勇者様を一人にしたこと。ライネル卿を救えなかったこと。ゼルヴァ様を、最後まで人として葬れなかったこと」

「なら、なぜ」

「後悔しているから、もう同じことをしません」

 オズワルドは目を伏せた。

「残念です」

 彼は背を向けた。

「明日、あなたは処刑台へ立つ。そこに至るまでの鎖も、首輪も、封印も、すべて強化します。レオン・アルバートが何を企んでいようと、あなたは逃げられない」

「逃げません」

 オズワルドが足を止めた。

 セラフィーナは静かに言った。

「私は、裁判をやり直すために立ちます」

 聖務卿は振り返らなかった。

 ただ、低く告げた。

「では、裁かれましょう。あなたも、彼も、王国も」

 そして彼は去った。

 扉が閉まる。

 地下牢に静けさが戻る。

 セラフィーナは、その場に膝をつきそうになった。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 明日が怖い。

 けれど、彼女は両手を握った。

 私は、生きたいです。

 その言葉を、もう一度だけ心の中で言った。

     *

 夜更け。

 王都南区の廃劇場に、五人が集まった。

 レオン。

 ユリウス。

 クラウディア。

 エリス。

 そして、アーヴィン所長から密かに遣わされた審問官ダニエル。

 廃劇場は、かつて旅芸人の一座が使っていた建物だった。

 舞台は傾き、客席は壊れ、天井には穴が開いている。

 だが、皮肉にも作戦会議には向いていた。

 明日、彼らは王都最大の舞台へ上がる。

 中央広場の処刑台。

 そこを法廷に変えるために。

 レオンは舞台の床に王都の地図を広げた。

 その上に、七つの印を置く。

「七つの封印柱」

 彼は言った。

「中央大聖堂地下。王城地下。旧聖堂。北門。東水門。西防壁。そして処刑台」

 ユリウスが腕を組む。

「同時に破壊する必要があるんだよな」

「ああ。一つずつでは駄目だ。残った柱が補完する」

「人手が足りない」

「全てを完全破壊する必要はない。接続を断てばいい」

「誰がどこを担当する」

 クラウディアが言った。

「王城地下は私が行きます」

 ユリウスが反射的に言う。

「危険だ」

「王族の血が必要な区画です。私以外では開けられません」

「護衛は」

「リーネが王宮内で手引きしてくれます。それに、私も短剣くらいは使えます」

 レオンが少し驚いて見ると、クラウディアは眉を上げた。

「王女が飾りだと思いましたか」

「少し」

「正直すぎます」

「真実宣告の練習中なので」

「便利に使わないでください」

 ユリウスが地図を見た。

「北門と西防壁は、俺が走れば間に合うか?」

「間に合わない」

「だよな」

 ダニエルが手を上げた。

「西防壁は俺が行く」

「お前が?」

 レオンが見ると、ダニエルは苦笑した。

「一応、まだ審問庁の人間だからな。西防壁の検問を抜ける口実は作れる」

「見つかれば処分される」

「お前を逃がした時点で、だいたい詰んでる」

「悪いな」

「謝るな。怖くなる」

 エリスがおずおずと口を開いた。

「あの、私は」

「あなたは広場だ」

 レオンが言った。

「兄の記録魔石を持って、証人として立つ」

「私が、広場で」

「はい」

 エリスは青ざめた。

「大勢の前で話すのは、得意ではありません」

「得意な者のほうが少ない」

「でも、私が失敗したら」

「失敗してもいい」

 レオンは言った。

「震えても、言葉に詰まっても、泣いてもいい。証人に必要なのは、上手く話すことではない。見たもの、知っているものを、自分の言葉で出すことだ」

 エリスは布包みを握った。

「……はい」

 ユリウスが言う。

「俺は広場で偽証を告白する。その後、処刑台へ向かう」

「処刑台は七本目の柱だ。あなたの聖剣が必要になる」

「ああ」

「ただし、早すぎても駄目だ。処刑台を破壊する前に民衆を味方につけなければ、聖女の暴走に見せかけられる」

「なら、裁判が先か」

「そうだ」

 レオンは処刑台の印を指で押さえた。

「明日、公開処刑を公開裁判に変える。順番はこうだ」

 彼は一つずつ告げた。

「まず、ユリウスが勇者として処刑台前へ立ち、偽証を告白する。民衆は動揺する。聖教会は彼を拘束しようとする。その瞬間、クラウディア王女が王族として公開再審を宣言する」

