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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第5章 第一の逆転――魔王は、すでに死んでいた

 魔王は、何だったのか。

 その問いは、王国では問いとして成立しない。

 魔王は魔王だ。

 人類の敵。

 災厄の源。

 討たれるべき悪。

 子どもでも知っている答えだ。

 教会では、魔王を憎む祈りが教えられる。学校では、歴代勇者の魔王討伐譚が読み上げられる。酒場では、兵士たちが魔王軍との戦いを誇張して語る。絵本の中の魔王は、黒い角と翼を持ち、赤い目を光らせ、愚かな人間を喰らう。

 誰もが魔王を知っている。

 だから、誰も魔王を疑わない。

 疑う必要がない。

 疑えば、世界の土台が揺らぐからだ。

 だが、レオン・アルバートは、すでに土台の裂け目を見てしまっていた。

 王都地下旧聖堂で見つかった、騎士ライネル・フォードの遺体。

 魔王城ではなく、王都で殺された騎士。

 焼け残った手紙に記されていた一文。

 ――魔王は、人の手で作られた。

 勇者ユリウス・ヴァン・グレイの証言。

 魔王は、玉座に座す王ではなく、巨大な装置に繋がれた哀れな存在だった。

 聖女セラフィーナは魔王に忠誠を誓ったのではなく、祈った。

 苦しみに。

 死ねない者に。

 終わることすら許されなかったものに。

 そして、セラフィーナの聖印に刻まれていた古代語。

 ――器を壊せ。王都を救え。

 器。

 魔王。

 王都。

 その三つが、レオンの中でゆっくりと繋がろうとしていた。

 だが、まだ足りない。

 骨は嘘をつかない。

 勇者の後悔も、たしかに真実の一部だった。

 しかし、裁判を覆すには証拠が必要だ。

 魔王因子を検出した者。

 聖女を「魔王の器」と断じた者。

 魔王城で起きた現象を、魔術師として観測した者。

 宮廷魔術師エルネスト・バルク。

 彼に会う必要があった。

     *

 エルネストの研究塔は、王宮の西端にあった。

 かつては星見の塔と呼ばれ、王家付きの天文術師たちが暦を読み、戦の吉凶を占った場所である。今では宮廷魔術師たちの研究区画として使われているが、その中でもエルネストに与えられた塔は、他から隔離されていた。

 理由は分かる。

 魔王討伐隊の生還者。

 聖女裁判の重要証人。

 そして、魔王因子を測定した唯一の魔術師。

 王家にも聖教会にも、彼を自由に歩かせたくない理由がある。

 塔の入口には、王国兵が二人立っていた。

 だが、顔色が悪い。

 警備というより、見張り役にされたことを後悔している顔だった。

「異端審問庁、レオン・アルバート。宮廷魔術師エルネスト・バルクに面会を求める」

 兵士たちは顔を見合わせた。

「許可証は」

「聖女セラフィーナの最終審問に関する証言確認だ。審問庁の権限で十分なはずだ」

「しかし、エルネスト様は現在、療養中で」

「では療養の邪魔にならないよう、短く済ませる」

「いえ、そういう問題では」

 兵士の一人が言いよどむ。

 レオンはその目を見た。

 怯えている。

 エルネストにではない。

 エルネストの周囲にある何かに。

「彼は中にいるのか」

「……はい」

「最後に外へ出たのは」

「存じません」

「誰かが訪ねたか」

「聖教会の方が、昨日」

 昨日。

 ユリウスの屋敷が襲撃された日。

 レオンは内心で時系列を刻んだ。

「名は」

「オズワルド聖務卿の代理の方だと」

「代理?」

「白い仮面をつけておられました」

 白い仮面。

 旧聖堂の水底。

 ユリウスの従者ロイドに毒矢を放った者。

 ここにも出ている。

 レオンは塔の扉へ歩いた。

 兵士が慌てて立ちはだかる。

「お待ちください。確認を」

「確認している間に証人が死んだら、お前たちが責任を取るのか」

 二人は動きを止めた。

 レオンは扉を押し開けた。

 中から、薬品と焦げた魔石の匂いが流れてくる。

 そして、微かに血の匂い。

 レオンは眉をひそめた。

 まだ新しい血ではない。

 だが、研究塔の空気に混じるには不自然な匂いだった。

     *

 塔の中は、ひどく散らかっていた。

 床には羊皮紙が散乱し、壁一面には魔力波形の図が貼られている。机の上には割れた試験管、砕けた魔石、乾いたインク壺。窓は厚いカーテンで塞がれ、昼間だというのに室内は薄暗い。

