表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死刑囚聖女と異端審問官の七日間裁判 〜処刑まであと七日。世界を救った彼女は、なぜ罪を認めたのか〜  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/15

第3章 魔王城から帰らなかった騎士――死体は王都地下で見つかった

 王都エルディアの地下には、二つの水路がある。

 一つは、誰もが知っている水路だ。

 雨水を流し、生活排水を運び、王都という巨大な生き物の老廃物を外へ吐き出すための道。石工たちによって定期的に補修され、行政庁の地図にも記されている。汚く、暗く、鼠が多い。だがそれだけだ。人が作り、人が使い、人が管理している地下。

 もう一つは、誰も知らない水路だった。

 正確には、知っている者が少なすぎる水路だ。

 旧王都時代に掘られた避難路。王族だけが使った地下道。魔族戦役のころに作られた封印区画。聖教会が異端者を隠して裁いた礼拝堂。用途を失い、記録から消え、やがて存在そのものが忘れられた地下。

 人は、忘れたいものを地下へ埋める。

 死体も。

 罪も。

 真実も。

 レオン・アルバートは、夜の王都を歩いていた。

 手には古びた地図。

 腰には短剣。

 外套の内側には、異端審問官の認可印と、小さな聖銀灯。

 それだけだった。

 正式な捜査ではない。

 応援もいない。

 記録官もいない。

 この行動をアーヴィン所長が知れば、叱責だけでは済まないだろう。いや、叱責で済ませてくれるなら、まだ優しい。王家と聖教会の双方が絡む死刑囚の件で、審問官が単独で旧王都地下区画に入る。見方によっては、反逆に近い。

 だが、正式に申請すれば証拠は消える。

 昼間に届いた地図。

 夜、執務室に置かれていた二枚目の地図。

 そして、セラフィーナの反応。

 ――行ってはいけません。

 あれは、演技ではなかった。

 自分の死刑判決にも乱れなかった聖女が、王都地下旧聖堂の名を聞いた瞬間、血の気を失った。

 ならば、そこには何かがある。

 おそらく、死体が。

 レオンは中央大聖堂の脇道を抜け、古い巡礼者用の階段へ向かった。今は使われていない石段だ。苔が生え、鉄柵には錆が浮き、昼間でも人が近寄らない。かつては地下礼拝堂へ続いていたらしいが、今の聖教会はそんな場所の存在を認めていない。

 地図の赤い印は、この階段の先を示していた。

 レオンは鉄柵の鍵を確認した。

 新しい。

 錆びた柵に、不釣り合いなほど新しい錠前がついている。

「忘れられた場所にしては、管理が行き届いているな」

 小さく呟き、腰から細い針金を取り出した。

 審問官は尋問だけが仕事ではない。

 証拠品の保全。

 異端術式の解除。

 封印扉の開錠。

 ときには、相手が隠したものを開ける技術も必要になる。

 錠前は見た目ほど複雑ではなかった。

 数秒で、かちりと音がする。

 鉄柵を押すと、湿った空気が奥から流れてきた。

 古い水の匂い。

 黴。

 石。

 そして、ほんの微かに聖銀の匂い。

 レオンは聖銀灯に火を入れた。

 淡い青白い光が、階段を照らす。

 地上の月光は、数歩下りただけで届かなくなった。

     *

 地下への階段は、思ったより長かった。

 石段はところどころ崩れ、壁には古い聖句が刻まれている。

 ――罪は水に流れず、石に残る。

 ――嘘は舌に宿らず、骨に宿る。

 ――神は地上を照らし、地下で人を待つ。

 レオンは足を止め、その最後の一文を指でなぞった。

 今の聖教会では使われない文言だ。

 古い。

 少なくとも百年以上前。

 この地下区画は、王都の表の歴史よりもずっと長く、何かを抱えている。

 階段を下りきると、狭い通路に出た。

 左右には水路が走っている。水はほとんど流れておらず、黒い膜のように溜まっていた。天井は低く、場所によっては屈まなければ進めない。壁の隙間から根が伸び、石と石の間を割っている。

