第12章 勇者の裏切り――嘘をついた英雄の告白
勇者とは、嘘をつかない者の名ではない。
怖くない者の名でもない。
傷つかない者の名でも、間違えない者の名でもない。
人々は勇者に、強さを求める。
正しさを求める。
迷わない背中を求める。
けれど人は、背中だけで生きているわけではない。
振り返れば、そこにはいつも影がある。
勇者ユリウス・ヴァン・グレイは、王都中央広場の石畳に聖剣を突き立てたまま、その影を見ていた。
「私は、嘘をついた」
その言葉は、広場の空気を割った。
歓声が消えた。
祈りの歌も止まった。
民衆のざわめきが、波のように広がっていく。
「嘘……?」
「勇者様が?」
「何を言っているんだ」
「聖女を庇っているのか?」
「まさか、勇者様まで魔王に……」
混乱。
疑念。
恐怖。
失望。
それらが、ユリウスの肌に突き刺さる。
彼はずっと、この視線が怖かった。
魔王よりも、魔族よりも、戦場の死よりも。
人々が自分を見る目が怖かった。
勇者様なら大丈夫。
勇者様なら間違えない。
勇者様なら、世界を救ってくれる。
その期待は、祝福ではなかった。
鎖だった。
金色に輝く、とても美しい鎖。
ユリウスは、その鎖を今、自分の手で断ち切ろうとしていた。
処刑台の上で、セラフィーナが彼を見ていた。
白い囚人服。
聖銀の枷。
黒い封言の首輪。
かつて討伐旅で、何度も隣を歩いた聖女。
自分が嘘をついたせいで、死刑囚になった人。
彼女の青い瞳が、わずかに揺れていた。
驚き。
心配。
そして、痛み。
きっと彼女は、今でもユリウスを案じている。
自分が死刑台に立っているというのに。
それが、たまらなく悔しかった。
ユリウスは喉の奥に残る恐怖を飲み込んだ。
そして、もう一度、声を張った。
「私は裁判で、聖女セラフィーナが魔王に祈っていたと証言した。だが、あれは真実ではない」
広場がさらにどよめく。
王国兵が動きかけた。
聖職者たちが顔を見合わせる。
王族席で、王弟ギルベルトが立ち上がった。
「ユリウス!」
その声は、広場全体へ響いた。
「何を言っている。貴殿は錯乱しているのか」
ユリウスは王弟を見た。
王族席には、貴族たちが並んでいる。
豪奢な衣装。
青ざめた顔。
不快げな目。
彼らにとって、勇者の告白は予定外の汚点だ。
美しい処刑式に落ちた泥だ。
「錯乱してはいません」
ユリウスは答えた。
声は震えていた。
だが、届いた。
「ようやく、正気に戻っただけです」
その瞬間、ギルベルトの顔色が変わった。
*
時間は、少しだけ遡る。
処刑当日の朝。
ユリウスは中央広場へ向かう前に、王宮騎士団詰所へ呼び出されていた。
呼び出したのは、ギルベルト王弟である。
詰所の奥にある応接室は、戦場とは無縁の部屋だった。
磨かれた床。
高価な絨毯。
王家の紋章が刻まれた銀杯。
壁には歴代勇者の肖像画がかかっている。
そのどれもが、真っ直ぐ前を見ていた。
迷いなど知らない顔で。
ユリウスは、その肖像画を見るのが嫌だった。
英雄は、額縁に入ると楽だ。
絵は喋らない。
絵は後悔しない。
絵は嘘をついても、目を逸らさない。
「よく来た、ユリウス」
ギルベルト王弟は、穏やかな笑みを浮かべていた。
王に似た端正な顔立ち。
だが目元は、もっと鋭い。
王弟は王ではない。
だからこそ、王以上に王らしく振る舞う。
そんな男だった。
「本日の処刑式、貴殿には重要な役目がある」
「聖女の罪を見届けることですか」
「そうだ」
ギルベルトは銀杯を置いた。
「民は揺れている。聖女は長く愛されすぎた。だからこそ、勇者である貴殿の存在が必要になる」
「私が見届ければ、民は納得する」
「その通りだ」
ユリウスは、黙って王弟を見た。
半年前なら、そこで頷いていたかもしれない。
国のため。
民のため。
王都の混乱を避けるため。
そう言われれば、胸の奥の疑問を押し殺せたかもしれない。
だが今は、もう違う。
ロイドが毒矢で倒れた。
レオンが罪人にされた。
ライネルの死が偽装された。
エルネストが消された。
セラフィーナは、自分が死ぬことすら利用されようとしていた。
それでもまだ、国のためと言えるのか。
ユリウスには、もう分からなかった。
いや。
分からないふりを、やめた。
「もし、私が今日、別のことを語ったら」
ユリウスは言った。
ギルベルトの笑みが、わずかに固まる。
「別のこと?」
「裁判での証言が、真実ではなかったと」
部屋の温度が下がった。