 階段を上るたび、紙片を踏む音がした。

 塔の中に人の気配はある。

 ただし、正常な人間の気配ではない。

 隠れている。

 息を潜めている。

 追い詰められた獣のように。

「エルネスト・バルク」

 レオンは声を上げた。

「異端審問庁のレオン・アルバートだ。聖女裁判の証言確認に来た」

 返事はなかった。

 代わりに、上階で何かが倒れる音がした。

 レオンは短剣に手をかけ、階段を上った。

 三階。

 研究室。

 扉は半開きだった。

 隙間から、青白い魔石灯の光が漏れている。

「入るぞ」

 返事はない。

 レオンは扉を押した。

 研究室の中央に、エルネスト・バルクはいた。

 椅子に座っているのではない。

 床に座り込んでいた。

 痩せた身体をローブで包み、両手で頭を抱え、ぶつぶつと何かを呟いている。

 裁判記録水晶で見た時よりも、ずっと老けて見えた。

 髪は乱れ、頬はこけ、目の下には黒い隈がある。唇は乾き、爪の先には噛み跡があった。魔術師というより、長い悪夢から覚められない病人だった。

「エルネスト」

 レオンが名を呼ぶと、男はびくりと肩を震わせた。

 顔を上げる。

 目が合った瞬間、彼は後ずさった。

「違う」

「まだ何も言っていない」

「違う、違う、違う。私は見た通りに言った。私は測った通りに言った。私は悪くない」

「あなたが悪いかどうかを聞きに来たのではない」

「聖女が悪い。聖女が、あれを持ち帰った。あの女が、全部……」

「本当にそう思っているのか」

 エルネストの口が止まった。

 レオンは部屋の中へ入った。

 壁の図を見る。

 魔力波形。

 複数の測定値。

 黒い線、青い線、赤い線。

 その中に、裁判資料で見たものと似た波形があった。

 魔王因子。

 だが、その横に別の注釈が書かれている。

 王国式聖遺物兵器・第七型近似。

 レオンは目を細めた。

「これは何だ」

 エルネストが青ざめた。

「見るな!」

 彼は立ち上がり、壁の紙を引き剥がそうとした。

 レオンはその手首を掴んだ。

 骨ばった細い腕だった。

「説明しろ」

「知らない。私は知らない」

「あなたの研究室の壁に貼ってある」

「誰かが貼った!」

「嘘が下手だな」

「私は宮廷魔術師だぞ!」

「だから何だ」

「私を尋問する権限が、お前に」

「ある」

 レオンは淡々と言った。

「国家反逆罪で死刑判決を受けた聖女の最終審問に関わる証言確認だ。あなたは証人であり、魔王因子検出の担当者だ。説明する義務がある」

「義務、義務、義務……」

 エルネストは笑った。

 乾いた、壊れた笑いだった。

「義務で魔王が殺せるか。義務で王都が救えるか。義務で、あれを見なかったことにできるか」

「魔王城で、何を見た」

「何も」

「勇者ユリウスは語った」

 エルネストの笑いが止まった。

「彼は、魔王が巨大な装置に繋がれていたと言った」

「黙れ」

「王ではなく、拘束された器だったと」

「黙れ!」

「セラフィーナは魔王に忠誠を誓ったのではなく、祈った。苦しむ者への弔いとして」

 エルネストは耳を塞いだ。

「やめろ、やめろ、やめろ……!」

「あなたは測定したはずだ。あの場で発生した魔力波形を」

「測った! 測ったさ! だから何だ! 測ったから分かってしまったんだ!」

 エルネストは叫んだ。

 その声には、恐怖と怒りと、長く押し込めてきた真実が混じっていた。

「あれは魔王の波形じゃない!」

 部屋の空気が震えた。

 レオンは黙って続きを待った。

 エルネストは自分の口を押さえた。

 言ってしまった。

 そんな顔だった。

「続けろ」

「嫌だ」

「続けろ」

「嫌だ!」

「なら、こちらで言う。魔王城最奥で観測された魔力波形は、自然発生した魔族の王のものではない。王国式聖遺物兵器の波形に近い。つまり、魔王は人間が作った器だった」

 エルネストの膝が崩れた。

 彼は床に座り込み、震えながら笑った。

「は、はは……そこまで、分かって……」

「肯定と受け取る」

「違う。違うんだ。そんな単純な話じゃない。作った、なんて言葉では足りない。あれは……あれは封じたんだ。そう聞かされていた」

「何を」

「災厄だ」

「魔王因子か」

 エルネストは答えなかった。

 だが沈黙が答えだった。

 レオンは部屋の奥にある机へ向かった。

 そこには、分厚い測定記録が置かれている。

 表紙には封印紙が貼られていたが、半分剥がれている。誰かが見たあと、慌てて戻したような跡だ。

 レオンはページを開いた。

 魔王城最奥。

 測定値。

 魔王ゼルヴァ体内因子濃度。

 聖銀拘束具反応。

 聖遺物兵器第七型制御式。

 器安定率。

「器安定率」

 レオンはその言葉を読み上げた。

 エルネストが震えた。

「魔王を、兵器として扱っているな」

「違う」

「違わない。これは魔王討伐の測定記録ではない。管理記録だ」

「私は知らなかった!」

 エルネストが叫んだ。

「魔王城へ行くまでは、本当に知らなかった! 私は討伐隊の魔力測定係として同行しただけだ。魔王の弱点を探り、勇者の聖剣を補助するためだと聞かされていた。だが、最奥で見たものは……」

 彼は両手で顔を覆った。

「あれは、弱った魔王なんかじゃなかった。最初から死にかけていた。いや、死んでいたのかもしれない」

 レオンの手が止まった。

「死んでいた?」

「肉体としては、もう限界だった。心臓の反応も、魔力核の自律反応も、ほとんど消えていた。なのに動いていた。因子が動かしていたんだ。死にかけの身体を、無理やり器として使い続けていた」

