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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第7章 異端審問官、告発される――真実を追う者が罪人になる

 人を裁く者は、自分が裁かれる日を想像しない。

 少なくとも、レオン・アルバートはそうだった。

 異端審問官になった日から、彼は裁く側にいた。

 被告人席に立つ者。

 尋問椅子に縛られる者。

 証言台で震える者。

 処刑命令書に名を書かれる者。

 彼らを見てきた。

 嘘をつく者もいた。

 本当のことを言っているのに、誰にも信じてもらえない者もいた。

 そのたびに、レオンは記録を見た。

 証言を照らした。

 矛盾を探した。

 感情ではなく、事実で判断する。

 それが審問官の役目だと信じていた。

 だが、その朝。

 王国異端審問庁の大審問会議室に立たされた時、レオンは初めて理解した。

 被告人席から見える世界は、ひどく歪んでいる。

 高い天井。

 黒い石壁。

 半円形に並ぶ審問官席。

 正面奥には、王家と聖教会の紋章。

 レオンはその中央に立っていた。

 手枷はない。

 まだ、ない。

 だが左右には武装した審問官が控えている。

 出入口には王国兵。

 壁際には白い祭服の聖職者。

 そして上段には、三人の人物が座っていた。

 王国異端審問庁長官、アーヴィン・グラント。

 王弟ギルベルトの代理として派遣された騎士団長代理、バルツァー卿。

 そして聖務卿オズワルドの代理人、白い仮面の司祭。

 仮面は顔の上半分を覆っている。

 旧聖堂の水底に沈んでいたものと同じ形。

 ユリウスの屋敷に毒矢を届け、エルネストの塔に現れた者たちと同じ装い。

 その男が、今は合法の顔をして、レオンを見下ろしていた。

「レオン・アルバート審問官」

 白い仮面の司祭が、穏やかに言った。

「あなたには、いくつかの重大な疑義がかけられています」

「疑義ですか」

 レオンは静かに返した。

「罪状ではなく?」

「まだ、疑義です」

「では、私は被告人ではない」

「現時点では」

「なら、椅子をいただけますか。昨夜から立ち続けでして」

 会議室に、かすかなざわめきが起きた。

 バルツァー卿が眉を吊り上げる。

「立場をわきまえろ、審問官」

「わきまえています。だから確認しているのです。私は証人ですか。参考人ですか。被疑者ですか。被告人ですか。それによって、発言権も着席権も変わります」

 アーヴィンが、額に手を当てた。

 呆れている。

 怒ってはいない。

 たぶん。

 白い仮面の司祭は、薄く笑ったようだった。

「では、参考人として扱いましょう」

「ありがとうございます」

 レオンは近くにあった椅子を引き寄せ、座った。

 王国兵が一歩動いたが、アーヴィンが視線だけで制した。

「始めてください」

 レオンが言うと、バルツァー卿のこめかみが震えた。

「誰が誰に命じている」

「時間が惜しいので」

「貴様――」

「バルツァー卿」

 アーヴィンが低く言った。

「進めましょう」

 白い仮面の司祭は、机の上に数枚の書類を並べた。

「まず第一に、あなたは死刑囚セラフィーナ・エルシアに対し、審問官として認められる範囲を超えた接触を行いました」

