第10章 処刑前夜――証人たちは消されていく
処刑前夜の王都は、祭りの前に似ていた。
中央広場には、朝から人が集まっていた。
処刑は明日だ。
まだ聖女セラフィーナ・エルシアが広場へ引き出されるわけではない。
それでも人々は、黒い処刑台を見に来た。
大工たちが最後の補強を行い、王国兵が柵を設置し、聖教会の司祭たちが聖銀粉を撒いている。その周囲を、民衆が遠巻きに眺めていた。
「本当に、明日なんだな」
「聖女様が……」
「聖女じゃない。裏切り者だろ」
「でも、まだ信じられないよ」
「勇者様も来るらしいぞ」
「勇者様が見届けるなら、やっぱり本当なんじゃないか」
「王女殿下も参列されるって聞いた」
「じゃあ、王家も教会も勇者も、みんな認めてるってことだろ」
言葉は、広場の空気に溶けていく。
誰もが不安だった。
誰もが答えを欲しがっていた。
聖女は本当に裏切ったのか。
魔王因子とは何なのか。
なぜ、世界を救ったはずの女が、死刑台に立たされるのか。
けれど、人は不安の中に長くいられない。
だから、強い物語を求める。
聖女は裏切り者だった。
勇者は正しかった。
王国は民を守っている。
教会は災厄を清める。
それは分かりやすい。
分かりやすい物語は、人を安心させる。
たとえ嘘でも。
レオン・アルバートは、広場を見下ろす古い時計塔の影にいた。
粗末な外套をまとい、帽子を深く被っている。
今の彼は、異端審問官ではない。
逃亡犯だ。
王都の掲示板には、彼の似顔絵が貼られている。似てはいないが、時間が経てば人々は特徴を覚える。若い男、黒髪、灰色の目、審問官だった男。目撃情報には報奨金。
長く表を歩くことはできない。
それでも、彼は広場を見ていた。
処刑台。
断罪剣を据える台座。
その下に隠された聖銀導線。
中央大聖堂へ伸びる封印回路。
地下聖堂の沈黙の鐘。
七本目の封印柱。
処刑台は、死刑のための舞台ではない。
王都を巨大な器に変えるための装置だ。
レオンは、外套の内側に手を触れた。
そこには、沈黙の鐘から持ち帰った接続鍵がある。
そして王女の密書。
エルネストの魔力記録板。
ライネルの記録魔石。
証拠は揃いつつある。
だが、証拠は語らなければ意味がない。
語る者がいなければ、紙も石もただの物だ。
だから、証人が必要だった。
勇者ユリウス。
王女クラウディア。
騎士ライネルの妹エリス。
聖女セラフィーナ。
そして、審問官レオン。
処刑当日、中央広場に王都中の民衆が集まる。
そこで公開処刑を、公開裁判に変える。
そのためには、全員が生きて広場へ立たなければならない。
当然、敵もそれを許さない。
証人は、消される。
処刑前夜とは、証拠が燃やされる夜だ。
「レオン」
背後から声がした。
勇者ユリウスだった。
今日の彼は、昨日よりもさらに目立たない服を着ている。
ただし、顔が良すぎる問題は解決していない。
「八点」
レオンが言うと、ユリウスは顔をしかめた。
「何が」
「変装」
「昨日より下がったぞ」
「帽子の被り方が不自然だ」
「勇者は帽子を被る訓練を受けていない」
「今後の課題だな」
「今後があればな」
ユリウスは広場を見下ろした。
処刑台を見た瞬間、彼の表情から軽口が消えた。
「明日、あそこにセラフィーナが立つ」
「ああ」
「そして俺は、本来なら勇者として処刑を見届ける役だった」
「今もその予定だ」
「分かっている」
ユリウスは聖剣を布で包んだまま、腰に下げていた。
勇者が処刑式に参列するのは当然だ。
だから彼は表から広場へ入れる。
敵は、彼をまだ利用できると思っている。
民衆の前で勇者に聖女の罪を認めさせる。
そして処刑する。
それが、ギルベルト王弟とオズワルド聖務卿の筋書きだ。
「利用されるのは得意か」
レオンが問うと、ユリウスは苦く笑った。
「半年ほど訓練された」
「なら、今度は利用し返せ」
「ああ」
その声には、迷いが残っていた。
だが逃げる気配はない。
それで十分だ。
「エリスは?」
「南区の隠れ家にいる。だが、長くは持たない」
「監視が?」
「いや、もっと悪い」
「何だ」
「隠れ家の周囲に、王弟の私兵が集まり始めている」
レオンは目を細めた。
「早いな」
「エリスが記録魔石を持っていることに気づいたのかもしれない」
「あるいは、気づく前に消すつもりか」
「どちらにせよ、今夜動く」
処刑前夜。
敵が最初に狙うなら、エリスだ。
彼女は王族でも勇者でもない。
守る兵もいない。
消しても大きな騒ぎになりにくい。
しかも、ライネルの手紙と記録魔石を持っている。
最も弱く、最も危険な証人。
レオンは広場から目を離した。
「行くぞ」
「分かった」
「殺すな」
「またそれか」
「王弟の私兵を勇者が殺せば、処刑前に反逆者として拘束される」
「分かってる」
「本当に?」
「努力する」
「私の台詞を取るな」
「便利なんだよ」
二人は時計塔を降りた。
王都の夕暮れは、赤かった。
処刑台の黒い木枠が、その赤を吸っているように見えた。
*
エリス・フォードの隠れ家は、南区の廃工房だった。
もともとは染物職人の作業場だったらしい。
中庭には割れた染料壺が転がり、壁には青や赤の染みが残っている。何年も使われていないため、外から見ればただの空き家だ。
