第13章 最後の証人――死んだ騎士が残した真実
死者は、嘘をつかない。
そう言う者がいる。
だが、レオン・アルバートはその言葉を信じていない。
死者も嘘をつく。
正確に言えば、死者の口を使って、生きている者が嘘をつく。
死因を変える。
遺書を書き換える。
遺体を隠す。
名を消す。
生きていた人間の最後の言葉を、都合のいい物語に塗り替える。
死者は反論できない。
だから、権力者は死者を好む。
黙っていてくれるからだ。
だが、王国騎士ライネル・フォードは違った。
彼は死んだ。
胸を刺され、王都地下の旧聖堂で息絶え、魔王城で戦死したことにされた。
それでも彼は、黙らなかった。
魔石に記録を残した。
妹に手紙を残した。
血で言葉を残した。
――聖女は裏切っていない。
――裏切ったのは王国だ。
今、その死者の声が、王都中央広場の空に浮かんでいた。
*
記録魔石の青白い光が、処刑台の上空で揺れている。
そこに映し出されたのは、王都地下第二礼拝堂。
黒い石の床。
七本の聖銀柱。
拘束台。
白骨。
そして、息を殺して進む騎士ライネル・フォードの視界だった。
民衆は、誰も動けなかった。
つい先ほどまで、ここは処刑場だった。
裏切りの聖女を裁くための場所だった。
勇者が偽証を告白し、王女が再審を宣言し、審問官が罪状を問い直すまでは、それでもまだ混乱の中に希望があった。
何かの間違いだったのかもしれない。
勇者が心を病んだのかもしれない。
王女が異端審問官に惑わされたのかもしれない。
そう考える余地があった。
だが今、死者の記録が映しているものは、あまりにも具体的だった。
王都の地下に存在するはずのない実験施設。
人を拘束するための台。
記録札。
王家と聖教会の紋章。
そして、そこに立つ王弟ギルベルトと聖務卿オズワルド。
民衆の中に、低いざわめきが広がる。
「本物なのか……?」
「王弟殿下が映っている」
「聖務卿様も……」
「でも、こんな魔石、偽造できるんじゃないのか」
「勇者様も、王女殿下も、あの審問官も同じことを言ってる」
「じゃあ、聖女様は……」
誰も結論を出せない。
真実は目の前にある。
だが、真実を受け入れるには、これまで信じてきた世界を手放さなければならない。
人は、目で見たものをすぐには信じない。
心が、それに追いつくまで時間がかかる。
その時間を奪おうとする者がいた。
「映像を止めろ!」
ギルベルト王弟が叫んだ。
彼の顔は蒼白だった。
先ほどまでの余裕はない。
王族席の貴族たちも、椅子から立ち上がりかけている。
兵士たちは命令を待っていた。
だが、誰もすぐには動けない。
広場中の民衆が見ている。
勇者ユリウスが聖剣を抜いている。
王女クラウディアが王家の印章を掲げている。
そしてレオンが、処刑台の中央に立っている。
「動くな」
レオンの声は大きくなかった。
けれど、不思議と届いた。
「これは証拠開示中だ。妨害すれば、その者を証拠隠滅の現行犯として扱う」
「貴様にそんな権限はない!」
ギルベルトが怒鳴る。
レオンは彼を見た。
「では、王女殿下」
クラウディアが一歩前へ出る。
「王女クラウディア・エルディアの名において、この証拠開示を認めます。妨げる者は、王家の裁きに背く者とみなします」
「クラウディア!」
「叔父上」
クラウディアの声は震えていなかった。
「今、王家の名をこれ以上汚しているのは誰ですか」
ギルベルトの顔が歪んだ。
その瞬間、上空の映像がさらに進んだ。
*
魔石の中のライネルは、柱の陰に身を潜めていた。
息が荒い。
だが剣は抜いていない。
彼は戦いに来たのではない。
記録しに来たのだ。
『……これが、王都地下第二礼拝堂。魔王城最奥と酷似している。いや、違う。魔王城がここを模したのではない。ここで、魔王城が再現されていた』