「最終審問の担当者です」

「単独面会禁止後も、あなたは彼女に過度な質問を繰り返した」

「過度とは?」

「魔王因子、旧聖堂、王家記録、魔王城最奥に関する内容です」

「それらは全て、彼女の罪状に関わります」

「彼女の罪状はすでに確定しています」

「なら、最終審問は何のために?」

「処刑前の意思確認です」

「意思確認だけなら、審問官は不要です。看守でもできます」

 司祭の指が、書類の端を押さえた。

 わずかな苛立ち。

 レオンは見逃さなかった。

 白い仮面の下にも、人間はいる。

 人間である以上、癖がある。

「第二に」

 司祭は続けた。

「あなたは王都地下旧聖堂へ、無許可で侵入しました」

「旧聖堂は公式記録上、閉鎖区画です。そこに王国騎士ライネル・フォードの遺体がありました」

 会議室がざわめいた。

 アーヴィンは目を閉じている。

 バルツァー卿は露骨に顔をしかめた。

「証拠はあるのか」

「あります」

 レオンは即答した。

「フォード家の剣帯片。遺体の位置。刺突痕の観察記録。ライネル卿の妹エリス・フォードの証言。焼け残った手紙」

「その手紙とやらは、君が捏造した可能性がある」

 司祭が言った。

「遺体の観察記録も同じだ。正式な検死ではない。そもそも君は、遺体を持ち帰っていない」

「持ち帰れば消されたでしょう」

「根拠は?」

「私が旧聖堂で襲撃を受けたことです」

「誰に?」

「王弟殿下の私兵と思われる者たちに」

 バルツァー卿が机を叩いた。

「侮辱だぞ!」

「袖口に銀の鷲紋を確認しました」

「銀の鷲紋など、市井の芝居衣装にも使われる」

「私兵の短剣術も、芝居の一部ですか」

「貴様!」

「やめろ」

 アーヴィンの声が響いた。

 会議室が静まる。

 白い仮面の司祭は、声を柔らかくした。

「第三に、あなたは宮廷魔術師エルネスト・バルクの研究塔へ押し入り、その直後に彼は死亡しました」

「押し入ってはいません。面会を求めました」

「エルネスト殿は自殺と報告されています」

「自殺ではありません」

「根拠は?」

「彼の研究室に、白い仮面の聖職者が入った」

 レオンは司祭をまっすぐ見た。

「あなた方と同じ仮面です」

 空気が、薄く凍った。

 司祭は笑った。

「白い儀式仮面は、聖教会の古式礼装です。珍しいものではない」

「旧聖堂の水底にも沈んでいました」

「古い礼拝施設なら、当然でしょう」

「ユリウスの屋敷を襲撃した者も、同じ仮面を用いていた」

「勇者ユリウス殿の屋敷が襲撃されたという正式報告はありません」

「出せば、誰かが死ぬと言われていますから」

「誰に?」

「あなた方に」

 今度こそ、会議室全体がざわついた。

 アーヴィンがレオンを見た。

 その目は「挑発しすぎだ」と言っている。

 だが、レオンは止めなかった。

 彼らは論理で裁く気などない。

 ならば、せめて聞いている者たちの耳に、違和感を残す必要がある。

 違和感は、小さな亀裂になる。

 亀裂は、後で広がる。

「第四に」

 司祭は書類を一枚めくった。

「あなたの執務室から、王家禁書庫の蔵書印が押された禁書が発見されました。内容は魔王因子の制御、移植、器適合に関するものです」

「仕込まれたものです」