だが、だからこそ隠れ家に向いていた。
少なくとも昨日までは。
レオンとユリウスが近づいた時、周囲の空気はすでに変わっていた。
路地に人がいない。
南区は貧しい地区だが、夜でも完全に無人になることは少ない。酔った男、野良犬、帰宅する労働者、窓からこちらを見る老婆。そうした気配があるはずだった。
今は、ない。
意図的に人払いされている。
ユリウスが低く言った。
「囲まれてるな」
「見える範囲で六人」
「見えない範囲で倍か」
「少なく見積もってな」
「楽しい夜だ」
「勇者らしくない感想だ」
「勇者らしい感想は?」
「民を守るため、ここで退くわけにはいかない」
「それ、言わされる側だとかなりしんどいな」
「知っている」
二人は路地の影に身を寄せた。
廃工房の正面には、商人風の男が二人。
だが靴が軍用だ。
裏手には、荷車を押す男。
荷車の中には布がかけられている。おそらく武器か、火薬か。
屋根の上に弓兵が一人。
さらに、路地の角に白い仮面。
聖教会もいる。
「正面から行くか?」
ユリウスが問う。
「勇者らしいな」
「褒めてるか?」
「まったく」
「じゃあどうする」
「裏手の荷車から潰す。火を使われるとエリスが危ない」
「分かった」
「私は荷車へ行く。あなたは屋根の弓兵を」
「了解」
「殺すな」
「三回目だぞ」
「大事なことだ」
ユリウスは小さく息を吐き、壁を蹴って屋根へ上がった。
勇者の身体能力は、やはり普通ではない。
音も少ない。
顔は目立つが、動きは隠密向きだった。
レオンは路地を低く走った。
荷車の男は、まだこちらに気づいていない。
荷車の布の下から、油の匂いがする。
やはり火を使うつもりだ。
エリスの家を焼いた時と同じ。
証人を焼く。
証拠を焼く。
記憶を焼く。
彼らのやり方は、いつも分かりやすい。
レオンは背後から男の膝裏を蹴った。
男が崩れる。
口を開く前に、首筋へ短剣の柄を叩き込む。
気絶。
荷車の布をめくる。
油壺、火付け石、煙幕玉。
「悪趣味な品揃えだな」
レオンは油壺の栓を抜き、中身を排水溝へ流した。
その時、屋根の上で短い悲鳴が上がった。
弓兵が落ちてくる。
いや、落とされた。
ユリウスが屋根の上から顔を出す。
「殺してない」
「聞く前に言うのは不安になる」
「本当に殺してない!」
正面の二人が気づいた。
「敵襲!」
声が路地に響く。
同時に、白い仮面が術式を展開した。
聖銀の鎖が地面を走り、廃工房の扉へ向かう。
中のエリスを拘束する気か。
レオンは短剣を投げた。
鎖の術式核に当たる。
火花。
術式が乱れる。
ユリウスが屋根から飛び降り、正面の男二人の間に着地した。
聖剣はまだ抜かない。
抜けば、勇者と分かる。
だから彼は布に包んだままの剣で、二人の手首と腹を打った。
速い。
容赦はないが、殺してはいない。
「うまいな」
レオンが言うと、ユリウスは即座に返す。
「褒めるな。調子が狂う」
「では、まだ雑だ」
「それも腹立つな!」
廃工房の扉が開いた。
エリスが顔を出す。
目が怯えている。
だが、胸元にはしっかり布包みを抱えていた。
「レオン様!」
「中へ戻れ!」
「でも」
「証拠を離すな!」
エリスが頷き、扉を閉めようとした。
その瞬間、路地の奥から黒い光が走った。
魔王因子に侵された兵。
黒い血管が首筋まで浮かび、目の白目が濁っている。
以前よりも状態が悪い。
ほとんど理性がない。
その兵が、斧を振り上げて扉へ突進した。
ユリウスが間に入る。
布が裂け、聖剣の光が漏れた。
「くそっ」
彼は聖剣を抜いた。
金色の光が路地を照らす。
その瞬間、王弟の私兵たちが硬直した。
「勇者……?」
「勇者ユリウス様だと?」
動揺が走る。
ユリウスは兵の斧を受け止めた。
「エリスを連れて出ろ!」
レオンは扉へ走った。
エリスを引き出す。
彼女は震えていたが、走れる。
「裏へ」
「はい」
「魔石は?」
「ここに」
「絶対に落とすな」
「はい!」
レオンはエリスを連れて裏口へ向かう。
だが、そこには別の白い仮面が立っていた。
「ライネル・フォードの妹ですね」
穏やかな声。
「その魔石を渡しなさい。あなたには、それを持つ意味が分からない」
エリスはレオンの背後で震えた。
レオンは短剣を構える。
「意味なら分かっている」
「あなたではなく、彼女に聞いています」
白い仮面はエリスを見た。
「お兄様は死にました。戻りません。いまさら真実を暴いて、何になりますか」
エリスの呼吸が乱れる。
「あなたが黙っていれば、これ以上誰も傷つかない。聖女は明日、正しく処刑されます。王都は救われます。お兄様も、王国の騎士として名誉ある死を与えられる」
甘い言葉だった。
脅しではない。
慰めの形をした毒。
エリスの手が、布包みを抱く力を弱めた。
レオンは何も言わなかった。
今、彼が否定すれば、エリスは彼の言葉に頼る。
それでは証人になれない。
証人は、自分の足で立たなければならない。
白い仮面は続ける。
「あなたはまだ若い。これから生きていけます。兄の死に縛られる必要はない」
エリスは俯いた。
「兄は」
声が震えている。
「兄は、名誉がほしかったわけではありません」
白い仮面の動きが止まった。
エリスは顔を上げた。
涙が浮かんでいる。