映像が小さく揺れる。
遠くから声が聞こえた。
ギルベルト王弟の声。
『聖女の適合率は?』
オズワルド聖務卿の声が答える。
『現時点で過去最高です。魔王因子は彼女の祈りに反応し、安定しています』
『では、やはり器として使えるか』
『はい。従来の器は肉体が先に崩れました。しかし聖女の祈りは因子を鎮める。処刑時の抽出にも耐えるでしょう』
民衆の中で、誰かが悲鳴を上げた。
「器……?」
「聖女様を、器って……」
「処刑時の抽出って何だよ」
オズワルドの声は、映像の中でも静かだった。
『ただし、問題は民衆です。聖女は愛されすぎています。単なる処刑では信仰が割れる』
『だから裏切り者にする』
ギルベルトの声。
『魔王因子を宿した者だ。魔王と通じたと言えばよい。勇者の証言を整えろ。宮廷魔術師も使え』
『勇者ユリウスは抵抗するでしょう』
『民を人質に取れ。王都封印が乱れると言えば黙る』
ユリウスの手が、聖剣の柄を強く握った。
その言葉は、彼自身に突き刺さっていた。
本当に、その通りに黙ったからだ。
レオンはユリウスの横顔を見た。
勇者は目を逸らしていない。
それでいい。
罪は消えない。
だが、目を逸らさなければ、次に進める。
映像の中で、ギルベルトが続ける。
『セラフィーナが黙れば、全て収まる。あの女は民を守るためなら自分を差し出すだろう』
『ええ。彼女はそういう方です』
『なら利用しろ』
セラフィーナの表情が、処刑台の上でかすかに揺れた。
自分の性質が見抜かれていた。
自分の優しさが、罠として使われていた。
その事実は、魔王因子の痛みよりも深く彼女を刺した。
オズワルドの声が、さらに続く。
『騎士ライネルが地下記録に近づいています』
『処理しろ』
『魔王城で戦死したことに?』
『そうだ。聖女が撤退経路を漏らしたために、騎士が死んだ。民は分かりやすい悲劇を好む』
エリスが、嗚咽を漏らした。
兄の死が、ただの口封じではなく、聖女を罪人にするための道具として使われた。
その残酷さに、彼女の膝が震える。
ユリウスが支えようとする前に、エリスは自分で踏みとどまった。
泣いている。
震えている。
けれど、倒れない。
彼女は兄の最後を見届けるために、ここに立っている。
*
映像が乱れた。
ライネルが移動する。
息が荒くなる。
『……聞いたか。これが真実だ。聖女様は裏切っていない。魔王因子を王都へ持ち帰ろうとしたのは、王家と聖教会だ』
映像の中で、ライネルは小さな記録札を拾う。
そこには文字が刻まれていた。
被験者番号。
適合率。
処分。
それらが青白い光の中に浮かぶ。
『これを持ち帰る。レオン・アルバート審問官に……いや、誰でもいい。正しく記録できる者へ』
レオンは息を止めた。
ライネルは、自分の名前を知っていた。
面識はほとんどない。
だが、おそらく調べていたのだ。
異端審問庁で、嘘の記録を嫌う審問官。
感情を持たない秤。
その評判を聞いて、託せるかもしれないと思ったのだろう。
だが彼は、その前に殺された。
『エリス』
映像の中で、ライネルは一瞬だけ記録魔石を自分へ向けた。
若い騎士の顔が映る。
疲れている。
頬に煤がつき、額には血が滲んでいる。
だが、目は死んでいない。
『もしこの記録がお前に届いたなら、逃げろ。いや、違うな。お前はきっと怒る。だから……』
彼は少しだけ笑った。
『怖かったら泣け。泣いてから、信じたいものを選べ』
エリスの涙が溢れた。
「兄さん……」
『聖女様を疑うな。あの方は、誰かを裏切れる人じゃない。ただ、自分を犠牲にすることに慣れすぎている。だから誰かが止めなければならない』
セラフィーナが、目を閉じた。
