第4章 勇者の証言――英雄は何を見て、何を隠したのか
勇者ユリウス・ヴァン・グレイの屋敷は、王都北区にあった。
北区は、王族に近い貴族や軍上層部の屋敷が並ぶ区画だ。石畳は磨かれ、街路樹は季節ごとに刈り込まれ、夜になれば魔石灯が等間隔に灯る。南区の傾いた借家や、地下水路の腐った匂いとは、まるで別の都市だった。
同じ王都。
同じ空の下。
けれど、人は住む場所によって、見える真実が違う。
レオン・アルバートは、門前で足を止めた。
白い石造りの屋敷。
正門には、勇者の紋章が掲げられている。
剣と翼。
その周囲に、民から贈られた花束がいくつも置かれていた。花は新しい。昨日、今日に供えられたものもある。聖女セラフィーナが死刑囚となった今、民衆の祈りは勇者へ集中しているのだろう。
魔王を討った英雄。
聖女の裏切りを告発した正義の証人。
人々は、そう信じている。
レオンは門柱に貼られた小さな紙を見た。
――勇者様、王国をお守りください。
――聖女に騙されないでくださってありがとう。
――裏切り者を裁いてください。
紙の端は雨に濡れ、少し滲んでいた。
レオンはそれを見て、無意識に指先を握った。
民衆は知らない。
ライネル・フォードの遺体が、魔王城ではなく王都地下旧聖堂で見つかったことを。
その胸骨に、人間の短剣による刺突痕が三つ残っていたことを。
ライネルの手紙に、こう書かれていたことを。
――魔王は、人の手で作られた。
知らないから、信じる。
信じたいものを、信じる。
それ自体は罪ではない。
だが、誰かがその信仰を利用したなら、それは罪だ。
「異端審問庁、レオン・アルバートだ。勇者ユリウス殿に面会を求める」
門番にそう告げると、門番は一瞬だけ顔をこわばらせた。
異端審問庁。
聖女裁判。
この二つが今、王都でどれほど不吉な言葉になっているか、レオンは理解している。
門番はしばらく屋敷の中へ確認に走り、やがて戻ってきた。
「ユリウス様がお会いになります。どうぞ」
門が開く。
レオンは屋敷の敷地へ入った。
庭は手入れが行き届いていたが、どこか人の気配が薄かった。魔王討伐から戻った英雄の屋敷にしては、活気がない。祝勝の旗も、訪問客の馬車も、騎士たちの笑い声もない。
あるのは、静けさ。
まるで、屋敷全体が息を潜めているようだった。
案内された応接室には、若い男が一人立っていた。
金髪。
碧眼。
整った顔立ち。
背は高く、白い軍服の胸には勇者に与えられる王国最高勲章が輝いている。
勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。
民が絵本で思い描く英雄を、そのまま人間にしたような男だった。
だが、レオンは彼の目を見た瞬間、思った。
この男は、眠れていない。
瞳の奥に、濁った疲労がある。
口元には礼儀正しい微笑みが浮かんでいるが、それは傷口に貼られた布のように薄かった。
「レオン・アルバート審問官ですね」
ユリウスは穏やかに言った。
「お噂は聞いています」
「どのような噂でしょうか」
「感情を持たない秤、と」
「便利な噂です」
「ご自分では、そう思っておられる?」
「少なくとも、嘘を見つける時には」
ユリウスの微笑みが、わずかに固まった。
レオンは一礼し、向かいの椅子へ座った。
ユリウスも腰を下ろす。
侍従が紅茶を運んできた。若い男だった。レオンと同年代か、少し下。手つきは丁寧だが、目元が緊張している。
「下がっていい、ロイド」
ユリウスが言った。
「ですが」
「いい」
ロイドと呼ばれた侍従は、迷ったようにレオンを見たあと、深く頭を下げて部屋を出た。
扉が閉まる。
部屋に二人だけになる。
レオンは茶に手をつけなかった。
ユリウスも同じだった。
「それで、審問官殿。今日は何のご用件でしょう」
「聖女セラフィーナ・エルシアの最終審問に関連して、あなたの証言を確認したい」
「私の証言は、裁判で全て述べました」
「裁判記録も確認しました」
「なら、私から新しく話すことはありません」
