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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第6章 王女の密書――王家は魔王を必要としていた

 王族は、嘘をつかない。

 そう教えられて育った者は多い。

 王は国の父であり、王女は民の姉であり、王子は未来の剣である。

 聖教会の説教では、王家の血は神に祝福された血だと語られる。王宮前の広場では、祝祭のたびに王族が民衆へ手を振り、子どもたちは花を投げる。絵本の中の王は賢く、王女は優しく、王子は勇敢だ。

 だが、王族も人間である。

 人間は嘘をつく。

 守るために。

 奪うために。

 自分の罪を見ないために。

 あるいは、国という巨大な獣を生かし続けるために。

 夜明け前の王宮は、眠っているように見えた。

 高い城壁。

 白い尖塔。

 魔石灯に照らされた衛兵の鎧。

 空はまだ深い藍色で、東の端にだけ細い銀の線が走っている。王都の民が目覚めるには早すぎる時間だ。市場も開いていない。馬車の音もない。祈りの鐘も、まだ鳴らない。

 レオン・アルバートは、王宮東棟の外壁に沿って歩いていた。

 外套の内側には、宮廷魔術師エルネストから受け取った魔力記録板がある。

 魔王城最奥で観測された魔力波形。

 王国式聖遺物兵器との一致率、九割超。

 それは、魔王が単なる魔族の王ではなく、王国の技術と深く関わっていたことを示す証拠だった。

 だが、まだ足りない。

 裁判を覆すには、魔術測定だけでは弱い。

 魔王因子が王国式兵器に近い。

 それだけなら、王家も聖教会もいくらでも言い逃れできる。

 魔王が王国兵器を模倣したのだ。

 測定値が汚染されていたのだ。

 死んだエルネストが狂っていたのだ。

 あるいは、レオンが捏造したのだ。

 もう、その筋書きは作られ始めている。

 レオンの自室には、王家禁書庫の蔵書印つきの禁書が仕込まれた。エルネストは自殺として処理された。聖務卿オズワルドは、レオンを聖女に惑わされた危険な審問官として孤立させるつもりだろう。

 だから必要なのは、王家内部の記録だった。

 王女クラウディア。

 セラフィーナが魔王討伐前に密書を預けた相手。

 彼女が持っているものが、王国の罪を直接示す証拠になる。

 もちろん、王女に近づくこと自体が危険だった。

 今のレオンは、半ば監視対象である。

 王宮へ正面から入れば、聖教会へ即座に報告が行く。クラウディア王女に会ったことが知られれば、王女自身の立場も危うくなる。だからアーヴィン所長が指定したのは、夜明け前の薔薇温室だった。