王弟の背後に控えていた騎士たちが、静かに手を剣へ近づける。
ギルベルトは、しばらくユリウスを見ていた。
そして、ため息をつく。
「聖女に同情したか」
「同情ではありません」
「では、レオン・アルバートに惑わされたか」
「それも違います」
「なら、何だ」
ユリウスは答えた。
「私は、私の嘘に耐えられなくなった」
ギルベルトは笑った。
低く、冷たい笑いだった。
「若いな」
「そうかもしれません」
「英雄とは、時に嘘を背負う者だ」
「嘘を?」
「民は真実を求めているのではない。安心を求めている。魔王が倒され、裏切り者が裁かれ、王国は守られる。その物語が必要なのだ」
「その物語のために、セラフィーナを殺すのですか」
「彼女は魔王因子を宿している」
「宿した理由は?」
「理由など、民には関係ない」
その言葉は、静かだった。
けれど、決定的だった。
ユリウスは、目の前の男が何を守ろうとしているのか理解した。
民ではない。
真実でもない。
秩序という名の椅子だ。
座る者が変わっても、椅子だけは残る。
その椅子を守るためなら、人は器にされ、聖女は裏切り者になり、勇者は嘘をつかされる。
「貴殿は勇者だ」
ギルベルトは続けた。
「民に愛されている。貴殿が一言、聖女の罪は真実だと言えば、それで終わる」
「終わる?」
「混乱が収まる」
「魔王因子は?」
ギルベルトの目が細くなる。
「何のことだ」
「処刑台は七本目の封印柱だ。断罪剣は処刑道具ではなく、魔王因子を回収する器。王都地下には沈黙の鐘がある」
騎士たちの顔が強張った。
ギルベルトだけは、笑みを消さなかった。
「ずいぶんと、危険な妄想を聞かされたようだ」
「妄想なら、なぜ驚かないのです」
「王族は驚きを顔に出さぬ訓練を受ける」
「勇者も同じ訓練を受ければよかった」
「受けていれば、今日このような愚かなことは言わなかっただろうな」
ギルベルトは立ち上がった。
その瞬間、部屋の空気が変わる。
王弟の顔から、柔らかな仮面が消えた。
「ユリウス・ヴァン・グレイ。最後に命じる」
王弟は言った。
「本日の処刑式で、聖女セラフィーナの罪を認めよ。レオン・アルバートが現れた場合、勇者として討て。クラウディアが反逆を語るなら、王家の混乱を避けるため拘束に協力せよ」
ユリウスは、黙って聞いていた。
「従えば、貴殿は王国の英雄であり続ける。従わなければ」
「従わなければ?」
「勇者もまた、魔王に魅入られた裏切り者となる」
その言葉を聞いた時、ユリウスは不思議と怖くなかった。
いや、怖くはある。
けれど、その恐怖はもう彼を止めなかった。
「王弟殿下」
「何だ」
「私は、英雄であり続けるために嘘をつきました」
ユリウスは聖剣の柄に手を置いた。
騎士たちが一斉に構える。
だが、彼は抜かなかった。
「けれど、嘘をついた時点で、私はもう英雄ではなかった」
ギルベルトの表情が歪む。
「貴様」
「だから今日、取り戻しに行きます」
「何を」
「勇者ではなく」
ユリウスは、王弟を真っ直ぐ見た。
「私自身を」
彼は踵を返した。
背後で剣が抜かれる音がする。
だが、ギルベルトは止めた。
「行かせろ」
「殿下!」
「処刑場で処理する」
ユリウスは振り返らなかった。
応接室を出る直前、ギルベルトの声が追ってきた。
「民は真実より、英雄を求めるぞ」
ユリウスは答えなかった。
廊下に出る。
朝の光が窓から差し込んでいた。
その光の中で、彼は昔のことを思い出した。
*
魔王討伐の旅の三十二日目。
国境の村は、焼け跡だけを残していた。
魔族の襲撃を受けた村だった。
家は黒く焦げ、井戸には灰が浮かび、畑は踏み荒らされていた。生き残った人々は教会跡に集まり、勇者一行を見た瞬間に泣いた。
助けてください。
魔王を倒してください。
家族の仇を討ってください。
勇者様。
勇者様。
勇者様。
その声を浴びながら、ユリウスは笑っていた。
大丈夫です。
必ず魔王を倒します。
王国はあなたたちを見捨てません。
そう言った。
言わなければならないと思った。
けれどその夜、彼は教会裏で一人、吐いた。
誰にも見られないように。
戦場の血の匂いと、村人たちの期待の重さに耐えられなかった。
聖剣を握る手が震えていた。
そこへ、セラフィーナが来た。
白い聖衣の裾は泥で汚れ、銀髪には灰がついていた。彼女は昼間、怪我人の治療に走り回り、ほとんど休んでいなかった。
それなのに、ユリウスを見つけると、何も言わずに水筒を差し出した。
「見ていたのか」
ユリウスは顔を背けた。