「そうでしょうか」
レオンは革の書類入れから、裁判記録の写しを取り出した。
正式な複写ではない。
頭に叩き込んだものを、自室で書き出しただけだ。
だが内容は正確だった。
「あなたは裁判で、こう証言している。『私は見た。聖女は魔王城最奥で、魔王へ祈りを捧げていた。あれは討伐の祈りではない。忠誠の祈りだった』」
「はい」
「さらに、騎士ライネル・フォードはそれを止めようとして死亡した、と」
「……はい」
わずかな間。
やはり、そこだけ返答が遅れる。
レオンは続けた。
「魔王城最奥へ到達した時刻は、第七鐘の直後。裁判記録ではそうなっている」
「詳しい時刻までは覚えていません」
「記録上はそうです。そして同じ記録によれば、その直後、魔王城の内殻結界が崩壊している。視界は黒灰と魔力光で遮られ、通常視認は不可能だったと宮廷魔術師エルネストが報告している」
ユリウスは何も言わなかった。
「その状態で、あなたはなぜ、聖女が魔王へ忠誠の祈りを捧げていたと断定できた?」
「見たからです」
「何を」
「彼女が、魔王の前に跪いているところを」
「跪くことが、忠誠を意味するのか」
「状況が状況でした」
「祈りの言葉は聞いたのか」
「……いいえ」
「では、祈りの種類は分からない」
「魔王に向かって祈っていた。それだけで十分でしょう」
「聖女は、死者にも祈る」
ユリウスの指が、ティーカップの取っ手に触れた。
だが持ち上げはしない。
レオンは目を逸らさず、次の紙へ視線を落とした。
「あなたはまた、聖女が魔族へ撤退経路を知らせる合図を送ったとも証言している」
「はい」
「だが帰還時の所持品目録では、聖女の祈りの杖は魔王城内で紛失している。祈りの杖なしで、彼女が長距離通信級の聖術を発動した記録は?」
「彼女は聖女です。杖がなくとも奇跡を起こせる」
「奇跡は便利な言葉ですね」
ユリウスの眉がかすかに動いた。
レオンは声を変えなかった。
「分からないことを奇跡と呼び、都合の悪いものを魔王因子と呼ぶ。王国の裁判は、ずいぶん詩的になった」
「審問官殿」
ユリウスの声が低くなる。
「あなたは、何を言いたいのですか」
「あなたの証言は、事実の観察ではなく、誰かが用意した筋書きに沿っているように見える」
空気が凍った。
外では庭師が枝を切る音がしていた。
その音すら、急に遠くなる。
ユリウスは微笑んだ。
しかし、その微笑みにはもう温度がなかった。
「私が嘘をついたと?」
「まだ断定はしていない」
「なら、ずいぶん無礼な確認ですね」
「審問とは、無礼な確認の積み重ねです」
「聖女を信じたいのですか」
「信じたいのではありません。記録が矛盾している」
「あなたは、彼女に会ったのですね」
「はい」
「なら分かるはずだ。彼女は否認しなかった」
「あなたは、彼女が否認しない理由を知っているのでは?」
ユリウスは黙った。
それは沈黙ではなく、耐えるための停止に見えた。
レオンはそこで、切り札を出した。
「ライネル・フォードの遺体を見つけた」
ユリウスの顔から、血の気が引いた。
分かりやすい反応だった。
英雄の仮面が、初めて割れた。
「……どこで」
「王都地下旧聖堂」
「そんな」
「魔王城ではない」
「そんなはずは……」
「胸骨に刺突痕が三つ。魔族の爪でも牙でもない。人間用の刃物だ。手首には拘束痕。指には魔王城の黒灰ではなく、王都旧聖堂で使われる聖銀粉が残っていた」
「やめろ」
ユリウスの声が震えた。
「それ以上、調べるな」
「なぜ」
「死ぬぞ」
「昨日から何度も言われています」
「本当に死ぬ!」
ユリウスが立ち上がった。
椅子が床を鳴らして後ろへずれる。
彼の顔には、怒りではなく恐怖があった。
レオンは座ったまま見上げた。
「あなたは何を恐れている」
「何も知らない者が、正義の顔で踏み込んでいい場所ではない」
「では、知っているあなたが語るべきだ」
「語れば終わる」
「何が」
ユリウスは唇を噛んだ。
血が滲みそうなほど強く。
「王都だ」
レオンは目を細めた。
