第11章 偽りの魔王――人間が作った災厄の器
魔王とは、何か。
その問いに、王都の子どもなら誰でも答えられる。
黒い角を持つ怪物。
魔族を従える災厄。
人間を憎み、王国を滅ぼそうとする悪。
絵本ではそう描かれる。
教会ではそう教えられる。
酒場の歌でも、騎士学校の教本でも、勇者譚の芝居でも、魔王はいつだって同じ顔をしていた。
倒されるべき敵。
憎んでよい悪。
恐怖を一つにまとめるための名前。
けれど、本当に恐ろしいものは、角も翼も持たない。
それは、署名された命令書の中にある。
封印という名の研究記録の中にある。
祈りという名の許可印の中にある。
国のため。
民のため。
未来のため。
そう書かれた、美しい言葉の奥にある。
レオン・アルバートは、夜明け前の中央広場を離れ、廃劇場へ戻っていた。
処刑の日は始まった。
空はもう白み始めている。
だが処刑式が始まるまで、まだわずかな時間がある。
その時間で、最後の整理をしなければならなかった。
証拠。
証言。
嘘。
そして、真実宣告で裁くべきもの。
廃劇場の舞台には、王都の地図が広げられている。
その上に置かれているのは、これまで集めてきた証拠だった。
エルネストの魔力記録板。
クラウディア王女の密書。
沈黙の鐘の接続鍵。
第二礼拝堂の記録札。
白い仮面の金属札。
ライネル・フォードの記録魔石。
そして、セラフィーナのひび割れた聖印。
どれか一つだけなら、握り潰される。
どれか一つだけなら、偽造だと叫ばれる。
どれか一つだけなら、異端者の妄言として処理される。
だが、全てを並べれば違う。
点が線になる。
線が絵になる。
絵が、王国の隠した怪物の輪郭を描き出す。
魔王ゼルヴァ。
人類最大の敵。
救国の勇者と聖女が討伐したはずの災厄。
その正体は、人間が作った器だった。
*
ユリウスは、舞台の端に腰を下ろしていた。
北門の封印柱を断つために夜通し走り、戻ってきたばかりだ。服は泥に汚れ、頬には傷がある。だが、眠る様子はない。
聖剣を膝の上に置き、じっと見つめている。
その顔は、勇者というより、裁きを待つ青年のものだった。
「寝ていないな」
レオンが言うと、ユリウスは短く笑った。
「お前もだろ」
「私は慣れている」
「徹夜に?」
「不愉快な書類を読むことに」
「それ、慣れていいものか?」
「今となっては疑問だな」
ユリウスは聖剣の柄を撫でた。
「この剣も、舞台装置だったのかもしれない」
「聖剣が?」
「ああ。勇者が魔王を倒す。民が安心する。王家は信頼を取り戻す。教会は奇跡を語る。そのための小道具だ」
「あなた自身は小道具ではない」
「そうかな」
「そうだ」
レオンは地図の上に、魔力記録板を置いた。
「道具は後悔しない。あなたはしている」
「後悔があれば人間か」
「少なくとも、まだ使える証人だ」
「褒め方が本当に最悪だな」
「今日の褒め言葉としては上等だ」
ユリウスは苦笑した。
だがすぐに表情を引き締める。
「レオン。俺は今日、民衆の前で言う。俺は嘘をついた、と」
「ああ」
「そのあと、民が俺をどう見るかは分からない」
「裏切り者と呼ぶ者もいる」
「勇者失格だと叫ぶ者もいるだろうな」
「聖女に惑わされたと言われる可能性も高い」
「お前、少しは励ませないのか?」
「嘘の励ましは真実宣告に悪い」
「便利だな、それ」
「かなり便利だ」
ユリウスは息を吐いた。
そして、聖剣を握った。
「でも、言う」
「なぜ」
「セラフィーナが言ったんだ」
「何を」
「勇者だから強いんじゃない。怖くても進むから勇者なんだって」
彼は笑った。
今度の笑みは、痛みを伴っていた。
「俺は半年、進まなかった。怖くて止まっていた。だから今日くらいは、勇者らしく進む」
「怖いか」
