第2章 聖女はなぜ笑ったか――沈黙する死刑囚と、安堵した王弟
翌朝、王都エルディアには雨が降っていた。
細い雨だった。
石畳を叩くほど強くはない。けれど、外套の肩に染み込み、髪を湿らせ、広場に集まる人々の気分を確実に重くしていく雨だ。
中央広場の処刑台は、夜のうちにさらに形を整えていた。
黒い木枠の上に、断罪剣を据えるための台座が運び込まれている。台座にはまだ布がかけられていたが、その輪郭だけで用途は分かった。
首を落とすための装置。
つまり、聖女セラフィーナ・エルシアの最期の場所だ。
レオン・アルバートは、広場の端に立ち、その光景を見ていた。
雨粒が外套の襟を濡らす。
朝だというのに、広場にはすでに人がいた。露店の主人、通勤途中の書記官、教会へ向かう老女、そしてただ処刑台を見にきただけの者たち。彼らは互いに言葉を交わしながら、黒い木組みを見上げている。
「あれで聖女様を?」
「聖女様じゃない。裏切り者だ」
「でも、うちの子はあの方に治してもらったんだ。あの時、たしかに奇跡を……」
「奇跡を使える悪女だったんだろう。教会がそう言ってる」
「教会が間違えるはずないものね」
声は小さい。
誰も大声では語らない。
けれど、小声ほど毒はよく回る。
広場の掲示板には、新しい布告が貼られていた。
昨日までは判決の告示だけだった。今朝はその隣に、聖教会からの訓戒文が増えている。
――裏切りの聖女に祈るな。
――魔王因子を宿した者への同情は、災厄への扉である。
――聖女セラフィーナの名を祈りに用いることを禁ずる。
その文字を見た瞬間、レオンはひどく冷めた気分になった。
裁判は終わった。
判決も出た。
ならば本来、処刑までに必要なのは、死刑囚の管理と執行手続きだけである。
それなのに、聖教会は民衆の感情を先回りして潰しにかかっている。
聖女への同情を、異端の種として扱っている。
なぜ、そこまでする。
セラフィーナは、すでに死ぬことが決まっている。
死ぬ者を、ここまで恐れる理由は何だ。
「レオン」
背後から声をかけられた。
振り向くと、アーヴィン所長が立っていた。
傘も差さず、黒い外套の肩を雨に濡らしている。目元の皺は昨日より深く見えた。
「朝から処刑台見物か」
「仕事です」
「処刑台を見ることが?」
「民衆の反応を見ることが」
「相変わらず、嫌なところを見る」
「審問官ですので」
アーヴィンは小さく息を吐いた。
「昨日、地下牢へ行ったそうだな」
「最終審問のためです」
「何を聞いた」
「聖女は魔王との内通を否定しました」
「裁判では否認しなかった」
「はい」
「その差に意味があると思うのか」
「あります」
レオンは即答した。
アーヴィンの目が少し細くなる。
「レオン。昨日も言ったはずだ。これは再審ではない」
「分かっています」
「お前に与えられた権限は、処刑前の形式的な最終審問だけだ。判決の妥当性を調べ直す権限はない」
「分かっています」
「本当に分かっている顔ではないな」
レオンは黙った。
アーヴィンは処刑台へ視線を向けた。
雨に濡れた黒い木材は、まるで最初から血を吸って乾いたように暗かった。
「王家と聖教会の両方が、この処刑を急いでいる」
「なぜです」
「それを私に聞くな」
「所長も知らないのですか」
「知っていたとしても、お前に言うとは限らない」
レオンはアーヴィンの横顔を見た。
嘘をついているようには見えない。
だが、何も知らない顔でもなかった。
この人は、何かを知っている。
少なくとも、聖女処刑の裏に通常ではない力が働いていることを理解している。
「上から命令が出ている」
アーヴィンは低く言った。
「聖女への面会は、今後すべて記録官を同席させろ。単独面会は禁止だ」
「昨日は許可されました」
「昨日まではな」
「理由は」
「お前が、聞くべきではないことを聞いたからだろう」
「魔王との内通を否定したことですか」
「あるいは、ライネル・フォードの名を出したことかもしれない」
レオンの視線がわずかに動いた。
アーヴィンはそれを見逃さなかった。
「やはり、そこに引っかかったか」
