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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第8章 地下聖堂の死体――魔王討伐は王都で再現されていた

 罪人になってから見る王都は、少しだけ色が違った。

 昨日まで、レオン・アルバートは王国異端審問庁の審問官だった。

 王都の通りを歩けば、衛兵は道を開けた。教会の記録庫へ入れば、司祭は嫌な顔をしながらも鍵を出した。死体を見れば、誰もが説明を求められる前に口を開いた。

 法の側にいる。

 それは、思っていた以上に強い鎧だった。

 だが今、その鎧は剥がれた。

 王都の掲示板には、もう彼の名が貼られている。

 レオン・アルバート。

 異端審問官。

 聖女セラフィーナ・エルシアへの過度な同情。

 国家反逆容疑者との不適切接触。

 魔王因子関連禁書の不正所持。

 宮廷魔術師エルネスト・バルク死亡に関する重要参考人。

 情報提供者には報奨金。

 つまり、見つけたら売れという意味だ。

 民衆は、まだ似顔絵と実物を結びつけていない。

 レオンは審問官の制服を捨て、南区の古着屋で買った灰色の外套と、労働者風の帽子を身につけていた。頬には煤を塗り、髪も乱している。きちんと立っているだけで審問官に見えると昔から言われていたので、わざと少し猫背にした。

 だが、足取りまでは変えられない。

 彼は人を裁くための歩き方を、体に叩き込まれている。

 目的地へ、迷わず向かう歩き方。

「目立つな、審問官殿」

 背後から声がした。

 レオンは振り向かずに答えた。

「今の私は審問官ではない」

「だったら、なおさら目立つ。逃亡犯はもっと周りを見るものだ」

「経験者の助言か」

「英雄は逃げない」

「では、今日は英雄ではないな」

 路地の影から、金髪の青年が姿を現した。

 勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。

 ただし、今の彼は王国の英雄には見えなかった。

 白い軍服ではなく、地味な旅装。金髪は布で覆い、腰の聖剣にも布を巻いている。整った顔立ちは隠しきれていないが、遠目には貴族の若者ではなく、少し身なりのいい巡礼者に見えた。