「怖い」
「よし」
「それ、セラフィーナにも言ったんだろ」
「言った」
「変な励ましだな」
「効いただろう」
「たぶん」
ユリウスは聖剣を布で包み直した。
処刑式が始まれば、彼は王国の英雄として広場へ立つ。
そこで、英雄の物語を壊す。
王国が用意した舞台の上で、王国の筋書きを裏切る。
それは、剣で魔王を斬るよりも恐ろしいことかもしれない。
だが彼はもう、逃げない。
*
クラウディア王女は、客席の壊れた椅子に座っていた。
侍女服から、王女としての衣装へ着替えている。
とはいえ、華やかなドレスではない。
深い藍色の外套。
胸には王家の紋章。
髪は簡素に結われている。
王女として民衆の前に立つための姿。
だが、その顔は昨夜よりも少しだけ青白かった。
王城地下の封印柱を断つため、彼女は自分の血を使った。
王族の血でしか開かない回路。
王族の血でしか止められない嘘。
その皮肉を、彼女自身が一番よく分かっていた。
「クラウディア殿下」
レオンが声をかけると、彼女は顔を上げた。
「殿下はやめてください」
「では、王女」
「それもあまり変わりません」
「では、証人」
クラウディアは少しだけ笑った。
「はい。証人です」
レオンは王家の密書を手に取った。
「これを、広場で読めますか」
「読めます」
「途中で、王家への批判が出る」
「承知しています」
「父王陛下の責任を問う声も上がるかもしれない」
「……承知しています」
わずかに声が揺れた。
レオンは、そこを見逃さなかった。
「怖いですか」
「怖いです」
クラウディアは即答した。
「父を信じたい気持ちは、まだあります。父は本当に知らなかったのかもしれない。叔父上と聖務卿が全てを進めていたのかもしれない。そう思いたい」
「思っていい」
「え?」
「思いたい気持ちを消す必要はありません」
クラウディアは驚いたようにレオンを見た。
「あなたなら、証人は感情を捨てろと言うかと」
「言いません」
「なぜ」
「捨てたふりをした感情が、一番嘘になる」
レオンは静かに言った。
「あなたは王家を守りたい。だが、王家の罪を隠したくない。その両方が真実なら、両方を持って立てばいい」
クラウディアは、密書に目を落とした。
セラフィーナの筆跡。
友人が、自分を信じて託した告発文。
それを開けられなかった自分。
それを開いた自分。
そして今、それを民衆の前で読む自分。
「私は、王女として失格かもしれません」
「王女として?」
「王家の罪を晒す王女など」
「では、証人としては?」
クラウディアは顔を上げた。
少し考え、答える。
「まだ、ましになれると思います」
「それで十分です」
「十分?」
「人は、最初から正しい証人にはなれません。自分の怖さと都合の悪さを抱えて、それでも話す。それが証人です」
クラウディアは、ゆっくりと頷いた。
「セラフィーナは、私に王国を憎まないでほしいと書きました」
「はい」
「でも、私は少し憎んでいます」
「当然でしょう」
「いいのですか」
「憎しみをないことにする方が危険です」
クラウディアは微笑んだ。
泣きそうな、けれど泣かない笑みだった。
「あなたは本当に、聖女より審問官ですね」
「褒め言葉ですか」
「たぶん」
「なら受け取ります」
彼女は立ち上がった。
「今日、私は王家の罪を語ります」
「はい」
「父を守りたい気持ちも、王家を守りたい気持ちもあります。でも、それを理由にセラフィーナを死なせることはしません」
「その言葉は、広場でも必要になります」
「分かっています」
クラウディアは王家の印章を握った。
「私は王女クラウディア・エルディア。王家の血によって封じられた嘘を、王家の口で開きます」
その声は震えていなかった。
*