「少しだけ」
「最悪だな」
「はい。顔色は最悪です」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
セラフィーナは隣に座った。
責めない。
慰めすぎない。
ただ、そこにいた。
それが、ユリウスにはありがたかった。
「俺は勇者なのに」
彼は言った。
「怖いんだ」
「はい」
「はいって」
「怖いでしょう」
「そこは否定してくれよ」
「嘘になります」
セラフィーナは少しだけ微笑んだ。
困ったような、優しい笑みだった。
「勇者様だから、怖くないわけではありません」
「じゃあ、何で俺が勇者なんだ」
「聖剣に選ばれたから」
「それだけか」
「それだけではありません」
彼女は焼けた村を見た。
夜の中で、焦げた柱が黒く立っている。
「怖くても、進もうとしているからです」
ユリウスは彼女を見た。
「それが勇者?」
「私は、そう思います」
「怖くても?」
「はい」
「逃げたくても?」
「はい」
「間違えても?」
セラフィーナは少しだけ考えた。
「間違えたら、戻って、謝って、もう一度進めばいいのだと思います」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「じゃあ」
「でも、難しいからこそ、勇者様だけに押しつけてはいけないのです」
彼女は水筒を彼の手に押しつけた。
「私も進みます。ライネル卿も、エルネスト様も。だから、勇者様だけが強くなくていいのです」
その言葉に、ユリウスは救われた。
本当に救われた。
だからこそ。
帰還後、自分が彼女を裏切ったことが許せなかった。
*
中央広場へ向かう道で、ユリウスはずっとその言葉を思い出していた。
間違えたら、戻って、謝って、もう一度進めばいい。
半年遅れた。
ライネルは死んだ。
エルネストも死んだ。
ロイドも死にかけた。
セラフィーナは処刑台に立たされる。
戻るには、あまりに遅い。
それでも、まだ終わっていない。
処刑台で彼女の首が落ちる前なら。
沈黙の鐘が鳴りきる前なら。
まだ、進める。
だからユリウスは、広場で聖剣を地面に突き立てた。
英雄である自分を、まず壊すために。
*
「聖女セラフィーナは、魔王に祈ってなどいない」
ユリウスの声が、再び広場に響いた。
「彼女は、魔王を崇拝したのではない。魔王と呼ばれた者の苦痛を見た。彼が人間の手で器にされた存在だと知った。そして、その災厄を王都へ渡さないために、自分の身体に引き受けた」
「黙れ!」
ギルベルトが怒鳴った。
「勇者ユリウスは錯乱している! 聖女に惑わされたのだ!」
王国兵が動く。
数人がユリウスへ向かう。
だが民衆が邪魔になった。
誰もが混乱している。
逃げる者。
叫ぶ者。
ユリウスを信じようとする者。
信じたくない者。
「勇者様が嘘を?」
「でも、聖女様が魔王を救おうとしたって」
「魔王を救う? そんなの裏切りじゃないか!」
「違う、人間だったって言ってるんだ!」
「王家は何を隠してるんだ!」
「黙れ! 異端だぞ!」
恐怖と真実がぶつかっていた。
そこへ、聖務卿オズワルドの声が落ちた。
「民よ、落ち着きなさい」
その声は、不思議なほど通った。
祈り慣れた者の声。
人々の不安を撫でる声。
オズワルドは処刑台の上に立ち、両手を広げた。
「勇者ユリウスは、心を痛めているのです。魔王討伐の悲劇。聖女の裏切り。多くの仲間の死。それらが彼の心を蝕んだのでしょう」
民衆のざわめきが少し変わる。
混乱の中に、納得したい空気が混じる。
勇者が嘘をついたのではない。
勇者が壊れたのだ。
そう考えれば、民はまだ物語を保てる。
オズワルドは、それを分かっている。
「勇者様を責めてはなりません。彼もまた、魔王因子の被害者です」
「違う!」
ユリウスが叫ぶ。
「私は正気だ!」
「ならば、なぜ今になって証言を変えるのです」
オズワルドの声は穏やかだった。
「なぜ裁判の場で言わなかったのです。なぜ処刑当日まで沈黙していたのです。勇者よ、あなたは民に問われています」
広場が静まる。
痛いところを突かれた。
その通りだった。
なぜ今さら。
なぜもっと早く言わなかった。
なぜセラフィーナが死刑囚になる前に動かなかった。
その問いは、ユリウス自身を刺した。
彼は、一瞬だけ息を詰まらせた。
オズワルドの目が細くなる。
今だ。
このまま押し切れば、勇者の告白は罪悪感による錯乱として処理できる。
だが。
「それは」
ユリウスは、拳を握った。