 その変装の雑さを見て、レオンは言った。

「三十点」

「何が」

「変装だ。顔が良すぎる」

「それは俺の責任か?」

「責任ではないが欠点だ」

「初めて欠点扱いされたな」

「祝うべきか?」

「やめろ」

 ほんの短いやり取り。

 それだけで、空気が少し緩んだ。

 だが二人とも、笑いきることはできなかった。

 ユリウスの従者ロイドは、まだ寝台の上で毒と戦っている。

 クラウディア王女の侍女長マリナは、すでに殺された。

 ライネル・フォードは王都地下で白骨となって見つかった。

 エルネスト・バルクは、自殺として処理された。

 そして聖女セラフィーナは、三日後に処刑される。

 軽口は、息をするための隙間でしかなかった。

「本当に来るとは思わなかった」

 レオンが言うと、ユリウスは肩をすくめた。

「呼んだのはそっちだろう」

「来ない選択もあった」

「それを選び続けた結果が今だ」

 ユリウスの声は、思ったより静かだった。

「もう、黙っていられない」

 レオンは彼の横顔を見た。

 勇者の目は、まだ迷っている。

 恐れている。

 だが、逃げてはいない。

 それで十分だった。

「目的地は分かっているな」

「ああ。王都地下旧聖堂。そのさらに奥」

「前回、私は旧聖堂でライネルの遺体を見つけた。だが、その先は調べきれていない」

「聖女の聖印に出た文字」

「地下聖堂の鐘を鳴らしてはいけません」

 ユリウスは口の中で繰り返した。

「鐘か。旧聖堂に鐘楼なんてあったのか?」

「少なくとも、地上にある鐘楼ではない。おそらく装置の呼称だ」

「魔王因子を王都全域へ響かせるための?」

「可能性は高い」

 ユリウスの顔が険しくなる。

「もしそれが本当なら、セラフィーナの処刑は……」

「公開処刑ではなく、儀式だ」

 レオンは言った。

「彼女の身体に宿る魔王因子を回収し、王都地下装置へ接続するための」

「ふざけるな」

 ユリウスの声に、低い怒りが混じった。

 初めて見る種類の怒りだった。

 自分への怒りでも、恐怖から来る叫びでもない。

 誰かを守ろうとする怒り。

「彼女は、そんなことのために罪を被ったんじゃない」

「だから確かめる」

「確かめて、それが本当だったら?」

「止める」

「どうやって」

「それを今から探す」

 ユリウスは、少しだけ呆れた顔をした。

「お前、意外と無計画だな」

「計画はある」

「聞こう」

「まず入る。見る。死なずに戻る」

「それは計画じゃない。願望だ」

「では、勇者らしい計画をどうぞ」

 ユリウスは黙った。

 少し考えたあと、言った。

「まず入る。見る。敵がいたら斬る。死なずに戻る」

「似たようなものだな」

「俺のほうが一手多い」

「物騒な一手だ」

 二人は路地の奥へ進んだ。

 王都地下への入口は、前回レオンが使った旧巡礼者階段ではない。

 そこはすでに封鎖され、見張りもついているだろう。

 今回は別々の経路から入る。

 レオンは南区の廃水路から。

 ユリウスは中央大聖堂の巡礼者納骨堂から。

 互いに別ルートで旧聖堂へ向かい、現地で合流する。

 ユリウスは表向きまだ王国の英雄だ。完全に追われているレオンとは違い、正面の巡礼区画へ入ることはできる。だが目立つ。だから別行動だ。

「合流地点は旧聖堂の祭壇前」

「時間は?」

「第三夜鐘の直後」

「遅れたら?」

「十分待つ。それでも来なければ、先に進む」

「冷たいな」

「死体が二つになるより合理的だ」

「そういうところ、本当に審問官だな」

「今は逃亡犯だ」

「逃亡犯でも性格は変わらないらしい」

 ユリウスはそう言って、別の路地へ向かった。

 数歩進んでから、振り返る。

「レオン」

「何だ」

「セラフィーナを救うためなら、俺は何でもする」

「その言葉は危険だ」

「分かってる」

「分かっていない。何でもする、という言葉で、人はたいてい間違える」

 ユリウスは、少しだけ苦笑した。

「じゃあ、言い直す」

「ああ」

「俺は、もう彼女に嘘をつかない」

 レオンは頷いた。

「それでいい」

 勇者は闇の中へ消えた。

 レオンは逆方向へ歩き出した。

 処刑まで、あと三日。

 王都の夜は、まだ何も知らない顔で静まり返っていた。

     *

 南区の廃水路は、以前落ちた排水路よりもさらに狭かった。