「記録がおかしい」
「おかしい記録など、この庁舎にはいくらでもある」
「騎士ライネルの遺品目録は後日追記されています。死亡確認者は黒塗り。討伐隊の監察官の名も黒塗り。裁判記録として不自然です」
「不自然だからといって、掘っていいとは限らない」
「真実を隠すための記録なら、審問庁が存在する意味はありません」
アーヴィンは、わずかに苦い顔をした。
「若いな」
「年齢の問題ではありません」
「いや、年齢の問題だ。若い者は、真実を光だと思う。照らせばすべて救われると信じている」
「所長は違うと?」
「真実は火だ。照らすこともあるが、燃やすことのほうが多い」
「なら、嘘の中で腐るほうがいいと」
「そうは言っていない」
雨音が、二人の間に落ちた。
アーヴィンは懐から封筒を出し、レオンに渡した。
「今日の仕事だ」
「これは」
「裁判記録水晶の閲覧許可証。聖女の公開裁判を見直せる」
レオンは封筒を受け取った。
「再審ではないのでは」
「形式的な最終審問にも、過去記録の確認は必要だ」
「所長」
「勘違いするな。私はお前に再調査を命じたわけではない」
「はい」
「ただ、目を潰せとも命じていない」
そう言って、アーヴィンは背を向けた。
去り際、彼は振り返らずに言った。
「七日後に処刑は行われる。その予定は変わらない」
「はい」
「変わらない予定ほど、崩れた時に死人が出る。覚えておけ」
それだけ言い残し、アーヴィンは雨の中を歩いていった。
レオンは手元の封筒を見下ろした。
裁判記録水晶の閲覧許可証。
所長は止めたいのか。
進めたいのか。
どちらにも見えた。
だが少なくとも、一つだけ分かる。
この裁判には、所長でさえ正面から触れたがらない何かがある。
レオンは広場の処刑台をもう一度見た。
黒い木組みの上を、雨粒が滑り落ちていく。
処刑まで、あと六日。
*
王国異端審問庁の地下には、裁判記録庫がある。
通常の紙記録とは別に、重大事件の裁判は魔法水晶へ映像と音声を保存する。王族、貴族、大規模異端審問、国家反逆、魔術災害。後世に検証が必要と判断された裁判だけが、記録水晶として残される。
もっとも、検証されるとは限らない。
多くの場合、水晶はただ封印棚に収められ、埃をかぶる。
王国にとって重要なのは、真実を残すことではない。
真実を残したという形式を残すことだ。
記録庫の管理官は、レオンの許可証を見ると露骨に顔をしかめた。
「聖女裁判の記録水晶?」
「そうだ」
「今ですか」
「今だ」
「上から閲覧制限がかかっていますが」
「解除許可はここにある」
レオンは封筒から許可証を出した。
管理官はしぶしぶ確認し、奥の封印棚へ向かった。
棚には、黒い鉄枠に収められた水晶が並んでいる。それぞれに事件名、審問番号、判決日が刻まれていた。管理官は最奥の棚から、銀の鎖で封じられた水晶を取り出した。
水晶は拳ほどの大きさで、内部に白い靄が渦巻いている。
札にはこう記されていた。
聖女セラフィーナ・エルシア国家反逆裁判。
判決、死刑。
「閲覧室は三番を使ってください。なお、記録の複写は禁止です」
「分かっている」
「音声の書き起こしも禁止です」
「分かっている」
「閲覧内容を外部に漏らすことも」
「分かっている」
レオンが少しだけ視線を向けると、管理官は口を閉じた。
閲覧室は狭い石造りの部屋だった。
中央に円卓があり、その上に水晶を置くための台座がある。壁には防音と防視の封印が刻まれ、外部から覗くことも聞くこともできない構造になっていた。
レオンは水晶を台座に置き、許可証に刻まれた認可印を触れさせた。
水晶内部の白い靄が晴れていく。
次の瞬間、部屋の中に裁判場の映像が広がった。
王城大法廷。
高い天井。
赤い絨毯。
両側に並ぶ貴族と聖職者。
正面上段には王族席。
中央には被告人席。
そこに、セラフィーナが立っていた。
長い銀髪は、まだ切られていない。
白い聖衣を着ている。
ただし、その胸元にあるべき聖印は外され、両手には聖銀の枷が嵌められていた。
美しい。
けれど、疲れている。