だが、瞳は逃げていなかった。
「兄は、聖女様を疑うなと書きました。王都の地下を調べると書きました。怖かったはずです。それでも書いたんです」
「だから?」
「だから、私も黙りません」
彼女は布包みを胸に抱きしめた。
「兄を、嘘の中に埋めたままにはしません」
白い仮面の声が冷えた。
「残念です」
術式が展開する。
レオンが踏み込もうとした瞬間、背後から金色の光が走った。
ユリウスだ。
聖剣の光が、白い仮面の術式を焼き切る。
「残念なのはそっちだ」
勇者は肩で息をしていた。
背後には、倒れた魔王因子兵。
生きている。
気絶しているだけだ。
「エリス」
ユリウスは言った。
「君の兄は、最後まで騎士だった。俺はそれを知ってる。だから明日、君が話す時は、俺も隣に立つ」
エリスの目から涙がこぼれた。
「勇者様……」
「俺は、君の兄に顔向けできないことをした。だから、今度は逃げない」
白い仮面が後退する。
レオンは逃がさなかった。
足元へ短剣を投げ、壁際へ追い詰める。
「誰の命令だ」
「聖教会は、常に王都のために」
「暗唱はいい。誰の命令だ」
白い仮面は笑った。
「明日、すべて終わります」
「終わらせない」
「あなた方が何をしても、断罪剣は立ちます。処刑台はすでに七本目の柱として完成している。聖女の死は避けられません」
レオンの目が細くなる。
「七本目が処刑台だと、なぜ言った」
仮面の男が、わずかに黙った。
失言。
だが、もう遅い。
ユリウスも気づいた。
「処刑台そのものが柱……」
「確定だな」
レオンは低く言った。
白い仮面は口を閉ざした。
もう何も言わないつもりだ。
レオンは彼を拘束し、エリスへ向き直った。
「行くぞ。ここはもう使えない」
「はい」
「魔石は守れたな」
「はい」
「なら、あなたは明日、証人になる」
エリスは青ざめた顔で、それでも頷いた。
「兄のために」
「兄のためだけではない」
レオンは言った。
「あなた自身のためにもだ」
エリスは一瞬驚き、それから小さく頷いた。
遠くで鐘が鳴った。
夜の第一鐘。
処刑前夜が、正式に始まった。
*
王宮では、クラウディア王女が病に倒れたことになっていた。
少なくとも、王宮内の公式記録にはそう書かれた。
夕刻、王女の私室前に王宮医師が呼ばれ、侍女たちが慌ただしく出入りした。ほどなくして、ギルベルト王弟の代理騎士が廊下に立ち、王女は高熱のため明日の処刑式参列を見合わせるかもしれない、と告げた。
それは、穏やかな監禁だった。
鍵は外からかけられた。
窓の下には兵が配置された。
侍女は入れ替えられ、幼い頃から仕えていた者は全員遠ざけられた。
クラウディアは、寝台に腰掛けていた。
熱などない。
病気でもない。
だが、彼女の周囲には病の芝居が用意されていた。
薬湯。
冷たい布。
医師の診断書。
王宮は、嘘を形にすることが得意だった。
「王女殿下」
部屋の外から声がした。
ギルベルト王弟の代理、バルツァー卿だ。
「お加減はいかがですかな」
「悪くありません」
「それは何より。ですが、明日は大事な儀式です。無理をなさらず、部屋でお休みください」
「聖女の処刑を、王族として見届ける義務があります」
「その義務は、ギルベルト殿下が果たされます」
「叔父上が?」
「はい」
「父王陛下ではなく?」
一瞬、沈黙があった。
扉の向こうで、バルツァー卿が笑う気配がした。
「陛下はご体調が優れません。王弟殿下が代理を務めるのは当然でしょう」
「そう」
クラウディアは静かに言った。
「叔父上は、代理がお好きですね」
「殿下?」
「いいえ。独り言です」
バルツァー卿はしばらく扉の前にいたが、やがて足音が遠ざかった。
クラウディアは立ち上がった。
部屋の中には、誰もいない。
表向きは病人の休息のため、人払いされている。
実際には、逃げ道を塞いだつもりなのだろう。
だが、マリナは知っていた。
この部屋には、王女付き侍女長だけが知る古い通路がある。
かつて、王女が政略結婚から逃げようとした時代に使われたと伝わる、半ば伝説のような道。
マリナは以前、冗談めかして言った。
――殿下。本当に逃げたくなった時のために、覚えておいてくださいませ。
その時、クラウディアは笑った。
王女が逃げるなど、物語の中だけだと思っていた。
けれど今、その道が必要になっている。
クラウディアは化粧台の下に手を伸ばした。
木枠の奥。
小さな金具。
押す。
壁の装飾板が、わずかに浮いた。
その隙間から、古い紙片が落ちた。
マリナの筆跡だった。
殿下がこれを読んでいるなら、私はおそらく側にいないのでしょう。
泣くのは後で。
王女が泣く時は、必ず扉を閉めてからです。
今は、逃げてください。
左の通路は使えません。二十年前に崩れています。
右へ。
三つ目の燭台を回すと、礼拝堂の裏へ出ます。
どうか、セラフィーナ様をお見捨てにならないでください。
クラウディアの視界が、少しだけ滲んだ。
「マリナ……」
泣くのは後で。
そう書かれている。
だから、泣けなかった。
クラウディアは紙片を胸に押し当て、深く息を吸った。
「ありがとう」
小さく言い、彼女は通路へ入った。
*
王宮の隠し通路は、狭く、暗かった。
王女のドレスで通るための道ではない。