 地図を見る。

 旧聖堂までは、三つの分岐を越える必要がある。

 最初の分岐を右。

 二つ目を左。

 三つ目は水路を渡って、封印扉の先。

 レオンは歩き始めた。

 足音が響く。

 水音が返る。

 まるで、誰かが少し遅れて後ろを歩いているようだった。

 もちろん、振り返っても誰もいない。

 だがレオンは警戒を解かなかった。

 昼の尾行者。

 執務室に地図を置いた人物。

 そして、この地下区画を管理している何者か。

 自分が一人だと考えるのは、あまりに楽観的だ。

 一つ目の分岐を右へ曲がる。

 壁には、王家の古い紋章が刻まれていた。

 今の王家紋章とは少し違う。王冠と剣の形が古く、周囲に七つの星がある。

 七つ。

 レオンはその数を記憶に留めた。

 この国では、七という数字はよく使われる。

 七聖人。

 七つの封印。

 七日間の祈り。

 聖女セラフィーナの処刑まで、七日。

 偶然か。

 今はまだ分からない。

 二つ目の分岐を左へ曲がると、空気が変わった。

 水路の匂いに、焼けた香の匂いが混じっている。

 古い礼拝堂に残る匂いだ。

 使われなくなって久しいはずなのに、香の匂いが残っている。

 いや。

 残っているのではない。

 最近、使われた。

 レオンは聖銀灯を低く掲げ、床を見た。

 足跡がある。

 乾いた泥。

 数人分。

 王都地下の古い泥ではない。地上から入った者の靴跡だ。しかも新しい。

 少なくとも、この一週間以内。

 レオンは短剣の柄に手を添えた。

 地図の赤い印に近づくにつれ、壁の聖句が増えていく。

 だが、途中から文字が削られていた。

 意図的に。

 何かの名前。

 何かの祈り。

 それを隠すために、石壁ごと削り取った跡がある。

 レオンは顔を近づけた。

 削り残しの文字が、わずかに読める。

 ――器。

「……器?」

 勇者ユリウスは、裁判で聖女が魔王に祈っていたと証言した。

 宮廷魔術師エルネストは、セラフィーナを魔王の器と呼んだ。

 そして、この地下の古い聖句にも、器という言葉がある。

 点が増える。

 線になるには、まだ足りない。

 三つ目の分岐に着いた。

 地図では、ここで水路を渡ることになっている。

 だが橋はなかった。

 崩れたのではない。

 最初から、橋を外せる構造だったようだ。対岸に、跳ね橋の金具だけが残っている。

 水路の幅は二間ほど。

 跳べない距離ではないが、足場は濡れている。失敗すれば水に落ちる。深さは分からない。底に何があるかも分からない。

 レオンは周囲を見た。

 壁に古い鎖が垂れている。

 鎖は対岸の跳ね橋機構へ繋がっているようだった。

 引いてみる。

 重い。

 錆びついている。

 だが動く。

 全身の力を使って引くと、対岸の石壁から、半ば腐った木板が下りてきた。ぎしりと嫌な音を立て、細い橋が水路の上にかかる。

 人一人なら渡れる。

 ただし、信用はできない。

 レオンは一歩ずつ橋を渡った。

 板が軋む。

 水面が揺れる。

 青白い灯りが黒い水に映る。

 その水面の奥に、白いものが見えた。

 骨かと思った。

 だが違う。

 古い仮面だった。

 聖職者が儀式で使う、顔の上半分だけを覆う白い仮面。

 水底に、いくつも沈んでいる。

 誰が。

 何のために。

 レオンは渡りきり、封印扉の前に立った。

 扉は聖銀で縁取られていた。

 中央には古い聖印。

 その周囲には、七つの小さな窪みがある。

 鍵穴はない。

 代わりに、血判を押すための皿がある。

「王族用か」

 血統認証。

 古い王家の地下区画には、こうした扉がある。王族の血、あるいは王家から認められた者の血に反応する仕組みだ。

 レオンに王族の血はない。

 だが異端審問官の認可印には、王家から与えられた審問権限の魔術署名が刻まれている。

 通るかどうかは賭けだった。

 レオンは認可印を取り出し、皿に押し当てた。

 反応なし。

「やはり駄目か」

 短剣で親指を浅く切る。

 血を一滴、認可印に落とした。

 それから再び皿へ押し当てる。

 認可印の魔術署名と、審問官本人の血。

 王家が異端審問庁に委任した権限を、無理やり古い扉に認識させる。

 数秒。

 何も起きない。

 失敗か。

 そう思った瞬間、七つの窪みが順に青白く光った。

 重い音を立て、扉が開いていく。

 奥から、冷たい空気が流れ出した。

 水路の湿気とは違う。

 石室に長く閉じ込められていた空気。

 そして、死の匂い。

 レオンは聖銀灯を掲げ、扉の奥へ入った。

     *

 旧聖堂は、地下に沈んだ墓のようだった。

 天井は高く、崩れかけた尖頭アーチが連なっている。壁には古い聖画が描かれていたが、顔の部分だけが削られている。祭壇はひび割れ、聖杯は倒れ、燭台には燃え尽きた蝋が黒く固まっていた。