「私が弱かったからだ」
その答えに、広場が静まり返った。
ユリウスは顔を上げた。
恥も、罪も、恐怖も、全部民衆の前に晒す。
それが、今の彼にできる唯一の償いだった。
「私は魔王城で、真実を見た。魔王が王国の作った器だったことを。セラフィーナが、それを終わらせようとしていたことを。だが王都へ戻った後、聖務卿から告げられた。真実を語れば王都が混乱する。封印が乱れ、多くの民が死ぬかもしれない、と」
民衆の中で、誰かが息を呑んだ。
「私は怖くなった。魔王よりも、民が死ぬことが怖かった。勇者様なら大丈夫だと見る目が怖かった。だから、セラフィーナの沈黙に甘えた」
セラフィーナが、処刑台の上で目を伏せた。
彼を責める顔ではなかった。
だからこそ、ユリウスは痛かった。
「私は嘘をついた」
ユリウスは言った。
「聖女が魔王に祈ったと。聖女が裏切ったと。聖女を悪にすれば、王都が救われるのだと、自分に言い聞かせた」
彼は聖剣から手を離し、自分の胸を叩いた。
「私は英雄ではない。私は臆病者だ」
民衆がざわめく。
勇者が自分を臆病者と呼んだ。
その衝撃は、どんな魔法よりも強かった。
「だが」
ユリウスは、セラフィーナを見た。
「臆病者でも、もう一度進むことはできる」
彼は再び聖剣を握った。
「聖女セラフィーナは、裏切り者ではない。彼女は、私たち全員の罪を背負わされただけだ」
「勇者様……」
民衆の中から、誰かが呟いた。
その声は小さかった。
けれど、広場の空気を変え始めていた。
*
オズワルドは、まだ崩れなかった。
彼は静かにユリウスを見つめ、言った。
「勇者の苦悩は理解しました」
その声は、慈悲深く聞こえた。
「しかし、それは証拠ではありません」
ユリウスの顔が強張る。
「あなたが心を痛め、自分を責めていることは分かりました。ですが、それで聖女の罪が消えるわけではない。魔王因子が彼女の身体にあることは事実。彼女が裁判で否認しなかったことも事実。あなたの告白は、罪悪感による解釈にすぎません」
民衆が、また揺れる。
そうだ。
証拠は?
勇者が嘘をついたとして、何が本当なのか。
聖女の身体に魔王因子があるのは事実なのではないか。
セラフィーナ自身が罪を否認しなかったのも事実ではないか。
その揺れを見て、オズワルドは一歩前に出た。
「民よ。悲しいことですが、勇者もまた人です。罪悪感に惑わされることもある。魔王因子に触れた者は、心を乱されることもある。ゆえに、裁きには記録と証拠が必要なのです」
「その通りです」
声が響いた。
レオンだった。
彼は処刑台の影から、完全に姿を現した。
黒い外套。
審問官の補助印。
逃亡犯として手配されている男。
民衆が一斉にざわめく。
「レオン・アルバートだ!」
「異端審問官の逃亡犯!」
「聖女派の内通者だろ!」
王国兵が剣を抜いた。
だがレオンは動じなかった。
彼は処刑台へ上がり、オズワルドと向かい合った。
「聖務卿のおっしゃる通りです。裁きには記録と証拠が必要だ」
「自首する気になりましたか、レオン・アルバート」
「いいえ」
レオンは静かに言った。
「裁判を始めに来ました」
「この場は処刑式です」
「処刑には、有効な判決が必要です」
「判決は下っています」
「その判決が偽証と証拠隠滅に基づくなら、再審の対象です」
「あなたにその権限はない」
「王国異端審問庁の審問官としては、現在停止中でしょう」
レオンは、懐から黒い印章を取り出した。
アーヴィン所長から託された、真実宣告の補助印。
「ですが神前裁判において、虚偽を告発する権限は、審問官である限り失われない」
オズワルドの目が、初めて明確に険しくなった。
「その印章を、どこで」
「正式な保管者から」
「アーヴィン・グラントか」
「名前は出していません」
「出したも同じです」
「では記録してください」
レオンは広場を見渡した。
「王国異端審問庁、レオン・アルバートは、ここに聖女セラフィーナ・エルシアの公開再審を要求する」
ギルベルトが怒鳴った。
「認められるわけがない!」
その時、クラウディア王女が前へ出た。
王家の印章を掲げる。
「王女クラウディア・エルディアの名において、公開再審を認めます」
王族席が騒然となった。
「クラウディア!」
ギルベルトが叫ぶ。
「お前まで何を」
「叔父上」
クラウディアは、まっすぐに王弟を見た。
「王家の名を使って人を器にした罪を、これ以上隠すことはできません」
民衆がざわめく。
人を器に?