ライネルも気づいていた。
彼女の優しさの危うさに。
その優しさを、王国が利用することにも。
『勇者殿』
映像の中のライネルは、次に言った。
『あなたがこれを見るかは分からない。だが、もし見ているなら、どうか思い出してほしい。魔王城で、聖女様は何をしていたか。あなたは何を見たか』
ユリウスは、低く息を吐いた。
「見ていた」
彼は呟いた。
「俺は、見ていたんだ」
魔王城最奥。
拘束されたゼルヴァ。
泣きながら祈るセラフィーナ。
殺せと願った魔王。
そして、自分の沈黙。
『王女殿下』
ライネルの声が続く。
『王家を憎めとは言わない。だが、王家の中に罪があるなら、王族の手で暴いてほしい。そうでなければ、この国は本当に魔王になる』
クラウディアの瞳が揺れた。
けれど、彼女は真っ直ぐ映像を見ていた。
『最後に、これを見た全ての者へ』
ライネルの声が、少し低くなった。
彼はもう、自分が生きて戻れないことを悟っている。
『魔王は、最初から魔王だったのではない。誰かが魔王にした。なら次の魔王を作るのも、怪物ではなく人間だ』
その一文は、広場中に落ちた。
民衆が、息を呑む。
ライネルは最後に言った。
『聖女は裏切っていない。裏切ったのは――』
その時、映像の奥で物音がした。
ライネルが振り返る。
白い祭服。
オズワルド聖務卿。
そして、王弟ギルベルトの私兵たち。
『ライネル卿』
映像の中のオズワルドが言った。
『そこまでです』
*
広場の空気が、さらに張り詰めた。
記録魔石は、死の瞬間へ向かっている。
エリスが震える。
ユリウスが彼女の前に立とうとした。
だがエリスは首を振った。
「見ます」
声はかすれていた。
「兄の最後だから」
ユリウスは、黙って一歩下がった。
映像の中で、ライネルは剣を抜いた。
『聖務卿。これは何ですか』
『王国を守るための仕事です』
『人を器にすることが?』
『必要ならば』
『聖女様を罪人にすることが?』
『必要ならば』
『騎士を殺すことも?』
『必要ならば』
ライネルは笑った。
短く、怒りを含んだ笑いだった。
『便利な言葉だ』
『そうですね』
オズワルドは認めた。
『ですが、便利な言葉がなければ国は動きません』
『国を動かすために人を殺すなら、それは国ではなく化け物だ』
『違います』
オズワルドの声は、少しだけ低くなった。
『化け物にならなければ、国は化け物に食われるのです』
私兵たちが動いた。
ライネルは剣で一人を倒す。
二人目の攻撃を受け流す。
さすが王国騎士。
動きは鋭い。
だが、多勢に無勢だった。
背後から拘束具が飛び、彼の腕を絡め取る。
聖銀の鎖。
王国騎士を捕らえるためではなく、魔王因子実験体を縛るための道具。
それが騎士に向けられていた。
『くっ……!』
ライネルが膝をつく。
私兵の短剣が、彼の脇腹を裂く。
映像が激しく揺れた。
床に血が落ちる。
それでも彼は、記録魔石を握っている。
『記録を消しなさい』
オズワルドが言う。
私兵の一人が魔石へ手を伸ばした瞬間、ライネルは最後の力でそれを床下の隙間へ投げ込んだ。
だから魔石は残った。
手紙の封蝋の中へ隠され、巡り巡って妹へ届いた。
ライネルは血を吐いた。
『聖務卿……あなたは……本当に、これで救えると思っているのか』
『思っています』
オズワルドは近づく。
『真実は民を救いません。民を救うのは、明日も続くと思える秩序です』
『その秩序の下で、次は誰が器になる』
『必要な者です』
『名前も知らない誰かか』
『ええ』
『なら……』
ライネルは顔を上げた。
血に濡れた口元で、それでも騎士としての声を絞り出した。
『俺の名を、覚えておけ』
オズワルドが止まる。
