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死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


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第4章 勇者の証言――英雄は何を見て、何を隠したのか

 勇者ユリウス・ヴァン・グレイの屋敷は、王都北区にあった。

 北区は、王族に近い貴族や軍上層部の屋敷が並ぶ区画だ。石畳は磨かれ、街路樹は季節ごとに刈り込まれ、夜になれば魔石灯が等間隔に灯る。南区の傾いた借家や、地下水路の腐った匂いとは、まるで別の都市だった。

 同じ王都。

 同じ空の下。

 けれど、人は住む場所によって、見える真実が違う。

 レオン・アルバートは、門前で足を止めた。

 白い石造りの屋敷。

 正門には、勇者の紋章が掲げられている。

 剣と翼。

 その周囲に、民から贈られた花束がいくつも置かれていた。花は新しい。昨日、今日に供えられたものもある。聖女セラフィーナが死刑囚となった今、民衆の祈りは勇者へ集中しているのだろう。

 魔王を討った英雄。

 聖女の裏切りを告発した正義の証人。

 人々は、そう信じている。

 レオンは門柱に貼られた小さな紙を見た。

 ――勇者様、王国をお守りください。

 ――聖女に騙されないでくださってありがとう。

 ――裏切り者を裁いてください。

 紙の端は雨に濡れ、少し滲んでいた。

 レオンはそれを見て、無意識に指先を握った。

 民衆は知らない。

 ライネル・フォードの遺体が、魔王城ではなく王都地下旧聖堂で見つかったことを。

 その胸骨に、人間の短剣による刺突痕が三つ残っていたことを。

 ライネルの手紙に、こう書かれていたことを。

 ――魔王は、人の手で作られた。

 知らないから、信じる。

 信じたいものを、信じる。

 それ自体は罪ではない。

 だが、誰かがその信仰を利用したなら、それは罪だ。

「異端審問庁、レオン・アルバートだ。勇者ユリウス殿に面会を求める」

 門番にそう告げると、門番は一瞬だけ顔をこわばらせた。

 異端審問庁。

 聖女裁判。

 この二つが今、王都でどれほど不吉な言葉になっているか、レオンは理解している。

 門番はしばらく屋敷の中へ確認に走り、やがて戻ってきた。

「ユリウス様がお会いになります。どうぞ」

 門が開く。

 レオンは屋敷の敷地へ入った。

 庭は手入れが行き届いていたが、どこか人の気配が薄かった。魔王討伐から戻った英雄の屋敷にしては、活気がない。祝勝の旗も、訪問客の馬車も、騎士たちの笑い声もない。

 あるのは、静けさ。

 まるで、屋敷全体が息を潜めているようだった。

 案内された応接室には、若い男が一人立っていた。

 金髪。

 碧眼。

 整った顔立ち。

 背は高く、白い軍服の胸には勇者に与えられる王国最高勲章が輝いている。

 勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。

 民が絵本で思い描く英雄を、そのまま人間にしたような男だった。

 だが、レオンは彼の目を見た瞬間、思った。

 この男は、眠れていない。

 瞳の奥に、濁った疲労がある。

 口元には礼儀正しい微笑みが浮かんでいるが、それは傷口に貼られた布のように薄かった。

「レオン・アルバート審問官ですね」

 ユリウスは穏やかに言った。

「お噂は聞いています」

「どのような噂でしょうか」

「感情を持たない秤、と」

「便利な噂です」

「ご自分では、そう思っておられる?」

「少なくとも、嘘を見つける時には」

 ユリウスの微笑みが、わずかに固まった。

 レオンは一礼し、向かいの椅子へ座った。

 ユリウスも腰を下ろす。

 侍従が紅茶を運んできた。若い男だった。レオンと同年代か、少し下。手つきは丁寧だが、目元が緊張している。

「下がっていい、ロイド」

 ユリウスが言った。

「ですが」

「いい」

 ロイドと呼ばれた侍従は、迷ったようにレオンを見たあと、深く頭を下げて部屋を出た。

 扉が閉まる。

 部屋に二人だけになる。

 レオンは茶に手をつけなかった。

 ユリウスも同じだった。

「それで、審問官殿。今日は何のご用件でしょう」

「聖女セラフィーナ・エルシアの最終審問に関連して、あなたの証言を確認したい」

「私の証言は、裁判で全て述べました」

「裁判記録も確認しました」

「なら、私から新しく話すことはありません」

「そうでしょうか」

 レオンは革の書類入れから、裁判記録の写しを取り出した。

 正式な複写ではない。

 頭に叩き込んだものを、自室で書き出しただけだ。

 だが内容は正確だった。

「あなたは裁判で、こう証言している。『私は見た。聖女は魔王城最奥で、魔王へ祈りを捧げていた。あれは討伐の祈りではない。忠誠の祈りだった』」

「はい」

「さらに、騎士ライネル・フォードはそれを止めようとして死亡した、と」

「……はい」

 わずかな間。

 やはり、そこだけ返答が遅れる。

 レオンは続けた。

「魔王城最奥へ到達した時刻は、第七鐘の直後。裁判記録ではそうなっている」

「詳しい時刻までは覚えていません」

「記録上はそうです。そして同じ記録によれば、その直後、魔王城の内殻結界が崩壊している。視界は黒灰と魔力光で遮られ、通常視認は不可能だったと宮廷魔術師エルネストが報告している」