映像の中の彼女は、何日も眠っていないような顔をしていた。それでも背筋は伸び、視線は静かで、誰かに怒りを向ける様子はない。
その姿が、むしろ法廷の空気を苛立たせているようだった。
人は、罪人が取り乱すことを期待する。
泣き叫び、許しを乞い、醜く命に縋る姿を見て、ようやく安心する。
自分たちが裁いているものが、確かに下にいるのだと確認できるからだ。
だがセラフィーナは、下にいなかった。
死刑を求める者たちよりも、ずっと静かに立っていた。
だから彼らは、余計に彼女を憎んだのかもしれない。
『被告人、セラフィーナ・エルシア』
法廷長の声が響いた。
『あなたは魔王ゼルヴァと内通し、勇者一行を裏切り、王国騎士ライネル・フォードを死に至らしめた。さらに魔王因子を王都へ持ち帰り、王国に未曾有の災厄を招こうとした。この罪を認めるか』
セラフィーナは、少しだけ目を伏せた。
『裁きに従います』
認める、とは言っていない。
レオンは椅子に座ったまま、指を組んだ。
裁きに従います。
それは有罪の承認ではない。
裁判の結果に抵抗しない、という意味だ。
法廷はそれを自白として扱っている。
意図的に。
映像は進む。
勇者ユリウスの証言。
彼は法廷中央に立っていた。
金髪碧眼。人々が思い描く英雄そのものの容姿。背は高く、白い軍服がよく似合う。だが顔色は悪かった。口元には硬い緊張があり、視線は何度もセラフィーナを避けている。
『私は見ました』
ユリウスは言った。
『魔王城最奥で、聖女セラフィーナは魔王へ祈りを捧げていた。あれは討伐の祈りではありません。魔王への……忠誠の祈りでした』
法廷がざわめく。
セラフィーナは何も言わない。
ユリウスの拳が、わずかに震えている。
レオンはその震えを見た。
恐怖か。
罪悪感か。
あるいは、嘘をついている者の反応か。
『騎士ライネル・フォードは、それを止めようとしたのか』
『はい』
『その結果、死亡した』
『……はい』
その間が長い。
ほんの一呼吸。
けれど裁判記録において、一呼吸は時に証言より雄弁だ。
次に、宮廷魔術師エルネストの証言。
痩せた男だった。
灰色の髪、落ち窪んだ目、神経質そうな指。彼は証言台に立つと、しきりに唇を舐めた。
『聖女の身体から検出された魔力波長は、魔王因子と一致しました。これは疑いようがありません。彼女はもはや聖女ではない。魔王の器です』
魔王の器。
その言葉が出た瞬間、法廷の空気が変わった。
同情の余地が消える。
人間ではなく災害。
罪人ではなく器。
そう定義された者は、弁明する権利すら奪われる。
そして、聖務卿オズワルドが立ち上がった。
白い祭服。
金糸の刺繍。
痩せた頬。
深く窪んだ双眸。
声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどだった。
『魔王因子を宿した者は、人の形をした災厄である』
その言葉が法廷に落ちた時。
セラフィーナが、笑った。
ほんのわずかに。
口元が動いた程度だ。
映像を漫然と見ていれば、見落とす。
だがレオンは見落とさなかった。
「止めろ」
水晶の映像が止まる。
レオンは水晶に手をかざし、少しだけ巻き戻した。
もう一度。
『魔王因子を宿した者は、人の形をした災厄である』
セラフィーナが、微笑む。
嘲笑ではない。
諦めでもない。
勝ち誇った顔でもない。
それは、安堵だった。
何かが予定通りに進んだことを確認したような、ひどく悲しい安堵。
レオンはもう一度巻き戻した。
同じ場面。
同じ言葉。
同じ微笑み。
「なぜだ」
普通、死刑判決へ向かう裁判で、あの言葉を聞いた被告人は笑わない。
魔王の器。
人の形をした災厄。
それは、人間としての最後の尊厳を剥ぎ取る言葉だ。
それを聞いて笑うのは、狂人か、殉教者か、あるいは――。
「自分がそう呼ばれることを、待っていたのか」
レオンは映像を進めた。
法廷の最後。
判決が読み上げられる。
『被告人セラフィーナ・エルシアを、国家反逆および魔王因子保持の罪により、死刑とする』
ざわめき。
祈り。
罵声。
すすり泣き。
そのすべての中で、セラフィーナは目を閉じた。