『ライネル・フォード。王国騎士。聖女セラフィーナ・エルシアは裏切っていない。王国が魔王を作った。俺は、それを見た』
その言葉は、記録魔石に残った。
オズワルドの表情が、初めてわずかに変わった。
怒りではない。
痛みでもない。
不快感だった。
名前を持つ犠牲者は、彼の秩序にとって邪魔なのだ。
『残念です』
オズワルドは短剣を抜いた。
『騎士として死ねたなら、幸運だったでしょうに』
刃が落ちた。
映像が赤く染まった。
最後に、ライネルのかすれた声が入る。
『エリス……生きろ……』
魔石の光が揺れた。
そして、消えた。
*
広場に、声はなかった。
風の音すら、遠かった。
死者の証言が終わった。
誰も、すぐには現実へ戻れなかった。
エリスは膝をつき、記録魔石を抱きしめて泣いていた。
だがその涙には、ただの悲しみだけではない。
兄の死が、ようやく嘘の中から出てきた。
その痛みと、救いが混ざっていた。
ユリウスは、彼女の横に立っていた。
聖剣を握る手が震えている。
ライネルの言葉は、彼にも向けられていた。
あなたは何を見たか。
彼は見ていた。
そして、黙った。
その罪は消えない。
けれど、今ここで再び黙れば、本当に終わる。
「ライネル卿」
ユリウスは小さく言った。
「遅くなって、すまない」
クラウディアは、王族席にいるギルベルトを見ていた。
その瞳には、怒りと悲しみがあった。
「叔父上」
彼女は静かに言った。
「今の記録について、説明を」
ギルベルトは、口を開いた。
閉じた。
そして、顔を歪めた。
「偽造だ!」
叫びは、あまりに遅かった。
「そんなもの、異端審問官と聖女派が作った偽の映像に決まっている! 王家を貶めるための陰謀だ!」
民衆の中から、怒号が返った。
「じゃあ、何で止めようとした!」
「王弟殿下が映っていたぞ!」
「器って何だ!」
「俺たちの下で、何をしてたんだ!」
空気が変わっている。
完全ではない。
まだ恐怖はある。
だが、疑いは王弟へ向き始めていた。
ギルベルトは兵士へ叫ぶ。
「黙らせろ! これは反逆だ! 勇者も王女も審問官も、全員拘束しろ!」
兵士たちは動けなかった。
命令は王弟から出ている。
だが、目の前には王女がいる。
勇者がいる。
民衆がいる。
そして、死者の記録がある。
その一瞬の空白を、オズワルドが埋めた。
「ギルベルト殿下」
聖務卿は静かに言った。
「お静かに」
「オズワルド!」
「ここで狼狽えれば、民に不安を与えます」
「もう十分与えているだろうが!」
「ええ」
オズワルドは、ゆっくりと民衆へ向き直った。
「では、私が答えましょう」
レオンは目を細めた。
来る。
オズワルドは否定しない。
彼は別の戦い方を選ぶ。
*
「民よ」
オズワルドの声は、広場の隅々まで届いた。
「あなた方は、今、王国の醜い一面を見ました」
ざわめきが止まる。
まさか認めるのか。
その驚きが、人々を黙らせた。
「ええ。魔王因子は存在します。王国はそれを封印してきました。時に、犠牲も払いました。ライネル卿が見たものも、すべてが虚偽とは言いません」
「聖務卿!」
ギルベルトが叫ぶ。
だがオズワルドは無視した。
「ですが、問います」
彼は両手を広げる。
「この王都が今日まで生き延びてきたのは、誰のおかげですか。魔族の大侵攻、隣国の侵略、国境の反乱。あなた方が眠る夜にも、王国は滅びの淵にありました」
民衆が揺れる。
オズワルドは、恐怖を知っている。
人の心のどこに触れれば、正義よりも生存を選ぶかを知っている。
「きれいな祈りだけで国は守れません。美しい正義だけで子は守れません。誰かが血で手を汚し、誰かが犠牲を選ばなければならない時がある」
彼の視線が、セラフィーナへ向く。