 ユリウスは何も言わなかった。

「その状態で、あなたはなぜ、聖女が魔王へ忠誠の祈りを捧げていたと断定できた?」

「見たからです」

「何を」

「彼女が、魔王の前に跪いているところを」

「跪くことが、忠誠を意味するのか」

「状況が状況でした」

「祈りの言葉は聞いたのか」

「……いいえ」

「では、祈りの種類は分からない」

「魔王に向かって祈っていた。それだけで十分でしょう」

「聖女は、死者にも祈る」

 ユリウスの指が、ティーカップの取っ手に触れた。

 だが持ち上げはしない。

 レオンは目を逸らさず、次の紙へ視線を落とした。

「あなたはまた、聖女が魔族へ撤退経路を知らせる合図を送ったとも証言している」

「はい」

「だが帰還時の所持品目録では、聖女の祈りの杖は魔王城内で紛失している。祈りの杖なしで、彼女が長距離通信級の聖術を発動した記録は?」

「彼女は聖女です。杖がなくとも奇跡を起こせる」

「奇跡は便利な言葉ですね」

 ユリウスの眉がかすかに動いた。

 レオンは声を変えなかった。

「分からないことを奇跡と呼び、都合の悪いものを魔王因子と呼ぶ。王国の裁判は、ずいぶん詩的になった」

「審問官殿」

 ユリウスの声が低くなる。

「あなたは、何を言いたいのですか」

「あなたの証言は、事実の観察ではなく、誰かが用意した筋書きに沿っているように見える」

 空気が凍った。

 外では庭師が枝を切る音がしていた。

 その音すら、急に遠くなる。

 ユリウスは微笑んだ。

 しかし、その微笑みにはもう温度がなかった。

「私が嘘をついたと?」

「まだ断定はしていない」

「なら、ずいぶん無礼な確認ですね」

「審問とは、無礼な確認の積み重ねです」

「聖女を信じたいのですか」

「信じたいのではありません。記録が矛盾している」

「あなたは、彼女に会ったのですね」

「はい」

「なら分かるはずだ。彼女は否認しなかった」

「あなたは、彼女が否認しない理由を知っているのでは?」

 ユリウスは黙った。

 それは沈黙ではなく、耐えるための停止に見えた。

 レオンはそこで、切り札を出した。

「ライネル・フォードの遺体を見つけた」

 ユリウスの顔から、血の気が引いた。

 分かりやすい反応だった。

 英雄の仮面が、初めて割れた。

「……どこで」

「王都地下旧聖堂」

「そんな」

「魔王城ではない」

「そんなはずは……」

「胸骨に刺突痕が三つ。魔族の爪でも牙でもない。人間用の刃物だ。手首には拘束痕。指には魔王城の黒灰ではなく、王都旧聖堂で使われる聖銀粉が残っていた」

「やめろ」

 ユリウスの声が震えた。

「それ以上、調べるな」

「なぜ」

「死ぬぞ」

「昨日から何度も言われています」

「本当に死ぬ!」

 ユリウスが立ち上がった。

 椅子が床を鳴らして後ろへずれる。

 彼の顔には、怒りではなく恐怖があった。

 レオンは座ったまま見上げた。

「あなたは何を恐れている」

「何も知らない者が、正義の顔で踏み込んでいい場所ではない」

「では、知っているあなたが語るべきだ」

「語れば終わる」

「何が」

 ユリウスは唇を噛んだ。

 血が滲みそうなほど強く。

「王都だ」

 レオンは目を細めた。