 誰も祈らなくなった場所。

 いや。

 祈りを捨てられた場所。

 レオンはゆっくりと中へ進んだ。

 床には聖銀粉が散っている。

 古いものと新しいものが混ざっていた。

 聖銀粉は、封印術や浄化儀式に使われる。だがこれほど大量に撒くのは、普通ではない。何かを清めるためというより、何かを隠すための量だ。

 祭壇の奥に、布で覆われたものがあった。

 大きさは、人一人分。

 レオンは足を止めた。

 呼吸を整える。

 短剣を抜く。

 周囲に気配はない。

 だが、ここに至るまでに誰かの足跡があった。

 この布をかけた者がいる。

 レオンは布の端を掴んだ。

 古い封印布だ。

 聖教会で使われるもの。

 ただし、本来なら死体ではなく、異端術式の道具を包むための布である。

 ゆっくりとめくる。

 白い骨が現れた。

 人骨。

 成人男性。

 仰向けではなく、横向きに近い形で固まっている。

 両手は胸元に押しつけられ、指の一部が欠けていた。衣服はほとんど腐り落ちているが、腰のあたりに金属製の剣帯が残っている。

 その剣帯に、小さな紋章がついていた。

 盾の中に、斜めの白狼。

 フォード家の紋章。

 騎士ライネル・フォード。

 魔王城で死んだはずの男。

 その遺体が、王都地下旧聖堂にあった。

「見つけたぞ」

 レオンは低く呟いた。

 その声は、旧聖堂の天井に吸われて消えた。

 彼は膝をつき、遺体を観察した。

 審問庁には検死官もいる。レオンは専門職ではない。だが、死体の基礎観察は叩き込まれている。

 まず頭蓋。

 大きな損傷はない。

 魔族の爪や牙による破壊痕もない。

 胸部。

 肋骨の一部に損傷。

 聖銀灯を近づける。

 胸骨周辺に、明確な刺突痕が三つ。

 細身の刃。

 人間用の短剣か、儀礼剣。

 魔族の武器ではない。

 刺された方向は前方やや下から。

 ただし骨の角度を見る限り、被害者は自由に動ける状態ではなかった可能性が高い。

 拘束。

 あるいは背後から押さえられていた。

 レオンは遺体の手首を見た。

 骨に薄い黒ずみが残っている。

 金属による圧迫痕。

 枷。

 ライネルは拘束されていた。

 魔王城で戦死した騎士ではない。

 王都地下で拘束され、刃物で刺され、ここに隠された男だ。

 レオンは奥歯を噛んだ。

 怒りではない。

 少なくとも、そう自分に言い聞かせた。

 必要なのは観察だ。

 感情ではない。

 彼は遺体の指先を見た。

 右手の人差し指と中指に、白い粉がこびりついている。

 聖銀粉。

 この旧聖堂に撒かれているものと同じか。

 いや、少し違う。

 粒が細かい。

 儀式用の精製聖銀粉。

 王都地下で使われる封印術のものだ。

 一方で、魔王城の崩落現場であれば、黒灰が付着しているはずだった。魔王城の石材は魔力に焼かれて黒く炭化する。討伐隊帰還時の記録にも、勇者ユリウスと魔術師エルネストの衣服には黒灰が付着していたとある。

 だがライネルの指に、黒灰はない。

 魔王城で死んでいない。

 この骨は、そう証言していた。

 レオンは遺体の周囲を調べた。

 祭壇の裏側。

 ひび割れた石床。

 倒れた燭台。

 その下に、小さな金属片が落ちていた。

 拾い上げる。

 剣の鍔飾りの一部。

 そこにもフォード家の紋章が刻まれている。

 ライネルの剣は、魔王城で焼失したと記録されていた。

 だが少なくとも一部はここにある。

 記録が嘘をついている。

 いや、記録を書いた者が嘘をついた。

 レオンは金属片を布に包み、外套の内側へしまった。

 遺体そのものは持ち帰れない。

 持ち帰れば、庁舎に着く前に奪われる可能性が高い。

 正式な検死に回すには、あまりにも敵が多い。

 だから今は、観察し、覚える。

 証拠の一部だけを持つ。

 そして生きて帰る。

 その時だった。

 旧聖堂の入口の方で、かすかな音がした。

 石を踏む音。

 一人ではない。

 レオンは聖銀灯の火を絞った。

 光が小さくなる。

 祭壇の陰に身を寄せる。

 入口から、黒い外套の男たちが入ってきた。

 三人。

 顔は布で覆っている。

 手には短剣。

 王国騎士団式の短剣だ。

 ただし、騎士団の紋章は隠されている。

「灯りがある」

 一人が言った。

「先に入られたか」

「審問官か?」

「他に誰がいる」

 レオンは息を殺した。

 やはり尾けられていた。

 いや、尾けられたというより、ここへ来ることを読まれていた。

 地図を置いた者とは別の勢力。

 ライネルの遺体を見られて困る者たち。

「遺体は?」

「確認しろ。必要なら処分する」

「今さら骨を?」

「命令だ。見つかったなら、ここごと焼く」

 レオンは短剣を握り直した。

 ここごと焼く。

 つまり、彼らは遺体の存在を知っている。

 ライネルがここにいることを知っていた。

 男の一人が祭壇へ近づく。

 もう隠れていられない。

 レオンは聖銀灯の火を最大にした。

 青白い光が旧聖堂に広がる。

「動くな」

 男たちが振り向いた。

 レオンは祭壇の横に立っていた。

 左手に聖銀灯。

 右手に短剣。

 足元には、封印布の下から覗く白骨。

「王国異端審問庁、レオン・アルバート。ここは旧王都地下区画だ。所属と目的を名乗れ」

 男たちは答えなかった。

 代わりに、短剣を構えた。

「名乗らないなら、不審者として拘束する」

「審問官殿」

 中央の男が低く笑った。

「一人で来る場所ではありませんでしたな」

「同感だ。お前たちは三人で来るべきではなかった」

 男が踏み込んだ。

 速い。

 王国騎士の剣術。

 短剣を逆手に持ち、喉ではなく手首を狙う。殺すより先に武器を落とさせる動きだ。尋問のために生け捕る気か。

 レオンは半歩下がり、聖銀灯を男の目の前に掲げた。

 青白い光が爆ぜる。

「ぐっ」

 男が視界を奪われる。

 レオンはその手首を打ち、短剣を落とさせた。

 同時に二人目が横から来る。

 レオンは落ちた短剣を蹴り上げ、二人目の足元へ飛ばした。男が一瞬動きを乱す。その隙に、レオンは祭壇を背にして位置を変えた。

 まともに戦えば不利だ。

 相手は訓練された剣士三人。

 こちらは審問官一人。

 勝つ必要はない。

 逃げる必要がある。

 そして、地図と金属片を奪われてはならない。

「殺すな!」

 三人目が叫んだ。

「審問官は生かして連れていく!」

 生かして。

 つまり、自分を誰かの前へ連れていく命令を受けている。

 誰の前へ?