「聖女セラフィーナは、確かに優しい方です。誰よりも民を愛し、誰よりも王都を守ろうとした。だからこそ、彼女は器に相応しい」
セラフィーナの瞳が、静かに揺れた。
「一人の聖女で、王都が救われる。千年の平和が買える。ならば、あなた方は何を選びますか」
広場が、再び揺れた。
恐怖は強い。
特に、自分の子や家族の命を差し出された時、人は綺麗事だけでは立てない。
「俺の子が助かるなら……」
誰かが呟いた。
「でも、聖女様は人間だって」
「魔王因子が暴走したらどうするんだ」
「王国がやったことは許せない。でも王都が滅びるのは……」
真実と恐怖。
正義と生存。
その間で、民衆の心が裂けていく。
オズワルドは、それを待っていた。
「レオン・アルバート」
彼は審問官の名を呼んだ。
「あなたは真実を暴いた。見事です。だが、その真実で王都を守れますか」
レオンは答えない。
オズワルドは続ける。
「勇者ユリウス。あなたは嘘を告白した。立派です。だが、あなたの告白で魔王因子は消えますか」
ユリウスは唇を噛む。
「クラウディア王女。あなたは王家の罪を認めた。尊い覚悟です。だが、その覚悟で民の腹は満たされますか。隣国の槍を止められますか」
クラウディアの顔が強張る。
「エリス・フォード。兄の死を語ったあなたを、私は責めません。ですが、あなたの悲しみで王都全体を危険に晒してよいのですか」
エリスが震える。
ユリウスが前に出ようとするが、レオンが手で制した。
オズワルドは言葉で戦っている。
なら、言葉で止める必要がある。
「聖務卿」
レオンは言った。
「あなたの理屈は、一つだけ間違っている」
「何でしょう」
「犠牲を選ぶ者と、犠牲にされる者が違う」
オズワルドの目が細くなる。
レオンは続けた。
「あなたは犠牲を選ぶ側に立ち続けている。器にされる者の名を消し、死者を偽り、聖女に罪を被せ、民衆には選択肢を与えない。その上で、多数のためだと言う」
「統治とは、そういうものです」
「違う」
レオンの声は低かった。
「それは裁きではない。管理だ」
民衆が静まる。
「裁きには、名が必要だ。証言が必要だ。反論が必要だ。犠牲になる者自身の意思が必要だ。あなたはそれを全て奪った」
オズワルドは静かに微笑んだ。
「では、聖女に選ばせましょう」
彼はセラフィーナへ振り返った。
「セラフィーナ。あなたがここで自ら死を受け入れれば、民は救われます。今ならまだ、あなたは聖女として死ねる」
広場中の視線が、セラフィーナへ向いた。
最も残酷な問いだった。
彼女の弱さを、優しさを、自己犠牲の癖を、最後まで利用する問い。
セラフィーナは、長く沈黙した。
レオンは、息を止める。
ユリウスも。
クラウディアも。
エリスも。
誰も代わりに答えることはできない。
これは、彼女自身の選択だ。
セラフィーナは、処刑台に縛られたまま顔を上げた。
「私は」
首輪が黒く光る。
喉を締める。
それでも彼女は言った。
「王都を救いたいです」
オズワルドの表情が、わずかに緩む。
だが、次の言葉で止まった。
「でも、私一人が死ねば救われるという嘘を、もう信じません」
広場に、静かな衝撃が走った。
セラフィーナは続ける。
「私は確かに魔王因子を宿しています。だから恐れられるのは当然です。私自身も怖い。自分の中にあるものが、誰かを傷つけるかもしれないことが怖い」
彼女の声は震えていた。
聖女の完璧な声ではない。
けれど、だからこそ民衆は聞いた。
「けれど、人を救うために誰かを器にしてよいと認めれば、次に器にされるのは、別の誰かです。辺境の王子かもしれない。名もない村人かもしれない。異端者と呼ばれた人かもしれない。そしていつか、あなたの子かもしれない」
人々の顔が変わった。
遠い犠牲が、急に近くなる。