「王都が終わるのか」
「……」
「誰にそう言われた。聖務卿オズワルドか」
ユリウスは答えない。
だが、それで十分だった。
レオンは立ち上がった。
「魔王城で何を見た」
「帰ってくれ」
「聖女は魔王と通じていたのか」
「帰ってくれ!」
「答えろ、ユリウス・ヴァン・グレイ。あなたは勇者としてではなく、証人としてここにいる」
「証人……?」
ユリウスは笑った。
壊れかけた笑みだった。
「証人だと? 私は証人なんかじゃない」
「では何だ」
「私は、共犯者だ」
その言葉は、応接室の床に落ちた。
重く、鈍く。
レオンは黙って彼を見た。
ユリウスは両手で顔を覆った。
「私は、あの日からずっと、同じ夢を見る」
「魔王城の夢か」
「違う」
ユリウスは顔を上げた。
その目は、もう英雄の目ではなかった。
戦場で何かを失った青年の目だった。
「彼女が、私を見ている夢だ」
*
魔王城最奥。
ユリウスの記憶の中で、そこは玉座の間ではなかった。
もっと巨大で、もっと寒い場所だった。
黒い石の壁。
天井から垂れ下がる鎖。
床に刻まれた魔法陣。
中央には、玉座ではなく、拘束台があった。
その上に、魔王ゼルヴァがいた。
魔王。
人類最大の敵。
黒い角と翼を持ち、百万の魔族を率い、王国を滅ぼそうとした災厄。
絵画や演劇では、そう描かれていた。
だが実際にユリウスが見た魔王は、違った。
巨大ではあった。
異形でもあった。
だが、王座に座す支配者ではない。
拘束されていた。
両腕を黒い鎖で吊られ、胸部には巨大な聖銀の杭を打ち込まれ、背中からは無数の管が伸びている。魔力を吸い上げるための管。封じるための杭。制御するための輪。
魔王は、王ではなかった。
何かの装置に繋がれた、哀れな器だった。
勇者ユリウスは、聖剣を握ったまま動けなかった。
魔王は顔を上げた。
その目にあったのは、憎悪ではない。
疲労。
苦痛。
そして、懇願。
『殺せ』
声が、直接頭の中に響いた。
『頼む。もう、終わらせてくれ』
ユリウスの聖剣が震えた。
討つべき敵が、殺してくれと願っている。
その事実に、彼は一瞬、勇者でいられなくなった。
横で、セラフィーナが歩み出た。
『セラフィーナ?』
彼女は答えなかった。
白い聖衣は黒灰に汚れ、銀髪も乱れていた。それでも彼女は、恐れずに魔王へ近づいた。
そして、剣を抜く代わりに跪いた。
祈った。
魔王へではない。
魔王を縛るものへでもない。
その苦しみに。
人として死ぬことすら許されなかった者へ。
『あなたは、もう十分に耐えました』
セラフィーナの声は震えていた。
『だから、私が引き受けます』
ユリウスは叫んだ。
『何を言っている!』
魔王の胸の杭が砕ける。
黒い光が噴き出す。
それは炎でも煙でもなかった。
生きている影のように、空中でうねり、セラフィーナへ向かって伸びていく。
『やめろ、セラフィーナ!』
彼女は振り返った。
笑っていた。
悲しいほど穏やかに。
『勇者様』
『何だよ、それは……何をしてるんだよ!』
『王都を、お願いします』
次の瞬間、魔王城が揺れた。
天井が崩れる。
結界が割れる。
黒灰が視界を覆う。
ユリウスは聖剣を振るった。
何を斬ったのか分からなかった。
魔王か。
鎖か。
装置か。
それとも、セラフィーナに伸びる黒い光か。
記憶はそこで途切れた。
*
「気がついた時、私は王都にいた」
ユリウスは言った。
応接室の中に、彼の回想の残滓がまだ漂っているようだった。
「治療室だった。腕も足も動いた。聖剣もそばにあった。皆が言った。勇者が魔王を討った、と」
「あなた自身は?」
「覚えていなかった。いや……覚えていたくなかったのかもしれない」
「聖務卿オズワルドは?」
「来た」
ユリウスの声がかすれた。
「私が目を覚ましたその日に。彼は言った。聖女が裏切った、と。魔王因子を宿し、王都に災厄を持ち帰った。勇者である私が証言しなければ、民は混乱し、王都に仕掛けられた封印が乱れる。多くの者が死ぬ、と」
「王都に仕掛けられた封印?」