「魔王は、すでに死んでいた」

「そうだ」

 エルネストは呆然と呟いた。

「少なくとも、討伐隊が到着した時点で、魔王ゼルヴァという個人はほとんど残っていなかった。残っていたのは、災厄を詰め込まれた器だ」

 第一の逆転。

 裁判記録では、勇者が魔王に致命傷を与え、聖女が裏切ったことになっている。

 だが実際には、魔王は討伐される前から死にかけていた。

 問題は、魔王を倒すことではなかった。

 魔王の中に封じられていたものを、誰の手に渡すかだった。

「セラフィーナは、それを知っていたのか」

「知ったんだ。最奥で、あれに触れて」

「あれ?」

「魔王因子だ。いや、そんな綺麗な名前ではない。もっと古いものだ。初代聖王の時代から封じられてきた、黒い……」

 エルネストは喉を押さえた。

 言葉が詰まる。

 封言術か。

 あるいは恐怖か。

 レオンは深追いせず、別の角度から問う。

「セラフィーナは何をした」

「器を壊そうとした」

「どうやって」

「魔王因子を自分に引き受けた」

 レオンは黙った。

 ユリウスの記憶と一致する。

 黒い光がセラフィーナへ伸びた。

 王都をお願いします。

 彼女は、魔王因子を持ち帰ったのではない。

 持ち帰られないように、自分に封じたのだ。

「なぜ、あなたは裁判でそれを言わなかった」

 エルネストは、ゆっくりと顔を上げた。

「言えると思うか?」

「言うべきだった」

「言えば王都が終わると言われた!」

「誰に」

「聖務卿だ!」

 エルネストは叫んだ。

「オズワルド聖務卿が言った! 魔王因子はすでに王都の封印網に接続されている。聖女が悪として裁かれ、適切に処分されなければ、因子は暴走する。王都全域で魔族化が起こる。何万人も死ぬ、と!」

「あなたはそれを信じた」

「測定値があったんだ!」

 エルネストは机の上の紙束を掴み、レオンへ叩きつけるように投げた。

 紙が床に散らばる。

「王都の地下に、同じ波形があった。魔王城だけじゃない。王都の下にも、あの波形が走っていた。私には分かった。聖務卿の脅しが、完全な嘘ではないと」

 レオンは紙を拾った。

 王都中央大聖堂地下。

 聖銀柱反応。

 魔力伝導路。

 共鳴率。

 確かに、魔王城の波形と似ている。

 だが、それは自然に起きたものではない。

 設計されている。

 誰かが作った。

「王都に仕掛けたのは誰だ」

「知らない」

「聖教会か」

「知らない」

「王家か」

「知らない!」

「本当に知らないのか」

 エルネストは喘ぐように息をした。

「知っていたら、私はとっくに殺されている」

 その言葉には、説得力があった。

 彼は黒幕ではない。

 臆病者で、共犯者で、証人だ。

 だが、真相の全体を知っているわけではない。

「あなたは裁判で、セラフィーナを魔王の器と呼んだ」

「事実だ」

「事実の一部だ」

 レオンは言った。

「彼女は魔王因子を宿した。だが、宿した理由を隠した」

「隠さなければ、民が混乱する」

「民ではない。困るのは王家と聖教会だ」

「お前は何も分かっていない!」

 エルネストは立ち上がった。

「民は真実になど耐えられない。魔王が王国の作ったものだと? 聖女が裏切り者ではなく、王国の罪を背負っただけだと? そんなことを知らされて、誰が明日も王を信じられる。誰が教会で祈れる。誰が、勇者の歌を歌える!」

「嘘の歌を歌わせ続けるのか」

「生きるためには、嘘が必要な時もある!」

「その嘘でセラフィーナが死ぬ」

「彼女が望んだ!」

「それは本当に、彼女自身の望みか」

 エルネストは黙った。

 レオンの声は低くなった。

「それとも、お前たちが彼女に押しつけた望みか」

 エルネストの顔が歪む。

「私は……」

「彼女が黙っていたから、お前たちは楽だった。聖女が罪を被ると言ったから、自分の嘘を正当化できた。勇者も、あなたも、王家も、聖教会も」

「黙れ」

「彼女一人が悪になれば、王国は明日を迎えられる。そう信じたかった」

「黙れ!」

「だがライネルは死んだ。ロイドも死にかけた。次は誰だ」

 エルネストの肩が震える。

「お前だ、レオン・アルバート」

 彼は低く言った。

「次はお前だ」

「もう何度も言われた」

「違う。今回は本当に近い」

 エルネストは周囲を見回した。

 誰もいない部屋なのに、壁の向こうを恐れているようだった。

「昨日、白い仮面が来た」

「聖務卿の代理か」

「そう名乗っていた」

「何をした」

「私に、裁判の追加証言書へ署名しろと言った」

「内容は」

「聖女セラフィーナは魔王城で自ら魔王因子を受け入れ、王都へ災厄を運ぼうとした。勇者ユリウスの証言は正しく、魔術測定上も疑いない。そういう内容だ」

「署名したのか」

「していない」

「なぜ」

「もう、手が動かなかった」

 エルネストは自嘲した。

「裁判では動いたのにな」

 彼の目に、初めて罪悪感らしいものが浮かんだ。

「私は、何度も自分に言い聞かせた。聖女は魔王の器だ。危険だ。処刑しなければならない。私の証言は王都を救うためだと。でも……」

「でも?」

「彼女は、魔王を見て泣いていた」

 レオンは動きを止めた。

「魔王城で?」

「ああ」

 エルネストは、遠くを見るような目をした。

「私は忘れられない。あの化け物を見て、誰もが恐れた。勇者でさえ、剣を握ったまま動けなかった。だが聖女だけが近づいた。泣きながら、祈ったんだ。魔王にじゃない。魔王だったものに」