だからクラウディアは、あらかじめ用意していた侍女服に着替えていた。髪を布で隠し、顔に薄く煤を塗る。鏡に映る自分は、王女には見えない。
それが少しだけ新鮮だった。
王女ではない自分。
ただの一人の証人。
通路の途中で、一度足音が近づいた。
クラウディアは壁に身を寄せ、息を止めた。
兵士たちの声。
「王女殿下は?」
「眠っておられる」
「本当に病か?」
「知らん。だが王弟殿下の命令だ。朝まで誰も近づけるな」
「明日の処刑、荒れそうだな」
「勇者様が見届けるんだ。問題ないだろう」
「聖女派が騒ぐかもしれない」
「騒いだら異端として捕らえればいい」
足音が遠ざかる。
クラウディアは拳を握った。
聖女派。
異端。
彼らは、セラフィーナを信じる者をすでに罪人として数えている。
明日の広場では、少しでも疑問を口にした民が捕らえられるかもしれない。
それを止めるためにも、彼女は行かなければならない。
三つ目の燭台を回す。
壁が開く。
そこは王宮礼拝堂の裏だった。
だが、外へ出ようとした瞬間、声がした。
「殿下」
クラウディアは凍りついた。
振り向く。
そこに立っていたのは、若い侍女だった。
マリナの死後、新しく部屋に付けられた者の一人。
名はリーネ。
ギルベルト側の監視役だと思っていた。
クラウディアは身構える。
「叫ぶつもりですか」
リーネは首を振った。
「いいえ」
「では、なぜここに」
「マリナ様に、言われていました」
「マリナに?」
「殿下が礼拝堂裏から出てこられたら、これを渡すようにと」
リーネは小さな袋を差し出した。
中には、王家の古い印章と、短い地図が入っていた。
「あなたは、叔父上側では」
「そう見えるようにしろと、マリナ様に」
クラウディアは言葉を失った。
マリナは、そこまで考えていた。
自分が死んだ後のことまで。
リーネは震える声で続けた。
「私は怖いです。殿下。王弟殿下に逆らえば、家族がどうなるか分かりません。でも、マリナ様が言いました。怖いなら、怖いまま正しい扉を開けなさい、と」
クラウディアは、彼女の手を握った。
「ありがとう」
「私はここまでです」
「十分です」
「殿下」
「何?」
「セラフィーナ様を」
リーネは泣きそうな顔で言った。
「助けてください」
クラウディアは頷いた。
「必ず」
王女は礼拝堂を抜け、夜の王宮庭園へ出た。
空には月があった。
処刑前夜の月は、冷たく白かった。
*
同じ頃、地下監獄ではセラフィーナの牢に聖務卿オズワルドが訪れていた。
白い祭服。
金糸の刺繍。
深く窪んだ双眸。
彼はいつも通り穏やかだった。
穏やかすぎて、牢の冷気よりも冷たかった。
看守たちは下がり、聖教会の司祭だけが外に控えている。
セラフィーナは牢の中で立っていた。
聖銀の枷。
封言の首輪。
明日、処刑台へ引き出される死刑囚。
だが、彼女の目は以前と違っていた。
まだ怖い。
死ぬことも、失敗することも、王都を救えないことも怖い。
それでも、その怖さの奥に、小さな火が灯っている。
生きたい。
その言葉が、彼女の中に残っていた。
「明日です」
オズワルドは言った。
「長かったですね、セラフィーナ」
「はい」
「あなたは、よく耐えました」
「耐えたことを、褒めに来られたのですか」
「ええ。あなたは最後まで聖女でした」
「私は、明日死ぬために聖女だったわけではありません」
オズワルドの眉が、わずかに動いた。
「変わりましたね」
「そうでしょうか」
「レオン・アルバートの影響ですか」
「彼は、私を人間だと言いました」
「危険な言葉です」
「なぜ?」
「聖女は人間であってはならない。人間は迷い、恐れ、憎み、欲しがる。人間である聖女など、民は必要としていません」
セラフィーナは静かに彼を見た。
「それは、民が決めることですか。それとも、あなたが決めたことですか」
「私は民を知っています」
「本当に?」
「人は弱い。真実に耐えられない。恐怖に飲まれれば暴徒になる。だから物語が必要なのです」
「裏切りの聖女という物語が?」
「はい」
オズワルドはあっさり認めた。
「あなたは人々に愛されすぎた。だからこそ、あなたが罪を背負えば、人々は一つの悲劇として受け入れられる。王国は明日へ進める」
「その明日のために、また別の器を作るのですか」
オズワルドの目が細くなった。
「どこまで聞きました」
「十分に」
「レオンですね」
「真実は一人のものではありません」
「彼は、明日まで生きられないかもしれません」
セラフィーナの指が、わずかに震えた。
だが彼女は視線を逸らさなかった。
「脅しですか」
「警告です」
「同じです」
「いいえ。私は本当に惜しいと思っています。彼は優秀な審問官です。正しい場所にいれば、国のために働けた」
「正しい場所とは、嘘の側ですか」
「秩序の側です」
オズワルドの声は、初めて少しだけ硬くなった。
「セラフィーナ。あなたは優しすぎる。目の前の一人を見捨てられない。だから、国を動かすことが分からない。一人を救うために万人を危険に晒す。それは聖女の慈悲ではなく、幼い感傷です」
「では、あなたは万人を救うために一人を殺すのですか」
「必要なら」
「その一人が、二人になり、百人になり、名もない村になり、辺境の王子になっても?」
「必要なら」