 腰を屈めなければ進めない場所が多く、壁は湿り、足元には黒い水が流れている。鼠の気配。腐った木片。いつからあるのか分からない布の切れ端。

 王都は美しい都だと言われる。

 白い王城。

 青い屋根。

 聖堂の鐘。

 整った広場。

 だが、その下には必ずこういう場所がある。

 美しい都ほど、汚れを隠す地下が深い。

 レオンは聖銀灯を小さく灯し、地図を確認した。

 前回の逃走時に通った排水路の記憶と、エルネストの図面、クラウディアの密書に挟まれていた古い王都地下図。それらを頭の中で重ね合わせる。

 旧聖堂の下に、さらに空間がある。

 その空間は公式地図にない。

 王家記録にも断片的にしか残っていない。

 名称は、第二礼拝堂。

 あるいは、封印実験区画。

 その二つが同じ場所を示しているのだとしたら。

 魔王討伐は、王都地下で事前に再現されていた。

 レオンは水路の分岐を右に曲がった。

 壁に、古い聖句が刻まれている。

 ――器は祈りを受け、罪を留める。

 ――鐘は鳴らすな。鳴れば都が聞く。

 ここにも鐘。

 レオンは指先で文字をなぞった。

 やはり、鐘は装置だ。

 都が聞く。

 つまり、鐘の音は王都全域に届く。

 通常の音ではない。

 魔術的な共鳴。

 王都に張り巡らされた聖銀柱が、それを聞くのだ。

「悪趣味だな」

 誰にともなく呟く。

 その時、背後で水音がした。

 レオンは足を止めた。

 振り返らない。

 聖銀灯の光を少しだけ落とす。

 水音。

 一つ。

 いや、二つ。

 尾行か。

 追手か。

 それとも、地下に住み着いた浮浪者か。

 王都地下には、地上で生きられなくなった者が隠れていることがある。だが、この区画は違う。封印文が残り、聖銀粉の匂いがある。普通の人間は近づかない。

 レオンは腰の短剣に手をかけた。

「出てこい」

 返事はない。

「三つ数える。一」

 水音が止まる。

「二」

 影が動いた。

 レオンは横へ跳んだ。

 直後、短い矢が飛んできて、さっきまで彼の胸があった場所を貫いた。

 麻痺矢。

 いや、矢尻に黒い光がある。

 魔王因子か。

「三を待てないなら、教育が足りないな」

 レオンは聖銀灯を投げた。

 青白い光が水路の壁に反射し、影を照らす。

 白い仮面。

 二人。

 そしてその後ろに、王国兵らしき男が一人。

 だが、その男の様子がおかしかった。

 鎧の隙間から、黒い筋が浮かんでいる。

 血管のように、皮膚の下を走る黒い光。

 瞳が濁り、口元から薄い黒煙が漏れている。

 生きている。

 だが、正気ではない。

「もう人体実験を隠す気もないらしい」

 レオンは短剣を抜いた。

 白い仮面の一人が言った。

「記録板と密書を渡しなさい。そうすれば、苦しまずに済みます」

「魅力的な提案だ」

「なら」

「だが、苦しまずに済む相手が私とは限らないだろう」

 レオンは足元の水を蹴った。

 黒い水が仮面の視界を遮る。

 同時に、彼は左の壁へ走った。

 狭い水路。

 相手が三人いるなら、正面から戦うのは愚かだ。

 逃げる。

 ただし、目的地へ向かって。

 白い仮面が術式を唱える。

 聖銀の鎖が空中に現れ、レオンの足首を狙う。

 レオンは壁に刻まれた古い聖句へ血をこすりつけた。

 封印文が反応する。

 古い光が鎖を弾く。

「なっ」

「古い設備は大事に使うべきだ」

 レオンは狭い横穴へ滑り込んだ。

 背後で、王国兵だったものが咆哮した。

 人間の声ではない。

 喉の奥から黒い魔力が裂けるような音。

 魔王因子に侵された兵。

 レオンはそれを頭に刻んだ。

 魔王因子は、すでに人間へ移植されている。

 しかも、完全な制御には失敗している。

 王国が欲しがっているのは、セラフィーナの安定した器としての身体。

 そう考えれば筋が通る。

 彼女の処刑は、因子を消すためではない。

 安定した因子を回収するためだ。

 横穴の先に、錆びた鉄格子があった。

 レオンは短剣を差し込み、こじ開ける。

 背後から追手の足音。

 間に合わない。

 その時、前方の闇から声がした。

「伏せろ!」

 ユリウスの声。

 レオンは反射的に身を伏せた。

 次の瞬間、闇を裂くように聖剣の光が走った。

 金色の斬撃が鉄格子を断ち、さらに背後から迫っていた聖銀鎖を焼き切る。

 白い仮面たちが怯む。