王家の罪?
何の話だ?
クラウディアは密書を掲げた。
「魔王因子研究に関する王家内部記録を、証拠として提出します」
「偽造だ!」
ギルベルトが即座に叫ぶ。
「病で伏せっていた王女が、異端審問官に操られている! その女を拘束しろ!」
王国兵が動こうとする。
だがユリウスが聖剣を引き抜いた。
金色の光が、王国兵たちの足を止める。
「誰も動くな」
勇者の声は、低かった。
「ここから先は、裁判だ」
「貴様、王家に逆らうか!」
ギルベルトが叫ぶ。
ユリウスは答えた。
「王家ではなく、嘘に逆らう」
その言葉に、広場の空気がさらに変わる。
勇者。
王女。
逃亡審問官。
死刑囚の聖女。
彼らが同じ方向を向いている。
民衆は、もはや簡単な物語に戻れなくなっていた。
*
それでも、オズワルドは崩れない。
彼はゆっくりと両手を広げた。
「よろしい」
その声は静かだった。
「そこまで言うなら、民の前で語りましょう。王女の密書、勇者の告白、逃亡審問官の主張。すべて聞きましょう」
レオンは目を細めた。
妙にあっさりしている。
何かを狙っている。
その予感は、すぐに当たった。
オズワルドは民衆へ向き直った。
「ただし、忘れてはなりません。聖女セラフィーナの身体に魔王因子が宿っていることは事実です」
セラフィーナの首輪が、黒く光る。
断罪剣の中芯も、わずかに反応した。
レオンはそれを見た。
まずい。
すでに儀式が動き始めている。
オズワルドは、裁判を受けるふりをして時間を稼ぐつもりだ。
あるいは、裁判の混乱そのものを利用して、断罪剣を起動させるつもりか。
「民よ」
オズワルドは続けた。
「真実を聞くのはよい。だが、真実を聞いている間にも、災厄はそこにある。もし聖女の魔王因子が暴走すれば、この広場にいる者から死ぬ」
民衆に恐怖が走った。
人々がセラフィーナから一歩退く。
それを見て、セラフィーナの顔がかすかに痛む。
レオンは舌打ちしたくなった。
上手い。
オズワルドは、真実を完全に封じるのではなく、恐怖で上書きしようとしている。
「レオン」
ユリウスが低く言った。
「時間がないな」
「ああ」
レオンは処刑台の下を見た。
石畳の隙間から、黒い光が漏れ始めている。
七本目の封印柱。
断罪剣。
処刑台。
儀式は、すでに呼吸を始めている。
だが、まだ止められる。
完全起動の前に、裁判の流れをこちらへ引き戻す必要がある。
「次の証人を出す」
レオンは言った。
ユリウスが頷く。
クラウディアが民衆へ向けて声を上げた。
「王女クラウディアの名において、第二の証人を召喚します」
民衆の視線が、彼女へ集まる。
クラウディアは振り返り、人混みの中へ向かって言った。
「エリス・フォード。前へ」
人混みが割れる。
小柄な少女が、震える足で進み出た。
くすんだ金髪。
青白い顔。
胸に抱えた小さな布包み。
ライネル・フォードの妹。
エリスは、処刑台の前で一度立ち止まった。
人の多さに、息を呑む。
王族。
貴族。
聖職者。
兵士。
民衆。
何百、何千という目。
その全てが彼女を見ている。
足が震えた。
逃げたい。
兄の名前を叫ぶ前に、泣きたくなった。
その時、ユリウスが彼女の前に膝をついた。
勇者が、民衆の前で一人の少女に膝をつく。
広場が静まった。
「エリス」
ユリウスは言った。
「君の兄は、最後まで騎士だった」
エリスの目に涙が浮かぶ。
「だから、君も騎士の妹としてではなく、エリス・フォードとして話してほしい」
レオンが舞台袖で言った言葉と、同じだった。
エリスは、小さく頷いた。
「はい」
彼女は布包みを開く。
中から、小さな記録魔石が現れた。
民衆がざわつく。
オズワルドの目が細くなる。
ギルベルトの顔が変わる。
明らかに、彼らの想定外だった。
「それは何だ」
ギルベルトが低く問う。
エリスは震える声で答えた。
「兄、ライネル・フォードが残した記録魔石です」
「偽造だ!」
王弟は即座に叫ぶ。
エリスはびくりと肩を震わせた。
だが、魔石を離さなかった。
「兄は、魔王城で死んだのではありません」
その一言に、民衆がどよめいた。
「兄は、王都地下で殺されました」
ギルベルトが兵に目配せする。
だがユリウスが立ち上がり、聖剣を構えた。