 レオンは男たちの動きを見た。

 騎士団式。

 だが、正規騎士団ではない。

 動きに癖がある。

 王都近衛でもない。

 もっと私兵的だ。

 中央の男の袖口がめくれた。

 そこに小さな刺繍が見えた。

 銀の鷲。

 ギルベルト王弟の私兵紋。

「なるほど」

 レオンは低く言った。

「王弟殿下は、ずいぶん地下がお好きらしい」

 男たちの動きが一瞬止まった。

 図星。

 その一瞬で十分だった。

 レオンは聖銀灯を床へ叩きつけた。

 灯が割れ、青白い火花が聖銀粉に触れる。

 旧聖堂の床に撒かれていた粉が、一斉に光った。

 目くらまし。

 同時に、古い封印文が反応し、天井から白い埃が降った。

「くそっ!」

 男たちが怯む。

 レオンは祭壇脇の細い通路へ飛び込んだ。

 地図にはない道だった。

 だが旧聖堂の造りからすれば、司祭用の控え廊下があるはずだ。勘に近い判断だったが、当たった。

 狭い廊下。

 崩れかけた壁。

 背後から足音。

 追ってくる。

 レオンは走った。

 地下で走るのは危険だ。

 足元が悪い。

 息が乱れる。

 分岐を見落とす。

 だが今は走るしかない。

 背後から短剣が飛んだ。

 肩をかすめる。

 外套が裂け、熱い痛みが走る。

 浅い。

 無視できる。

 前方に木扉が見えた。

 腐りかけている。

 蹴破る。

 その先は、小さな祭具室だった。

 行き止まり。

 追手が廊下の向こうで笑った。

「袋小路だ、審問官殿」

 レオンは部屋を見回した。

 祭具棚。

 朽ちた聖衣。

 倒れた箱。

 床には排水口。

 狭い。

 人は通れない。

 いや。

 蓋が新しい。

 レオンは排水口の鉄蓋に手をかけた。

 開く。

 下に縦穴。

 ひどい臭気。

 旧水路へ繋がっている。

 迷う時間はなかった。

 追手が部屋に踏み込む寸前、レオンは縦穴へ身を滑らせた。

 落下。

 肩を壁に打つ。

 背中を石に擦る。

 数秒後、浅い水に叩きつけられた。

 息が詰まる。

 汚水が口に入る。

 だが骨は折れていない。

 上から怒声が聞こえた。

「下だ!」

「追え!」

 レオンは立ち上がり、水路を走った。

 肩が痛む。

 膝も打った。

 だが動ける。

 地図は濡れていない。

 外套の内側の金属片も無事だ。

 後ろから追手が降りてくる音がする。

 レオンは水路の分岐を選び、右へ曲がった。

 今度は地図が使えない。

 ここは旧地図にもない排水路だ。

 だが水の流れがある。

 流れは外へ向かう。

 ならば、いずれ新水路へ出る。

 背後の足音が近づく。

 レオンは走りながら、壁の封印文を見た。

 古い。

 ほとんど死んでいる。

 だが完全には消えていない。

 短剣で親指の傷を開き、壁の文字に血をこすりつける。

 審問官の血と認可印の魔力。

 封印文が弱く光る。

 背後で水が跳ねた。

 追手が角を曲がる。

 その瞬間、壁の封印文が弾けた。

 崩落。

 天井の一部が落ち、水路を塞ぐ。

「ぐあっ!」

 男たちの悲鳴。

 殺してはいない。

 おそらく。

 だが足止めにはなった。

 レオンはさらに進み、鉄格子を見つけた。

 新水路との接続部。

 格子には鍵がある。

 錆びている。

 開錠する時間はない。

 レオンは短剣を差し込み、てこの要領で力をかけた。

 一本、外れる。

 隙間は狭い。

 外套が引っかかる。

 無理やり抜ける。

 布が破れ、肩の傷がまた開いた。

 それでも通り抜けた。

 新水路に出ると、遠くに明かりが見えた。

 地上へ続く管理口だ。

 レオンは最後の力でそこまで歩き、梯子を上った。

 蓋を押し上げる。

 冷たい夜気。

 星。

 王都の裏路地。

 地上に戻った瞬間、膝が崩れかけた。

 壁に手をつき、息を整える。

 左肩から血が滲んでいる。

 全身が汚水と泥に濡れている。

 だが、生きている。

 そして、見た。

 ライネル・フォードの遺体。

 王都地下旧聖堂に隠された、騎士の白骨。

 王弟ギルベルトの私兵。

 聖教会の封印布。

 魔王城ではなく、人間の刃による刺殺。

 真実は、魔王城ではなく王都にあった。

     *

 夜明け前、レオンは異端審問庁へ戻った。