 レオンは転がるように格子を抜け、広い空間へ出た。

 そこに、ユリウスが立っていた。

 布を解いた聖剣が、薄暗い地下を照らしている。

「十分待つ予定だったが」

 レオンが言うと、ユリウスは肩で息をしながら答えた。

「こっちも追われた。予定より早く着いた」

「勇者にしては優秀だ」

「褒め方が下手だな」

「今は素直に感謝している」

「だったら顔に出せ」

「努力する」

 背後から、黒い血管の兵が格子の残骸を押し広げて現れた。

 白い仮面二人も続く。

 ユリウスが聖剣を構える。

 金色の光が、兵の黒い血管を照らした。

 彼の顔が強張る。

「何だ、あれは」

「王国兵に魔王因子を入れたものだろう」

「人間か?」

「元は」

「戻せるか」

「分からない」

 兵が吠えた。

 斧を振りかぶり、突進してくる。

 速い。

 人間の速度を超えている。

 ユリウスが前に出た。

 聖剣で斧を受ける。

 衝撃で床の水が跳ねた。

「重っ……!」

「殺すな」

「分かってる!」

 ユリウスは斧を弾き、峰に当たる部分で兵の腹を打った。

 普通の人間なら倒れる一撃。

 だが兵は止まらない。

 黒い血管が脈打ち、痛みを無視して再び斧を振るう。

 白い仮面の司祭が後ろから術式を飛ばす。

 聖銀の杭が、ユリウスの足元に突き立つ。

 動きを封じるつもりだ。

 レオンは短剣で床の封印溝を削った。

 古い聖銀粉が舞う。

 そこへ聖印を押し当てる。

 青白い光が走り、聖銀杭の術式を乱した。

「この地下、敵にも味方にも危険だな!」

 ユリウスが叫ぶ。

「使う者の性格に似る」

「誰の!」

「王国だろう」

「最悪だ!」

 ユリウスは兵の攻撃を受け流しながら、白い仮面の一人へ踏み込んだ。

 斬らない。

 聖剣の柄で腹部を打ち、気絶させる。

 もう一人の仮面が逃げようとする。

 レオンはその足元へ短剣を投げた。

 短剣は床に刺さり、仮面の足を止める。

 逃がさない。

 だが、黒い血管の兵が突然苦しみ始めた。

 膝をつき、喉を押さえる。

 黒い光が全身に広がる。

「まずい」

 レオンは言った。

「暴走する」

「どうする!」

「聖剣で因子を散らせるか」

「加減できるか分からない!」

「殺さずにやれ」

「無茶言うな!」

「勇者だろう」

「便利な肩書きにするな!」

 ユリウスは聖剣を両手で握った。

 斬るのではなく、突き立てる。

 床に。

 金色の光が、水を伝って広がった。

 兵の足元を包み、黒い血管へ触れる。

 兵が絶叫した。

 魔王因子が焼かれる。

 だが肉体も痛む。

 ユリウスの額に汗が浮かぶ。

「耐えろ……!」

 それは兵への言葉か。

 自分への言葉か。

 やがて、黒い光が薄れた。

 兵はその場に倒れ、荒い呼吸を繰り返す。

 生きている。

 少なくとも今は。

 ユリウスは聖剣を引き抜き、膝をついた。

「殺してない」

「見れば分かる」

「褒めろ」

「よくやった」

「……素直すぎて怖いな」

「非常時だからな」

 レオンは気絶した白い仮面の懐を探った。

 身分証はない。

 ただし、小さな金属札がある。

 聖教会の紋章。

 裏には数字。

 七。

 また七。

 レオンは札をしまった。

「行くぞ。追手が増える」

「こいつらは?」

「縛って置いていく。殺さない。それが一番厄介だ」

「同感だ」

 二人は追手を拘束し、さらに奥へ進んだ。

     *

 旧聖堂は、前回来た時と変わっていた。

 ライネルの遺体は消えていた。

 いや、消されたのではない。

 祭壇の前に、新しい棺が置かれていた。

 白い布。

 聖教会の印。

 その上に、花。

 ライネル・フォードの名はない。

 代わりに、棺にはこう記されている。

 魔王因子に侵された名もなき騎士。

 ユリウスの顔が歪んだ。

「ふざけるな」

 声が低い。

「ライネルには名前がある」

「彼らにとって、名前は邪魔なのだろう」

 レオンは棺へ近づき、布をめくった。

 中には骨が入っている。

 ライネルの遺体かどうかは確認が必要だ。

 だが、一部が欠けている。

 胸骨の刺突痕がある部分。

 手首の拘束痕がある部分。

 それらが抜き取られていた。

 証拠隠滅。

 だが、全ては消しきれていない。

 レオンは棺の底を見た。