「……」

「その時、私は分かった。あれは討伐じゃない。葬送だと」

 部屋に沈黙が落ちた。

 聖女裁判の根幹が、さらに崩れていく。

 魔王討伐ではなく、葬送。

 裏切りではなく、救済。

 聖女は魔王を倒した英雄ではない。

 魔王とされた存在の苦しみを見届けた証人だった。

「エルネスト」

 レオンは言った。

「証言しろ」

「無理だ」

「今ならまだ間に合う」

「無理だ!」

「あなたが語れば、裁判は動く」

「語る前に殺される!」

「私が守る」

「お前が?」

 エルネストは笑った。

 ひどく哀れむような笑みだった。

「自分の資料も守れないくせに」

 レオンは眉をひそめた。

「どういう意味だ」

「お前の部屋にあった資料は、もうない」

「何だと」

「白い仮面が言っていた。審問官はすでに魔王因子に関する禁書を隠し持っている。必要な時に、反逆の証拠として使う、と」

 レオンの背筋に冷たいものが走った。

 調査資料が盗まれた可能性は考えていた。

 だが、逆に証拠を仕込まれる。

 禁書。

 魔王因子。

 反逆。

 形を作り始めている。

 レオンを止めるための、公式な筋書きが。

「お前はもう、追う側じゃない」

 エルネストは震える声で言った。

「追われる側になりかけている」

「なら、なおさら時間がない」

「どうして止まらない」

「止まれば、聖女は死ぬ」

「会ったのか」

「誰に」

「聖女に」

「会った」

「彼女は、何と言った」

 レオンは少しだけ沈黙した。

 そして答えた。

「魔王と呼ばれた者は、最後まで人を憎んでいなかった、と」

 エルネストの顔が崩れた。

 彼は椅子へ座り込み、両手で顔を覆った。

「そうだ」

 小さな声だった。

「そうなんだ。あれは、最後まで人を憎んでいなかった。あんな目に遭わされて、あんな身体にされて、それでも……」

 声が震える。

「だから、私は怖かった。魔王より、人間が怖かった」

 レオンは、何も言わなかった。

 この男は臆病だ。

 嘘をついた。

 聖女を死刑台へ送る証言をした。

 だが、彼が見たものの恐怖は本物だ。

 魔王が人間の作った器だったなら。

 それを隠すために聖女を殺すのなら。

 王国が戦ってきたものは何だったのか。

 人々が祈ってきたものは何だったのか。

「測定記録を渡せ」

 レオンは言った。

 エルネストは顔を上げた。

「自殺志願者か、お前は」

「記録が必要だ」

「渡せば、私は終わる」

「渡さなくても終わる」

「ひどい審問官だな」

「よく言われる」

 エルネストはしばらくレオンを見ていた。

 そして、笑った。

 今度の笑みには、ほんの少しだけ正気が戻っていた。

「たしかに、もう終わっているのかもしれない」

 彼は立ち上がり、研究室の奥へ向かった。

 壁際の本棚。

 そこから、古い魔導書を一冊抜き取る。

 本棚の奥に、小さな隠し箱があった。

 エルネストは震える手で封印を解き、中から薄い金属板を取り出した。

「記録板だ。魔王城最奥で観測した波形の原本。裁判に出したものは加工済みだ。都合の悪い比較値は消されている」

「比較値とは」

「王国式聖遺物兵器との一致率」

「どれほどだ」

 エルネストは唇を舐めた。

「九割を超える」

 レオンは息を止めた。

 九割。

 それは近似ではない。

 ほぼ同一系統。

 魔王城の魔力波形は、王国の兵器に近いどころではない。

 同じ設計思想で作られている。

「なぜ、こんなものを残した」

「消せなかった」

 エルネストは記録板を差し出した。

「いつか、誰かが来ると思っていたのかもしれない。私を裁きに」

「私はあなたを裁きに来たわけではない」

「では何だ」

「まだ証人として使えるか見に来た」

「本当にひどいな」

 エルネストは苦笑した。

 その時だった。

 塔の下で、扉が開く音がした。

 足音。

 複数。

 兵士の足音ではない。

 もっと静かで、揃っている。

 聖職者の歩き方だ。

 エルネストの顔が真っ白になった。

「来た」

「白い仮面か」

「たぶん」

「逃げ道は」

「ない」

「塔に研究者用の非常通路くらいあるだろう」

「私のための逃げ道は塞がれている。ずっと前から」

 エルネストは記録板をレオンへ押しつけた。

「持っていけ」

「あなたは」

「私は行けない」

「証言が必要だ」

「分かっている!」

 エルネストは叫んだ。

 だが声には、もう諦めがあった。

「分かっているが、足が動かないんだ。私は臆病者だ。勇者ほど強くも、聖女ほど優しくも、騎士ほど正しくもない」

「今から動けばいい」

「遅すぎる」

「遅すぎるかどうかは、生きている者が決めることだ」

 レオンはそう言い、窓へ向かった。

 カーテンを開ける。

 塔の外壁には、蔦が絡んでいる。

 下は高い。

 だが隣の倉庫屋根へ飛び移れない距離ではない。

「行くぞ」

「無理だ」

「来い」

「無理だと言っている!」

 足音が階段を上ってくる。

 エルネストは震えながら、机の上の紙束を掴んだ。

「なら燃やす」

「何を」

「偽造された記録だ。せめて、これ以上使われないようにする」

 彼は魔石灯を倒した。

 青白い火が紙に移る。