「王都が終わるのか」

「……」

「誰にそう言われた。聖務卿オズワルドか」

 ユリウスは答えない。

 だが、それで十分だった。

 レオンは立ち上がった。

「魔王城で何を見た」

「帰ってくれ」

「聖女は魔王と通じていたのか」

「帰ってくれ!」

「答えろ、ユリウス・ヴァン・グレイ。あなたは勇者としてではなく、証人としてここにいる」

「証人……?」

 ユリウスは笑った。

 壊れかけた笑みだった。

「証人だと? 私は証人なんかじゃない」

「では何だ」

「私は、共犯者だ」

 その言葉は、応接室の床に落ちた。

 重く、鈍く。

 レオンは黙って彼を見た。

 ユリウスは両手で顔を覆った。

「私は、あの日からずっと、同じ夢を見る」

「魔王城の夢か」

「違う」

 ユリウスは顔を上げた。

 その目は、もう英雄の目ではなかった。

 戦場で何かを失った青年の目だった。

「彼女が、私を見ている夢だ」

     *

 魔王城最奥。

 ユリウスの記憶の中で、そこは玉座の間ではなかった。

 もっと巨大で、もっと寒い場所だった。

 黒い石の壁。

 天井から垂れ下がる鎖。

 床に刻まれた魔法陣。

 中央には、玉座ではなく、拘束台があった。

 その上に、魔王ゼルヴァがいた。

 魔王。

 人類最大の敵。

 黒い角と翼を持ち、百万の魔族を率い、王国を滅ぼそうとした災厄。

 絵画や演劇では、そう描かれていた。

 だが実際にユリウスが見た魔王は、違った。

 巨大ではあった。

 異形でもあった。

 だが、王座に座す支配者ではない。

 拘束されていた。

 両腕を黒い鎖で吊られ、胸部には巨大な聖銀の杭を打ち込まれ、背中からは無数の管が伸びている。魔力を吸い上げるための管。封じるための杭。制御するための輪。

 魔王は、王ではなかった。

 何かの装置に繋がれた、哀れな器だった。

 勇者ユリウスは、聖剣を握ったまま動けなかった。

 魔王は顔を上げた。

 その目にあったのは、憎悪ではない。

 疲労。

 苦痛。

 そして、懇願。

『殺せ』

 声が、直接頭の中に響いた。

『頼む。もう、終わらせてくれ』

 ユリウスの聖剣が震えた。

 討つべき敵が、殺してくれと願っている。

 その事実に、彼は一瞬、勇者でいられなくなった。

 横で、セラフィーナが歩み出た。

『セラフィーナ?』

 彼女は答えなかった。

 白い聖衣は黒灰に汚れ、銀髪も乱れていた。それでも彼女は、恐れずに魔王へ近づいた。

 そして、剣を抜く代わりに跪いた。

 祈った。

 魔王へではない。

 魔王を縛るものへでもない。

 その苦しみに。

 人として死ぬことすら許されなかった者へ。

『あなたは、もう十分に耐えました』

 セラフィーナの声は震えていた。

『だから、私が引き受けます』

 ユリウスは叫んだ。

『何を言っている!』

 魔王の胸の杭が砕ける。

 黒い光が噴き出す。

 それは炎でも煙でもなかった。

 生きている影のように、空中でうねり、セラフィーナへ向かって伸びていく。

『やめろ、セラフィーナ!』

 彼女は振り返った。

 笑っていた。

 悲しいほど穏やかに。

『勇者様』

『何だよ、それは……何をしてるんだよ!』