 聖銀粉。

 そして、棺板の内側に傷がある。

 新しい。

 爪で引っかいたような跡ではない。

 金属で刻んだ跡。

 文字。

 ユリウスが聖剣の光を近づける。

 そこに刻まれていたのは、短い一文だった。

 ――聖女は裏切っていない。

 ユリウスの息が止まった。

 レオンも、指先でその文字をなぞった。

「ライネルか」

「たぶん」

 ユリウスの声は震えていた。

「彼は、ここで……」

「死ぬ前か、死んだ後に誰かが棺へ移す前か。いずれにせよ、ライネルは最後までセラフィーナを庇っていた」

 さらに下に、もう一文。

 血で書かれたものが、薄く残っている。

 ――裏切ったのは王国だ。

 ユリウスは聖剣を握りしめた。

 金色の光が、怒りに反応して強くなる。

「俺は……何をしていたんだ」

「生きていた」

 レオンが言うと、ユリウスは振り向いた。

「慰めか?」

「事実だ。ライネルは死んだ。エルネストも死んだ。あなたは生きている。なら、できることがある」

「俺が黙ったせいで」

「それを言い始めると、私も同じだ」

「お前が?」

「私はこれまで審問官として、書類を信じ、制度を信じてきた。その中に、同じような嘘がなかったと言い切れない」

 レオンは棺の布を戻した。

「罪悪感は後で使え。今は邪魔だ」

「使う?」

「最後まで動く燃料にはなる」

 ユリウスは小さく笑った。

「お前、本当に優しいんだか冷たいんだか分からないな」

「両方だと便利だ」

「自分で言うな」

 二人は祭壇の奥へ向かった。

 前回は気づかなかった。

 いや、気づく余裕がなかった。

 祭壇の背後に、古い壁画がある。

 顔を削られた聖人たち。

 その中央に、巨大な器を抱えた人物。

 器からは黒い光が伸び、七本の柱へ流れている。

 下部には古代語。

 レオンは読んだ。

「第一礼拝堂は祈りのために。第二礼拝堂は封じるために。鐘は、王都の耳である」

「王都の耳?」

「鳴らせば、王都全体が反応するという意味だろう」

 壁画の器の下に、隠し扉があった。

 ユリウスが触れると、聖剣が反応した。

 金色の光が溝に流れ、扉がゆっくり開く。

「勇者認証か」

 レオンが言う。

「そんなものがあるのか?」

「王国が勇者を舞台装置として使うつもりなら、あっても不思議ではない」

「最悪だな」

「今日はその言葉をよく聞く」

「まだ足りない」

 扉の奥には、階段があった。

 下へ続いている。

 深く。

 旧聖堂よりさらに下へ。

 二人は黙って降りた。

     *

 第二礼拝堂は、魔王城最奥に似ていた。

 ユリウスは、一目見た瞬間に足を止めた。

 レオンも、彼の反応で理解した。

 ここが、ユリウスの悪夢の再現なのだと。

 黒い石の床。

 中央に刻まれた巨大な魔法陣。

 周囲に配置された七本の聖銀柱。

 奥には、玉座のような拘束台。

 だがそれは玉座ではない。

 人を座らせ、鎖で縛り、胸部へ杭を打ち込むための台。

 魔王城最奥で、魔王ゼルヴァが繋がれていたという装置と同じ形。

 いや、逆だ。

 魔王城が、ここを再現していたのではない。

 ここで、魔王城が再現されていた。

「王都で……練習していたのか」

 ユリウスの声がかすれた。

「魔王を倒す前に?」

「倒すためではない」

 レオンは中央の魔法陣へ近づいた。

 床の溝に、古い黒ずみが残っている。

 血。

 乾ききった血が、何年も何十年も層になっている。

「移すためだ。魔王因子を、器から器へ」

 壁際には、古い器具が並んでいた。

 聖銀の杭。

 鎖。

 魔石管。

 祈祷用の仮面。

 白い仮面。

 水底に沈んでいたものと同じ。

 ユリウスが拳を握った。

「こんなものを、王都の下で……」

「民衆は知らない」

「知らなければ許されるのか」

「許されない。だが、知らなければ怒ることもできない」

 レオンは周囲を調べた。

 第二礼拝堂の奥には、さらに小部屋が並んでいる。

 一つ目。

 記録室。

 棚には焼け焦げた記録板が残っている。

 ほとんどは破壊済み。

 だが、端に数枚だけ無事なものがあった。

 器適合試験。

 被験者番号。

 名前はない。

 年齢、性別、出身地、適合率、処分方法。

「処分方法」

 ユリウスが低く呟く。

「人間に使う言葉じゃない」

「彼らにとっては、もう人間ではなかったのだろう」