 魔力測定記録の写し。

 裁判用の加工記録。

 署名済みの証言書。

 それらが燃え始める。

 煙が上がる。

「エルネスト!」

「行け!」

 彼は叫んだ。

「私は、最後まで証言できないかもしれない。だが、それは持っていけ。原本だ。聖女が嘘をついていない証拠になる」

「あなたも来い」

「来られたら、とっくに来ている!」

 扉が激しく叩かれた。

「エルネスト様。開けてください」

 穏やかな声。

 だが、死刑執行人のように冷たい声。

 エルネストは笑った。

「審問官」

「何だ」

「聖女に伝えてくれ」

 扉の向こうから、封印術の光が漏れる。

 鍵が溶け始めている。

「何を」

「私は、あの時……彼女を悪女だと思ったわけじゃない」

「……」

「悪女だと思わなければ、耐えられなかっただけだ」

 レオンは何も言わなかった。

 エルネストは、泣きそうな顔で笑った。

「本当に、最低だな」

 扉が破られる。

 白い仮面の聖職者が三人、室内へ踏み込んだ。

 その瞬間、エルネストは机の下に隠していた魔石を叩き割った。

 光が爆ぜる。

 研究室全体が白く染まる。

 レオンは記録板を抱え、窓から身を投げた。

     *

 落下は一瞬だった。

 蔦を掴む。

 手のひらが裂ける。

 身体が外壁に叩きつけられる。

 骨が軋む。

 それでも離さない。

 下の倉庫屋根へ落ちる。

 瓦が割れ、背中を打つ。

 息が止まった。

 だが、生きている。

 レオンはすぐに身を起こし、塔を見上げた。

 三階の窓から煙が上がっている。

 白い仮面たちの姿は見えない。

 エルネストは。

 逃げたのか。

 捕まったのか。

 それとも――。

 考える時間はなかった。

 塔の下で兵士たちが騒ぎ始めている。

 レオンは屋根から飛び降り、路地へ走った。

 記録板は無事だ。

 胸の内側に押し込んでいる。

 魔王城最奥の波形原本。

 王国式聖遺物兵器との一致率九割超。

 これは決定的だ。

 少なくとも、魔王が自然発生した怪物ではなかった可能性を示せる。

 王国が語る魔王討伐の物語を、初めて数字で崩せる。

 レオンは王宮区を抜け、異端審問庁へ戻ろうとした。

 だが途中で足を止めた。

 庁舎に戻るのは危険だ。

 エルネストが言っていた。

 自分の部屋に、魔王因子に関する禁書が仕込まれている。

 調査資料も盗まれている可能性がある。

 戻れば、拘束されるかもしれない。

 だが、記録板を保全するには審問庁の封印庫が必要だ。

 アーヴィン所長に渡すべきか。

 信じていいのか。

 迷った。

 その時、中央大聖堂の鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 四度。

 五度。

 処刑まで、あと五日。

 時間がない。

 レオンは外套を整え、異端審問庁へ向かった。

     *

 庁舎に戻ると、空気が変わっていた。

 廊下に立つ審問官たちの視線が、微妙に逸れる。

 記録官たちは声を潜める。

 誰かがレオンを見て、すぐに書類へ目を落とす。

 噂が回っている。

 いや、準備が進んでいる。

 レオンは自室へ向かった。

 扉の前に、アーヴィン所長が立っていた。

「遅かったな」

「塔へ行っていました」

「エルネストのところか」

「はい」

「今、王宮から急報が来た」

 アーヴィンの顔は硬かった。

 レオンは嫌な予感を覚えた。

「エルネスト・バルクが死んだ」

 廊下の音が遠のいた。

「死因は」

「自殺と報告されている」

「嘘です」

「だろうな」

「白い仮面の聖職者が塔に来ていました」

「証拠は」

「ありません」

「お前は見た」

「はい」

「それだけでは足りない」

「分かっています」

 アーヴィンは、レオンの外套の胸元を見た。

「持ち出したのか」

「何をです」

「とぼけるな。エルネストは何かを渡したのだろう」

 レオンは少しだけ沈黙し、記録板を取り出した。

 アーヴィンの目が変わった。

「魔力記録板か」

「魔王城最奥の測定原本です。裁判提出分は加工されていた。原本では、魔王城の波形が王国式聖遺物兵器と九割以上一致している」

 アーヴィンは記録板を受け取らなかった。

「しまえ」

「所長」

「今ここで私に渡すな。渡せば、私は正式な証拠として扱わざるを得ない。正式に扱えば、上に報告が行く。報告が行けば、消される」

「では」

「お前が持て」

「私が拘束されたら?」

「拘束されるような場所に置くな」

 レオンは記録板を戻した。

 アーヴィンは低く言った。

「お前の部屋に入るな」

「やはり」

「先ほど、聖務卿の代理人から連絡があった。レオン・アルバート審問官が、魔王因子に関する禁書を無断所持している疑いがある。庁舎内調査に協力せよ、と」

「仕込まれましたか」

「まだ確認していない」

「確認すれば、見つかるでしょう」

「おそらくな」

 アーヴィンは苦い顔をした。

「王家と聖教会の双方が、お前の行動を問題視している」

「予想より早いですね」

「お前が予想より派手に動くからだ」

「反省します」

「嘘をつけ」

 短いやり取りだった。

 だが、レオンには分かった。