 正門ではなく、裏門から入った。

 夜番の審問官に見つかれば説明が面倒だったが、幸い、庁舎内は静まり返っている。彼は自室に入り、扉を閉め、ようやく椅子に座った。

 痛みが遅れてやってきた。

 肩。

 背中。

 膝。

 頬にも小さな切り傷がある。

 だが眠るわけにはいかない。

 記憶が新しいうちに、記録しなければならない。

 レオンは紙を取り出し、見たものを書いた。

 旧聖堂の構造。

 封印扉。

 遺体の位置。

 骨の損傷。

 刺突痕三か所。

 手首の拘束痕。

 聖銀粉。

 フォード家の剣帯。

 襲撃者三名。

 王弟私兵紋。

 逃走経路。

 証拠として持ち帰った鍔飾り。

 書き終える頃には、窓の外が薄く白み始めていた。

 レオンは布に包んだ金属片を机に置いた。

 小さな破片。

 だが、それは裁判記録の嘘を砕く最初の刃だった。

 その時、扉が叩かれた。

「入れ」

 入ってきたのは、アーヴィン所長だった。

 朝とは思えないほど険しい顔をしている。

 彼はレオンの姿を見て、眉間に皺を寄せた。

「お前、その格好は何だ」

「転びました」

「どこで」

「地下で」

「正直すぎて腹が立つな」

 アーヴィンは扉を閉めた。

 それから机の上の金属片を見る。

「行ったのか」

「はい」

「旧聖堂へ」

「ご存じだったのですね」

「場所だけはな」

「ライネル・フォードの遺体がありました」

 アーヴィンは目を閉じた。

 驚いてはいなかった。

 だが、苦しそうだった。

「そうか」

「所長」

「言うな」

「彼は魔王城で死んでいません。王都で殺されています。人間の刃で。おそらく拘束された状態で」

「……」

「襲撃も受けました。王弟ギルベルトの私兵です」

「証拠は」

「袖口の紋を見ました」

「弱い」

「剣帯の破片があります。フォード家のものです」

「それだけでは、正式裁判は覆らない」

「分かっています」

「なら、なぜ笑っている」

 レオンは自分の口元に触れた。

 笑っていたらしい。

 疲労のせいか。

 痛みのせいか。

 それとも、ようやく嘘の端を掴んだからか。

「骨は嘘をつきません」

 レオンは言った。

「紙は書き換えられる。証言は強要できる。記録水晶も都合よく切り取れる。だが、骨に残った傷は消せない」

「骨ごと消されたらどうする」

「だから、急ぐ必要があります」

 アーヴィンは低く息を吐いた。

「お前は、自分がどれほど危うい場所に踏み込んだか分かっているのか」

「はい」

「分かっていない。分かっていたら、そんな目はしない」

「どんな目ですか」

「若い頃の私が、嫌いだった目だ」

 レオンは答えなかった。

 アーヴィンは机の上に一枚の紙を置いた。

「今朝、王宮から通達が来た。聖女への面会制限がさらに強化される。今後、審問内容は事前申請制だ」

「私を止めるためですね」

「そうだろうな」

「では、今日中に会います」

「話を聞いていたか?」

「事前申請が必要になる前なら可能です」

「屁理屈を言うな」

「審問官ですので」

 アーヴィンはしばらくレオンを睨んでいたが、やがて諦めたように肩を落とした。

「一度だけだ」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。私は許可していない。見なかったことにするだけだ」

「十分です」

「それから」

 アーヴィンは扉へ向かいかけ、足を止めた。

「ライネルの家族を当たれ」

「家族?」

「妹がいる。エリス・フォード。兄の死後、屋敷を追われ、今は南区の古い借家に住んでいる」

「なぜそれを私に」

「骨だけでは足りない。生きている証人を探せ」

 アーヴィンはそれだけ言って出ていった。

 レオンは机の上の金属片を見た。

 ライネル・フォード。

 魔王城から帰らなかった騎士。

 いや。

 魔王城で死んだことにされた騎士。

 彼の声を聞くには、まだ証拠が足りない。

 妹。

 エリス・フォード。

 レオンは血の滲む肩を押さえ、立ち上がった。

     *

 南区は、王都の中でも古い地区だった。

 かつては下級貴族や退役騎士の屋敷が並んでいたが、今は多くが商人に売られ、あるいは分割され、安い借家になっている。道は狭く、建物は傾き、洗濯物が路地の上を渡っている。