「証拠は?」

「私の部屋は、異端審問庁の封印術で施錠されていました。解除権限を持つ者は限られる」

「あなた自身が持ち込んだ可能性があります」

「持ち込む理由がない」

「聖女セラフィーナの罪を覆すため、魔王因子に関する禁術を調べていたのでは?」

「調べるなら、もっと目立たない本を選びます」

 何人かの審問官が、視線を伏せた。

 笑いを堪えたのかもしれない。

 司祭は表情を変えない。

「さらに、禁書の表紙から聖銀粉が検出されています」

「それは旧聖堂のものと一致するはずです」

 レオンは言った。

「つまり、私の部屋に禁書を仕込んだ者は、旧聖堂にも関わっている」

 会議室が静まった。

 今度は違う種類の沈黙だった。

 論理の通る沈黙。

 審問官たちは、それを理解した。

 もし禁書がレオンの私物なら、なぜ表紙に旧聖堂と同系統の聖銀粉が付いているのか。

 旧聖堂は公式には閉鎖された忘れられた区画だ。

 そこにライネルの遺体があった。

 そこに関わる者が、禁書を仕込んだ。

 その可能性を、全員が一瞬考えた。

 だが、白い仮面の司祭はすぐに言った。

「面白い推理です」

「ありがとうございます」

「しかし、推理は証拠ではありません」

「証拠はあります」

 レオンは外套の内側に手を入れようとした。

 瞬間、左右の審問官が動く。

 剣の柄に手。

 王国兵が槍を構える。

 アーヴィンが鋭く言った。

「レオン」

「書類です」

「ゆっくり出せ」

 レオンはゆっくりと、防水布に包まれた書類束を取り出した。

 クラウディア王女から預かった密書。

 王家の記録写し。

 エルネストの魔力記録板。

 ここで出すのは危険だ。

 だが、完全に隠せば、彼らの筋書きだけが進む。

 出すべきは、すべてではない。

 一部。

 疑いを生むだけの証拠。

 レオンは防水布を開き、一枚だけ取り出した。

 魔力波形の写し。

 エルネストから聞いた数値を書き写したものだ。

 原本の記録板ではない。

「魔王城最奥で観測された魔力波形は、王国式聖遺物兵器と九割以上一致しています」

 会議室が揺れた。

 この場にいる者たちの大半は、魔術の専門家ではない。

 だが、意味は分かる。

 魔王が、王国の兵器と同じ波形を持つ。

 それは、王国の物語を根底から崩す。

「その資料はどこから?」

 司祭の声が、初めて少し低くなった。

「証人保護の観点から、現時点では伏せます」

「エルネスト・バルクから盗んだのでは?」

「私は、彼の死後に研究室を荒らした者ではありません」

「質問に答えなさい」

「あなたも答えていません」

「何を」

「魔王城の波形が、なぜ王国式聖遺物兵器と一致するのか」

 白い仮面の司祭は、数秒沈黙した。

 その数秒だけで十分だった。

 答えられない。

 あるいは、答えたくない。

 会議室にいる審問官たちの視線が、わずかに動いた。

 白い仮面の司祭は、静かに立ち上がった。

「レオン・アルバート審問官。あなたの言動は、もはや証言確認の範囲を超えています」

「ようやく本題ですか」

「あなたには、死刑囚セラフィーナ・エルシアに同情し、国家反逆者を擁護し、魔王因子に関する禁書を不正所持し、宮廷魔術師エルネスト・バルクの死に関与した重大な疑いがあります」