 アーヴィンはまだ敵ではない。

 少なくとも今は。

「聖女への面会は」

「さらに厳しくなる」

「今日中に会います」

「馬鹿か」

「はい」

「自覚があるだけ始末が悪い」

 アーヴィンは深く息を吐いた。

「十分だけだ。記録官は私が用意する。だが、会話は監視される」

「構いません」

「構わないわけがないだろう」

「それでも、会う必要があります」

 アーヴィンはレオンを見た。

「なぜ」

「魔王は、すでに死んでいました」

 アーヴィンの表情が止まった。

「何だと」

「少なくとも、討伐隊到着時点で魔王ゼルヴァという個人はほぼ消えていた。残っていたのは魔王因子を封じた器です。セラフィーナはそれを壊そうとした」

「……」

「彼女は魔王を倒した英雄ではなかった。魔王とされた存在の苦しみを見届けた聖女だった」

 アーヴィンは目を閉じた。

 長い沈黙。

 やがて、彼は言った。

「十年前なら、お前を妄想で処分していた」

「今は?」

「今は、私も歳を取った」

「便利ですね」

「便利ではない。臆病になっただけだ」

 アーヴィンは踵を返した。

「十分だけだ」

「ありがとうございます」

「礼はいらん。生きて戻れ」

     *

 地下牢の監視は、さらに増えていた。

 聖教会の司祭が三人。

 看守が六人。

 記録官が一人。

 加えて、黒い外套の男が壁際に立っている。

 王弟の私兵か。

 いや、動きが違う。

 聖務卿側の監視役だろう。

 セラフィーナは、牢の中で祈っていた。

 白い囚人服。

 短く切られた銀髪。

 聖銀の枷。

 黒い封言の首輪。

 レオンを見ると、彼女は静かに顔を上げた。

 その瞳は、すでに何かを知っているように見えた。

「エルネスト様に会われたのですね」

「なぜ分かる」

「あなたの顔が、昨日と違います」

「そんなに分かりやすいか」

「はい」

 記録官の筆が動く。

 レオンは鉄格子の前に立った。

「宮廷魔術師エルネスト・バルクは死んだ」

 セラフィーナの瞳が揺れた。

 だが、声は出さなかった。

 レオンは続ける。

「表向きは自殺。実際には、おそらく口封じだ」

「そうですか」

「驚かないのか」

「驚いています」

「そうは見えない」

「驚くことが、多すぎました」

 レオンは少しだけ黙った。

 その言葉には、疲労が滲んでいた。

 自分が死ぬことより、他人が死ぬことに耐え続けてきた者の疲労。

「エルネストは言っていた」

 レオンは声を落とした。

「あなたは、魔王を見て泣いていたと」

 セラフィーナの指が、膝の上で強く重なった。

「彼は、そう言いましたか」

「はい」

「なら、彼は最後に本当のことを言ってくださったのですね」

「あなたも本当のことを言え」

 記録官の筆が止まりかける。

 壁際の監視役がわずかに動く。

 レオンは構わず続けた。

「魔王は、すでに死んでいたのか」

 セラフィーナは、長く沈黙した。

 封言の首輪が淡く光る。

 彼女は言葉を選んでいる。

 言える範囲を探している。

 やがて、静かに答えた。

「魔王と呼ばれた方は、最後まで人を憎んでいませんでした」

 それは、直接の答えではない。

 だが、十分だった。

 レオンは彼女を見る。

 セラフィーナの瞳には、遠い魔王城の光景が映っているようだった。

「彼は、苦しんでいたのか」

「はい」

「あなたは、救おうとした」

「救えたとは思っていません」

「だが、救おうとはした」

 セラフィーナは答えなかった。

 否定もしなかった。

「なぜ言わなかった」

「言えば、憎しみの向き先が変わります」

「王国へ?」

「人は、信じていたものに裏切られた時、自分の痛みをどこかへ投げつけなければ生きていけません」

「だから、あなたが受けると?」

「私は、聖女でしたから」

「過去形にするな」

 セラフィーナが少しだけ目を見開いた。

 レオンは鉄格子越しに、彼女をまっすぐ見た。

「あなたが聖女かどうかを、王国や聖教会が決めるのか」

「……」

「民衆の祈りがなくなれば、あなたは聖女ではなくなるのか」

「レオン」

「魔王因子を宿したら、人間ではなくなるのか」

 封言の首輪が、じり、と鳴った。

 監視役が一歩踏み出す。

「審問官殿。その質問は」

「最終審問だ」

 レオンは一瞥もせずに言った。

「被告人の自己認識は、処刑前確認に必要な事項だ」

 監視役は口を閉じた。

 セラフィーナは、小さく息を吸った。

「私は、自分がまだ人間であると信じたいです」

 その声は、かすかに震えていた。

 初めてだった。

 聖女でも死刑囚でもない。

 一人の人間としての声。

 レオンは言った。

「なら、生きろ」

 記録官の筆が止まった。

 司祭たちが顔を上げる。

 セラフィーナも動きを止める。

「レオン」

「あなたが死ねば済むという考えは、もう通用しない。魔王因子は王都地下にも繋がっている。あなたの処刑は、単なる刑罰ではない可能性がある」

 彼女の顔色が変わった。

「そこまで……」

「あなたは知っていたのか」

「……一部だけ」

「処刑で何が起きる」

「言えません」

「首輪のせいか」

「それもあります。でも……」

「でも?」