 王宮東棟の奥。

 王女が個人的に管理している温室。

 表向きは薬草と薔薇の栽培用。

 実際には、王族が人目を避けて話をするための場所でもある。

 レオンは外壁沿いの小門へたどり着いた。

 小門には鍵がかかっている。

 だが、アーヴィンが渡した封筒の中には、小さな銀の鍵が入っていた。

 王宮の門鍵ではない。

 もっと古い形式の鍵。

 王宮が今の姿になる前から使われていた、庭師用の通用鍵だ。

「本当に、何も知らない人が持っていていい鍵ではないな」

 レオンは小さく呟き、鍵を差し込んだ。

 音はほとんどしなかった。

 小門を抜けると、温室へ続く細い庭道に出る。

 左右には、まだ眠る薔薇の株が並んでいた。露をまとった葉が青白く光り、足元の土は昨夜の雨で柔らかい。歩くたび、靴底がわずかに沈む。

 温室の魔晶硝子は、夜明け前の空を映して薄く輝いていた。

 中に、人影がある。

 レオンは扉の前で足を止めた。

「入れ」

 中から声がした。

 クラウディア王女の声だった。

 レオンは扉を開けた。

     *

 温室の中は、外より暖かかった。

 湿った土の匂い。

 薔薇の甘い香り。

 薬草の青い苦み。

 魔晶硝子の天井から落ちる朝前の光が、葉の先に溜まった水滴を銀に変えている。

 東屋の中央に、クラウディア王女は立っていた。

 先日会った時と同じように美しい。

 だが今日は、王女らしい華やかなドレスではなかった。深い藍色の簡素な外套を羽織り、髪も低く結んでいる。侍女はいない。護衛も見えない。

 王女ではなく、一人の証人としてそこにいる。

 そういう姿だった。

「よく来られましたね、レオン・アルバート」

「王女殿下に呼ばれましたので」

「私は呼んでいません。呼んだのは、あなたの上司でしょう」

「所長は、何も知らないと言っていました」

「なら、私も何も知りません」

 二人はしばらく無言で向き合った。

 そして、ほぼ同時に小さく息を吐いた。

 笑う場面ではない。

 だが、この国で真実を話すには、こうした不器用な冗談でも挟まなければ息が詰まる。

「時間がありません」

 クラウディアは言った。

「夜明けの第一鐘が鳴れば、庭師が来ます。その前に終わらせます」

「セラフィーナから聞きました。彼女は、魔王討伐前に殿下へ密書を預けた」

 クラウディアの表情が、静かに固まった。

「彼女が、そう言ったのですか」

「直接は言えませんでした。封言の首輪に妨げられていた。ですが、意味は十分に伝わりました」

「そう」

 王女は目を伏せた。

 その顔には、懐かしさと痛みが同時に浮かんでいた。

「セラフィーナらしいですね。自分で言えないのに、それでも誰かに託す道を残す」

「密書は」

「あります」

「読まれたのですか」

「いいえ」

 レオンは少しだけ眉を動かした。

「まだ?」

「ええ」

「なぜ」

 クラウディアは答えなかった。

 代わりに、温室の奥へ歩いていく。

 レオンも後に続いた。

 薔薇の棚を抜けると、古い石造りの小さな祠があった。

 温室の中に祠。

 不自然だ。

 いや、逆か。

 祠の周囲に、後から温室を建てたのだ。

 祠には、王家の古い紋章が刻まれている。

 王冠と剣。

 その周囲に、七つの星。

 レオンは地下旧聖堂で見た紋章を思い出した。

 同じものだ。

「この祠は」

「初代聖王の時代からあるそうです。王宮が改築されても、ここだけは壊されなかった」

「壊せなかったのでは」

「そうかもしれません」

 クラウディアは首元から小さな鍵を取り出した。

 薔薇の紋章が刻まれた鍵。

 第2章で彼女が見せたものだ。

 祠の扉を開くと、中には銀の小箱が置かれていた。

 箱には封印がかかっている。

 王家の封印。

 聖教会の封印。

 そして、もう一つ。

 聖女の祈り紋。

「セラフィーナが?」

「はい。彼女は出立前夜、ここに来ました。私にこの箱を預けて、こう言ったのです」

 クラウディアは小箱に触れた。

「もし自分が罪人として裁かれる日が来たら、これを信頼できる審問官に渡してほしい、と」

「なぜ審問官に」

「私も聞きました。彼女は笑って、審問官は嘘を嫌う方が多いでしょう、と」

 レオンはしばらく黙った。

 セラフィーナらしいのか。

 らしくないのか。

 まだ判断できない。

 ただ一つ言えるのは、彼女は自分が裁かれる可能性を、魔王討伐前から考えていたということだ。

「殿下は、なぜ開けなかったのですか」

 レオンはもう一度問うた。

 クラウディアの指が、小箱の上で止まる。

「怖かったからです」

 王女は率直に言った。

「この箱を開ければ、私はもう王女ではいられないかもしれない。父を疑い、叔父を疑い、王家そのものを疑わなければならなくなるかもしれない。そう思ったら、開けられなかった」