 エリス・フォードの住まいは、その中でも奥まった一角にあった。

 小さな二階建ての家。

 庭はない。

 扉の塗装は剥げ、窓には内側から板が打たれている。

 警戒している。

 レオンが扉を叩くと、中で何かが倒れる音がした。

 しばらく沈黙。

 やがて、細い声が返った。

「どなたですか」

「王国異端審問庁、レオン・アルバート。ライネル・フォード卿の件で話がある」

 中で息を呑む気配。

「お帰りください」

「あなたに危害を加えるつもりはない」

「そう言った人たちは、皆そう言いました」

「なら、扉越しでいい。聞いてほしい。あなたの兄は、魔王城で死んでいない可能性がある」

 沈黙。

 長い沈黙だった。

 やがて、扉の鍵が一つ外れた。

 だが扉は少ししか開かない。

 隙間から、若い女の顔が覗いた。

 年齢は十七、八。

 ライネルの妹なら、ずいぶん年が離れている。

 くすんだ金髪。

 青白い顔。

 目の下には眠れていない影がある。

「兄を、知っているのですか」

「記録で」

「記録には、兄は魔王城で死んだとあるはずです」

「その記録が嘘かもしれない」

 エリスの手が震えた。

 扉の隙間が、少しだけ広がる。

「入ってください」

 家の中は質素だった。

 かつて騎士家の娘だった者の部屋とは思えない。家具は少なく、暖炉には火がない。だが机の上だけは整えられており、古い剣飾りと花が置かれていた。

 兄のための、小さな祭壇。

 レオンはその前で一礼した。

 エリスは驚いたように見た。

「審問官の方は、死者に礼をするのですね」

「死者は嘘をつかない。尊重すべき相手だ」

 エリスは少しだけ目を伏せた。

「兄は……本当に、魔王城ではない場所で?」

「まだ正式には言えない。だが、王都地下でフォード家の剣帯を見つけた」

 レオンは布を開き、金属片を見せた。

 エリスはそれを見た瞬間、口元を押さえた。

「兄のものです」

「分かるのか」

「はい。これは、私が出立前に磨きました。ここの傷……幼い頃、兄が私に剣を見せてくれた時、落としてついた傷です」

 彼女の目に涙が浮かんだ。

 だが泣き崩れはしなかった。

 泣くことにも疲れた者の顔だった。

「兄は、遺体も戻りませんでした。剣も、鎧も、何も。魔王城で焼けたから仕方がないと……そう言われて」

「誰に」

「騎士団の方です。名前は分かりません。王弟殿下の使いだと」

 また、ギルベルト。

 レオンは静かに聞いた。

「ライネル卿から、出立前に何か預かっていないか」

 エリスは怯えたように顔を上げた。

「なぜ、それを」

「彼は王都内部に疑いを持っていた可能性がある」

「……」

「あなたは何かを知っている」

 エリスは迷っていた。

 当然だ。

 兄の死後、彼女は脅されている。

 審問官を信用しろという方が無理だ。

 レオンは言った。

「あなたが話せば危険になる。だが話さなければ、あなたの兄は裏切り者を止めようとして死んだ騎士ではなく、聖女に見殺しにされた哀れな犠牲者として記録に残る」

 エリスの瞳に、痛みが走った。

「兄は、聖女様を信じていました」

「なぜ」

「最後の手紙に、そう書いてありました」

 エリスは立ち上がり、床板の一部を外した。

 そこから、小さな金属筒を取り出す。

 中には、古い手紙が入っていた。

 彼女はそれを両手で抱え、しばらく迷ってからレオンに差し出した。

「兄が、討伐に向かう前に送ってくれたものです。誰にも見せるなと書いてありました。でも……もう、私だけが持っていても、兄は帰ってこないから」

 レオンは手紙を開いた。

 筆跡は力強い。

 だが、急いで書かれている。

 エリスへ。

 もし私が戻らなければ、この手紙は焼け。

 だが、もし王都で聖女様が裁かれるようなことがあれば、その時だけは信頼できる者に渡せ。

 聖女様を疑うな。

 あの方は、誰よりも王国を救おうとしている。

 我々が向かうべき敵は、魔王城だけにいるのではない。

 王都に戻ったら、まず地下の記録を確かめる。

 旧聖堂。

 七つの柱。

 そして――。

 そこで文章は途切れていた。

 続きの紙がない。

「続きは?」

「ありません。届いた時から、そこまででした」

「封は?」

「破られていました。誰かが先に読んだのかもしれません」

 旧聖堂。

 七つの柱。

 また七。

 レオンは手紙を見つめた。

 ライネルは、魔王城へ向かう前から旧聖堂を知っていた。

 つまり彼は、討伐隊の任務そのものに疑いを持っていた。

「この手紙を預かりたい」

 エリスは唇を噛んだ。

「それを渡したら、私は何を持って兄を覚えていればいいのですか」

 レオンは答えに詰まった。

 正論だけでは人は動かない。

 証拠として必要だ。

 だが、彼女にとっては兄の最後の声だ。

「では、今は写しだけ取る」

「写しは禁止されているのでは?」

「正式証拠としてはな」

 レオンがそう言った時だった。

 外で、何かが割れる音がした。

 窓。

 次の瞬間、油の匂いが広がった。

 炎。

「伏せろ!」

 レオンはエリスを床に押し倒した。

 窓から火のついた瓶が投げ込まれ、壁に当たって砕ける。油が散り、炎が一気に広がった。

 二本目。

 三本目。

 外から足音。

「手紙を燃やせ!」

 男の声。

 レオンは手紙を掴み、外套の内側へ入れた。

「裏口は?」

「奥に!」

「走れ!」

 煙が広がる。

 エリスは咳き込みながら立ち上がった。

 レオンは彼女を庇い、奥の扉へ向かう。

 背後で梁が燃え始めた。

 小さな祭壇に火が移る。

 剣飾りが赤く照らされる。

 エリスが振り返ろうとした。

「駄目だ」

「兄の――」

「生きろ。兄が守りたかったものを燃やすな」

 その言葉で、彼女は歯を食いしばって前を向いた。

 裏口を蹴破る。

 路地へ出る。

 だがそこにも男が二人いた。

 黒い外套。

 顔を隠している。

 レオンは短剣を抜いた。

 肩は痛む。

 体力も戻っていない。

 だが、ここで退くわけにはいかない。

「その女を渡せ」

「断る」

「手紙もだ」

「やはり、それが目的か」

 男が踏み込む。

 昼ではなく、夜明け前。

 周囲に人は少ない。

 レオンはエリスを背後に庇い、最初の一撃を受け流した。

 相手は昨日の地下の男たちほど強くない。

 暗殺者というより、雇われた荒事師。

 だが人数がいる。

 一人目の膝を蹴り、倒す。

 二人目の短剣を弾く。

 その隙に、燃え盛る家の中から、さらに男が出てくる。

 まずい。

 エリスを抱えて逃げるには、道が狭い。

 その時、路地の入口から鋭い声が響いた。

「王国異端審問庁だ! 武器を捨てろ!」

 アーヴィン所長の部下たちだった。

 数人の審問官が駆け込んでくる。

 男たちは舌打ちし、散り散りに逃げた。

 レオンは追わなかった。

 今はエリスが先だ。

 燃える家から、黒い煙が上がっている。

 近隣の住民が騒ぎ始め、誰かが水を持って走ってきた。

 エリスは呆然と、自分の家が燃えるのを見ていた。

 レオンは外套の内側から手紙を取り出した。

 端が焦げている。

 煙と熱で、半分ほど黒くなっていた。

 だが、文字は一部残っている。

 聖女様を疑うな。

 旧聖堂。

 七つの柱。

 そして、焼けた端に、かろうじて読める文字があった。

 ――魔王は、人の手で作られた。

 レオンはその一文を見つめた。

 朝日が、燃える家の煙を赤く染めていく。

 魔王は、人の手で作られた。

 その言葉は、これまでのすべてを反転させる刃だった。

     *

 その日の夕方、レオンは再び地下牢へ向かった。

 肩の傷は応急処置だけで済ませた。

 エリスは異端審問庁の保護下に置いた。安全とは言えないが、少なくとも一人で家にいるよりはましだ。彼女は兄の手紙が半分焼けたことを悔やんでいたが、最後に残った一文を聞くと、泣かなかった。