そして小さく息を吐いた。
まるで、長い仕事を終えた者のように。
レオンは映像を止めた。
そして視点を切り替える。
記録水晶には、複数の視点が保存されている。法廷中央、証言台、王族席、傍聴席、被告人席。レオンは傍聴席の映像を選び、同じ場面を再生した。
貴族たちが並んでいる。
聖教会の司祭たち。
王国騎士団の幹部。
そして王族席の下段に、ギルベルト王弟がいた。
レオンは映像を拡大する。
判決が読み上げられた瞬間。
ギルベルト王弟は、目を伏せた。
そして、息を吐いた。
安堵していた。
昨日、地下監獄の門前で見た表情と同じだ。
聖女の有罪に、彼は安心している。
処刑が決まって喜んだのではない。
何かが暴かれずに済んだことに、安心している。
レオンは背もたれに身体を預けた。
セラフィーナは、自分が災厄と呼ばれて微笑んだ。
ギルベルトは、彼女が死刑になって安堵した。
二人の反応は、同じ事実を別々の方向から指している。
聖女が魔王の器として処刑されること。
それ自体に、何らかの意味がある。
単なる刑罰ではない。
処刑が、何かの条件になっている。
あるいは、誰かにとって必要な儀式になっている。
レオンは水晶を止めた。
その時、閲覧室の扉が軽く叩かれた。
「審問官殿」
管理官の声だった。
「閲覧時間はまだ残っているはずだ」
「はい。ただ、王宮書庫から使者が。あなたに閲覧申請の返答が届いたとのことです」
「王宮書庫?」
レオンは立ち上がった。
まだ申請していない。
だが、誰かが先回りしている。
*
王宮書庫は、王城東棟の奥にある。
一般の書庫とは違い、王家、軍部、聖教会の古記録が保管された半ば禁域のような場所だ。閲覧には王家か三庁以上の認可が必要で、異端審問庁所属のレオンでも自由には入れない。
それでも、裁判記録を見た後、レオンが次に向かうべき場所はそこだった。
魔王討伐隊の編成記録。
同行者名簿。
王国監察官の正体。
黒塗りにされたものの原本が、王宮書庫に残っている可能性がある。
王宮書庫の入口に立つと、白手袋をはめた若い書庫官がレオンを待っていた。
「レオン・アルバート審問官ですね」
「そうだ」
「こちらへ」
「私は閲覧申請を出していない」
「申請は、すでに受理されています」
「誰が出した」
書庫官は答えなかった。
ただ、奥の閲覧室へ案内した。
そこには一冊の薄い記録簿が置かれていた。
表紙には、こうある。
魔王討伐隊編成および王命記録。
レオンは書庫官を見た。
「これを私に見せていいのか」
「閲覧許可は下りています。ただし、複写、持ち出し、筆写は禁止です」
「誰の許可だ」
「クラウディア王女殿下です」
レオンは沈黙した。
王女クラウディア。
現国王の第一王女。
聖女セラフィーナとは、魔王討伐以前から交流があったと聞く。
表向きには、王家の一員として処刑判決を承認した側にいる人物だ。
その王女が、なぜ自分に記録を見せる。
罠か。
あるいは、助け舟か。
どちらにせよ、読まない理由はなかった。
レオンは記録簿を開いた。
勇者ユリウス・ヴァン・グレイ。
聖女セラフィーナ・エルシア。
騎士ライネル・フォード。
宮廷魔術師エルネスト・バルク。
王国監察官――。
そこだけが、刃物で削られていた。
黒塗りではない。
紙そのものが薄く削がれ、文字の跡が消されている。
「徹底しているな」
レオンは呟いた。
次の頁。
装備支給記録。
食料配分。
護衛経路。
魔王城到達予定。
監察官の項目だけ、すべて削除されている。
存在したことは分かる。
しかし名も役割も消されている。
まるで、討伐隊に五人目がいた事実だけは消しきれず、個人だけを抹殺したようだった。
レオンはさらに頁をめくった。
出立前の誓約書。
勇者ユリウスの署名。
聖女セラフィーナの署名。
騎士ライネルの署名。
魔術師エルネストの署名。
そして最後に、不自然な空白。
署名欄が切り取られている。
監察官は、魔王討伐隊に同行した。
だが裁判には出ていない。
死亡記録もない。
行方不明扱いですらない。
記録から、いなくなっている。