「詳しくは知らない」
「本当に?」
「本当だ!」
ユリウスは叫んだ。
だがすぐに声を落とした。
「本当に、知らないんだ。私は……私は何も知らないまま、ただ怖くなった。セラフィーナは何も言わなかった。彼女は裁きを受け入れると言った。まるで、自分が悪になることを望んでいるみたいに」
「だから、あなたはそれに乗った」
ユリウスは顔を歪めた。
「言うな」
「あなたは、聖女の沈黙に甘えた」
「言うな!」
「勇者として民を守るため、と自分に言い聞かせた。だが本当は、真実を語るのが怖かった」
ユリウスは拳を握った。
殴られるかもしれない、とレオンは思った。
だが彼は殴らなかった。
ただ、震えていた。
「そうだ」
ユリウスは言った。
「私は怖かった。魔王よりも、魔族よりも、民の視線が怖かった。勇者様なら大丈夫だと、皆が私を見る。その目が怖かった。王都が滅ぶかもしれないと言われて、私は……何が正しいのか、分からなくなった」
レオンは静かに問うた。
「ライネルのことは」
「知らなかった。本当に、知らなかった。彼は魔王城で死んだのだと思っていた」
「だが、私が遺体の話をした時、あなたは驚きすぎた」
「ライネルは、最後までセラフィーナを疑うなと言っていた」
ユリウスは俯いた。
「討伐の旅の途中から、彼は何かを調べていた。王都に戻ったら話すと言っていた。でも、彼は戻らなかった。私は……彼が死んだことで、これ以上何かを考えずに済むと思ってしまった」
「最低だな」
「ああ」
ユリウスは否定しなかった。
「ああ、最低だ。勇者なんて呼ばれる資格はない」
「資格の話はしていない」
レオンは言った。
「今必要なのは、あなたの後悔ではなく証言だ」
「証言すれば、王都が危ない」
「そう脅されただけだ」
「もし本当だったら!」
「では、聖女を殺せば安全なのか」
ユリウスが息を止めた。
「あなたは、そこを考えたのか」
「……」
「聖女が死ねば王都が救われる。そう言われた。だが、それを言ったのは誰だ。聖務卿オズワルドだ。ライネルの死を隠し、聖女を魔王の器として処刑しようとしている側の人間だ」
「やめろ」
「なぜ信じた」
「やめろ」
「勇者ユリウス。あなたは魔王城で、セラフィーナが何をしていたのか見たはずだ」
レオンは一歩近づいた。
「彼女は魔王と通じていたのか」
ユリウスは唇を震わせた。
長い沈黙。
その沈黙の中で、庭の枝切りの音が止まった。
風が窓を揺らす。
ユリウスは、ようやく口を開いた。
「違う」
その声は小さかった。
だが、はっきりしていた。
「彼女は、魔王を殺そうとしていたんじゃない」
レオンは彼を見た。
ユリウスは顔を上げた。
碧眼の奥に、後悔と恐怖と、それでも消えなかった真実があった。
「救おうとしていた」
その瞬間だった。
屋敷の外で、爆発が起きた。
*
窓硝子が砕けた。
赤い火花が室内へ飛び込み、カーテンに火が移る。
衝撃でテーブルが跳ね、紅茶のカップが床へ落ちた。
ユリウスが反射的にレオンを庇うように前へ出る。
勇者の動きだった。
「伏せろ!」
次の瞬間、窓の外から何かが飛び込んだ。
短い矢。
黒い羽根。
狙いは、応接室の扉を開けて入ってきた侍従ロイドだった。
彼は爆発音を聞いて駆けつけたのだろう。
胸に矢が刺さった。
「あ……」
ロイドは目を見開いた。
手に持っていた水差しが床に落ちる。
ユリウスが駆け寄る。
「ロイド!」
「ユリウス、窓から離れろ!」
レオンは叫んだ。
さらに二本目の矢が飛ぶ。
ユリウスはロイドを抱えて床へ転がり、矢は壁に突き刺さった。
矢尻には、濃い紫色の液体が塗られている。
毒。
レオンは短剣を抜き、割れた窓へ身を寄せた。
庭の向こう、塀の上に黒い影が見えた。
二人。
いや、三人。
すでに逃走に移っている。
追うべきか。
だが、ロイドの呼吸が乱れている。
毒矢。
時間がない。
「ユリウス、治療術は」
「できる。だが毒が」
「矢を抜くな。まず毒の進行を止めろ」
「分かっている!」
ユリウスはロイドの胸に手を当てた。