「それでも、保管していた」

「捨てることもできませんでした。燃やすことも、聖教会へ渡すことも」

「なぜ」

「友人から預かったものだからです」

 その声は、王族ではなく一人の女性のものだった。

 レオンは静かに言った。

「今、開けますか」

 クラウディアは目を閉じた。

 長い沈黙。

 温室の天井を、朝前の風がかすかに叩く。

 やがて、王女は頷いた。

「はい」

 彼女は鍵を差し込んだ。

 王家の封印が消える。

 次に、小さな短剣で自分の指先を切り、血を一滴落とした。

 聖教会の封印が消える。

 最後に、レオンがセラフィーナの聖印を取り出した。

 魔王城で彼女が落とし、ユリウスが持ち帰った聖印。

 裏には、古代語。

 ――器を壊せ。王都を救え。

 それを小箱の上へかざす。

 聖女の祈り紋が、淡い光となって解けた。

 箱が開く。

 中には、一通の手紙と、薄い羊皮紙の束が入っていた。

 手紙の封には、セラフィーナの筆跡でこう書かれている。

 クラウディア様へ。

 もしこれを開く時が来たなら、私はきっと、あなたをひどく苦しめているのだと思います。

 どうか、許してください。

 クラウディアの手が震えた。

「読めますか」

 レオンが問うと、彼女は首を振った。

「あなたが」

「よろしいのですか」

「私が読めば、途中で止まってしまう気がします」

 レオンは頷き、手紙を開いた。

     *

 クラウディア様。

 この手紙をあなたが読んでいるなら、私はおそらく王国の敵として裁かれているのでしょう。

 まず、謝らせてください。

 あなたを巻き込みました。

 友人としてではなく、王女としてのあなたに、あまりに重いものを預けました。

 けれど私は、あなた以外にこれを預けられる人を知りません。

 私は魔王討伐の準備中、王宮書庫の封印記録に触れる機会を得ました。

 本来なら聖女にも閲覧できない記録です。

 けれど、討伐隊の祈祷式に必要な古代封印文を調べる名目で、私は一部の記録を読むことができました。

 そこに記されていたのは、魔王討伐の歴史ではありませんでした。

 魔王管理の歴史でした。

 初代聖王の時代、王国は魔族の王を討てませんでした。

 聖王は魔族の王を殺したのではなく、その力を聖遺物に封じました。

 それが、魔王因子と呼ばれるものの始まりです。

 魔王因子は災厄です。

 けれど同時に、王国にとっては比類なき力の源でもありました。

 王家はそれを封印と称して守り、聖教会はそれを祈りと称して管理し、軍部はそれを抑止力と称して利用しました。

 長い年月の中で、魔王因子は何度も器を変えました。

 最初は聖遺物。

 次に魔石。

 次に魔族の肉体。

 そして、最後には人間。

 王国に逆らった者。

 国境地帯の捕虜。

 存在を消しても誰も騒がない者。

 そうした人々が、器として選ばれました。

 クラウディア様。

 私たちが魔王と呼んできたものは、一人の怪物ではありません。

 王国が作り出し、作り替え、必要な時に敵として民の前へ差し出してきた、災厄の器です。

 今回の魔王ゼルヴァもまた、その一人でした。

 彼は生まれながらの魔王ではありません。

 西方辺境の小国アストリアの王子。

 和平を望み、王国との停戦交渉に臨もうとしていた方です。

 けれど強硬派に捕らえられ、魔王因子の器にされました。

 因子が暴走し、彼は魔王として人々の前に現れました。

 王国は、自ら作った魔王を討伐することで、民の恐怖を一つにまとめ、王権と信仰を保とうとしています。

 私はまだ、すべてを知ったわけではありません。

 ですが、このまま魔王討伐へ向かえば、私は真実を見ることになるでしょう。

 そして、真実を見れば、私はきっと黙ってはいられません。

 だから、これをあなたに預けます。

 もし私が帰還後、罪人として裁かれるなら。

 もし私が自分の口で真実を語れないなら。

 どうか、この記録を信頼できる審問官に渡してください。

 ただし、お願いがあります。

 王国を憎まないでください。

 王家を憎まないでください。

 憎むべきは、人の弱さです。

 恐怖から力を求めた弱さ。

 平和のためと信じて犠牲を選んだ弱さ。

 真実に耐えられず、物語を必要とした弱さ。

 私もきっと、その弱さから逃れられません。

 それでも、誰かが止めなければなりません。

 魔王を、これ以上作ってはなりません。