 ただ、こう言った。

 兄は、無駄に死んだのではないのですね。

 レオンは答えられなかった。

 無駄ではない。

 そう言うのは簡単だ。

 だが死んだ者に、死の意味を与えるのは生者の傲慢でもある。

 だから彼は言った。

 無駄にしない。

 それだけを約束した。

 セラフィーナの牢の前では、昨日よりさらに監視が増えていた。

 聖教会の司祭が二人。

 看守が四人。

 記録官が一人。

 レオンを見る目は、明らかに警戒している。

 それでも、審問官としての権限はまだ生きていた。

 扉が開く。

 セラフィーナは立っていた。

 まるで、レオンが来ることを知っていたように。

 彼の肩の包帯を見て、彼女の顔色が変わる。

「怪我を」

「大したことはない」

「旧聖堂へ行ったのですね」

「行った」

 記録官の筆が走る。

 レオンは鉄格子の前に立った。

「ライネル・フォードの遺体を見つけた」

 セラフィーナは目を閉じた。

 長い沈黙。

 そして、唇が震えた。

「ライネル卿まで……」

 小さな声だった。

 祈りのようでもあり、懺悔のようでもあった。

「まで、とは何だ」

 レオンは問うた。

 セラフィーナははっとして口を閉ざした。

 遅い。

 もう聞こえた。

「ライネルだけではないのか。ほかにも死んだ者がいる。監察官か」

「……」

「魔王城で何が起きた。いや、王都で何が起きた」

「話せません」

「魔王は、人の手で作られた」

 その一文を告げた瞬間、セラフィーナの瞳が大きく揺れた。

 今度は隠せなかった。

 明確な動揺。

 恐怖。

 そして、深い悲しみ。

「誰から……」

「ライネルの手紙だ。半分は燃えた。だが、その一文は残った」

 セラフィーナは鉄格子に手をかけた。

 聖銀の枷が光り、彼女の指先を焼く。

 それでも離さない。

「エリス様は」

「生きている。保護した」

 セラフィーナは、その場に崩れ落ちそうになった。

 安心したのだ。

 自分の命にはあれほど無関心だったくせに。

 他人の無事には、こんなにも揺れる。

 レオンは低く言った。

「あなたは知っていたのか。ライネルが王都で殺されたことを」

「……知っていたわけではありません」

「では、予想していた」

「彼は、真実に近づいていました」

「真実とは」

「言えません」

「またそれか」

「レオン」

 セラフィーナは顔を上げた。

 瞳に涙はない。

 だが、涙よりも重いものが宿っていた。

「どうか、もうこれ以上は」

「無理だ」

「あなたも殺されます」

「もう殺されかけた」

「次は、本当に死にます」

「その前に聞く。魔王は何だ」

 セラフィーナは答えない。

「魔王ゼルヴァは、人間が作ったのか」

 沈黙。

「王家か」

 沈黙。

「聖教会か」

 彼女の唇がわずかに動いた。

「レオン」

「何だ」

「あなたが真実を知れば、王国を憎むことになります」

「それは、知ってから決める」

「憎しみは、人を簡単に正義にします」

「嘘は、人を簡単に犠牲にする」

 セラフィーナは言葉を失った。

 レオンは鉄格子越しに、彼女を見た。

「あなたは、まだ私を止めたいのか」

「はい」

「なぜ」

「あなたに、生きていてほしいからです」

 記録官の筆が止まった。

 看守たちも、気まずそうに視線を逸らした。

 レオンは一瞬だけ、呼吸を忘れた。

 それは聖女としての慈悲か。

 三年前に救った命への責任か。

 あるいは、彼女自身にも分からない感情か。

 今は考えるべきではない。

「なら、話せ」

 レオンは静かに言った。

「私を生かしたいなら、私が死なずに済むだけの情報を渡せ」

 セラフィーナは目を伏せた。

 長い沈黙。

 やがて彼女は、小さく言った。

「魔王城で見たものを、勇者様は正しく覚えていません」

「ユリウスが?」

「はい」

「どういう意味だ」

「魔王城の最奥で、私たちは魔王を見ました。でも、そこにいたのは……人類を滅ぼす怪物ではありませんでした」

 レオンは息を殺した。

 セラフィーナは続けようとして、喉を押さえた。

 黒い首輪が淡く光る。

 封言の術式。

 ある条件に触れる言葉を封じる拘束具だ。

 彼女は苦しそうに咳き込んだ。

「もういい」

「ごめんなさい」

「謝るな」

「私は……」

 セラフィーナは苦しげに息を整え、かろうじて言った。