クラウディアも王家の印章を掲げる。
「この証言を妨げる者は、王女クラウディアの名において、王家の裁きを妨害した者とみなします」
兵士たちは動けなかった。
王弟と王女。
命令が割れている。
そして民衆が見ている。
この場で少女を斬れば、それだけで疑惑が真実になる。
レオンはエリスへ近づいた。
「起動できますか」
「はい」
「怖いですか」
「怖いです」
「よし」
エリスは少しだけ笑いそうになった。
泣きそうな顔のまま。
「それ、流行っているんですか」
「一部で」
「変です」
「よく言われます」
彼女の震えが、わずかに収まった。
そしてエリスは、記録魔石を両手で掲げた。
「兄の最期を、見てください」
魔石が光る。
青白い光が、広場の空中に広がる。
そこに、映像が浮かび上がった。
暗い地下聖堂。
揺れる視界。
荒い息。
そして、血に濡れた騎士ライネル・フォードの顔。
死んだはずの騎士が、王都の民衆の前に現れた。
広場から悲鳴が上がる。
エリスが息を呑む。
ユリウスが拳を握る。
レオンは、静かにその映像を見上げた。
最後の証人が、ついに語り始める。
*
映像の中で、ライネルは走っていた。
背後から足音。
複数。
彼は振り返らず、記録魔石へ向かって低く言う。
『この記録を見た者へ。私は王国騎士ライネル・フォード。魔王討伐隊所属。これより、王都地下第二礼拝堂で見たものを記録する』
映像が揺れる。
壁には聖銀柱。
床には魔法陣。
拘束台。
白骨。
第二礼拝堂の光景が、広場の空に映し出される。
民衆がどよめく。
「何だ、あれは……」
「地下?」
「王都の下に、あんな場所が?」
ライネルの声が続く。
『魔王城最奥の構造は、王都地下で再現されていた。王国は魔王因子を封印していたのではない。移送と制御の実験を行っていた。被験者の記録あり。王家、聖教会、双方の関与あり』
ギルベルトが叫んだ。
「映像を止めろ!」
だが、もう遅い。
民衆は見ている。
見てしまった。
ライネルはさらに進む。
映像の奥に、二つの人影が映った。
一人は白い祭服。
聖務卿オズワルド。
もう一人は王家の外套。
王弟ギルベルト。
広場が凍った。
映像の中のギルベルトが言う。
『聖女の適合率は?』
オズワルドが答える。
『現時点で過去最高です。魔王因子は彼女の祈りに反応し、安定しています』
『ならば処刑による回収は可能だな』
『はい。ただし、民衆の納得が必要です。聖女が魔王の器として裁かれ、断罪剣によって因子を抽出される必要があります』
『勇者の証言は?』
『整えます』
『騎士ライネルが嗅ぎ回っている』
『処理しましょう』
民衆の中から、悲鳴が上がった。
エリスが口を押さえる。
ユリウスの顔が蒼白になる。
クラウディアは、王弟を見た。
「叔父上……」
映像の中で、ライネルが息を殺している。
だが、床の石が鳴った。
彼が踏んだのだ。
オズワルドが振り返る。
その目が、記録のこちら側を見た。
『誰です』
映像が激しく揺れる。
ライネルが走る。
追手の足音。
剣戟。
息。
血。
そして、彼は旧聖堂らしき場所で倒れた。
胸を押さえている。
血が溢れている。
その前に、白い祭服の裾が映る。
オズワルドだった。
ライネルは荒い息の中で言う。
『聖女様は……裏切っていない』
オズワルドの声が、静かに返る。
『真実は民を救いません』
『それでも……騎士は……』
『騎士も民も、物語によって救われるのです』
刃が振り下ろされる。
映像が赤く染まる。
最後に、ライネルの声が微かに残った。
『エリス……すまない……』
記録は、そこで途切れた。
*
広場は、完全な沈黙に包まれた。
誰もすぐには叫べなかった。
泣くことも、怒ることも、祈ることもできなかった。
真実が、あまりに重かったからだ。
エリスは、その場に膝をついた。
魔石を胸に抱えたまま、声もなく泣いていた。
ユリウスが隣に膝をつく。
クラウディアは、王弟から目を逸らさなかった。
ギルベルト王弟は、顔から血の気を失っていた。
だが、最初に口を開いたのはオズワルドだった。
「見事な記録です」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
民衆が彼を見る。