 器を壊さなければなりません。

 どうか、王都を救ってください。

 そして可能なら。

 私のことは、聖女ではなく、セラフィーナとして覚えていてください。

     *

 読み終えた時、温室の中は静まり返っていた。

 外では夜が薄れ、空の藍色に淡い金が混じり始めている。

 クラウディアは立ったまま、顔を伏せていた。

 涙は落ちていない。

 だが、目元は赤かった。

 レオンは手紙を畳まず、机の上に置いた。

 その横に、羊皮紙の束を広げる。

 そこには、王家の古い印が押された記録写しがあった。

 魔王因子封印計画。

 聖遺物第七管理区画。

 器適合記録。

 西方アストリア王族捕縛報告。

 被験者ゼルヴァ・アストリア。

 魔王因子移植成功率、六十二パーセント。

 因子安定後、魔族領域へ放逐。

 予定名、魔王ゼルヴァ。

 レオンは一枚ずつ確認した。

 手が冷たくなる。

 魔王とは、呼び名ですらなかった。

 計画名だった。

「これを」

 クラウディアの声は震えていた。

「王家が……」

「少なくとも、王家の誰かが関与しています」

「父上は」

「この記録だけでは分かりません」

「叔父上は」

 レオンは一枚の記録を見つけた。

 承認欄。

 ギルベルト・レグナ・エルディア。

 王弟の署名。

 そして、その横に聖教会側の承認印。

 オズワルド聖務卿。

 クラウディアは、それを見た。

 表情が消えた。

「叔父上……」

「ギルベルト王弟とオズワルド聖務卿は、深く関与しています」

「父上は?」

「この束には、国王陛下の直筆署名はありません」

「では、知らなかった?」

「その可能性はあります」

「そう信じたいだけではなく?」

 レオンは答えなかった。

 クラウディアは、自分で言った言葉に傷ついたように目を閉じた。

「私は、王女です」

「はい」

「王家を守るよう育てられました。王国のために笑い、王国のために祈り、王国のために結婚し、必要なら王国のために嘘をつけと」

「……」

「でも、これは何ですか」

 彼女は記録を指した。

「王国を守るために魔王を作る? 民を救うために人を器にする? 敵を必要とするほど、この国は弱かったのですか?」

 レオンは静かに言った。

「弱かったのでしょう」

 クラウディアが顔を上げる。

「強い国なら、こんなものは必要なかった。強い信仰なら、嘘で民をまとめる必要もなかった。強い王家なら、魔王を作って倒すことで権威を保つ必要もなかった」

「あなたは、王国を憎みますか」

「まだ、そこまで器用ではありません」

「器用?」

「憎むには、対象を一つにまとめる必要があります。王国。王家。聖教会。民。そういう名前でまとめれば、憎みやすい。でも実際には、その中に多くの人間がいる。知っていた者、知らなかった者、黙った者、抗おうとした者、利用された者」

「セラフィーナと同じことを言うのですね」

「不本意です」

 クラウディアは、ほんの少しだけ笑った。

 だがすぐに、その笑みは消えた。

「私は、何をすればいいのでしょう」

「証人になってください」

「王家を告発しろと?」

「王家の罪を、王族の口から認める必要があります」

「それは、反逆です」

「はい」

「父を裏切ることになるかもしれない」

「はい」

「王国を混乱させるかもしれない」

「はい」

「民が、王家を信じられなくなるかもしれない」

「すでに聖女を信じられなくさせたのは、王家と聖教会です」

 クラウディアは言葉を失った。

 レオンは続けた。

「殿下。これは、聖女一人の冤罪ではありません。魔王討伐の物語そのものが偽装されている。ライネルはそれを知って殺された。エルネストも口封じされた。ユリウスは脅され、偽証した。セラフィーナは、自分が罪を被れば王都を守れると思い込まされた」

「……」

「そして、処刑の日に何かが起こります。王都地下の装置が、彼女の死と関係している可能性が高い」

「セラフィーナが死ねば、終わるのではなく」

「始まるのかもしれません」

 クラウディアは椅子に手をついた。

 立っているのがやっとのようだった。

「そんな……」

「殿下」

「私は、怖い」

 王女は言った。

 その声は小さかった。

「王女なのに、怖いのです。民の前に立つことも、父に問うことも、叔父を告発することも、聖教会に逆らうことも。何より、セラフィーナが私を信じてくれたのに、私はずっとこの箱を開けられなかった。それが怖い」