セラフィーナは、枷のついた手を胸元に寄せた。
「私は聖女として、ずっと祈られてきました。でも今は、祈られる者としてではなく、一人の人間として言います」
彼女は、民衆を見た。
王族を見た。
勇者を見た。
レオンを見た。
そして、はっきりと言った。
「私を、便利な犠牲にしないでください」
その言葉が、広場に落ちた。
強い演説ではなかった。
命令でもない。
ただの願いだった。
だからこそ、誰もすぐに否定できなかった。
「私は死ぬのが怖いです」
聖女が言った。
「でも、王都を救いたい。その気持ちは嘘ではありません。だから、どうか私を聖女としてでも、災厄としてでもなく、一人の人間として見てください」
レオンは、彼女を見た。
第1話の地下牢で、彼女は「私は裁かれなければなりません」と言った。
第9話で、彼女はようやく「生きたい」と言った。
そして今、彼女は民衆の前で、自分を犠牲にしないでほしいと願った。
それは、奇跡よりも大きな変化だった。
*
オズワルドの顔から、穏やかな表情が消えた。
完全にではない。
だが、ひびが入った。
「残念です」
彼は言った。
「あなたなら、最後まで聖女でいてくださると思っていました」
「私は、人間です」
セラフィーナは答えた。
「そうですか」
オズワルドは目を閉じた。
「ならば、人間として裁かれなさい」
彼が右手を上げる。
断罪剣が黒く光った。
レオンは即座に叫んだ。
「ユリウス!」
ユリウスが聖剣を抜く。
金色の光が処刑台を照らす。
クラウディアが王家の印章を握る。
エリスが記録魔石を胸に抱きしめる。
ダニエルが民衆の避難誘導へ走る。
処刑台の下から、黒い光が噴き上がった。
七つの紋様が王都の空に浮かぶ。
北門。
西防壁。
東水門。
王城地下。
中央大聖堂。
旧聖堂。
そして処刑台。
七本の封印柱が、不完全なまま強制的に共鳴し始めた。
民衆が悲鳴を上げる。
「魔王因子だ!」
「逃げろ!」
「聖女が暴走した!」
オズワルドの声が轟いた。
「見なさい! これが魔王因子です! 彼女を生かせば王都は滅びる!」
「違う!」
レオンは処刑台へ駆け上がる。
「これは、あなたが起動した儀式だ!」
「証明できますか!」
オズワルドの声は、黒い光の中でも冷静だった。
「民の目の前で災厄は起きている。理屈より恐怖が先に届く!」
その通りだった。
人々は逃げ惑う。
先ほどまで真実に傾きかけていた心が、恐怖で塗り潰されようとしている。
レオンは奥歯を噛んだ。
これがオズワルドの戦い方だ。
真実を否定できなくなったら、真実より大きな恐怖を見せる。
そして言う。
ほら、やはり処刑が必要だった、と。
セラフィーナの枷が黒く光る。
断罪剣から伸びた魔力導線が、彼女の身体へ絡みつこうとしていた。
セラフィーナは苦しげに息を吸い、それでも祈りの光を広げる。
白い光が黒い奔流を押し返した。
だが枷が腕を焼く。
首輪が喉を締める。
「セラフィーナ!」
ユリウスが叫ぶ。
「来ないでください!」
「行くに決まってるだろ!」
ユリウスは聖剣を振るい、処刑台の導線の一部を断ち切った。
金色の光が黒い光を弾く。
だが断罪剣は鳴り続ける。
七本目の封印柱。
処刑台そのものが起動している以上、一部を斬っても止まらない。
クラウディアが印章を掲げた。
「王族の血において命じます! 王城地下回路、応答せよ!」
彼女の手の傷が開き、血が印章へ吸い込まれる。
遠く王城の方角で、青い光が立ち上がった。
一つの柱が沈黙する。
だが、残りの柱がそれを補おうとして暴れ始めた。
王都の空が、黒くひび割れるように光る。
「レオン!」
ダニエルが叫んだ。
「民衆が持たない! このままじゃ暴動になる!」
「避難を続けろ!」