オズワルドは、逃げなかった。
否定もしなかった。
ただ、処刑台の上に立ち、静かに言った。
「ええ。私はライネル卿を殺しました」
広場が爆発したように騒然となる。
だがオズワルドは、声を張った。
「それが王国を救うために必要だったからです!」
その声には、狂気ではなく信念があった。
だからこそ、人々は息を呑んだ。
「民よ、聞きなさい。あなた方は真実を見ました。ならば、その真実の先も見なければならない。王国は百年以上、魔王因子と戦ってきた。魔族、隣国、内乱、飢饉、疫病。この国は常に滅びの縁にありました」
彼は両手を広げる。
「力が必要だったのです。王国を守る力が。あなた方の子を、家を、畑を、祈りを守る力が!」
「人を器にしてか!」
誰かが叫んだ。
オズワルドは即座に答える。
「そうです」
その答えに、民衆が凍りつく。
「一人の犠牲で千人が救われるなら。一つの村で王都が救われるなら。一人の聖女で千年の平和が得られるなら。それを選ぶ者が必要なのです」
セラフィーナが、処刑台の上で目を閉じた。
その言葉は、かつて自分が選ぼうとした自己犠牲と似ていた。
少数を犠牲にして、多数を救う。
けれど、決定的に違う。
彼は、犠牲になる者に選ばせていない。
犠牲を美しい理屈で覆い、他者へ押しつけている。
オズワルドは民衆へ向けて続けた。
「聖女セラフィーナは確かに優しい方です。だからこそ器に相応しい。彼女一人の死で、あなた方は明日も生きられる。畑を耕し、パンを焼き、子を抱ける。ならば、あなた方は何を選ぶのですか」
民衆が揺れた。
真実は見た。
だが、怖い。
魔王因子が本当に暴走するなら。
聖女を生かすことで王都が滅ぶなら。
自分の子が死ぬなら。
人は、正義だけでは立てない。
恐怖が、また物語を求め始める。
その時、セラフィーナが口を開いた。
「私は」
封言の首輪が黒く光った。
彼女の喉を締める。
だが、セラフィーナは止まらなかった。
「私は、魔王因子を宿しています」
民衆が息を呑む。
彼女自身が認めた。
セラフィーナは続ける。
「それを恐れることは、間違いではありません。私自身も怖い。自分の中にあるものが、誰かを傷つけるかもしれないことが、怖いです」
その声は震えていた。
聖女の完璧な声ではない。
一人の人間の声だった。
「けれど、人を救うために誰かを器にしてよいと認めれば、次に器にされるのは別の誰かです。辺境の王子かもしれない。名もない村人かもしれない。異端者と呼ばれた人かもしれない。そしていつか、あなたの子かもしれない」
民衆の顔が変わった。
遠い犠牲が、急に近くなる。
「私は聖女として、ずっと皆さんに祈られてきました。でも今は、祈られる者としてではなく、一人の人間として言います」
セラフィーナは、枷のついた手を胸元へ寄せた。
「私を、便利な犠牲にしないでください」
広場が静まった。
その言葉は、強い演説ではなかった。
叫びでもない。
ただの願いだった。
だからこそ、人々の胸に届いた。
「私は死ぬのが怖いです」
セラフィーナは言った。
民衆が、さらに静まる。
聖女が死を怖いと言った。
そのあまりに人間らしい告白が、人々の中に残っていた聖女像を壊していく。
「でも、王都を救いたい。その気持ちは嘘ではありません。だからお願いです。私を聖女としてではなく、災厄としてでもなく、一人の人間として見てください」
レオンは、彼女を見ていた。
よく言えた、と思った。
死刑台の上で。
恐怖の中で。
彼女は初めて、自分の命を民衆の前に置いた。
犠牲としてではなく。
守られるべきものとして。
*
オズワルドの目が、わずかに冷えた。
彼は理解したのだ。
民衆の空気が、変わり始めている。
恐怖はまだある。
疑念もある。
怒りもある。
だが、セラフィーナをただの災厄として処刑する物語は、もう壊れかけている。
だから彼は、最後の手段を選んだ。
「残念です」
オズワルドは言った。
「ならば、見せるしかありません」
彼が右手を上げる。
断罪剣が黒く光った。
レオンが叫ぶ。
「ユリウス!」
ユリウスが聖剣を抜く。
クラウディアが王家の印章を握る。
セラフィーナの首輪が激しく鳴る。
処刑台の下から、黒い光が噴き上がった。