『王都を、お願いします』

 次の瞬間、魔王城が揺れた。

 天井が崩れる。

 結界が割れる。

 黒灰が視界を覆う。

 ユリウスは聖剣を振るった。

 何を斬ったのか分からなかった。

 魔王か。

 鎖か。

 装置か。

 それとも、セラフィーナに伸びる黒い光か。

 記憶はそこで途切れた。

     *

「気がついた時、私は王都にいた」

 ユリウスは言った。

 応接室の中に、彼の回想の残滓がまだ漂っているようだった。

「治療室だった。腕も足も動いた。聖剣もそばにあった。皆が言った。勇者が魔王を討った、と」

「あなた自身は?」

「覚えていなかった。いや……覚えていたくなかったのかもしれない」

「聖務卿オズワルドは?」

「来た」

 ユリウスの声がかすれた。

「私が目を覚ましたその日に。彼は言った。聖女が裏切った、と。魔王因子を宿し、王都に災厄を持ち帰った。勇者である私が証言しなければ、民は混乱し、王都に仕掛けられた封印が乱れる。多くの者が死ぬ、と」

「王都に仕掛けられた封印?」

「詳しくは知らない」

「本当に?」

「本当だ!」

 ユリウスは叫んだ。

 だがすぐに声を落とした。

「本当に、知らないんだ。私は……私は何も知らないまま、ただ怖くなった。セラフィーナは何も言わなかった。彼女は裁きを受け入れると言った。まるで、自分が悪になることを望んでいるみたいに」

「だから、あなたはそれに乗った」

 ユリウスは顔を歪めた。

「言うな」

「あなたは、聖女の沈黙に甘えた」

「言うな!」

「勇者として民を守るため、と自分に言い聞かせた。だが本当は、真実を語るのが怖かった」

 ユリウスは拳を握った。

 殴られるかもしれない、とレオンは思った。

 だが彼は殴らなかった。

 ただ、震えていた。

「そうだ」

 ユリウスは言った。

「私は怖かった。魔王よりも、魔族よりも、民の視線が怖かった。勇者様なら大丈夫だと、皆が私を見る。その目が怖かった。王都が滅ぶかもしれないと言われて、私は……何が正しいのか、分からなくなった」

 レオンは静かに問うた。

「ライネルのことは」

「知らなかった。本当に、知らなかった。彼は魔王城で死んだのだと思っていた」

「だが、私が遺体の話をした時、あなたは驚きすぎた」

「ライネルは、最後までセラフィーナを疑うなと言っていた」

 ユリウスは俯いた。

「討伐の旅の途中から、彼は何かを調べていた。王都に戻ったら話すと言っていた。でも、彼は戻らなかった。私は……彼が死んだことで、これ以上何かを考えずに済むと思ってしまった」

「最低だな」

「ああ」

 ユリウスは否定しなかった。

「ああ、最低だ。勇者なんて呼ばれる資格はない」

「資格の話はしていない」

 レオンは言った。

「今必要なのは、あなたの後悔ではなく証言だ」

「証言すれば、王都が危ない」

「そう脅されただけだ」

「もし本当だったら!」

「では、聖女を殺せば安全なのか」

 ユリウスが息を止めた。

「あなたは、そこを考えたのか」

「……」

「聖女が死ねば王都が救われる。そう言われた。だが、それを言ったのは誰だ。聖務卿オズワルドだ。ライネルの死を隠し、聖女を魔王の器として処刑しようとしている側の人間だ」