「言われなくても!」
ダニエルは王国兵を怒鳴りつけ、民衆の流れを作っている。
逃げる者を押し返さず、倒れた者を助け、子どもを抱えた母親を広場の外へ誘導する。
騒ぎの中でも、審問官としてではなく、一人の人間として動いていた。
エリスは処刑台の下で、震えながら兄の魔石を握っていた。
彼女に戦う力はない。
封印を断つ術もない。
それでも彼女は逃げなかった。
「兄さん」
彼女は泣きながら言った。
「見てて」
そして、魔石を掲げた。
ライネルの最後の映像の一部が、再び空に浮かぶ。
『魔王は、最初から魔王だったのではない。誰かが魔王にした。なら次の魔王を作るのも、怪物ではなく人間だ』
逃げ惑う民衆の中で、何人かが足を止めた。
恐怖の中に、死者の言葉がもう一度刺さる。
真実は恐怖に勝てないかもしれない。
だが、消えるわけでもない。
レオンは、それを見た。
今だ。
今、真実を恐怖より先に届かせなければならない。
彼は真実宣告の補助印を握った。
黒い印章が、熱を持つ。
術式が彼の血に触れた。
腕の内側を、焼けた針が走るような痛みが貫く。
「レオン!」
セラフィーナが叫ぶ。
「まだです! ここで使えば」
「使わなければ、あなたが死ぬ」
「でも」
「あなたは一人で背負うなと言ったはずだ」
セラフィーナの瞳が揺れる。
レオンは処刑台の中央へ進んだ。
黒い光が渦巻く。
断罪剣が鳴っている。
地下聖堂の沈黙の鐘が、目覚めようとしている。
オズワルドが彼を見る。
「真実宣告ですか」
「ええ」
「ここで発動すれば、あなたの命を削る。宣告者自身に嘘があれば、術式はあなたを焼く」
「知っている」
「あなたには嘘がある」
「ある」
レオンは即答した。
オズワルドの目が、わずかに動く。
「認めるのですか」
「ええ」
レオンは、民衆の前で言った。
「私は完全な秤ではない。感情を持たない審問官でもない。セラフィーナに命を救われた恩がある。彼女に死んでほしくないという私情がある。王国の嘘に対する怒りがある。自分がこれまで見逃してきたかもしれない罪への恐怖がある」
補助印の光が強まる。
だが、レオンを焼き尽くさない。
嘘を隠していないからだ。
彼は続けた。
「それでも、いや、それを認めた上で、私はこの裁判を行う」
セラフィーナが、息を止めた。
レオンは彼女を見た。
「私は、聖女セラフィーナを救いたい」
広場が静まる。
黒い光の中で、彼の声だけが通る。
「聖女だからではない。奇跡の象徴だからではない。彼女が一人の人間として、生きたいと言ったからだ」
セラフィーナの瞳に、涙が浮かんだ。
今度は、こぼれた。
たった一粒。
だが、それは聖女の涙ではなく、一人の人間の涙だった。
オズワルドは、静かに言った。
「ならば、あなたは私情で裁くのですね」
「違う」
レオンは補助印を掲げた。
「私情を隠して公平を名乗るあなたより、私情を認めて記録を照らす私のほうが、まだ審問官です」
真実宣告の光が、処刑台に広がった。
黒い光と白い祈りと金の聖剣光が、交差する。
レオンは宣言した。
「王国異端審問庁、レオン・アルバート」
声が広場を打った。
「これより、聖女セラフィーナ・エルシアに下された有罪判決の再審を開始する」
オズワルドが両手を広げた。
「始めなさい、審問官」
その目には、まだ恐れはない。
彼は本気で信じている。
自分の犠牲の論理が、レオンの真実に勝つと。
だからレオンは、一歩前へ出た。
処刑台は、もはや処刑台ではない。
民衆が見ている。
王家が見ている。
聖教会が見ている。
死者が証言した。
勇者が嘘を認めた。
王女が王家の罪を開いた。
聖女が生きたいと願った。
次は、審問官の番だった。
七日目の裁判が、始まった。