王都の空に、七つの紋様が浮かぶ。
北門。
西防壁。
東水門。
王城地下。
中央大聖堂。
旧聖堂。
そして処刑台。
七本の封印柱が、不完全なまま強制的に共鳴し始める。
民衆が悲鳴を上げた。
「魔王因子だ!」
「逃げろ!」
「聖女が暴走した!」
オズワルドが叫ぶ。
「見なさい! これが魔王因子です! 彼女を生かせば王都は滅びる!」
「違う!」
レオンは処刑台へ駆け上がった。
「これはあなたが起動した儀式だ!」
「証明できますか!」
オズワルドの声が、黒い光の中で響く。
「民の目の前で災厄は起きている! 理屈より恐怖が先に届く!」
その通りだった。
民衆は恐怖している。
どれほど証拠を積み重ねても、目の前の黒い光には勝てない。
このままでは、オズワルドは再び物語を奪う。
聖女が暴走した。
だから処刑は必要だった。
そう結論づける。
レオンは真実宣告の補助印を握った。
今、使うしかない。
だが、第14章の本格発動にはまだ早い。
ここで全力を使えば、最後まで持たない。
それでも、流れを止めなければ全て終わる。
「レオン!」
セラフィーナが叫んだ。
「まだです!」
「だが」
「私が抑えます!」
彼女の身体から、白い祈りの光が広がった。
黒い魔王因子に触れ、押し返す。
だが、枷が彼女の腕を焼く。
首輪が喉を締める。
彼女は苦しげに膝をついた。
ユリウスが処刑台へ駆け上がる。
「セラフィーナ!」
「来ないでください!」
「行くに決まってるだろ!」
ユリウスは聖剣を振るい、処刑台の周囲に走る黒い導線を一部断ち切った。
金色の光が、黒い光を弾く。
だが断罪剣はまだ鳴っている。
処刑台そのものが柱である以上、完全には止まらない。
クラウディアが王家の印章を掲げた。
「王族の血において命じます! 王城地下回路、応答せよ!」
彼女の手の傷が開き、血が印章に吸い込まれる。
遠く、王城の方角で青い光が立ち上がった。
一つの柱が沈黙する。
だが、残りが補完する。
不完全な封印は、むしろ暴れ始めた。
民衆の悲鳴が広がる。
オズワルドは笑わなかった。
勝ち誇りもしなかった。
ただ、悲しげに言った。
「これが現実です。レオン・アルバート。あなたの真実は、民を恐怖から救えない」
レオンは、彼を見た。
確かに、真実だけでは救えない。
セラフィーナの言葉は正しかった。
だが。
嘘では、もっと救えない。
「なら」
レオンは補助印を握りしめた。
「真実を、恐怖より先に届かせる」
黒い印章が光り始める。
真実宣告の術式が、彼の腕を焼く。
血が指先から滲む。
オズワルドの目が鋭くなる。
「ここで使えば、あなたは死にますよ」
「死なない」
「なぜ言い切れる」
「まだ、セラフィーナを助けていない」
セラフィーナが、顔を上げた。
レオンは彼女を見た。
「あなたは自分一人で背負うな」
「レオン……」
「これは裁判だ。被告人一人に、全てを背負わせる裁判など認めない」
ユリウスが聖剣を構え直す。
「俺も背負う」
クラウディアが印章を握る。
「私も」
エリスが涙を拭い、記録魔石を抱えた。
「私も、兄の分まで」
ダニエルが民衆の避難を誘導しながら叫ぶ。
「俺もだ! ただし給料は出せよ!」
「後で請求しろ!」
レオンが返すと、ダニエルは笑った。
恐怖の中に、ほんの一瞬だけ人間の呼吸が戻った。
レオンは処刑台の中央へ進んだ。
黒い光が渦巻く。
断罪剣が鳴っている。
沈黙の鐘が、地下で目覚めようとしている。
ユリウスの告白は、広場の物語を壊した。
ライネルの記録は、死者の真実を示した。
セラフィーナの言葉は、犠牲の物語を壊した。
だが儀式は止まっていない。
次に必要なのは、裁きだ。
王国の嘘を、言葉によって断つ裁き。
レオンは補助印を掲げた。
「王国異端審問庁、レオン・アルバート」
声が広場に響いた。
黒い光の中でも、不思議と届いた。
「これより、聖女セラフィーナ・エルシアに下された有罪判決の再審を開始する」
オズワルドが静かに言った。
「始めなさい。審問官」
その声には、挑発と、覚悟があった。
レオンは頷いた。
「ああ」
彼は、処刑台の上に立った。
民衆の前で。
王家の前で。
聖教会の前で。
魔王因子の黒い光の中で。
最後の裁判が、始まろうとしていた。