 二つ目の小部屋。

 寝台が並んでいる。

 いや、寝台ではない。

 拘束台だ。

 細い革紐。

 乾いた染み。

 壁に爪痕。

 ユリウスが息を呑んだ。

 三つ目の小部屋。

 骨。

 複数の白骨。

 雑に積まれている。

 子どもの骨もあった。

 レオンは、そこで初めて足を止めた。

 言葉が出なかった。

 審問官として多くの死体を見てきた。

 戦場も見た。

 処刑後の死体も、拷問で壊れた身体も見た。

 だが、ここにあるものは違う。

 死体ではない。

 廃棄物として扱われた人間の残骸だった。

 ユリウスが壁に手をついた。

「俺たちは、何と戦っていたんだ」

 レオンは答えられなかった。

 部屋の壁には、古い布告写しが貼られている。

 魔族災害により死亡。

 辺境村落消失。

 疫病隔離中に全滅。

 異端者処分済み。

 それぞれの布告に対応するように、骨の近くに小さな札がある。

 つまり、ここにいる者たちは、過去に別の死因で処理された人々だ。

 本当は、魔王因子の適合実験に使われた。

 失敗した。

 そして地下へ捨てられた。

「記録する」

 レオンは言った。

 声が、自分でも驚くほど低かった。

「全て」

「ここで?」

「覚える。可能な限り」

 レオンは札を見て、番号、年齢、特徴を記憶した。

 証拠として持ち出せるものは限られる。

 だが、記憶なら奪われない。

 いや、殺されれば終わりだ。

 だから生きて戻る必要がある。

 ユリウスは、骨の前に膝をついた。

 聖剣を床に置き、手を合わせる。

「すまない」

 その言葉は誰に向けたものか。

 分からない。

 だが、必要な言葉だった。

 レオンは黙って待った。

 祈りの時間を否定するほど、彼は冷たくはなかった。

     *

 第二礼拝堂の最奥に、それはあった。

 鐘。

 ただし、レオンたちが想像した鐘とは違っていた。

 巨大な鐘楼に吊られた金属鐘ではない。

 逆さに吊られた、聖銀の器。

 直径は人の背丈ほど。

 器の縁には古代語が刻まれ、底からは七本の鎖が伸びている。

 鎖は床の溝へ入り、七本の聖銀柱へ繋がっていた。

 そして聖銀柱の魔力導線は、さらに王都全域へ伸びている。

「これが鐘か」

 ユリウスが呟いた。

「鳴るのか、これが」

「音ではないだろう」

 レオンは器の縁に触れないよう近づいた。

 近づくだけで、肌がざわつく。

 聖銀の器の内側には、黒い染みがこびりついている。

 魔王因子の残滓。

 少量でも、強い圧がある。

「この器が共鳴する。七本の柱が反応する。王都全域の聖銀網へ魔力が流れる」

「それが鳴る、ということか」

「おそらく」

「処刑台とは?」

 レオンは床の魔法陣を追った。

 一本だけ、太い導線が中央大聖堂方面へ伸びている。

 さらに、その先は中央広場。

 処刑台。

「接続されている」

「やっぱりか」

「セラフィーナが処刑台で死ぬ。彼女の身体に宿る魔王因子が解放される。処刑台を通じて、この鐘へ流される。鐘が鳴る。七本の柱が共鳴し、王都全体へ因子を流し込む」

「そんなことをすれば」

「制御できれば、王都全域が巨大な兵器になる」

「制御できなければ?」

「魔族化、暴走、都市壊滅。オズワルドがユリウスを脅した通りだ」

 ユリウスは聖剣を握りしめた。

「脅しは本当だった。だが原因を作ったのは、あいつら自身だ」

「そういう脅しはよく効く」

「胸糞悪い」

「同感だ」

 レオンは鐘の周囲を調べた。

 起動条件。

 停止条件。

 逆鳴らし。

 セラフィーナの聖印にあった警告。

 地下聖堂の鐘を鳴らしてはいけません。

 だが、第9話のプロットで明かされるはずの「逆に鳴らす」方法の前段階として、ここではまだ完全には分からない。

 分かるのは一つ。

 処刑の日に、これが鳴る。

 そのために、セラフィーナは処刑台へ立たされる。

「彼女は」

 ユリウスが言った。

「自分が死ねば、因子ごと消えられると思っていたんだよな」

「おそらく」

「でも実際には」

「その死が回収装置に利用される」

 ユリウスは目を閉じた。

「残酷すぎる」

「残酷なものほど、手続きの形をしている」

「処刑、裁判、祈り、儀式か」

「そうだ」

 レオンは鐘から一歩下がった。

「ここを壊せるか?」