エリス・フォードは、舞台袖で記録魔石を抱えていた。
彼女はまだ若い。
王女でも勇者でも審問官でもない。
ただ、兄を奪われた妹だ。
彼女の手は震えていた。
無理もない。
今日、彼女は王都中の民の前に立つ。
兄の死の真実を語る。
王弟と聖務卿が並ぶ処刑台の前で。
恐怖で足がすくむのは当然だった。
レオンが近づくと、エリスは慌てて顔を上げた。
「レオン様」
「眠れましたか」
「少しだけ」
「嘘ですね」
「……眠れませんでした」
「私もです」
「レオン様も?」
「ええ」
「少し安心しました」
「それはよかった」
エリスは記録魔石を見下ろした。
「これを起動すれば、兄の最後の記録が出るのですよね」
「そのはずです」
「もし、何も映らなかったら」
「その時は、あなたの言葉で話せばいい」
「私の言葉で」
「はい」
エリスは唇を噛んだ。
「兄は、強い人でした。騎士でした。私は、兄のようには話せません」
「兄のように話す必要はありません」
「でも」
「あなたはライネルではない。エリス・フォードです」
エリスは、目を見開いた。
その言葉が、思ったより深く刺さったのかもしれない。
「兄の名誉のために立つことは大事です。ですが、あなた自身の人生もここにあります。兄の死が嘘で埋められたままなら、あなたはその嘘の上で生きることになる」
「私が……」
「あなたが話すのは、兄のためだけではない。あなたが、これから嘘の中で生きなくて済むようにするためでもある」
エリスの目に、涙が浮かんだ。
だが彼女は泣かなかった。
昨夜、レオンが言ったことを覚えているのだろう。
震えてもいい。
言葉に詰まってもいい。
泣いてもいい。
証人に必要なのは、上手く話すことではない。
それでも彼女は、今は泣かずに立っている。
「私、話します」
「はい」
「声が震えても」
「はい」
「途中で泣いても」
「はい」
「兄が、無駄に死んだんじゃないって」
「ええ」
エリスは記録魔石を握りしめた。
「兄は、聖女様を信じていました。だから私も、兄が信じたものを信じます」
「それで十分です」
*
ダニエルは、廃劇場の入口で見張りをしていた。
軽薄そうに見える男だが、今朝ばかりは顔が硬い。
西防壁の封印柱を断って戻ってから、ほとんど休んでいない。
それでも口だけは動く。
「なあ、レオン」
「何だ」
「これ、成功すると思うか?」
「低確率だ」
「そこは嘘でも成功すると言え」
「真実宣告前なので」
「便利すぎるだろ、その理屈」
ダニエルは苦笑し、外を見た。
「審問庁からも兵が出ている。表向きはお前を捕らえるためだ」
「でしょうね」
「所長は東水門を断った後、庁舎へ戻った。たぶん今頃、上とやり合ってる」
「無事だといいが」
「お前がそれ言うと不吉だな」
「なぜ」
「お前の周り、だいたい無事じゃないから」
「否定できない」
ダニエルは、小さく息を吐いた。
「俺はさ、正直、真実とか大義とか、そこまで大きいものは分からない」
「はい」
「ただ、審問庁が嘘の書類で人を殺す場所になったら、もう俺たちの仕事は終わりだろ」
「そうですね」
「俺は、仕事が嫌いじゃなかったんだ」
意外な言葉だった。
ダニエルは肩をすくめる。
「変な意味じゃないぞ。拷問が好きとか、裁きが好きとかじゃない。誰かが嘘をついて、誰かが泣き寝入りする時に、記録を照らして、矛盾を見つけて、少しだけ正せる。そういう仕事だと思ってた」
「私もです」
「だよな」
ダニエルはレオンを見た。
「だから、今日負けると困る」
「困る?」
「俺たちの仕事が、ただの権力の犬だったってことになる」
「それは困りますね」
「だろ」
二人は少しだけ笑った。
その笑いは軽くはなかった。
だが、必要だった。
ダニエルは腰の短剣を確認する。