「長いですね」

「さらに、王家および聖教会への不敬、機密記録の不正入手、旧王都地下区画への不法侵入」

「追加料金が発生しそうです」

「黙れ!」

 バルツァー卿が怒鳴った。

 レオンは彼を見た。

「ようやく人間らしい反応ですね、卿」

「貴様をこの場で斬ってもいいのだぞ」

「それをすれば、私の持つ証拠が何か分からないままになります」

 バルツァー卿の動きが止まった。

 図星だった。

 レオンはこの場に原本を持ってきていない。

 そう思わせる必要がある。

 実際には、密書も記録板も外套の内側にある。

 危険極まりない。

 だが、今は賭けるしかない。

 白い仮面の司祭は、アーヴィンへ向き直った。

「グラント所長。レオン・アルバートを拘束してください」

 会議室中の視線が、アーヴィンに集まった。

 アーヴィンはしばらく黙っていた。

 彼の顔には、疲労があった。

 迷いもあった。

 だが、驚きはない。

 こうなることは分かっていたのだ。

「レオン」

 アーヴィンは言った。

「立て」

 レオンは立ち上がった。

「王国異端審問庁長官として命じる。レオン・アルバート審問官を、重要参考人として拘束する」

 左右の審問官が動いた。

 手枷が用意される。

 冷たい聖銀の輪。

 レオンはそれを見た。

 ついに、裁く側から裁かれる側へ。

 だが、手首を差し出す直前。

 アーヴィンが言った。

「ただし」

 全員の動きが止まる。

「拘束前に、庁内規定第十四条に基づき、本人所有物の記録確認を行う」

 白い仮面の司祭が顔を上げた。

「その必要はありません」

「ある」

 アーヴィンの声は、低く重かった。

「異端審問庁所属の審問官を拘束する場合、所持品の記録確認は必須だ。後に証拠隠滅や捏造の疑いを避けるためだ」

「今は緊急です」

「だからこそだ」

 アーヴィンは部下に命じた。

「記録官を呼べ。所持品確認室を使う」

 レオンはその横顔を見た。

 時間稼ぎ。

 いや、それだけではない。

 所持品確認室。

 庁舎の地下にある、証拠保全用の小部屋。

 出入口は二つ。

 一つは廊下。

 もう一つは、古い資料搬出路。

 普段は封鎖されている。

 だが、アーヴィンなら開けられる。

 白い仮面の司祭は、何かを察したのかもしれない。

「この場で確認すればよいでしょう」

「異端審問庁の規定に従う」

「王家と聖教会の合同命令です」

「ここは異端審問庁だ」

 アーヴィンは言った。

「私の庁舎では、私の規定に従ってもらう」

 空気が張り詰めた。

 数秒。

 白い仮面の司祭は、やがて一歩引いた。

「よろしい。ですが、我々も同席します」

「構わん」

 アーヴィンはレオンを見た。

 その目が、一瞬だけ言った。

 逃げろ。

     *

 所持品確認室は、大審問会議室の下階にあった。

 窓はない。

 石壁。

 中央に大きな机。

 壁際に証拠棚。

 出入口には審問官二名と王国兵。

 白い仮面の司祭も同席している。

 アーヴィンは記録官に淡々と指示した。

「確認を始めろ」

 レオンは机の前に立たされた。

「外套を」

 記録官が言う。

 レオンは外套を脱ぎ、机に置いた。

 内側には証拠がある。

 密書。

 記録板。

 王家記録。

 見つかれば、その場で奪われる。

 いや、見つからなくても時間の問題だ。

 アーヴィンが記録官へ言った。

「まず武器からだ」

「はい。短剣一本」

「記録」

「認可印」

「記録」

「仮印」

 記録官の手が止まった。

 アーヴィンが顔をしかめる。

「これは古い審問補助印だ。私が貸与した」

 白い仮面の司祭が見た。

「所長自ら?」

「地下区画調査のためだ」

「無許可調査を認めるのですか」

「旧区画の確認は審問庁の権限内だ」

 また時間を使う。

 レオンはその間に、部屋の構造を見た。

 奥の証拠棚。

 棚の裏。

 石壁に古い通気口。

 いや、違う。

 資料搬出路の扉が、棚で隠されている。

 距離は四歩。

 扉を開けるには、封印解除が必要。

 仮印が使える。

 だが、見張りがいる。

 動けるのは、一度だけ。

「次、外套の内側を」

 来た。

 記録官が外套へ手を伸ばす。

 その瞬間、部屋の灯りが消えた。

 完全な暗闇。

 誰かが息を呑む。

「何だ!」

「灯りを!」

 アーヴィンの声が響いた。

「封印灯の故障だ。動くな!」

 だが、レオンは動いた。

 外套を掴む。

 机の下を蹴る。

 重い机が傾き、記録官と王国兵の動きを遮る。

 同時に、アーヴィンの声が低く耳元へ届いた。

「四歩、右」

 レオンは暗闇の中、迷わず動いた。

 四歩。

 右。

 棚に手が触れる。

 その下、石壁。

 古い封印の溝。

 仮印を押し当てる。

 血が必要か。

 いや、いらない。

 アーヴィンの貸与印は、すでに血認証済みだった。

 石壁が、音もなく開いた。

「逃がすな!」

 白い仮面の司祭の声。

 灯りが戻る。

 青白い魔石灯が一斉に点いた。

 レオンはもう、搬出路の中へ入っていた。

 背後から矢が飛ぶ。

 壁に刺さる。

 毒矢ではない。

 捕縛用の麻痺矢。

 レオンは扉を閉めた。

 石壁が戻る。

 閉まる直前、アーヴィンの声が聞こえた。

「追跡班を出せ!」

 その声は怒鳴っていた。

 だが、ほんの一瞬だけ。

 レオンには聞こえた。

「生きろ」

     *

 資料搬出路は、狭く、埃っぽかった。

 審問庁が古い庁舎だった頃、裁判記録や証拠品を地下倉庫へ運ぶために使われていた通路だ。今ではほとんど使われていない。天井は低く、壁には蜘蛛の巣が張り、床には古い木箱が積まれている。