セラフィーナは目を閉じた。
怒りではない。
悲しみだった。
「あなたも、怖かったのですね」
オズワルドの表情が消えた。
「何を」
「王国が滅びることが。民が死ぬことが。自分の祈りでは救えないものがあることが」
「私は恐怖で動いているのではありません」
「では、何で?」
「責任です」
「責任という名の恐怖です」
牢の外の司祭が動きかけた。
オズワルドが手で制する。
彼は、セラフィーナを見つめた。
「あなたは、私を憐れんでいるのですか」
「いいえ」
セラフィーナは首を振った。
「止めようとしています」
「同じことです」
「違います。憐れむだけなら、私はまた黙っていたでしょう」
セラフィーナは一歩、鉄格子へ近づいた。
「私は明日、黙りません」
その言葉が、地下牢に響いた。
オズワルドは、しばらく彼女を見ていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「ならば、明日は予定より賑やかになりそうですね」
「はい」
「あなたは後悔します」
「もう、しています」
セラフィーナは言った。
「たくさん後悔しています。黙ったこと。レオンを巻き込んだこと。クラウディア様を傷つけたこと。勇者様を一人にしたこと。ライネル卿を救えなかったこと。ゼルヴァ様を、最後まで人として葬れなかったこと」
「なら、なぜ」
「後悔しているから、もう同じことをしません」
オズワルドは目を伏せた。
「残念です」
彼は背を向けた。
「明日、あなたは処刑台へ立つ。そこに至るまでの鎖も、首輪も、封印も、すべて強化します。レオン・アルバートが何を企んでいようと、あなたは逃げられない」
「逃げません」
オズワルドが足を止めた。
セラフィーナは静かに言った。
「私は、裁判をやり直すために立ちます」
聖務卿は振り返らなかった。
ただ、低く告げた。
「では、裁かれましょう。あなたも、彼も、王国も」
そして彼は去った。
扉が閉まる。
地下牢に静けさが戻る。
セラフィーナは、その場に膝をつきそうになった。
怖い。
怖い。
怖い。
明日が怖い。
けれど、彼女は両手を握った。
私は、生きたいです。
その言葉を、もう一度だけ心の中で言った。
*
夜更け。
王都南区の廃劇場に、五人が集まった。
レオン。
ユリウス。
クラウディア。
エリス。
そして、アーヴィン所長から密かに遣わされた審問官ダニエル。
廃劇場は、かつて旅芸人の一座が使っていた建物だった。
舞台は傾き、客席は壊れ、天井には穴が開いている。
だが、皮肉にも作戦会議には向いていた。
明日、彼らは王都最大の舞台へ上がる。
中央広場の処刑台。
そこを法廷に変えるために。
レオンは舞台の床に王都の地図を広げた。
その上に、七つの印を置く。
「七つの封印柱」
彼は言った。
「中央大聖堂地下。王城地下。旧聖堂。北門。東水門。西防壁。そして処刑台」
ユリウスが腕を組む。
「同時に破壊する必要があるんだよな」
「ああ。一つずつでは駄目だ。残った柱が補完する」
「人手が足りない」
「全てを完全破壊する必要はない。接続を断てばいい」
「誰がどこを担当する」
クラウディアが言った。
「王城地下は私が行きます」
ユリウスが反射的に言う。
「危険だ」
「王族の血が必要な区画です。私以外では開けられません」
「護衛は」
「リーネが王宮内で手引きしてくれます。それに、私も短剣くらいは使えます」
レオンが少し驚いて見ると、クラウディアは眉を上げた。
「王女が飾りだと思いましたか」
「少し」
「正直すぎます」
「真実宣告の練習中なので」
「便利に使わないでください」
ユリウスが地図を見た。
「北門と西防壁は、俺が走れば間に合うか?」
「間に合わない」
「だよな」
ダニエルが手を上げた。
「西防壁は俺が行く」
「お前が?」
レオンが見ると、ダニエルは苦笑した。
「一応、まだ審問庁の人間だからな。西防壁の検問を抜ける口実は作れる」
「見つかれば処分される」
「お前を逃がした時点で、だいたい詰んでる」
「悪いな」
「謝るな。怖くなる」
エリスがおずおずと口を開いた。
「あの、私は」
「あなたは広場だ」
レオンが言った。
「兄の記録魔石を持って、証人として立つ」
「私が、広場で」
「はい」
エリスは青ざめた。
「大勢の前で話すのは、得意ではありません」
「得意な者のほうが少ない」
「でも、私が失敗したら」
「失敗してもいい」
レオンは言った。
「震えても、言葉に詰まっても、泣いてもいい。証人に必要なのは、上手く話すことではない。見たもの、知っているものを、自分の言葉で出すことだ」
エリスは布包みを握った。
「……はい」
ユリウスが言う。
「俺は広場で偽証を告白する。その後、処刑台へ向かう」
「処刑台は七本目の柱だ。あなたの聖剣が必要になる」
「ああ」
「ただし、早すぎても駄目だ。処刑台を破壊する前に民衆を味方につけなければ、聖女の暴走に見せかけられる」
「なら、裁判が先か」
「そうだ」
レオンは処刑台の印を指で押さえた。
「明日、公開処刑を公開裁判に変える。順番はこうだ」
彼は一つずつ告げた。
「まず、ユリウスが勇者として処刑台前へ立ち、偽証を告白する。民衆は動揺する。聖教会は彼を拘束しようとする。その瞬間、クラウディア王女が王族として公開再審を宣言する」