 ユリウスが聖剣を構える。

 だが聖剣は、近づけた瞬間に激しく震えた。

 金色の光が乱れる。

「っ……!」

「やめろ」

 レオンが制止する。

 ユリウスは剣を引いた。

「反発した」

「勇者の聖剣も、この装置の起動条件の一部かもしれない。無理に斬れば、逆に鳴る可能性がある」

「面倒すぎるだろ」

「王国の嫌なところがよく出ている」

「作った奴に文句を言いたい」

「生きていれば聞こう」

 その時、鐘の内側で、黒い光が揺れた。

 まだ起動していないはずなのに。

 レオンは息を止めた。

 鐘の表面に、細い文字が浮かぶ。

 古代語。

 血で書かれたような文字。

 ――器は聖女に至る。

 ――聖女は王都に至る。

 ――王都は剣となる。

 ユリウスが顔を歪める。

「王都を剣にするつもりか」

「魔王因子を都市規模の聖遺物兵器にする計画だ」

「それが、王国が魔王を必要とした理由か」

「隣国との戦争。魔族残党への抑止。内乱の制圧。クラウディアの密書とも一致する」

「そのためにセラフィーナを殺す?」

「そのために魔王を作り、そのためにライネルを殺し、そのためにエルネストを消した」

「……止めるぞ」

 ユリウスの声は、今度こそ揺れなかった。

「ああ」

「レオン」

「何だ」

「俺は、処刑の日に証言する」

 レオンは彼を見た。

「公に?」

「ああ」

「勇者の名声は終わる」

「とっくに終わってる」

「王家にも聖教会にも追われる」

「お前ほどじゃない」

「民衆に裏切り者と呼ばれる」

 ユリウスは、苦く笑った。

「セラフィーナは、それを一人で受けようとしていたんだろ」

「そうだな」

「なら、半分くらいは俺が持つ」

「半分では足りないかもしれない」

「じゃあ、持てるだけ持つ」

 レオンは頷いた。

 この言葉は、前の「何でもする」よりずっと信用できた。

 人は何でもできない。

 だが、持てるだけ持つことはできる。

「戻るぞ」

 レオンは言った。

「証拠を持ち帰る」

「どうやって? 骨を全部は無理だぞ」

「記録板、札、鐘の刻印の写し。あと、これだ」

 レオンは鐘の台座の下に、小さな金属片を見つけていた。

 聖銀柱の接続鍵。

 七本の柱を制御するための部品の一つだろう。

 取り外せる。

 これがあれば、少なくとも鐘と七柱の接続を証明できる。

 だが、レオンが手を伸ばした瞬間。

 背後で拍手が響いた。

 ゆっくりと。

 乾いた音。

 二人は振り返った。

 第二礼拝堂の入口に、白い仮面たちが並んでいた。

 その中央に、黒い外套の男。

 王弟ギルベルトの私兵紋。

 いや、それだけではない。

 聖教会の護符も下げている。

 王家と聖教会の合同部隊。

「見事です、審問官殿」

 男は言った。

「まさか、ここまで辿り着くとは」

「褒めるなら通してくれ」

「それはできません」

「だろうな」

 ユリウスが聖剣を構える。

 男は彼を見る。

「勇者様。あなたまでこのような場所に」

「俺は最初から、ここへ来るべきだった」

「残念です。王弟殿下は、あなたに期待しておられた」

「処刑台でセラフィーナを断罪する役か?」

「民は物語を必要とします。勇者が聖女を裁く。美しい構図でしょう」

 ユリウスの目が冷えた。

「黙れ」

「怒りは判断を鈍らせますよ」

「もう十分鈍ってた。今は少しマシだ」

 白い仮面たちが術式を展開する。

 さらに、黒い血管を浮かべた兵が三人。

 先ほどより多い。

 ユリウス一人で殺さず制圧するには厳しい。

 そしてこの場所で聖剣を大きく使えば、鐘が反応する可能性がある。

 レオンは素早く周囲を見た。

 鐘。

 七柱。

 導線。

 台座。

 接続鍵。

 敵。

 出口は塞がれている。

 では、別の出口を作るしかない。

「ユリウス」

「何だ」

「鐘を鳴らすな」

「言われなくても」

「ただし、柱は鳴らせ」

「は?」

「聖剣の光を一番近い柱へ当てろ。斬るな。響かせるだけだ」

「それで?」

「この地下は王都全域へ繋がっている。柱を局所共鳴させれば、封印の圧が乱れる。壁のどこかが開く」

「どこかって?」

「賭けだ」

「お前の計画、だいたい賭けだな!」

「勇者向きだろう」

「最悪だ!」

 ユリウスは聖剣を横に構え、近くの聖銀柱へ光を当てた。

 柱が震える。