「王女の権限で足りるか?」

「王族が民衆の前で宣言すれば、時間は稼げる」

 クラウディアが頷く。

「私が王家の密書を示します。父王の署名がない以上、王弟と聖務卿の独断として切り込むこともできます」

「次にエリスがライネルの記録魔石を出す」

 エリスが息を呑む。

「そこでライネルの証言が出れば、聖女裁判の根幹が崩れる。最後に私が真実宣告を行う」

 ダニエルが顔をしかめた。

「真実宣告って、神前裁判のやつだろ。あれ、今の状態のお前が使ったら死ぬんじゃないか」

「死なないよう努力する」

「軽いな」

「重く言うと怖くなる」

「さっきの俺の真似かよ」

 ユリウスが低く言った。

「レオン。真実宣告は、何が必要なんだ」

「宣告者が、自分の中の嘘を認めていること」

「嘘をつかないことじゃなく?」

「人間は完全に嘘を消せない。だから、嘘を嘘として見ていることが必要になる」

 クラウディアが静かに問う。

「あなたには、まだ嘘がありますか」

「ある」

 レオンは即答した。

 全員が彼を見る。

「私は、最初は審問官として真実を追っていると思っていた。だが、それだけではない。セラフィーナに救われた過去がある。彼女に死んでほしくないという私情もある。王国の嘘を暴きたい怒りもある。自分がこれまで見逃してきたかもしれない罪への恐怖もある」