「王女の権限で足りるか?」
「王族が民衆の前で宣言すれば、時間は稼げる」
クラウディアが頷く。
「私が王家の密書を示します。父王の署名がない以上、王弟と聖務卿の独断として切り込むこともできます」
「次にエリスがライネルの記録魔石を出す」
エリスが息を呑む。
「そこでライネルの証言が出れば、聖女裁判の根幹が崩れる。最後に私が真実宣告を行う」
ダニエルが顔をしかめた。
「真実宣告って、神前裁判のやつだろ。あれ、今の状態のお前が使ったら死ぬんじゃないか」
「死なないよう努力する」
「軽いな」
「重く言うと怖くなる」
「さっきの俺の真似かよ」
ユリウスが低く言った。
「レオン。真実宣告は、何が必要なんだ」
「宣告者が、自分の中の嘘を認めていること」
「嘘をつかないことじゃなく?」
「人間は完全に嘘を消せない。だから、嘘を嘘として見ていることが必要になる」
クラウディアが静かに問う。
「あなたには、まだ嘘がありますか」
「ある」
レオンは即答した。
全員が彼を見る。
「私は、最初は審問官として真実を追っていると思っていた。だが、それだけではない。セラフィーナに救われた過去がある。彼女に死んでほしくないという私情もある。王国の嘘を暴きたい怒りもある。自分がこれまで見逃してきたかもしれない罪への恐怖もある」
「それを、嘘ではなく認める?」
「ああ」
「なら」
クラウディアは頷いた。
「あなたは使えると思います」
「なぜ」
「私も、自分が王家を守りたい気持ちと、王家を裁かなければならない気持ちの両方を持っています。どちらかだけを正義にするのは、嘘だと思うからです」
レオンは少しだけ沈黙した。
「王女殿下は、審問官に向いていますね」
「嫌です」
「即答ですね」
「嫌です」
「二回言うほど」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
だが、すぐにレオンは地図へ視線を戻した。
「問題は、封印柱の六本だ。広場で裁判を起こしている間に、各所の接続を断つ必要がある」
「中央大聖堂地下と旧聖堂は?」
ユリウスが問う。
「中央大聖堂地下は、処刑台と直結している。私とセラフィーナが対応する」
「セラフィーナは処刑台にいる」
「だからこそ可能だ。処刑台から導線に干渉できる」
「危険だな」
「ああ」
ダニエルが頭をかいた。
「東水門は?」
「アーヴィン所長が手を回しているはずだ」
「はず?」
「直接確認はできない」
「不安すぎる」
「だが、あの人はこういう時、嫌なほど手堅い」
レオンは地図の端に小さな印を置いた。
「旧聖堂は、私が持ち帰った接続鍵で一時的に遮断できる。問題は、敵が儀式を強制起動した場合だ」
「オズワルドがやるな」
ユリウスが言った。
「追い詰められたら、民衆の納得なんか待たない」
「その通りだ」
「その場合は?」
「裁判と同時に、戦闘になる」
沈黙。
全員が理解していた。
明日の広場では、言葉だけで勝つことはできない。
証言。
証拠。
宣告。
そして、剣。
全てが必要になる。
エリスが小さく言った。
「怖いです」
誰も笑わなかった。
ユリウスが頷く。
「俺も怖い」
クラウディアも言った。
「私もです」
ダニエルが肩をすくめる。
「俺もだ。正直、胃が痛い」
最後に、レオンも言った。
「私も怖い」
エリスが少し驚いたように彼を見る。
「レオン様も?」
「怖い」
「そう、なのですか」
「だが、怖いからこそ手順を決める」
レオンは地図を畳んだ。
「恐怖は消せない。だから、恐怖があっても動けるようにする」
ユリウスが笑った。
「審問官らしい励ましだ」
「役に立てばいい」
「立つよ」
遠くで鐘が鳴った。
夜の第二鐘。
処刑前夜は、少しずつ深くなっていく。
*
作戦会議が終わった後、レオンは一人で廃劇場の客席に残っていた。
他の者たちは、それぞれの準備に向かった。
ユリウスは聖剣の封印を調整するため、王都外れの古い祠へ。
クラウディアは王宮へ戻るための別経路へ。
エリスはダニエルに守られ、別の隠れ家へ。
レオンだけが、舞台を見ていた。
壊れた舞台。
剥がれた幕。
穴の空いた天井から差す月光。
明日、彼が立つ舞台は、もっと大きい。
民衆の視線。
王家の圧力。
聖教会の断罪。
魔王因子の儀式。
その全てを前に、真実宣告を使う。
自分の中に嘘があれば、術式は失敗する。
命を削る。
あるいは、真実のほうに焼かれる。
レオンは、静かに息を吐いた。
「私は」
誰もいない客席で、彼は呟いた。
「セラフィーナを救いたい」
声に出す。
確認する。
「恩があるからではない」
違う。
それだけではない。
「正しいからだけでもない」
それも違う。
正義だけなら、ここまで恐ろしくはない。
「彼女に、生きてほしい」
その言葉は、思っていたより自然に出た。
聖女としてではなく。
救国の象徴としてではなく。
死刑囚としてでもなく。
セラフィーナという一人の人間に。
生きてほしい。
その私情を、認める。
審問官としては、偏っている。
だが、偏っていることを隠す方が嘘だ。
真実宣告に必要なのは、感情を消すことではない。
感情を嘘で覆わないことだ。
「よし」