 レオンは走った。

 外套は抱えたまま。

 証拠は無事だ。

 背後で、扉を破ろうとする音が響く。

 時間は少ない。

 通路は二手に分かれる。

 右は地下倉庫。

 左は廃棄記録焼却炉。

 出口があるのは左。

 ただし、焼却炉は今も使われている可能性がある。

 熱と煙。

 それでも左だ。

 レオンは左へ曲がった。

 走りながら、頭の中で状況を整理する。

 自分は逃亡した。

 これで正式に罪人だ。

 異端審問官レオン・アルバートは、聖女派の内通者、反逆容疑者、エルネスト死亡の重要参考人として追われる。

 庁舎には戻れない。

 地下牢にも近づけない。

 セラフィーナへの面会はほぼ不可能。

 だが、証拠は残った。

 魔力記録板。

 王女の密書。

 王家記録写し。

 勇者ユリウスの非公式証言。

 ライネルの手紙。

 まだ足りない。

 正式裁判を覆すには、民衆の前で使える証拠が必要だ。

 そして、聖女を処刑台から救う手段。

 そのためには、協力者が必要だ。

 ユリウス。

 クラウディア。

 エリス。

 アーヴィンはそう言った。

 全員が必要になる。

 通路の先に、赤い光が見えた。

 焼却炉だ。

 熱気が押し寄せる。

 紙と革の焦げる匂い。

 審問庁で不要になった記録、破棄された証言、処分済みの証拠品。

 それらが、ここで灰になる。

 レオンは焼却炉の脇を通り抜けた。

 出口はさらに奥。

 だが、そこに二人の審問官が立っていた。

 先回りされた。

 いや、アーヴィンが本気で逃がしていると疑われないために、最低限の追跡班を出したのだろう。

 剣を抜いている。

 顔見知りだった。

 一人は同期の審問官、ダニエル。

 もう一人は後輩のミラ。

 ダニエルが苦い顔をした。

「レオン。止まれ」

「止まると捕まる」

「そりゃそうだ」

「なら、止まらない」

「お前な」

 ミラは泣きそうな顔だった。

「先輩、本当に聖女に惑わされたんですか」

「違う」

「じゃあ、どうして逃げるんですか」

「逃げないと証拠を奪われる」

「証拠って何ですか」

「今は言えない」

「それ、完全に怪しい人の台詞ですよ!」

「自覚はある」

 ダニエルが剣を構えた。

「俺たちは命令を受けてる。ここを通すわけにはいかない」

「そうか」

「だが、お前が本気で走れば、俺は足を滑らせるかもしれない」

 レオンは彼を見た。

 ダニエルは真顔だった。

「焼却炉の床は熱で歪んでるからな。危ない」

 ミラが目を見開いた。

「ダニエル先輩?」

「ミラ、お前も新人の頃、ここで転んだことがあるだろう」

「ありません!」

「今作れ」

「ええ!?」

 レオンは、短く息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。

「借りにする」

「返せよ」

「生きていれば」

「縁起でもないこと言うな」

 次の瞬間、レオンは走った。

 ダニエルが踏み込む。

 だが、その足が大げさに滑った。

「うわー、床がー」

「演技が下手すぎます!」

 ミラが叫びながら、慌てて剣を構える。

 だが彼女の剣先は、レオンの肩ではなく外套の端をかすめただけだった。

「すみません、先輩!」

「助かる」

「助けてません!」

「そういうことにしておく」

 レオンは二人の間を抜け、出口の扉へ飛び込んだ。

 背後で、ダニエルが怒鳴る。

「レオン!」