「それを、嘘ではなく認める?」

「ああ」

「なら」

 クラウディアは頷いた。

「あなたは使えると思います」

「なぜ」

「私も、自分が王家を守りたい気持ちと、王家を裁かなければならない気持ちの両方を持っています。どちらかだけを正義にするのは、嘘だと思うからです」

 レオンは少しだけ沈黙した。

「王女殿下は、審問官に向いていますね」

「嫌です」

「即答ですね」

「嫌です」

「二回言うほど」

 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。

 だが、すぐにレオンは地図へ視線を戻した。

「問題は、封印柱の六本だ。広場で裁判を起こしている間に、各所の接続を断つ必要がある」

「中央大聖堂地下と旧聖堂は?」

 ユリウスが問う。

「中央大聖堂地下は、処刑台と直結している。私とセラフィーナが対応する」

「セラフィーナは処刑台にいる」

「だからこそ可能だ。処刑台から導線に干渉できる」

「危険だな」

「ああ」

 ダニエルが頭をかいた。

「東水門は?」

「アーヴィン所長が手を回しているはずだ」

「はず?」

「直接確認はできない」

「不安すぎる」

「だが、あの人はこういう時、嫌なほど手堅い」

 レオンは地図の端に小さな印を置いた。

「旧聖堂は、私が持ち帰った接続鍵で一時的に遮断できる。問題は、敵が儀式を強制起動した場合だ」

「オズワルドがやるな」

 ユリウスが言った。

「追い詰められたら、民衆の納得なんか待たない」

「その通りだ」

「その場合は?」

「裁判と同時に、戦闘になる」

 沈黙。

 全員が理解していた。

 明日の広場では、言葉だけで勝つことはできない。

 証言。

 証拠。

 宣告。

 そして、剣。

 全てが必要になる。

 エリスが小さく言った。

「怖いです」

 誰も笑わなかった。

 ユリウスが頷く。

「俺も怖い」

 クラウディアも言った。

「私もです」

 ダニエルが肩をすくめる。

「俺もだ。正直、胃が痛い」

 最後に、レオンも言った。

「私も怖い」

 エリスが少し驚いたように彼を見る。

「レオン様も?」

「怖い」

「そう、なのですか」

「だが、怖いからこそ手順を決める」

 レオンは地図を畳んだ。

「恐怖は消せない。だから、恐怖があっても動けるようにする」

 ユリウスが笑った。

「審問官らしい励ましだ」

「役に立てばいい」

「立つよ」

 遠くで鐘が鳴った。

 夜の第二鐘。

 処刑前夜は、少しずつ深くなっていく。

     *

 作戦会議が終わった後、レオンは一人で廃劇場の客席に残っていた。

 他の者たちは、それぞれの準備に向かった。

 ユリウスは聖剣の封印を調整するため、王都外れの古い祠へ。

 クラウディアは王宮へ戻るための別経路へ。

 エリスはダニエルに守られ、別の隠れ家へ。

 レオンだけが、舞台を見ていた。

 壊れた舞台。

 剥がれた幕。

 穴の空いた天井から差す月光。

 明日、彼が立つ舞台は、もっと大きい。

 民衆の視線。

 王家の圧力。

 聖教会の断罪。

 魔王因子の儀式。

 その全てを前に、真実宣告を使う。

 自分の中に嘘があれば、術式は失敗する。

 命を削る。

 あるいは、真実のほうに焼かれる。

 レオンは、静かに息を吐いた。

「私は」

 誰もいない客席で、彼は呟いた。

「セラフィーナを救いたい」

 声に出す。

 確認する。

「恩があるからではない」

 違う。

 それだけではない。

「正しいからだけでもない」

 それも違う。

 正義だけなら、ここまで恐ろしくはない。

「彼女に、生きてほしい」

 その言葉は、思っていたより自然に出た。

 聖女としてではなく。

 救国の象徴としてではなく。

 死刑囚としてでもなく。

 セラフィーナという一人の人間に。

 生きてほしい。

 その私情を、認める。

 審問官としては、偏っている。

 だが、偏っていることを隠す方が嘘だ。

 真実宣告に必要なのは、感情を消すことではない。

 感情を嘘で覆わないことだ。

「よし」

 レオンは立ち上がった。

 その時、客席の奥から声がした。

「独り言が増えたな」

 アーヴィン所長だった。

 黒い外套を着て、壊れた座席の陰に立っている。

 レオンは驚かなかった。

 この人なら、来ると思っていた。

「逃亡犯に会うのは危険ですよ」

「会っていない。古い劇場を見回っていただけだ」

「便利な偶然ですね」

「老人には偶然が多い」

 アーヴィンは舞台へ上がった。

 手には、小さな革袋がある。

「持っていけ」

「これは」