レオンは立ち上がった。
その時、客席の奥から声がした。
「独り言が増えたな」
アーヴィン所長だった。
黒い外套を着て、壊れた座席の陰に立っている。
レオンは驚かなかった。
この人なら、来ると思っていた。
「逃亡犯に会うのは危険ですよ」
「会っていない。古い劇場を見回っていただけだ」
「便利な偶然ですね」
「老人には偶然が多い」
アーヴィンは舞台へ上がった。
手には、小さな革袋がある。
「持っていけ」
「これは」
「審問庁の真実宣告用の補助印だ。正式なものではない。古い型だが、使える」
「所長」
「貸すだけだ。返せ」
「生きていれば」
「返せ」
「はい」
レオンは革袋を受け取った。
中には、黒い印章が入っていた。
審問官の天秤紋。
ただし、通常のものより古く、刻まれた線が深い。
「なぜここまでしてくれるのですか」
レオンは問うた。
アーヴィンはしばらく黙っていた。
それから、壊れた客席へ目を向けた。
「昔、私は一度、真実宣告を使わなかった」
「使わなかった?」
「ああ。使えば、王家と聖教会の嘘を暴けたかもしれない事件があった。だが私は、国のためだと言われ、民のためだと言われ、黙った」
「それが、以前言っていた嘘の書類ですか」
「そうだ」
「誰が死んだのです」
アーヴィンは目を閉じた。
「監察官だ」
レオンは息を止めた。
討伐隊から消された五人目。
王国監察官。
「まさか」
「セラフィーナの討伐隊に同行した監察官は、私の弟子だった」
アーヴィンの声は低かった。
「名は、ノア・ラングレー。優秀な審問官だった。感情を持たない秤などと呼ばれるお前より、よほど人間ができていた」
「ひどい比較ですね」
「事実だ」
「否定できない」
アーヴィンは小さく笑ったが、すぐに表情を消した。
「ノアは魔王討伐隊の監察官として同行した。だが帰還記録から名前が消えた。私は抗議した。だが上は言った。監察官は任務中に異端化し、記録から抹消されたと」
「信じたのですか」
「信じなかった。だが、署名した」
沈黙。
「なぜ」
「王都の封印が危ういと言われた。真実を追えば、もっと多くが死ぬと言われた。私は、あの時のお前ほど若くなかった。だから、賢いふりをした」
「後悔していますか」
「毎日だ」
アーヴィンはレオンを見た。
「ノアは、何かを見た。ライネルと同じように。そして消された。おそらく、セラフィーナもそれを知っている」
「だから、監察官の記録が消されていた」
「ああ」
「所長は、明日」
「私は庁舎にいる。表向きは、お前を捕らえる側だ」
「でしょうね」
「だが、東水門の封印柱は処理する」
レオンは顔を上げた。
アーヴィンは淡々と言った。
「お前が頼む前に、手は打った」
「頼もしいですね」
「褒めるな。気味が悪い」
「では、当然の働きです」
「腹が立つな」
短いやり取り。
だが、その奥にある信頼は確かだった。
アーヴィンは背を向けかけ、最後に言った。
「レオン」
「はい」
「明日、真実を裁け」
「はい」
「だが、人を裁きすぎるな」
レオンは沈黙した。
アーヴィンの声は、静かだった。
「真実は刃だ。振り回せば、救う相手まで切る」
「覚えておきます」
「忘れるな」
そう言って、所長は闇へ消えた。
*
その頃。
中央大聖堂の地下では、オズワルド聖務卿が沈黙の鐘へ祈りを捧げていた。
王都の地下導線は、すでに準備を終えている。
七本の封印柱。
処刑台の断罪剣。
聖銀の鐘。
聖女の身体。
必要なものは、ほぼ揃った。
白い仮面の司祭が報告する。
「エリス・フォードの確保に失敗しました」
「そうですか」
「勇者ユリウスが妨害しました」
「やはり」
「王女殿下も部屋を抜け出した可能性があります」
「それも想定内です」
オズワルドは祈りを終え、立ち上がった。
「彼らは明日、広場で真実を語るつもりでしょう」
「処刑を延期しますか」
「いいえ」
「しかし」
「延期すれば、彼らに時間を与えるだけです。予定通り行います」
オズワルドは、地下の壁に刻まれた王都図を見た。
「真実が語られるなら、語らせればよい」
「よろしいのですか」
「民は真実だけでは動きません。恐怖で動く」
彼の指が、中央広場の位置をなぞる。
「聖女が魔王因子を暴走させた。勇者が惑わされた。王女が混乱した。審問官が反逆した。そう見えれば、民は再び秩序を求めます」
「では」
「儀式を一部早めます」
白い仮面たちが顔を上げた。
「処刑前に、断罪剣を起動させる」
「それでは民衆の前で黒い光が」
「だからよいのです」
オズワルドは穏やかに言った。
「恐怖を見せなさい。聖女を生かせば王都が滅びると、民に見せるのです」
「もし制御を失えば」
「失いません」
「ですが」
「失いません」
その声には、強い信念があった。
あるいは、狂信と呼ぶべきものが。
「王国は、ここで力を得なければならない。隣国は国境に兵を集めています。魔族残党は山脈の向こうで再編しています。王都の民は平和を当然と思っている。ですが平和は、祈りだけでは保てない」
オズワルドは白い仮面たちを見た。
「力が必要です。圧倒的な力が。二度と魔族に怯えず、隣国に侮られず、内乱に揺らがない力が」
「そのために聖女を」
「一人の聖女で千年の平和が買えるなら、安いものです」