「何だ」

「死ぬなよ!」

 レオンは振り返らずに答えた。

「努力する」

 扉を押し開ける。

 外気。

 裏路地。

 王都の昼の光。

 レオンは異端審問庁の外へ出た。

 正式な逃亡犯として。

     *

 王都は、何も知らずに動いていた。

 市場では魚が売られ、パン屋では焼きたての香りが漂い、子どもたちが路地を走っている。遠くの中央広場では、処刑台の周りに柵が設けられ始めていた。

 黒い木組み。

 白い布。

 聖教会の旗。

 死刑は、儀式へ近づいている。

 レオンは人混みに紛れ、外套の襟を立てた。

 顔を隠す。

 審問官の制服は目立つ。

 どこかで着替える必要がある。

 まずは南区。

 エリス・フォードの保護場所へ向かうか。

 いや、真っ先にそこを監視されている可能性が高い。

 ユリウスの屋敷も危険。

 王女へ近づくのはさらに危険。

 では、どこへ。

 その時、服の内側に違和感があった。

 セラフィーナの聖印が、熱を持っている。

 レオンは人通りの少ない路地へ入り、聖印を取り出した。

 ひび割れた銀の聖印。

 裏には古代語。

 ――器を壊せ。王都を救え。

 その文字の隙間に、淡い光が走っている。

 聖女の祈りの痕跡。

 以前、セラフィーナの手紙の裏に文字が浮かぶことがあると聞いた。祈りは、特定の条件でのみ文字として現れる。

 レオンは聖印を光にかざした。

 文字が浮かんだ。

 たった一文。

 ――もうおやめください。

 レオンは、しばらくその文を見つめた。

 セラフィーナの言葉だ。

 彼が逃亡犯になったことを、もう知ったのか。

 あるいは、彼が危険に踏み込むたび、自動的に浮かぶ祈りなのか。

 分からない。

 だが、言いそうな言葉だった。

 もうおやめください。

 自分のために誰かが傷つくことを、彼女は何より恐れている。

 レオンは聖印を握った。

「断る」

 誰もいない路地で、彼は答えた。

 すると、聖印の裏にもう一つ、薄い文字が浮かんだ。

 ――地下聖堂の鐘を鳴らしてはいけません。

 レオンの目が細くなる。

 地下聖堂の鐘。

 王都地下旧聖堂に、鐘楼などなかった。

 少なくとも、彼が見た範囲には。

 だが、セラフィーナは鐘と言った。

 鐘を鳴らすな。

 それは、比喩か。

 あるいは、旧聖堂のさらに奥にある装置か。

 王都全体へ封印を響かせるもの。

 魔王因子と処刑台を繋ぐもの。

 レオンは聖印を外套の内側へ戻した。

「やはり、戻る必要があるな」

 旧聖堂へ。

 ただし、今度は一人では無理だ。

 白い仮面。

 王弟の私兵。

 聖教会の封印術。

 そして、魔王因子に侵された者がいる可能性。

 勇者が必要だ。

 ユリウスの力が。

     *

 その日の夕刻、勇者ユリウスの屋敷にも、異端審問庁からの通達が届いていた。

 レオン・アルバート逃亡。

 彼に協力した者は、国家反逆幇助の疑いあり。

 情報提供者には報奨金を与える。

 屋敷の応接室でそれを読んだユリウスは、しばらく沈黙していた。

 従者ロイドはまだ寝台にいる。

 毒は抜けきっていない。

 命は助かったが、意識は戻ったり落ちたりを繰り返している。

 ユリウスは通達を握り潰した。

「ユリウス様」

 老執事が心配そうに声をかける。

「王宮からも使者が来ています。明後日の処刑式への参列確認だと」

「分かっている」