「俺は広場の西側を押さえる。逃げ道が必要になったら、そっちへ来い」
「逃げる前提ですか」
「生き残る前提だ」
「なるほど」
「お前、すぐ死にそうな顔するからな」
「どんな顔ですか」
「真面目な顔」
「いつもですが」
「だからだよ」
ダニエルは拳を差し出した。
レオンは少し迷ってから、その拳に自分の拳を軽く当てた。
「生きろよ、逃亡犯」
「あなたも、共犯者」
「やめろ。不名誉だ」
「光栄でしょう」
「やっぱりやめろ」
*
証拠の整理を始めた時、レオンは初めて魔王因子計画の全貌を口に出した。
全員が舞台の周囲に集まる。
彼は地図の上に、古い王国史の写し、クラウディアの密書、エルネストの魔力記録板を並べた。
「かつて、この王国は魔族との大戦で滅びかけた」
レオンは語り始めた。
「初代聖王は、魔族の王を倒したと伝えられている。だが実際には、完全には倒せなかった。魔族の王の力を、聖遺物に封じた。それが魔王因子の始まりだ」
ユリウスが低く言う。
「魔王は、最初から封印された力だったのか」
「ああ。災厄であり、同時に魔力源でもあった」
クラウディアが密書を見る。
「王家はそれを封印と呼び、聖教会は祈りと呼び、軍部は抑止力と呼んだ」
「呼び名が違うだけで、中身は同じだ」
レオンは次の記録を示す。
「問題は、器だ。聖遺物だけでは長期保存に限界がある。魔石も劣化する。そこで王国は、生きた器を使い始めた」
エリスの顔が青ざめる。
「人間を、ですか」
「はい」
「そんな……」
「最初は、死刑囚や異端者だったのかもしれない。やがて捕虜、辺境の反逆者、存在を消しても問題になりにくい者たちが選ばれた」
ダニエルが拳を握る。
「胸糞悪いな」
「そして、器が暴走するたびに、王国はそれを魔王と呼んだ」
空気が重くなった。
魔王。
人類の敵。
だが実際には、王国が作り、王国が管理し、王国が必要に応じて敵として差し出してきた器。
それが魔王の正体だった。
「現魔王ゼルヴァは、西方辺境の小国アストリアの王子だった」
クラウディアが小さく言う。
「和平派の王子……密書にありました」
「王国との停戦交渉に向かう途中、強硬派に捕らえられた。魔王因子の器にされ、魔王として魔族領へ放逐された」
ユリウスは聖剣を握りしめた。
「俺たちは、その人を討ちに行かされた」
「そうだ」
「魔王を倒す勇者として」
「はい」
「ふざけるな」
その声は静かだった。
怒鳴るよりもずっと重かった。
「ゼルヴァは、最初から敵じゃなかった」
「少なくとも、セラフィーナが見た記憶ではそうです」
「彼は、殺してくれと願っていた」
「はい」
ユリウスは目を閉じた。
魔王城最奥。
拘束されたゼルヴァ。
苦痛に歪む顔。
殺せ、と願う声。
そして、その前で泣きながら祈ったセラフィーナ。
「セラフィーナは、魔王を救おうとした」
レオンは言った。
「そして魔王因子を自分の身体に引き受けた。王都へ持ち帰らせないために」
「だが、王国はそれを利用した」
クラウディアの声には、震えがあった。
「聖女の身体に宿った魔王因子は、これまでで最も安定した器だったから」
「ええ」
「彼女を処刑すれば、民衆は納得する。魔王因子も回収できる」
「その通りです」
クラウディアは目を閉じた。
「最低の合理性ですね」
「はい」
「でも、だからこそ怖い。感情的な悪より、ずっと」
「合理性は、人を簡単に殺します」
レオンは資料を閉じた。
「これが、今日語るべき真実です」
沈黙。
全員が、その重さを受け止めていた。
エリスが小さく言う。
「民は、これに耐えられるのでしょうか」
セラフィーナが第9章で恐れたこと。
真実は人の心を壊す。
王国が魔王を作ったという事実は、民衆から信仰と安心を奪うかもしれない。