 鐘も反応しかける。

 レオンは接続鍵を引き抜き、鐘と柱の導線の一部を断った。

 黒い光が跳ねる。

 指先が焼けるように痛む。

 だが、鐘は鳴らない。

 代わりに、礼拝堂全体が低く唸った。

 壁の一部に亀裂が入る。

「走れ!」

 レオンが叫ぶ。

 ユリウスが聖剣で敵の術式を弾き、道を作る。

 黒い血管の兵が飛びかかる。

 ユリウスはその腕を受け、力任せに投げた。

 殺さない。

 だが容赦もしない。

 レオンは接続鍵を外套にしまい、亀裂の入った壁へ走った。

 白い仮面が術式を放つ。

 聖銀の槍。

 レオンの肩をかすめる。

 血が散る。

 だが止まらない。

 ユリウスが追いつき、聖剣で壁を叩いた。

 亀裂が広がる。

 向こうに水路。

「飛ぶぞ!」

「またか!」

「慣れろ!」

 二人は壁の割れ目から水路へ飛び込んだ。

 冷たい水が全身を打つ。

 背後で、礼拝堂の共鳴が乱れ、黒い光が爆ぜた。

 鐘は鳴らなかった。

 だが、完全に沈黙したわけでもない。

 低く、遠く。

 まるで眠っていた獣が寝返りを打つように、王都の地下が震えた。

     *

 地上へ戻った時、夜はまだ明けていなかった。

 二人は南区の廃屋に身を隠した。

 濡れた外套から水が滴る。

 ユリウスは壁にもたれ、荒い息を整えている。

 レオンは肩の傷を布で押さえながら、持ち帰ったものを確認した。

 接続鍵。

 第二礼拝堂の記録札。

 鐘の刻印を書き写した紙。

 白い仮面の金属札。

 十分ではない。

 だが大きい。

 処刑台、大聖堂、地下聖堂が繋がっている証拠。

 魔王討伐が王都地下で再現されていた証拠。

 そして、セラフィーナの死が因子回収に利用される可能性。

 ユリウスがぽつりと言った。

「彼女は、自分が死ねば終わると思っていた」

「ああ」

「でも、違った」

「ああ」

「なら、救うしかないな」

 レオンは接続鍵を布で包んだ。

「彼女自身が反対しても?」

「するだろうな」

「間違いなく」

 ユリウスは、疲れた顔で笑った。

「困った聖女だ」

「困った死刑囚だ」

「困った女だ」

「本人の前で言うなよ。たぶん傷つく」

「お前、そういうところは気を遣うんだな」

「審問に必要な配慮だ」

「嘘つけ」

 少しの沈黙。

 その後、ユリウスは言った。

「レオン。次はどうする」

「セラフィーナに会う」

「無理だろ。地下牢は監視だらけだ」

「王女クラウディアに協力を求める」

「彼女も監視されている」

「だからこそ、急ぐ」

 レオンは窓の隙間から外を見た。

 遠くに、中央広場の処刑台が見える。

 その黒い台の下に、見えない導線が伸びている。

 大聖堂へ。

 地下聖堂へ。

 沈黙の鐘へ。

 セラフィーナは知らなければならない。

 自分の死が救いではなく、敵の計画の一部になっていることを。

 そして、彼女は選ばなければならない。

 死んで守るのではなく。

 生きて戦うことを。

「王都も救う」

 レオンは言った。

「セラフィーナも救う」

 ユリウスは頷いた。

「俺も行く」

「その顔で?」

「だから欠点扱いするな」

「目立つ」

「布をかぶる」

「顔が良すぎる」

「二回言うな」

 夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。

 処刑まで、あと三日。

 王都の地下で、魔王討伐は再現されていた。

 ライネルはそれを知って殺され、エルネストはそれを知って消され、セラフィーナはそれを止めるために罪を被った。

 だが今、彼女の自己犠牲は敵の計画に組み込まれている。

 だから、レオンは決めた。

 彼女を救う。

 彼女自身の意思に反してでも。

 その決意が正しいかどうかは、まだ分からない。

 けれど、嘘の処刑台に彼女を立たせることだけは、絶対に間違っている。

 レオンは、夜明けの薄光の中で聖印を握った。

 ひび割れた銀の裏に、もう文字は浮かんでいない。

 それでも、彼には聞こえた気がした。

 ――もうおやめください。

 彼は静かに答えた。

「断る」

 今度の声は、誰にも聞こえないほど小さかった。

 だが、その一言は、王都の夜よりも深く沈んだ。


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