「審問庁の真実宣告用の補助印だ。正式なものではない。古い型だが、使える」

「所長」

「貸すだけだ。返せ」

「生きていれば」

「返せ」

「はい」

 レオンは革袋を受け取った。

 中には、黒い印章が入っていた。

 審問官の天秤紋。

 ただし、通常のものより古く、刻まれた線が深い。

「なぜここまでしてくれるのですか」

 レオンは問うた。

 アーヴィンはしばらく黙っていた。

 それから、壊れた客席へ目を向けた。

「昔、私は一度、真実宣告を使わなかった」

「使わなかった?」

「ああ。使えば、王家と聖教会の嘘を暴けたかもしれない事件があった。だが私は、国のためだと言われ、民のためだと言われ、黙った」

「それが、以前言っていた嘘の書類ですか」

「そうだ」

「誰が死んだのです」

 アーヴィンは目を閉じた。

「監察官だ」

 レオンは息を止めた。

 討伐隊から消された五人目。

 王国監察官。

「まさか」

「セラフィーナの討伐隊に同行した監察官は、私の弟子だった」

 アーヴィンの声は低かった。

「名は、ノア・ラングレー。優秀な審問官だった。感情を持たない秤などと呼ばれるお前より、よほど人間ができていた」

「ひどい比較ですね」

「事実だ」

「否定できない」

 アーヴィンは小さく笑ったが、すぐに表情を消した。

「ノアは魔王討伐隊の監察官として同行した。だが帰還記録から名前が消えた。私は抗議した。だが上は言った。監察官は任務中に異端化し、記録から抹消されたと」

「信じたのですか」

「信じなかった。だが、署名した」

 沈黙。

「なぜ」

「王都の封印が危ういと言われた。真実を追えば、もっと多くが死ぬと言われた。私は、あの時のお前ほど若くなかった。だから、賢いふりをした」

「後悔していますか」

「毎日だ」

 アーヴィンはレオンを見た。

「ノアは、何かを見た。ライネルと同じように。そして消された。おそらく、セラフィーナもそれを知っている」

「だから、監察官の記録が消されていた」

「ああ」

「所長は、明日」

「私は庁舎にいる。表向きは、お前を捕らえる側だ」

「でしょうね」

「だが、東水門の封印柱は処理する」

 レオンは顔を上げた。

 アーヴィンは淡々と言った。

「お前が頼む前に、手は打った」

「頼もしいですね」

「褒めるな。気味が悪い」

「では、当然の働きです」

「腹が立つな」

 短いやり取り。

 だが、その奥にある信頼は確かだった。

 アーヴィンは背を向けかけ、最後に言った。

「レオン」

「はい」

「明日、真実を裁け」

「はい」

「だが、人を裁きすぎるな」

 レオンは沈黙した。

 アーヴィンの声は、静かだった。

「真実は刃だ。振り回せば、救う相手まで切る」

「覚えておきます」

「忘れるな」

 そう言って、所長は闇へ消えた。

     *

 その頃。

 中央大聖堂の地下では、オズワルド聖務卿が沈黙の鐘へ祈りを捧げていた。

 王都の地下導線は、すでに準備を終えている。

 七本の封印柱。

 処刑台の断罪剣。

 聖銀の鐘。

 聖女の身体。

 必要なものは、ほぼ揃った。

 白い仮面の司祭が報告する。

「エリス・フォードの確保に失敗しました」

「そうですか」

「勇者ユリウスが妨害しました」

「やはり」

「王女殿下も部屋を抜け出した可能性があります」

「それも想定内です」

 オズワルドは祈りを終え、立ち上がった。

「彼らは明日、広場で真実を語るつもりでしょう」

「処刑を延期しますか」

「いいえ」

「しかし」

「延期すれば、彼らに時間を与えるだけです。予定通り行います」

 オズワルドは、地下の壁に刻まれた王都図を見た。

「真実が語られるなら、語らせればよい」

「よろしいのですか」

「民は真実だけでは動きません。恐怖で動く」

 彼の指が、中央広場の位置をなぞる。

「聖女が魔王因子を暴走させた。勇者が惑わされた。王女が混乱した。審問官が反逆した。そう見えれば、民は再び秩序を求めます」

「では」

「儀式を一部早めます」

 白い仮面たちが顔を上げた。

「処刑前に、断罪剣を起動させる」

「それでは民衆の前で黒い光が」

「だからよいのです」

 オズワルドは穏やかに言った。

「恐怖を見せなさい。聖女を生かせば王都が滅びると、民に見せるのです」

「もし制御を失えば」

「失いません」

「ですが」

「失いません」

 その声には、強い信念があった。

 あるいは、狂信と呼ぶべきものが。

「王国は、ここで力を得なければならない。隣国は国境に兵を集めています。魔族残党は山脈の向こうで再編しています。王都の民は平和を当然と思っている。ですが平和は、祈りだけでは保てない」