「私自身も、すべてを知っているわけではありません」

 レオンは目を細めた。

「あなたは自分が死ねば魔王因子ごと消えられると思っていた」

 セラフィーナは答えなかった。

「だが敵は、あなたの死を利用しようとしている」

 彼女の唇が震えた。

「そんな……」

「否定しないのか」

「私は……私が死ねば、少なくとも王都へは……」

「回収される可能性がある」

 セラフィーナは、初めて明確に青ざめた。

 彼女は、自分の死すら利用される可能性を考えていなかったのだ。

 いや。

 考えたくなかったのかもしれない。

 自分一人が悪になって死ねば、すべて終わる。

 そう信じなければ、耐えられなかった。

「エルネストの記録に、王都中央大聖堂地下の図面があった」

 レオンは言った。

「魔王城ではない。王都に、魔王因子を移すための装置がある」

 セラフィーナは鉄格子に手をかけた。

 聖銀が彼女の指を焼く。

 それでも離さない。

「レオン。お願いです」

「何だ」

「王女殿下に会ってください」

「クラウディア王女に?」

「はい」

「彼女は何を知っている」

「私が、出立前に預けたものがあります」

 封言の首輪が光る。

 セラフィーナは苦しげに息をした。

「密書か」

 彼女は小さく頷いた。

「そこに、何が書かれている」

「すべてではありません。でも、王家が何をしてきたのか、その一端は」

「王家が魔王因子を利用していた証拠か」

 セラフィーナは答えられなかった。

 首輪が黒く光り、彼女の喉を締めるように震えた。

「もういい」

 レオンは言った。

「十分だ」

 セラフィーナは苦しそうに咳き込んだ。

 司祭が冷たく言う。

「審問官殿。被告人に過度な負担をかける質問はお控えください」

「処刑前に殺すわけにはいかないからか」

 司祭の顔がこわばる。

 レオンはそれ以上言わず、セラフィーナを見た。

「王女に会う」

「お願いします」

「その前に一つだけ聞く」

「はい」

「魔王ゼルヴァは、あなたに何を頼んだ」

 セラフィーナは静かに目を閉じた。

 封言の首輪は光らない。

 それは、言ってもよい範囲なのか。

 あるいは、誰もそんな問いを想定していなかったのか。

 彼女は小さく答えた。

「終わらせてくれ、と」

 レオンは拳を握った。

「それから?」

「この力を、人の手に渡すな、と」

 その言葉で、すべてが繋がった。

 魔王は討たれるべき敵ではなかった。

 王国が作った災厄の器だった。

 そして、その力を王都へ持ち帰ろうとした者がいる。

 セラフィーナは、それを止めようとした。

 だから罪人にされた。

 だから処刑される。

 いや。

 処刑されることで、さらに利用される。

 レオンは背を向けた。

「レオン」

 セラフィーナが呼んだ。

「何だ」

「エルネスト様は、苦しんでおられましたか」

「はい」

「そうですか」

 彼女は目を伏せた。

「では、どうか……彼の弱さを、憎まないであげてください」

「あなたは、誰のことも憎まないのか」

「憎みたくないだけです」

「それは同じではない」

「はい」

 セラフィーナは、かすかに微笑んだ。

「だから私は、聖女には向いていなかったのかもしれません」

「向き不向きの問題ではない」

「では、何の問題ですか」

 レオンは少しだけ考えた。

「職場環境だな」

 記録官が筆を落としかけた。

 セラフィーナが目を瞬かせる。

 そして、本当に小さく笑った。

 それは裁判記録の中の笑みではなかった。

 安堵でも諦めでもない。

 ほんの一瞬だけ、牢の中にいることを忘れたような笑みだった。

「レオンは、不思議な方ですね」

「よく言われる」

「本当に?」

「いや、初めて言われた」

 司祭が咳払いをした。

「面会時間です」

 レオンは頷いた。

「また来る」

「来ないでください、と言っても?」

「来る」

「でしょうね」

 セラフィーナは目を伏せた。

「では、せめて生きて来てください」

「努力する」

 扉が閉まる。

 重い音が地下牢に響いた。

     *

 その夜、王都中央大聖堂の地下で、一枚の図面が燃えていた。

 燃やしているのは、白い仮面の聖職者だった。

 その前に立つオズワルド聖務卿は、静かに炎を見つめている。

 報告はすでに受けていた。

 宮廷魔術師エルネスト・バルク死亡。

 表向きは自殺。

 研究室の大半は焼失。

 ただし、魔力記録板の一部が失われている可能性あり。

 レオン・アルバートが接触していたことも確認済み。

「惜しい男だった」

 オズワルドは言った。

 白い仮面の一人が頭を下げる。

「申し訳ありません。原本の確認前に火を」

「責めてはいない。臆病者は、最後に思いがけないことをする」

「レオン・アルバートは、いかがいたしますか」

「形は整いつつある」

 オズワルドは振り返った。

 地下室の壁には、王都の地図が刻まれている。

 ただの地図ではない。

 大聖堂を中心に、七つの聖銀柱が王都各地へ配置されている。

 その線は、中央広場の処刑台へも伸びていた。

「彼の部屋には?」

「禁書を配置済みです」

「魔王因子研究のものか」

「はい。王家禁書庫から消えた形にしてあります」