誰もすぐには答えられなかった。
やがて、クラウディアが口を開いた。
「耐えられるかどうかを、私たちが勝手に決めてはいけないのだと思います」
全員が彼女を見る。
「私も、真実を知るのが怖かった。箱を開けられなかった。けれど、知らないままでいることを誰かに選ばされるのは、もっと恐ろしい」
ユリウスも頷いた。
「俺も、民が混乱するから黙れと言われた。でもそれは、民を信じていなかったってことだ」
ダニエルが続ける。
「まあ、聞いた直後は混乱するだろうな。怒る奴も、泣く奴も、暴れる奴もいる」
「それでも」
レオンは言った。
「嘘の処刑台で聖女を殺すよりは、真実の混乱を選ぶ」
それが答えだった。
真実は万能ではない。
真実だけでは救われない。
セラフィーナの言葉は、間違っていない。
けれど、嘘で救われたふりを続ければ、次の器が作られる。
また誰かが魔王にされる。
また誰かが聖女として殺される。
だから止める。
*
その頃。
地下監獄の奥で、セラフィーナ・エルシアは最後の支度をされていた。
白い囚人服は、新しいものに替えられていた。
処刑用の白。
穢れなき死を示すとされる色。
だが、彼女の手首には聖銀の枷があり、首には封言の首輪がある。
清らかな白と、罪人の拘束。
その取り合わせは、あまりに露骨だった。
看守の女が、髪を整えながら言った。
「聖女様」
すぐに、はっとして口を押さえる。
「申し訳ありません。死刑囚セラフィーナ」
セラフィーナは、鏡越しに彼女を見た。
若い看守だった。
目が赤い。
眠れていないのだろう。
「構いません」
「いえ、規則で」
「あなたが私をどう呼ぶかは、あなたの心の中のことです」
看守の手が震えた。
「私は……分からないんです」
「何がですか」
「あなたが本当に裏切ったのか。裏切っていないのか。教会では、祈るなと言われました。でも、母の病を治してくれたのは、あなたでした。私はそれを覚えています」
セラフィーナは少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「でも、魔王因子があるのも本当だと」
「本当です」
看守が息を呑む。
セラフィーナは続けた。
「私は魔王因子を宿しています。それを恐れることは、間違いではありません」
「では、なぜ」
「今日、話します」
セラフィーナは鏡の中の自分を見る。
短く切られた銀髪。
青白い顔。
枷。
首輪。
死刑囚。
聖女。
器。
人間。
どれも自分だ。
どれか一つだけを選ぶことはできない。
だから、全部持って立つ。
「もし、私が広場で何かを言ったら」
セラフィーナは静かに言った。
「あなたは、自分で聞いて、自分で決めてください」
看守は、目に涙を浮かべた。
「私なんかが、決めていいんですか」
「はい」
「教会ではなく?」
「はい」
「王国ではなく?」
「はい」
「聖女様でもなく?」
セラフィーナは微笑んだ。
「あなた自身が」
看守は泣きそうになりながら、深く頭を下げた。
「はい」
扉の外で足音がした。
処刑執行官。
司祭。
王国兵。
時間が来た。
看守は最後に、セラフィーナの髪を整えた。
そして、ごく小さな声で言った。
「どうか、ご無事で」
処刑される死刑囚に言う言葉ではない。
けれどセラフィーナは、素直に受け取った。
「ありがとうございます」
扉が開いた。
朝の光が、地下牢の奥まで差し込んだ。
*
聖務卿オズワルドは、中央大聖堂の聖壇前に立っていた。
処刑式を前に、司祭たちが整列している。
白い祭服。
金の聖印。
清らかな香。
だが、その地下では沈黙の鐘が起動準備を始めていた。
断罪剣は、すでに聖壇裏に置かれている。
黒い布に包まれたその剣は、ただの処刑道具ではない。