「やめろ」

「なぜ信じた」

「やめろ」

「勇者ユリウス。あなたは魔王城で、セラフィーナが何をしていたのか見たはずだ」

 レオンは一歩近づいた。

「彼女は魔王と通じていたのか」

 ユリウスは唇を震わせた。

 長い沈黙。

 その沈黙の中で、庭の枝切りの音が止まった。

 風が窓を揺らす。

 ユリウスは、ようやく口を開いた。

「違う」

 その声は小さかった。

 だが、はっきりしていた。

「彼女は、魔王を殺そうとしていたんじゃない」

 レオンは彼を見た。

 ユリウスは顔を上げた。

 碧眼の奥に、後悔と恐怖と、それでも消えなかった真実があった。

「救おうとしていた」

 その瞬間だった。

 屋敷の外で、爆発が起きた。

     *

 窓硝子が砕けた。

 赤い火花が室内へ飛び込み、カーテンに火が移る。

 衝撃でテーブルが跳ね、紅茶のカップが床へ落ちた。

 ユリウスが反射的にレオンを庇うように前へ出る。

 勇者の動きだった。

「伏せろ!」

 次の瞬間、窓の外から何かが飛び込んだ。

 短い矢。

 黒い羽根。

 狙いは、応接室の扉を開けて入ってきた侍従ロイドだった。

 彼は爆発音を聞いて駆けつけたのだろう。

 胸に矢が刺さった。

「あ……」

 ロイドは目を見開いた。

 手に持っていた水差しが床に落ちる。

 ユリウスが駆け寄る。

「ロイド!」

「ユリウス、窓から離れろ!」

 レオンは叫んだ。

 さらに二本目の矢が飛ぶ。

 ユリウスはロイドを抱えて床へ転がり、矢は壁に突き刺さった。

 矢尻には、濃い紫色の液体が塗られている。

 毒。

 レオンは短剣を抜き、割れた窓へ身を寄せた。

 庭の向こう、塀の上に黒い影が見えた。

 二人。

 いや、三人。

 すでに逃走に移っている。

 追うべきか。

 だが、ロイドの呼吸が乱れている。

 毒矢。

 時間がない。

「ユリウス、治療術は」

「できる。だが毒が」

「矢を抜くな。まず毒の進行を止めろ」

「分かっている!」

 ユリウスはロイドの胸に手を当てた。

 聖剣の加護を持つ勇者には、限定的な治癒術が使える。青白い光がロイドの胸元に広がった。

 だが毒の回りが速い。

 ロイドの唇が紫色になっていく。

「ユリウス、様……」

「喋るな」

「逃げ……」

「喋るな!」

 ロイドの指が震えながら、ユリウスの袖を掴んだ。

「勇者が……語れば……民が、死ぬ……」

 ユリウスの顔が凍った。

 ロイドの手から、くしゃくしゃになった紙片が落ちる。

 レオンはそれを拾った。

 血がついている。

 紙には短く書かれていた。

 ――勇者が語れば、民が死ぬ。

 ユリウスの治癒光が揺らぐ。

「集中しろ」

 レオンは言った。

「紙を見るな。ロイドを見ろ」

「だが」

「あなたが今見るべき証人は、生きている人間だ」

 ユリウスは歯を食いしばり、治癒術へ意識を戻した。