「それから、王弟殿下より、当日の警護に関するご命令が」

「分かっている」

 ユリウスは窓の外を見た。

 中央広場の方角。

 そこに、処刑台がある。

 セラフィーナが死ぬ場所。

 自分が嘘をついた結果、彼女が立たされる場所。

 そして今、レオンまで罪人にされた。

 あの審問官は言った。

 黙って誰かを死なせ続けるか。

 語って、死なせない方法を探すか。

 ユリウスは、腰の聖剣に触れた。

 勇者であることが、こんなにも重いと思ったことはなかった。

     *

 同じ頃、王宮ではクラウディア王女が、侍女長マリナの遺体の前で祈っていた。

 死体のそばに残された偽の祈り紋は、すでに聖教会の者たちによって調べられている。

 彼らは言う。

 聖女信奉者の犯行かもしれません。

 魔王因子に汚染された者の行為でしょう。

 聖女の影響は、王宮にまで及んでいるのです。

 クラウディアは、その言葉を聞きながら、何も言わなかった。

 何も言わない代わりに、心の中で一つずつ記憶した。

 誰がそう言ったか。

 誰が目を逸らしたか。

 誰が死体よりも刻印を気にしたか。

 誰が、自分を監視しているか。

 王女はもう、ただ守られる側にはいない。

 密書は開かれた。

 友は死んだ。

 聖女の名は汚された。

 ならば次にするべきことは、泣くことではない。

 証拠を集めることだ。

     *

 夜。

 王都の屋根の上に、レオンはいた。

 審問官の制服は捨てた。

 南区の古着屋で買った地味な外套と、労働者風の帽子を身につけている。腰の短剣も隠した。認可印は外套の奥。密書と記録板は、肌身離さず持っている。

 下の通りでは、兵士たちが巡回している。

 手配書が貼られ始めていた。

 似顔絵はあまり似ていない。

 だが時間の問題だ。

 レオンは屋根の上から中央広場を見た。

 処刑台は、夜の中で黒くそびえている。

 その背後には、中央大聖堂。

 さらにその地下に、魔王因子を移す装置。

 旧聖堂。

 沈黙の鐘。

 処刑台は単なる見せしめではない。

 おそらく、魔法的に接続されている。

 セラフィーナの処刑は、政治的処刑であり、宗教的儀式であり、魔王因子を完成させるための装置起動でもある。

 レオンは、その仮説を口の中で転がした。

 まだ証明はできない。

 だが、ここまでの点はその線を指している。

 彼は聖印を取り出した。

 裏の文字は、もう消えている。

 ただ、ひび割れた銀が月光を返していた。

「セラフィーナ」

 レオンは小さく呟いた。

「あなたの望みは、尊重しない」

 彼女は死んで王都を救おうとしている。

 だが、その死は敵の計画に組み込まれている。

 ならば救う。

 彼女自身が望まなくても。

 王都も。

 彼女も。

 そのためには、次に進む必要がある。

 旧聖堂の奥へ。

 魔王討伐が王都で再現されていた場所へ。

 レオンは屋根の端に立った。

 遠くで、鐘が鳴る。

 処刑まで、あと三日。

 この日、レオン・アルバートは正式に罪人となった。

 異端審問官でありながら、異端として追われる者になった。

 だがその目は、少しも伏せられていなかった。

 王都の夜景を見下ろしながら、彼は静かに言った。

「裁かれるべき嘘は、まだ残っている」

 そして、屋根から闇へと身を翻した。


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