七本目の封印柱。
聖女の首を落とす刃であり、魔王因子を吸い上げる柱。
オズワルドは、その剣に手を置いた。
冷たい。
だが、その奥に黒い熱がある。
「聖務卿」
白い仮面の司祭が近づく。
「各封印柱の反応が不安定です」
「どの柱です」
「北門、西防壁、王城地下、東水門に乱れがあります」
「やはり動きましたか」
「処置を」
「不要です」
司祭が顔を上げる。
「ですが、このままでは」
「彼らは柱を断ったつもりでしょう。しかし断罪剣が起動すれば、欠損は補えます」
「七本目で?」
「ええ」
オズワルドは剣を見下ろした。
「聖女の因子は安定している。彼女を中心にすれば、乱れた柱も強制的に共鳴させられる」
「危険です」
「危険でない力などありません」
司祭は黙った。
オズワルドは穏やかに続ける。
「彼らは今日、真実を語るでしょう。ならば我々は恐怖を見せます。真実と恐怖が並んだ時、民はどちらへ走るか」
「恐怖です」
「そうです」
彼は剣を持ち上げた。
黒い布が落ちる。
断罪剣が姿を現した。
銀の刃。
黒い中芯。
柄に刻まれた七つの星。
古代王家紋。
聖教会の祈り紋。
そして、魔王因子を受けるための溝。
それは処刑剣ではなかった。
器だった。
「民は正しさより、明日の安全を選ぶ」
オズワルドは言った。
「だから我々が、その安全を与えるのです」
「犠牲によって?」
「秩序によって」
その言葉に、ためらいはなかった。
彼は本気で信じている。
一人の聖女を殺し、王国の嘘を守り、魔王因子を兵器として使うことが、民を守る道だと。
だからこそ、恐ろしかった。
ただの悪人なら、止めやすい。
だが、正義を名乗る犠牲の論理は、人をどこまでも冷たくする。
「行きましょう」
オズワルドは断罪剣を司祭に渡した。
「七日目の裁判を始めます」
*
レオンたちは、中央広場へ向かった。
最初に動いたのはユリウスだった。
勇者は堂々と正面から入る必要がある。
彼が隠れていては、民衆への効果が弱い。
だから彼は、白い外套を身にまとい、聖剣を腰に下げ、王国の英雄として広場へ歩いた。
民衆が気づく。
「勇者様だ!」
「ユリウス様!」
「勇者様が来たぞ!」
歓声が広がる。
処刑台を見る不安げな顔が、勇者を見た瞬間に明るくなる。
彼らは答えを求めていた。
勇者なら正しい。
勇者なら知っている。
勇者が見届けるなら、聖女の罪も本当なのだろう。
その信頼が、ユリウスの肩に重くのしかかった。
彼は笑わなかった。
手も振らなかった。
ただ、広場の中央へ進んだ。
続いて、クラウディアが別の入口から姿を現した。
王女の登場に、民衆がさらにどよめく。
「王女殿下?」
「病だと聞いたぞ」
「参列されるのか」
彼女は王族席へ向かわなかった。
まっすぐ処刑台の近くへ歩く。
王国兵が止めようとするが、王家の印章を掲げると道を開けざるを得ない。
エリスは、まだ人混みの中にいる。
ダニエルがそばにいる。
彼女が出るのは、もう少し後だ。
レオンは最後に動いた。
彼は逃亡犯だ。
正面からは入れない。
広場西側の古い井戸。
その下に、廃水路からつながる隠し通路がある。
ダニエルが昨夜のうちに封印を外していた。
レオンはそこから広場の下へ入り、処刑台の裏手へ向かう。
上からは民衆の足音が聞こえた。
ざわめき。
祈り。
怒号。
不安。
それらが石畳を通じて、地下へ響いてくる。
彼は外套の内側を確認した。
真実宣告の補助印。
聖女の聖印。
魔力記録板。
王女の密書写し。
接続鍵。
全てある。
あとは、立つだけだ。
裁くために。
いや。
裁くだけではない。
救うために。
その時、聖印が微かに熱を持った。
レオンは立ち止まり、取り出した。
ひび割れた銀の裏に、薄い文字が浮かぶ。