聖剣の加護を持つ勇者には、限定的な治癒術が使える。青白い光がロイドの胸元に広がった。
だが毒の回りが速い。
ロイドの唇が紫色になっていく。
「ユリウス、様……」
「喋るな」
「逃げ……」
「喋るな!」
ロイドの指が震えながら、ユリウスの袖を掴んだ。
「勇者が……語れば……民が、死ぬ……」
ユリウスの顔が凍った。
ロイドの手から、くしゃくしゃになった紙片が落ちる。
レオンはそれを拾った。
血がついている。
紙には短く書かれていた。
――勇者が語れば、民が死ぬ。
ユリウスの治癒光が揺らぐ。
「集中しろ」
レオンは言った。
「紙を見るな。ロイドを見ろ」
「だが」
「あなたが今見るべき証人は、生きている人間だ」
ユリウスは歯を食いしばり、治癒術へ意識を戻した。
青白い光が強まる。
毒の紫が、ほんの少しだけ薄れる。
だが完全には消えない。
レオンは矢尻を確認した。
毒の種類は不明。
だが聖教会の暗殺毒ではない。
王都の裏で使われる即効性の神経毒に近い。
殺すためだけではない。
苦しませ、恐怖を刻みつける毒だ。
ロイドは苦しげに息をした。
「ロイド、誰に渡された」
レオンは低く問う。
ロイドの目が、かすかに動いた。
「白い……服の……」
「聖職者か」
「顔は……仮面で……」
白い仮面。
旧聖堂の水底に沈んでいたものを、レオンは思い出した。
儀式用の仮面。
聖教会の古い区画。
ロイドの手から力が抜けた。
「ロイド!」
「まだ死んでいない」
レオンは言った。
「医師を呼べ。毒抜きのできる者を。屋敷の門を閉めろ。使用人全員を集め、外部へ誰も出すな」
ユリウスが顔を上げる。
その表情は蒼白だった。
「レオン」
「何だ」
「彼らは本気だ」
「今さら分かったのか」
「違う。彼らは、私だけを脅しているんじゃない」
ユリウスは紙片を見た。
勇者が語れば、民が死ぬ。
「王都に何かが仕掛けられている。オズワルドはそう言った。私が真実を語れば、封印が乱れると。私は半分、脅しだと思っていた。でも……」
「でも、脅しではないかもしれない」
「ああ」
屋敷の外で、使用人たちの悲鳴と足音が響く。
庭の一部が燃えている。
爆発は屋敷を吹き飛ばすほどではなかった。
明らかに警告だ。
殺すなら、もっと簡単にできた。
だが彼らは、ユリウスの目の前で侍従を毒矢で射た。
語れば周囲が死ぬ。
それを見せつけるために。
レオンは紙片を折りたたんだ。
「あなたの嘘は、自分を守るためだけではなかったわけだ」
ユリウスは何も言わなかった。
「だが、嘘を続ければセラフィーナは死ぬ」
「分かっている」
「ライネルはすでに死んだ」
「分かっている!」
「ロイドも死にかけている」
「分かっている!!」
ユリウスの叫びが、壊れた窓から庭へ抜けていった。
その声は、勇者のものではなかった。
ただの青年のものだった。
守るべきものが多すぎて、何一つ守れなくなりかけている青年の声。
レオンは、少しだけ沈黙した。
そして言った。
「なら、選べ」
「何を」
「黙って誰かを死なせ続けるか。語って、死なせない方法を探すか」
「そんな簡単に」
「簡単ではない」
「なら!」
「だが、黙ることを選ぶなら、あなたはもう勇者ではなく、ただの隠蔽の道具だ」
ユリウスは打たれたように黙った。
レオンは続けた。
「私はあなたを責めに来た。だが、それだけではない。あなたが見たものが必要だ。あなたが語らなければ、聖女は死ぬ。ライネルの死は偽装される。魔王が何だったのかも、王都に何が仕掛けられているのかも分からないままだ」
「……私は」
ユリウスはロイドの胸に手を当てたまま、俯いた。
「私は、また間違えるかもしれない」
「間違えたら訂正しろ」
「勇者が間違えていいのか」
「人間なら間違える」
ユリウスは顔を上げた。
レオンは言った。
「あなたは勇者である前に、証人だ。見たものを話せ」
ユリウスは、しばらくレオンを見ていた。
その目に、ほんの少しだけ光が戻った。
覚悟というほど強くはない。