 青白い光が強まる。

 毒の紫が、ほんの少しだけ薄れる。

 だが完全には消えない。

 レオンは矢尻を確認した。

 毒の種類は不明。

 だが聖教会の暗殺毒ではない。

 王都の裏で使われる即効性の神経毒に近い。

 殺すためだけではない。

 苦しませ、恐怖を刻みつける毒だ。

 ロイドは苦しげに息をした。

「ロイド、誰に渡された」

 レオンは低く問う。

 ロイドの目が、かすかに動いた。

「白い……服の……」

「聖職者か」

「顔は……仮面で……」

 白い仮面。

 旧聖堂の水底に沈んでいたものを、レオンは思い出した。

 儀式用の仮面。

 聖教会の古い区画。

 ロイドの手から力が抜けた。

「ロイド!」

「まだ死んでいない」

 レオンは言った。

「医師を呼べ。毒抜きのできる者を。屋敷の門を閉めろ。使用人全員を集め、外部へ誰も出すな」

 ユリウスが顔を上げる。

 その表情は蒼白だった。

「レオン」

「何だ」

「彼らは本気だ」

「今さら分かったのか」

「違う。彼らは、私だけを脅しているんじゃない」

 ユリウスは紙片を見た。

 勇者が語れば、民が死ぬ。

「王都に何かが仕掛けられている。オズワルドはそう言った。私が真実を語れば、封印が乱れると。私は半分、脅しだと思っていた。でも……」

「でも、脅しではないかもしれない」

「ああ」

 屋敷の外で、使用人たちの悲鳴と足音が響く。

 庭の一部が燃えている。

 爆発は屋敷を吹き飛ばすほどではなかった。

 明らかに警告だ。

 殺すなら、もっと簡単にできた。

 だが彼らは、ユリウスの目の前で侍従を毒矢で射た。

 語れば周囲が死ぬ。

 それを見せつけるために。

 レオンは紙片を折りたたんだ。

「あなたの嘘は、自分を守るためだけではなかったわけだ」

 ユリウスは何も言わなかった。

「だが、嘘を続ければセラフィーナは死ぬ」

「分かっている」

「ライネルはすでに死んだ」

「分かっている!」

「ロイドも死にかけている」

「分かっている!!」

 ユリウスの叫びが、壊れた窓から庭へ抜けていった。

 その声は、勇者のものではなかった。

 ただの青年のものだった。

 守るべきものが多すぎて、何一つ守れなくなりかけている青年の声。

 レオンは、少しだけ沈黙した。

 そして言った。

「なら、選べ」

「何を」

「黙って誰かを死なせ続けるか。語って、死なせない方法を探すか」

「そんな簡単に」

「簡単ではない」

「なら!」

「だが、黙ることを選ぶなら、あなたはもう勇者ではなく、ただの隠蔽の道具だ」

 ユリウスは打たれたように黙った。

 レオンは続けた。

「私はあなたを責めに来た。だが、それだけではない。あなたが見たものが必要だ。あなたが語らなければ、聖女は死ぬ。ライネルの死は偽装される。魔王が何だったのかも、王都に何が仕掛けられているのかも分からないままだ」