「よろしい」

 オズワルドは静かに頷いた。

「彼は優秀だ。だから危険だ。だが優秀な者ほど、自分の正しさを信じる。その正しさを、反逆の形に整えてやればよい」

「拘束命令を?」

「まだだ」

「なぜです」

「彼には、もう少し動いてもらう」

 白い仮面たちは沈黙した。

 オズワルドは中央の図面を見た。

 大聖堂地下。

 七つの柱。

 処刑台。

 そして、聖女。

「レオン・アルバートは真実に近づいている。だが、彼が掴む真実は民にとって毒だ」

「では、なぜ動かすのですか」

「毒は、使い方次第で薬にもなる」

 オズワルドは穏やかに言った。

「処刑の日、必要なのは民衆の納得だ。聖女がただ黙って死ぬだけでは、信仰が揺らぐ。だが、聖女を救おうとした異端審問官が魔王因子の危険性を証明し、最後には王国の処置が正しかったと示すなら」

「彼を利用する、と」

「人は皆、何かに利用されている」

 オズワルドは炎へ視線を戻した。

 図面の端が黒く縮れていく。

「聖女も、勇者も、審問官も、私も」

 彼の声は祈りに似ていた。

「王国が生き残るためなら、すべて必要な犠牲だ」

 炎が消えた。

 灰の中に、わずかに焼け残った線があった。

 中央大聖堂の地下から、王都全域へ伸びる魔力導線。

 そしてその中心に記された文字。

 魔王因子移送装置。

     *

 レオンが異端審問庁へ戻ると、自室の前には封印が貼られていた。

 立入禁止。

 内部調査中。

 聖教会および王家合同命令。

 ついに来たか。

 彼は足を止めた。

 廊下の奥から、アーヴィン所長が歩いてくる。

 その顔は、いつも以上に険しかった。

「部屋には入るなと言ったはずだ」

「入っていません」

「ならいい」

「何が出ましたか」

「魔王因子に関する禁書。王家禁書庫の蔵書印つきだ」

「分かりやすいですね」

「分かりやすい罠ほど、公式記録では強い」

 アーヴィンは低く言った。

「さらに、お前がエルネストに接触した直後、彼が死亡した」

「私が殺した筋書きですか」

「まだそこまでは行っていない。だが時間の問題だ」

「所長」

「何だ」

「王女クラウディアに会う必要があります」

 アーヴィンは目を細めた。

「今度は王族か」

「セラフィーナが、密書を預けたと言いました」

「本人が?」

「はい」

「封言の首輪を越えてか」

「直接的には言えませんでした。ですが十分です」

 アーヴィンは周囲を見た。

 廊下には人がいる。

 審問官たち。

 記録官たち。

 そして、聖教会側の監視役らしき者も。

 彼は声を落とした。

「このまま王女に近づけば、お前は完全に反逆者扱いされる」

「なら、反逆者になる前に会います」

「お前は自分の立場を軽く見すぎだ」

「所長は、セラフィーナを死なせたいのですか」

 アーヴィンの表情が変わった。

 怒りではない。

 痛みだった。

「それを私に聞くな」

「では、誰に聞けば」

「自分に聞け」

 アーヴィンは言った。

「お前は、聖女を救いたいのか。裁判を正したいのか。王国の嘘を暴きたいのか。全部同じに見えて、最後は違う道になる」

「……」

「どれを選ぶか決めておけ。決めていなければ、いざという時、全部失う」

 レオンは黙った。

 聖女を救う。

 裁判を正す。

 王国の嘘を暴く。

 たしかに、それらは同じではない。

 聖女を救うために、真実を一部伏せる選択もあるかもしれない。

 裁判を正すために、彼女の自己犠牲を利用する道もあるかもしれない。

 王国の嘘を暴けば、民衆が混乱し、王都が危険になるかもしれない。

 だが。

 それでも。

「私は、嘘の書類に署名したくない」

 最初に言った言葉が、口をついて出た。

 アーヴィンは、しばらく彼を見ていた。

 そして小さく笑った。

「お前は本当に、面倒な秤だ」

「よく言われます」

「言われていないだろう」

「はい」

 アーヴィンは懐から小さな封筒を出した。

「王宮薔薇温室。明日の夜明け前。王女はそこにいる」

「なぜ、それを」

「聞くな」

「所長」

「私は何も知らない。何も渡していない。何も見ていない」

 封筒を押しつけると、アーヴィンは背を向けた。

「レオン」

「はい」

「これ以上進めば、戻れない」

「もう戻る場所はありません」

「そういう格好つけた台詞は、死ぬ前に言うものだ」

「では、まだ早いですね」

「そうだ。まだ早い」

 アーヴィンは振り返らずに言った。

「生きろ」

 レオンは封筒を握った。

 窓の外では、中央広場の処刑台が夜の中に黒く沈んでいる。

 断罪剣は、まだ据えられていない。

 だが、見えない刃はすでに首筋に触れていた。

 聖女の処刑まで、あと五日。

 魔王は、すでに死んでいた。

 ならば今、王国が殺そうとしているものは何か。

 聖女か。

 真実か。

 それとも、王国自身の罪か。

 レオンは封筒を外套の内側へしまい、封印された自室に背を向けた。

 次に向かうのは王女クラウディア。

 セラフィーナが出立前に預けた密書。

 そこに、王家が魔王を必要とした理由が眠っている。


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