「ライネル卿の死を、無駄にしないでください」

「そのために来た」

「そして、エリス様を守ってください」

「約束する」

「それから」

 セラフィーナはレオンを見た。

「勇者ユリウス様に会ってください」

 レオンの目が細くなる。

「彼は裁判であなたを告発した」

「はい」

「あなたを死刑に追い込んだ」

「はい」

「それでも?」

「それでも、彼はすべてを知って嘘をついたわけではありません」

「何を知っている」

「魔王城の最奥で、彼が見たものです」

 封言の首輪が再び光る。

 セラフィーナはそれ以上言えなかった。

 だが十分だった。

 次に向かうべき場所は決まった。

 勇者ユリウス。

 救国の英雄。

 聖女を告発した男。

 そして、おそらく真実の一部を見た男。

 レオンは踵を返した。

「レオン」

 セラフィーナが呼び止めた。

「今度は何だ」

「あなたは、私を嫌いになりましたか」

 問いは静かだった。

 だが、あまりに人間らしかった。

 聖女でも、死刑囚でも、魔王の器でもない。

 ただ、自分が嘘をついていることを知っている一人の女の問いだった。

 レオンは少しだけ考えた。

「嫌いになるには、まだ情報が足りない」

 セラフィーナは、驚いたように瞬きをした。

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 今度の笑みは、裁判記録の中の悲しい安堵とは違っていた。

 かすかに、困ったような笑みだった。

「審問官らしい答えですね」

「そうか」

「はい」

 扉が閉まる。

 レオンは地下牢を後にした。

 背後で、聖銀の鍵が重く鳴る。

 地上へ向かう階段を上りながら、彼は次の標的の名を頭の中で繰り返した。

 勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。

 彼は何を見た。

 何を隠した。

 なぜ、聖女を裏切った。

     *

 その頃。

 王都地下旧聖堂に、白い祭服の男が立っていた。

 聖務卿オズワルド。

 彼は、封印布をめくられた白骨を見下ろしていた。

 周囲には聖教会の司祭たちが控えている。誰も声を発しない。

 オズワルドはゆっくりと膝をつき、ライネルの骨に触れた。

 表情はない。

 怒りも、悲しみも、焦りも。

 ただ、静かな計算だけがあった。

「見つかったか」

 彼は呟いた。

 部下の一人が頭を下げる。

「申し訳ありません。審問官は逃走しました。遺体の一部、あるいは遺品を持ち去った可能性があります」

「王弟殿下の兵は?」

「失敗を恐れ、こちらへの報告前に撤収したようです」

「愚かな」

 オズワルドは立ち上がった。

 白い祭服の裾が、聖銀粉を払う。

「レオン・アルバート」

 その名を、彼は静かに口にした。

「感情を持たない秤、か」

 司祭の一人が言った。

「いかがなさいますか」

「止める」

「処分を?」

「まだ早い」

 オズワルドは旧聖堂の奥、削られた聖句の壁を見た。

「彼は真実に近づいている。だが、真実を理解してはいない。理解していない者を殺せば、周囲が騒ぐ」

「では」

「まずは孤立させる。彼が聖女に惑わされ、記録を捏造し、王国に反逆しようとしているという形を作れ」

「異端審問庁へ圧力を?」

「王家にも伝えよ。特にギルベルト殿下には、私兵の軽率な行動を慎むように」

 オズワルドの声は穏やかだった。

 穏やかだからこそ、部下たちは深く頭を下げる。

「そして、ライネルの遺体は」

「処分いたしますか」

「いや」

 オズワルドは白骨を見た。

「今さら骨を焼いても遅い。むしろ、ここで消せば消したことが証拠になる」

「では、どうなさいますか」

「聖別する」

「聖別?」

「ライネル卿は、魔王因子に侵され、旧聖堂まで逃げ延びて死んだ。そういう記録を作る」

 司祭たちは沈黙した。

 死人の死に方を変える。

 それは聖職者のすることではない。

 だが、誰も異議を唱えなかった。

 オズワルドは祭壇を見上げた。

「処刑まで、あと五日」

 その声は祈りのようだった。

「遺体が見つかったなら、審問官を止めなければならない」

 旧聖堂の奥で、誰も顔を描かれていない聖画が、黙って彼らを見下ろしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