「……私は」

 ユリウスはロイドの胸に手を当てたまま、俯いた。

「私は、また間違えるかもしれない」

「間違えたら訂正しろ」

「勇者が間違えていいのか」

「人間なら間違える」

 ユリウスは顔を上げた。

 レオンは言った。

「あなたは勇者である前に、証人だ。見たものを話せ」

 ユリウスは、しばらくレオンを見ていた。

 その目に、ほんの少しだけ光が戻った。

 覚悟というほど強くはない。

 だが、逃げることに疲れた者が、ようやく振り返る時の光だった。

「……一つ、渡すものがある」

 ユリウスはロイドを床に寝かせ、治癒術の光を維持するための護符を置いた。

 それから、部屋の奥にある小さな金庫へ向かった。

 鍵を開ける手が震えている。

 中から取り出したのは、小さな聖印だった。

 銀製。

 中央に聖女の祈り紋。

 けれど、ひびが入っている。

「これは」

「魔王城で、セラフィーナが落としたものだ」

「なぜあなたが」

「気がついたら、握っていた。帰還した時、私の手の中にあった。聖務卿には渡さなかった。なぜか、渡してはいけないと思った」

 ユリウスは聖印をレオンに差し出した。

「裏を見ろ」

 レオンは受け取り、裏返した。

 そこには、細い文字が刻まれていた。

 古代語。

 かなり古い形式だ。

 レオンは読める。

 異端審問官は、古代異端文書を読む訓練を受ける。

 文字は短かった。

 ――器を壊せ。王都を救え。

 レオンは聖印を握った。

 器。

 また、その言葉。

 旧聖堂の削られた聖句。

 エルネストの証言。

 魔王の器。

 そして、セラフィーナの聖印に刻まれた言葉。

「セラフィーナは、魔王を崇拝していたのではない」

 レオンは呟いた。

「何かの器を壊そうとしていた」

「そうだと思う」

「器とは何だ」

「分からない」

「魔王か」

「分からない」

「王都か」

 ユリウスは答えなかった。

 沈黙。

 しかし今度の沈黙は、逃避ではない。

 恐怖と向き合うための沈黙だった。

 レオンは聖印を外套の内側へしまった。

「ユリウス。最後にもう一度だけ聞く」

「ああ」

「聖女セラフィーナは、魔王と通じていたのか」

 ユリウスはまっすぐ答えた。

「違う」

「彼女は魔王を殺そうとしていたのか」

「違う」

「では何をしていた」

 ユリウスは、壊れた窓の向こうを見た。

 庭では、使用人たちが火を消している。

 ロイドは浅い呼吸を続けている。

 遠くで、中央大聖堂の鐘が鳴った。

 処刑まで、あと五日。

 勇者は、低く言った。

「彼女は、魔王を救おうとしていた」

 その言葉は、今度こそ揺れなかった。

     *

 レオンが屋敷を出る頃には、空は夕暮れに沈みかけていた。

 ロイドは医師に引き渡された。

 助かるかどうかは分からない。

 だが、少なくとも即死は免れた。

 ユリウスは屋敷に残った。

 今すぐ公的証言をすることはできない。屋敷は監視されている。勇者の一挙手一投足は、王家にも聖教会にも伝わる。下手に動けば、また誰かが狙われる。

 それでも、彼は最後にこう言った。

 次に必要な時は、呼べ。

 勇者の言葉ではない。

 共犯者の言葉だった。

 レオンは歩きながら、聖印を取り出した。

 器を壊せ。

 王都を救え。

 たった二文。

 だが、それはセラフィーナが残した唯一の明確な意思だった。

 彼女は魔王に祈ったのではない。

 魔王を救おうとした。

 魔王は、人の手で作られた。

 ライネルは、それを知って殺された。

 ユリウスは、それを見て沈黙した。

 オズワルドは、それを隠して聖女を処刑しようとしている。

 では、王都に仕掛けられたものとは何か。

 聖女が死ねば、本当に救われるのか。

 それとも――。

 レオンは足を止めた。

 中央広場が見える場所だった。

 処刑台は、夕陽を浴びて赤く染まっている。

 黒い木組みの上に、断罪剣の台座が据えられていた。

 まだ剣はない。

 だがレオンには、それがただの処刑道具には見えなくなっていた。

 舞台。

 儀式。

 器。

 王都。

 すべてが、一本の線に繋がりかけている。

「セラフィーナ」

 レオンは小さく呟いた。

「あなたは何を背負った」

 答えは返らない。

 代わりに、背後から鐘の音が響いた。

 中央大聖堂の鐘。

 五度。

 処刑まで、あと五日。

 レオンは聖印を握りしめ、異端審問庁へ向かって歩き出した。

 次に会うべき相手は決まっている。

 宮廷魔術師エルネスト・バルク。

 魔王因子を検出した男。

 聖女を魔王の器と呼んだ男。

 そしておそらく、魔王城最奥の「器」が何であったかを知る男。

 この裁判は、もう聖女一人の冤罪ではない。

 王国が隠した魔王の正体へ、踏み込む段階に来ていた。


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