――怖いです。
レオンは、その文字を見つめた。
セラフィーナの祈りだ。
処刑台へ向かう馬車の中で、彼女が漏らした心なのかもしれない。
レオンは小さく答えた。
「私も怖い」
文字が揺れる。
そして、新しい文字が浮かんだ。
――生きたいです。
レオンは目を閉じた。
短く息を吸う。
その一文だけで、十分だった。
彼女はもう、死にに行くのではない。
生きるために、処刑台へ向かっている。
「なら、始めよう」
レオンは聖印を握った。
地下通路の先に、処刑台へ上がるための古い扉がある。
彼はそこへ向かって歩き出した。
*
中央広場に、黒い馬車が入ってきた。
民衆のざわめきが、一瞬で大きくなる。
王国兵が槍を構え、道を開ける。
聖教会の司祭たちが祈りの歌を始めた。
裏切りの聖女を清めよ。
魔王の器を断て。
王国に光を。
神に秩序を。
歌声は美しかった。
だからこそ、残酷だった。
馬車が止まる。
扉が開く。
白い囚人服の女が降りてくる。
銀の髪は短く、手首には枷。
首には黒い封言の首輪。
その姿を見た瞬間、広場から悲鳴のような声が上がった。
「あれが聖女様……?」
「本当に罪人みたいだ」
「やつれてる」
「魔王因子があるんだろ」
「近づくな!」
「でも、あの人が娘を治してくれたんだ」
「黙れ、異端と思われるぞ」
セラフィーナは、その全てを聞きながら歩いた。
怖い。
足が震えそうだった。
処刑台が見える。
黒い木組み。
断罪剣の台座。
あそこで死ぬはずだった。
死ぬことで終わらせるはずだった。
けれど今は違う。
死ぬためではない。
語るために立つ。
生きるために立つ。
彼女は顔を上げた。
広場の向こうに、ユリウスがいた。
勇者は、彼女を見て小さく頷いた。
王族席の近くに、クラウディアがいた。
王女は胸に手を当て、まっすぐに彼女を見ていた。
人混みの中に、エリスがいた。
小さな身体で、必死に記録魔石を抱えていた。
そして。
処刑台の裏手。
黒い外套の男が、影の中から姿を現した。
レオン・アルバート。
逃亡犯。
審問官。
最後の裁判を始める男。
セラフィーナの喉が震えた。
封言の首輪が冷たく光る。
けれど、今はもう黙らない。
オズワルド聖務卿が処刑台へ上がった。
その後ろに、断罪剣が運ばれてくる。
刃が朝日を浴びる。
黒い中芯が、不吉に光った。
民衆が息を呑む。
王弟ギルベルトが、王族席から立ち上がる。
彼の顔には、勝利を確信した笑みがあった。
処刑は始まる。
儀式は始まる。
だが、その前に。
勇者ユリウスが、一歩前へ出た。
聖剣を抜く。
広場が歓声に包まれかける。
誰もが思った。
勇者が、裏切りの聖女を断罪するのだと。
だがユリウスは、聖剣をセラフィーナへ向けなかった。
彼は剣を、石畳へ突き立てた。
金色の光が広場に広がる。
そして、王都中の民衆の前で、勇者は言った。
「私は、嘘をついた」
歓声が、途中で止まった。
広場に、沈黙が落ちる。
ユリウスは顔を上げた。
「聖女セラフィーナは、魔王に祈ってなどいない」
その声は、震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
「彼女は、私たち全員を救おうとしていた」
処刑台の上で、セラフィーナが目を見開く。
王女クラウディアが一歩踏み出す。
王弟ギルベルトが顔色を変える。
オズワルド聖務卿の目が、静かに細くなる。
そしてレオンは、処刑台の影から前へ出た。
真実宣告の補助印を手に。
審問官として。
逃亡犯として。
一人の人間として。
「王国異端審問庁、レオン・アルバート」
彼は広場に響く声で告げた。
「聖女セラフィーナ・エルシアの公開再審を要求する」
ついに、処刑台は法廷に変わった。