白い仮面たちは沈黙した。
誰も反論しない。
反論できないのか。
反論する言葉を失ったのか。
オズワルドは再び、沈黙の鐘へ向き直った。
「セラフィーナは優しい子です。きっと最後まで、自分を犠牲にしようとするでしょう」
彼は、まるで本当に慈しむように言った。
「だからこそ、器に相応しい」
*
夜の第三鐘。
処刑前夜は、最も深い時間に入った。
王都の各地で、味方たちは動き始めていた。
クラウディアは王宮へ戻らず、王城地下へ向かうための隠し扉に立っていた。
リーネが震える手で鍵を渡す。
「殿下、ご無事で」
「あなたも」
「私は、明日の朝まで殿下が部屋にいるように見せかけます」
「危険です」
「怖いです。でも、マリナ様に叱られたくありません」
クラウディアは彼女を抱きしめた。
「ありがとう」
王女は、王家の罪を背負うため、地下へ降りていった。
西防壁では、ダニエルが検問の兵士へ笑顔で書類を見せていた。
「夜間封印検査だ。上からの命令でね」
「こんな時間に?」
「こんな時間だからだよ。昼間に封印が壊れるとは限らないだろ」
「それは、まあ」
「分かったら通してくれ。俺も早く帰って寝たい」
軽口を叩きながら、彼の背中には冷汗が流れていた。
懐には、小型の封印破断具。
見つかれば反逆罪。
それでも彼は笑っていた。
東水門では、アーヴィン所長が一人、古い封印柱の前に立っていた。
水門の下で、黒い水が流れている。
彼は懐から古い審問官の認可印を取り出した。
「ノア」
小さく呟く。
「遅くなった」
印章が光る。
東水門の封印柱に、亀裂が入った。
北門では、ユリウスが馬を走らせていた。
聖剣を布で包み、夜の街道を駆ける。
明日の処刑式までに戻らなければならない。
それでも、彼には行くべき場所があった。
北門の封印柱を断ち、夜明け前に広場へ戻る。
無茶だ。
だが勇者とは、昔から無茶を押しつけられる役だった。
今度だけは、自分で選んだ無茶だ。
南区の隠れ家では、エリスが兄の記録魔石を抱えていた。
彼女は眠れない。
明日、大勢の前に立つ。
兄の名を語る。
王弟と聖務卿を相手に。
怖い。
逃げたい。
それでも、彼女は魔石を握った。
「兄さん」
小さく呟く。
「私、話すね」
そして、地下牢では。
セラフィーナが一人、祈っていた。
いつものように、人々のために祈るのではない。
王都のために。
友のために。
勇者のために。
王女のために。
騎士の妹のために。
レオンのために。
そして最後に、自分のために。
生きたい。
怖い。
それでも、立つ。
処刑台へ。
死ぬためではなく、裁判をやり直すために。
*
夜明け前。
レオンは中央広場に戻ってきた。
まだ民衆はいない。
だが兵士たちはすでに配置され、処刑台の周囲では司祭たちが最後の祈祷を行っている。
断罪剣は、まだ台座に据えられていなかった。
だが、それがどこにあるかは分かっている。
中央大聖堂の奥。
夜明けの鐘と共に運び出される。
レオンは広場の石畳に膝をつき、指先で床に触れた。
微かに震えている。
地下導線が、すでに起動準備に入っている。
オズワルドは待つ気がない。
処刑の前に、恐怖を見せるつもりだ。
つまり、作戦開始はさらに早まる。
レオンは立ち上がった。
空が白み始める。
処刑の日が来る。
その時、背後から声がした。
「準備は?」
ユリウスだった。
息が上がっている。
北門から戻ったばかりだろう。
服は泥だらけで、頬には小さな傷がある。
「北門は?」
「断った」
「生きているな」
「見れば分かる」
「よくやった」
「だから素直に褒めるな。怖い」
別の路地から、クラウディアが現れた。
侍女服の上に外套を羽織り、手には王家の印章を持っている。
「王城地下は遮断しました」
「怪我は」
「少しだけ」
彼女の手には布が巻かれていた。
王族の血を使ったのだろう。
レオンは頷いた。
「ありがとうございます」
「証人として当然です」
さらに、ダニエルが西側から走ってきた。
「西防壁、完了! 東水門は所長がやったはずだ!」
「旧聖堂は?」
「お前の接続鍵次第だろ」
「ああ」
最後に、エリスが姿を現した。
ダニエルの部下に守られながら、顔は青い。
けれど、魔石を抱える手はしっかりしていた。
「来たか」
レオンが言うと、エリスは頷いた。
「はい」
全員が揃った。
まだセラフィーナはいない。
彼女はこれから、罪人として処刑台へ連れてこられる。
その瞬間から、最後の裁判が始まる。
朝の第一鐘が鳴った。
王都が目覚める。
中央広場へ、人々が集まり始める。
兵士たちが隊列を整え、聖教会の旗が掲げられる。
遠くから、黒い馬車が見えた。
死刑囚を運ぶ馬車。
白い囚人服の聖女が、その中にいる。
ユリウスが聖剣に手を置いた。
クラウディアが王家の印章を握った。
エリスが記録魔石を抱いた。
ダニエルが小さく息を吐いた。
レオンは、真実宣告の補助印を手の中に収めた。
処刑まで、あと一日。
いや。
もう、処刑の日だった。
公開処刑を、公開裁判へ。
死刑台を、真実の法廷へ。
王国が七日かけて作り上げた嘘を、ここで裁く。
レオンは、朝日に照らされる処刑台を見上げた。
「始めよう」
その声は静かだった。
けれど、その一言で、全員が前を向いた。