だが、逃げることに疲れた者が、ようやく振り返る時の光だった。
「……一つ、渡すものがある」
ユリウスはロイドを床に寝かせ、治癒術の光を維持するための護符を置いた。
それから、部屋の奥にある小さな金庫へ向かった。
鍵を開ける手が震えている。
中から取り出したのは、小さな聖印だった。
銀製。
中央に聖女の祈り紋。
けれど、ひびが入っている。
「これは」
「魔王城で、セラフィーナが落としたものだ」
「なぜあなたが」
「気がついたら、握っていた。帰還した時、私の手の中にあった。聖務卿には渡さなかった。なぜか、渡してはいけないと思った」
ユリウスは聖印をレオンに差し出した。
「裏を見ろ」
レオンは受け取り、裏返した。
そこには、細い文字が刻まれていた。
古代語。
かなり古い形式だ。
レオンは読める。
異端審問官は、古代異端文書を読む訓練を受ける。
文字は短かった。
――器を壊せ。王都を救え。
レオンは聖印を握った。
器。
また、その言葉。
旧聖堂の削られた聖句。
エルネストの証言。
魔王の器。
そして、セラフィーナの聖印に刻まれた言葉。
「セラフィーナは、魔王を崇拝していたのではない」
レオンは呟いた。
「何かの器を壊そうとしていた」
「そうだと思う」
「器とは何だ」
「分からない」
「魔王か」
「分からない」
「王都か」
ユリウスは答えなかった。
沈黙。
しかし今度の沈黙は、逃避ではない。
恐怖と向き合うための沈黙だった。
レオンは聖印を外套の内側へしまった。
「ユリウス。最後にもう一度だけ聞く」
「ああ」
「聖女セラフィーナは、魔王と通じていたのか」
ユリウスはまっすぐ答えた。
「違う」
「彼女は魔王を殺そうとしていたのか」
「違う」
「では何をしていた」
ユリウスは、壊れた窓の向こうを見た。
庭では、使用人たちが火を消している。
ロイドは浅い呼吸を続けている。
遠くで、中央大聖堂の鐘が鳴った。
処刑まで、あと五日。
勇者は、低く言った。
「彼女は、魔王を救おうとしていた」
その言葉は、今度こそ揺れなかった。
*
レオンが屋敷を出る頃には、空は夕暮れに沈みかけていた。
ロイドは医師に引き渡された。
助かるかどうかは分からない。
だが、少なくとも即死は免れた。
ユリウスは屋敷に残った。
今すぐ公的証言をすることはできない。屋敷は監視されている。勇者の一挙手一投足は、王家にも聖教会にも伝わる。下手に動けば、また誰かが狙われる。
それでも、彼は最後にこう言った。
次に必要な時は、呼べ。
勇者の言葉ではない。
共犯者の言葉だった。
レオンは歩きながら、聖印を取り出した。
器を壊せ。
王都を救え。
たった二文。
だが、それはセラフィーナが残した唯一の明確な意思だった。
彼女は魔王に祈ったのではない。
魔王を救おうとした。
魔王は、人の手で作られた。
ライネルは、それを知って殺された。
ユリウスは、それを見て沈黙した。
オズワルドは、それを隠して聖女を処刑しようとしている。
では、王都に仕掛けられたものとは何か。
聖女が死ねば、本当に救われるのか。
それとも――。
レオンは足を止めた。
中央広場が見える場所だった。
処刑台は、夕陽を浴びて赤く染まっている。
黒い木組みの上に、断罪剣の台座が据えられていた。
まだ剣はない。
だがレオンには、それがただの処刑道具には見えなくなっていた。
舞台。
儀式。
器。
王都。
すべてが、一本の線に繋がりかけている。
「セラフィーナ」
レオンは小さく呟いた。
「あなたは何を背負った」
答えは返らない。
代わりに、背後から鐘の音が響いた。
中央大聖堂の鐘。
五度。
処刑まで、あと五日。
レオンは聖印を握りしめ、異端審問庁へ向かって歩き出した。
次に会うべき相手は決まっている。
宮廷魔術師エルネスト・バルク。
魔王因子を検出した男。
聖女を魔王の器と呼んだ男。
そしておそらく、魔王城最奥の「器」が何であったかを知る男。
この裁判は、もう聖女一人の冤罪ではない。
王国が隠した魔王の正体へ、踏み込む段階に来ていた。