「怖くても構いません」

「構わない?」

「勇者ユリウスも怖がっていました。エルネストも怖がっていた。セラフィーナも、おそらく怖がっている」

「聖女が?」

「自分がまだ人間であると信じたい、と言っていました」

 クラウディアの目が揺れた。

「セラフィーナが……そんなことを」

「はい」

「そう」

 クラウディアは唇を押さえた。

「そうですか。あの子も、怖かったのですね」

「恐怖があるなら、まだ人間です」

「あなたは」

「私?」

「あなたは怖くないのですか、レオン」

 レオンは少し考えた。

 怖いか。

 死ぬこと。

 反逆者にされること。

 王国の嘘を暴くこと。

 聖女を救えないこと。

 たしかに、怖いものはいくつもある。

 だが、レオンにとって一番怖いのは別のことだった。

「怖いです」

「何が」

「自分が、嘘に慣れることが」

 クラウディアは、彼を見つめた。

 レオンは言った。

「最初は一枚だけ、嘘の書類に署名する。次は、仕方なかったと言う。その次は、国のためだったと言う。やがて、嘘だと分かっていても何も感じなくなる。私は、それが怖い」

「あなたは、強いのですね」

「いいえ」

「では?」

「偏っているだけです」

 クラウディアは今度こそ、少しだけ笑った。

 そして、まっすぐ立った。

 その顔から、迷いが消えたわけではない。

 恐怖も消えていない。

 けれど、王女としての背筋が戻っていた。

「分かりました」

「殿下」

「私は、証人になります」

 その言葉は静かだった。

 だが温室の空気を変えた。

「ただし、今すぐ公表することはできません。準備が必要です。王家内部の記録に、これと照合できる原本が残っているはずです。それを探します」

「危険です」

「あなたに言われたくありません」

「それはそうですね」

「それに、私一人では無理です。王宮の中にも、まだ信用できる者がいます」

「誰です」

「侍女長のマリナ。彼女は母の代から王宮に仕えている人です。私が幼い頃から、セラフィーナとも面識があります」

「密書の存在を?」

「知っています。正確には、私が何かを隠していることを知っている」

「なら危険です」

「ええ。だから急がなければ」

 クラウディアは羊皮紙をまとめ、小箱へ戻そうとした。

 レオンは止めた。

「これは私が預かります」

「持ち歩くのは危険では」

「ここに置くほうが危険です。王宮は安全ではありません」

「それは、王女として耳が痛いですね」

「審問官としても同じです。審問庁も安全ではありません」

 クラウディアは頷いた。

「では、あなたに預けます」

 レオンは記録束と手紙を防水布に包み、外套の内側へしまった。

 胸元が重くなる。

 紙の束とは思えない重さだ。

 国の罪。

 聖女の信頼。

 王女の決意。

 それらが、薄い羊皮紙に詰まっている。

 その時、温室の外で小さな物音がした。

 レオンは反射的に振り返る。

 クラウディアも顔を上げた。

「誰かいる」

 レオンは短剣に手をかけ、温室の扉へ向かった。

 扉を開ける。

 朝焼け前の庭。

 薔薇の棚。

 庭道。

 誰もいない。

 だが、土に足跡が残っていた。

 新しい。

 庭師の靴ではない。

 細い靴跡。

 侍女か。

 あるいは、聖職者の柔らかい靴。

 足跡は、庭の外へ向かっている。

「見られたかもしれません」

 クラウディアの声は冷静だった。

 しかし顔色は悪い。

「この時間に温室へ来られる者は限られます」

「マリナ侍女長は?」

「彼女なら、隠れずに名乗ります」

「では敵です」

「あるいは、敵に怯えた味方かもしれません」

「確認します」

「いいえ」

 クラウディアは首を振った。

「今追えば、あなたがここにいたことが確定します。あなたは先に出てください。私は別の出入口から戻ります」

「殿下を一人には」

「私は王女です。王宮の中で逃げ道を知らないほど、箱入りではありません」

「失礼しました」

「本当に失礼です」

 彼女は少しだけ笑い、すぐ真顔に戻った。

「レオン」

「はい」

「セラフィーナに伝えてください。私は、ようやく箱を開けたと」

「伝えます」

「それから」

 クラウディアは目を伏せた。

「遅くなって、ごめんなさい、と」

 レオンは頷いた。

「その言葉は、ご本人が伝えるべきです」