 オズワルドは白い仮面たちを見た。

「力が必要です。圧倒的な力が。二度と魔族に怯えず、隣国に侮られず、内乱に揺らがない力が」

「そのために聖女を」

「一人の聖女で千年の平和が買えるなら、安いものです」

 白い仮面たちは沈黙した。

 誰も反論しない。

 反論できないのか。

 反論する言葉を失ったのか。

 オズワルドは再び、沈黙の鐘へ向き直った。

「セラフィーナは優しい子です。きっと最後まで、自分を犠牲にしようとするでしょう」

 彼は、まるで本当に慈しむように言った。

「だからこそ、器に相応しい」

     *

 夜の第三鐘。

 処刑前夜は、最も深い時間に入った。

 王都の各地で、味方たちは動き始めていた。

 クラウディアは王宮へ戻らず、王城地下へ向かうための隠し扉に立っていた。

 リーネが震える手で鍵を渡す。

「殿下、ご無事で」

「あなたも」

「私は、明日の朝まで殿下が部屋にいるように見せかけます」

「危険です」

「怖いです。でも、マリナ様に叱られたくありません」

 クラウディアは彼女を抱きしめた。

「ありがとう」

 王女は、王家の罪を背負うため、地下へ降りていった。

 西防壁では、ダニエルが検問の兵士へ笑顔で書類を見せていた。

「夜間封印検査だ。上からの命令でね」

「こんな時間に?」

「こんな時間だからだよ。昼間に封印が壊れるとは限らないだろ」

「それは、まあ」

「分かったら通してくれ。俺も早く帰って寝たい」

 軽口を叩きながら、彼の背中には冷汗が流れていた。

 懐には、小型の封印破断具。

 見つかれば反逆罪。

 それでも彼は笑っていた。

 東水門では、アーヴィン所長が一人、古い封印柱の前に立っていた。

 水門の下で、黒い水が流れている。

 彼は懐から古い審問官の認可印を取り出した。

「ノア」

 小さく呟く。

「遅くなった」

 印章が光る。

 東水門の封印柱に、亀裂が入った。

 北門では、ユリウスが馬を走らせていた。

 聖剣を布で包み、夜の街道を駆ける。

 明日の処刑式までに戻らなければならない。

 それでも、彼には行くべき場所があった。

 北門の封印柱を断ち、夜明け前に広場へ戻る。

 無茶だ。

 だが勇者とは、昔から無茶を押しつけられる役だった。

 今度だけは、自分で選んだ無茶だ。

 南区の隠れ家では、エリスが兄の記録魔石を抱えていた。

 彼女は眠れない。

 明日、大勢の前に立つ。

 兄の名を語る。

 王弟と聖務卿を相手に。

 怖い。

 逃げたい。

 それでも、彼女は魔石を握った。

「兄さん」

 小さく呟く。

「私、話すね」

 そして、地下牢では。

 セラフィーナが一人、祈っていた。

 いつものように、人々のために祈るのではない。

 王都のために。

 友のために。

 勇者のために。

 王女のために。

 騎士の妹のために。

 レオンのために。

 そして最後に、自分のために。

 生きたい。

 怖い。

 それでも、立つ。

 処刑台へ。

 死ぬためではなく、裁判をやり直すために。

     *

 夜明け前。

 レオンは中央広場に戻ってきた。

 まだ民衆はいない。

 だが兵士たちはすでに配置され、処刑台の周囲では司祭たちが最後の祈祷を行っている。

 断罪剣は、まだ台座に据えられていなかった。

 だが、それがどこにあるかは分かっている。

 中央大聖堂の奥。

 夜明けの鐘と共に運び出される。

 レオンは広場の石畳に膝をつき、指先で床に触れた。

 微かに震えている。

 地下導線が、すでに起動準備に入っている。

 オズワルドは待つ気がない。

 処刑の前に、恐怖を見せるつもりだ。

 つまり、作戦開始はさらに早まる。

 レオンは立ち上がった。

 空が白み始める。

 処刑の日が来る。

 その時、背後から声がした。

「準備は?」

 ユリウスだった。

 息が上がっている。

 北門から戻ったばかりだろう。

 服は泥だらけで、頬には小さな傷がある。

「北門は?」

「断った」

「生きているな」

「見れば分かる」

「よくやった」

「だから素直に褒めるな。怖い」

 別の路地から、クラウディアが現れた。

 侍女服の上に外套を羽織り、手には王家の印章を持っている。

「王城地下は遮断しました」

「怪我は」

「少しだけ」

 彼女の手には布が巻かれていた。

 王族の血を使ったのだろう。

 レオンは頷いた。

「ありがとうございます」

「証人として当然です」

 さらに、ダニエルが西側から走ってきた。

「西防壁、完了! 東水門は所長がやったはずだ!」

「旧聖堂は?」

「お前の接続鍵次第だろ」

「ああ」

 最後に、エリスが姿を現した。

 ダニエルの部下に守られながら、顔は青い。

 けれど、魔石を抱える手はしっかりしていた。

「来たか」

 レオンが言うと、エリスは頷いた。

「はい」

 全員が揃った。

 まだセラフィーナはいない。

 彼女はこれから、罪人として処刑台へ連れてこられる。

 その瞬間から、最後の裁判が始まる。

 朝の第一鐘が鳴った。

 王都が目覚める。

 中央広場へ、人々が集まり始める。

 兵士たちが隊列を整え、聖教会の旗が掲げられる。

 遠くから、黒い馬車が見えた。

 死刑囚を運ぶ馬車。

 白い囚人服の聖女が、その中にいる。

 ユリウスが聖剣に手を置いた。

 クラウディアが王家の印章を握った。

 エリスが記録魔石を抱いた。

 ダニエルが小さく息を吐いた。

 レオンは、真実宣告の補助印を手の中に収めた。

 処刑まで、あと一日。

 いや。

 もう、処刑の日だった。

 公開処刑を、公開裁判へ。

 死刑台を、真実の法廷へ。

 王国が七日かけて作り上げた嘘を、ここで裁く。

 レオンは、朝日に照らされる処刑台を見上げた。

「始めよう」

 その声は静かだった。

 けれど、その一言で、全員が前を向いた。


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