「そうですね」

 王女は、今度ははっきりと頷いた。

「では、生きて伝えます」

     *

 レオンが王宮を出た直後、第一鐘が鳴った。

 朝が来る。

 王都が目覚める。

 市場では店が開き、教会では祈りが始まり、中央広場では処刑台の準備が進む。

 王都の民はまだ知らない。

 魔王が王国によって作られたことを。

 聖女が罪を被ろうとしていることを。

 王女が今、王家の罪に触れたことを。

 そして、そのすべてを知る者たちが、次々に消されようとしていることを。

 レオンは東区の路地へ入り、人通りの少ない道を選んで異端審問庁へ向かった。

 だが途中で、足を止めた。

 背後に気配がある。

 今度は隠す気配すら薄い。

 路地の奥に、白い仮面が一つ見えた。

 朝の薄明かりの中で、顔の上半分だけを覆う古い儀式仮面。

 旧聖堂の水底。

 ユリウスの屋敷。

 エルネストの塔。

 同じものだ。

 白い仮面は、何も言わずに立っていた。

 レオンも短剣を抜かなかった。

 距離がある。

 相手は一人ではない可能性が高い。

 何より、今ここで戦うわけにはいかない。

 外套の内側には、密書がある。

 魔力記録板がある。

 これを奪われたら終わる。

 白い仮面は、ゆっくりと頭を傾けた。

 まるで、こちらが何を持っているか分かっているように。

 レオンは外套の前を押さえた。

「邪魔だ」

 短く言う。

 仮面の男は答えない。

 ただ、路地の壁に一枚の紙を貼った。

 そして踵を返し、奥の角へ消えた。

 追わない。

 レオンは紙へ近づいた。

 そこには、聖教会の印が押されていた。

 異端告発予告。

 対象、レオン・アルバート。

 罪状、聖女セラフィーナへの過度な同情。国家反逆容疑者との不適切接触。魔王因子関連禁書の不正所持。宮廷魔術師エルネスト・バルク死亡に関する重要参考人。

 正式審問への出頭を命ず。

 日付は、今日。

 レオンは紙を剥がした。

 早い。

 想定より早い。

 もう、時間はほとんど残されていない。

 王女との接触が知られたのか。

 あるいは、知られる前に先手を打ってきたのか。

 どちらにせよ、彼を拘束する準備は整った。

 庁舎へ戻れば、捕まるかもしれない。

 だが戻らなければ、正式に逃亡扱いになる。

 レオンは告発予告の紙を折りたたみ、懐へ入れた。

「予定より、面倒になったな」

 独り言だった。

 だが、不思議と足は止まらなかった。

     *

 異端審問庁へ戻ると、庁舎前には馬車が停まっていた。

 聖教会の紋章。

 王家の紋章。

 両方がある。

 合同調査団。

 つまり、もう茶番を始めるつもりだ。

 レオンは正門へ近づかず、裏口へ回った。

 だが、そこにも人がいた。

 アーヴィン所長。

 黒い外套を着て、壁にもたれている。

「遅い」

「王宮の帰り道で、告発予告を受けました」

「だろうな」

「ご存じで?」

「今朝、聖務卿側から正式通達が来た」

「私を拘束しますか」

「したいか?」

「いいえ」

「私もだ」

 アーヴィンは顎で裏口を示した。

「入るな」

「ですが」

「今、庁舎内ではお前の部屋が開封されている。禁書は当然出る。おそらく、エルネスト死亡との関連を示す偽造書類も出るだろう」

「準備がいいですね」

「敵を褒めるな」

「職業病です」

「治せ」

 アーヴィンは低い声で続けた。

「お前は、今この瞬間から、異端審問庁の庇護下にはいない」

「所長」

「正式には、私はお前に出頭を命じなければならない。だが、命令書はまだ私の手元に届いていない」

「時間稼ぎですか」

「聞こえが悪いな。手続きの遅延だ」

「同じでは」

「審問官なら言葉を選べ」

 アーヴィンは懐から小さな包みを出した。

「替えの認可印だ。正式なものではない。古い仮印だが、地下区画の封印程度なら通せる」

「なぜ、こんなものを」

「昔、若かった」

「便利な過去ですね」

「若さはだいたい不便だ。後から便利になる」

 レオンは包みを受け取った。

「所長は、なぜここまで」

 アーヴィンはしばらく答えなかった。

 庁舎の中から、人の声が聞こえる。

 誰かが怒鳴り、誰かが書類を読み上げている。

 レオンの部屋が捜索されているのだろう。

「昔、私は一度だけ、嘘の書類に署名した」

 アーヴィンは言った。

 レオンは黙って聞いた。

「国のためだと言われた。民を守るためだと言われた。署名しなければ、多くの者が混乱すると言われた。私は信じた。いや、信じたかった」

「その結果は」

「誰かが死んだ」

「誰です」

「まだ話す時ではない」

 アーヴィンは自嘲気味に笑った。

「老人は、若者に全部話す前に、少し格好をつけたがるものだ」

「迷惑ですね」

「そうだな」

 彼はレオンの肩に手を置いた。

「レオン。今のお前は、正しいかもしれない。だが正しさだけでは足りない。証拠を守れ。味方を増やせ。聖女だけを見るな。王女、勇者、騎士の妹。全員が必要になる」

「分かっています」

「分かっていない顔だ」

「よく言われます」

「言われていないだろう」

「はい」

 アーヴィンは小さく息を吐いた。

「次に会う時、私はお前を拘束する側にいるかもしれない」

「その時は逃げます」

「逃げ切れると思うなよ」

「努力します」

「そうしろ」

 庁舎の中で、鐘が鳴った。

 緊急招集の鐘。

 アーヴィンは扉へ手をかけた。

「行け」

「所長」

「何だ」

「セラフィーナを救います」

「王都も救え」

「はい」

「それから」

 アーヴィンは、少しだけ振り返った。

「自分も数に入れろ」

 そう言って、彼は庁舎の中へ戻った。

 扉が閉まる。

 レオンは、裏路地に一人残された。

 異端審問庁の審問官でありながら、庁舎に戻れない。

 王国の法を扱う者でありながら、法に追われ始めている。

 だが、外套の内側には証拠がある。

 魔力記録板。

 王女の密書。

 魔王因子計画の記録写し。

 セラフィーナが託した言葉。

 王国を憎まないでください。

 憎むべきは、人の弱さです。

 レオンは空を見上げた。

 朝日が王都の屋根を照らし始めている。

 その光の中で、中央広場の処刑台が見えた。

 また少し、完成に近づいている。

 聖女の処刑まで、あと四日。

     *

 その同じ朝。

 王宮の奥、王女クラウディアの私室では、侍女長マリナが倒れていた。

 最初に見つけたのは、若い侍女だった。

 悲鳴が上がり、王宮内に人が集まる。

 マリナは寝室の隣にある小さな書き物部屋で、椅子に座ったまま息絶えていた。

 外傷は少ない。

 だが机の上には、赤黒い刻印が残されている。

 聖女の祈り紋に似せた印。

 そして、床には一枚の紙。

 ――聖女を信じる者は、魔王に通じる者である。

 クラウディアは、その部屋に立ち尽くしていた。

 マリナは昨夜、クラウディアに言ったばかりだった。

 殿下が何を隠しておられるかは存じません。

 けれど、セラフィーナ様を裏切るものではないのでしょう。

 ならば、私も黙っております。

 そう言って、微笑んだ。

 その彼女が、死んでいる。

 密書の存在を知っていた数少ない人物。

 王女の迷いを見抜いていた侍女。

 セラフィーナを信じていた人。

 彼女の死体のそばに、聖女の祈り紋が残されている。

 聖女の信奉者による異端犯罪。

 そう見せかけるために。

 クラウディアは、震える手を握りしめた。

「殿下」

 侍女の一人が泣きながら言う。

「お下がりください。ここは危険です」

「いいえ」

 クラウディアは静かに言った。

「私は下がりません」

 その声は、昨日までの彼女とは違っていた。

 涙はある。

 恐怖もある。

 だが、それ以上に怒りがあった。

 怒り。

 王女として抑えてきた、あまりに人間らしい感情。

「マリナを殺した者を、必ず見つけます」

「殿下、そのようなことを」

「そして」

 クラウディアは、机に刻まれた偽の祈り紋を見た。

「セラフィーナの名を、これ以上汚させません」

 王宮の窓の外で、朝の鐘が鳴っていた。

 王国はまだ、何も知らない。

 だが水面下では、すでにいくつもの火が燃え始めている。

 王女の密書は開かれた。

 王家の罪は、ついに証人を得た。

 そして敵は、聖女を殺すだけでは足りないと知った。

 彼女を信じる者も。

 彼女を救おうとする者も。

 彼女の真実に近づく者も。

 すべて異端として葬る。

 処刑まで、あと四日。

 聖女セラフィーナの死刑台へ続く道は、真実を知る者たちの血で、少しずつ濡れ始めていた。


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