レオンは記録簿を閉じた。
「王女殿下は、どこに」
書庫官は静かに答えた。
「薔薇温室にて、お待ちです」
*
王城の薔薇温室は、雨の日でも明るかった。
天井と壁が透明な魔晶硝子で作られており、灰色の空から落ちる光を柔らかく散らしている。温室の中には季節外れの薔薇が咲き、湿った土と甘い花の匂いが混ざっていた。
中央の白い東屋に、クラウディア王女はいた。
年齢は二十代半ば。
淡い金髪を結い上げ、深い青のドレスを身にまとっている。王族らしい華やかさはあるが、その表情には疲れが滲んでいた。美しいというより、折れないように美しくあろうとしている人間の顔だった。
彼女の周囲に侍女はいない。
護衛も、少し離れた入口に控えているだけだ。
レオンは膝を折り、礼を取った。
「異端審問庁所属、レオン・アルバートです」
「形式は結構です。ここでは、あまり時間がありません」
クラウディアの声は穏やかだったが、緊張していた。
「記録は見ましたか」
「はい」
「監察官の名前は残っていなかったでしょう」
「削られていました」
「そうですか」
王女は目を伏せた。
その反応から、彼女は最初から結果を知っていたのだと分かる。
「王女殿下が、閲覧許可を?」
「ええ」
「なぜ私に」
「あなたが、昨日セラフィーナに会ったからです」
「面会記録が王宮へ?」
「この王城では、地下に落ちた水滴の音まで、誰かの耳に入ります」
「では、私がここにいることも」
「知られているでしょう。だから早く済ませます」
クラウディアはレオンをまっすぐ見た。
「あなたは、彼女を救うつもりですか」
「私は審問官です。嘘の記録に署名したくないだけです」
「それは、救うつもりがある人の言い方です」
レオンは答えなかった。
クラウディアは少しだけ笑った。
悲しそうな笑みだった。
「セラフィーナも、あなたのような人を遠ざけたがるでしょうね」
「調べるなと言われました」
「でしょうね」
「王女殿下は、何をご存じですか」
「多くは知りません」
「信じられません」
「王女だから何でも知っていると思いますか?」
「少なくとも、私よりは」
「王族とは、知っている者ではありません。知らされることを選ばれる者です」
その言葉には、自嘲があった。
クラウディアは東屋の柱に手を添え、薔薇の花を見た。
「私は、セラフィーナと友人でした。少なくとも、私はそう思っていました」
「過去形ですか」
「今もそう思いたい。けれど友人なら、彼女が何を抱えていたのか、もっと早く気づくべきだった」
「彼女は何を抱えていたのですか」
「それを口にすれば、私は王族ではいられなくなります」
「なら、なぜ私を呼んだのです」
クラウディアは沈黙した。
温室の硝子を雨が叩いている。
外の世界の音が、薄い膜越しに遠く聞こえた。
「レオン・アルバート」
王女は低く言った。
「あなたが本当に彼女を救うつもりなら、裁判記録を信じてはいけません」
「裁判記録が偽造されていると?」
「偽造というより、選ばれています」
「都合のいい事実だけを残した」
「ええ」
「誰が」
クラウディアは答えなかった。
だが、その沈黙は答えに近かった。
王家。
聖教会。
あるいは、その両方。
「ギルベルト王弟は、何を知っているのですか」
その名を出した瞬間、クラウディアの表情が強張った。
「叔父上に近づいてはいけません」
「なぜ」
「あの方は、セラフィーナが黙っている限り安全です。逆に言えば、彼女が話せば最も危うい」
「やはり、聖女の沈黙は誰かを守っている」
「誰か、ではありません」
クラウディアは唇を噛んだ。
「もっと大きなものです」
「王国ですか」
王女は答えなかった。
だがその顔が、肯定していた。
セラフィーナは、王国を守るために黙っている。
少なくとも、彼女はそう信じている。
レオンは静かに息を吐いた。
「王国を守るために、救国の聖女を殺すのですか」
「そうしなければ守れない王国なら、滅びたほうがいい」
クラウディアの声は震えていた。
怒りか、恐怖か。
たぶん両方だ。
「でも、私は王女です。王国を滅ぼすとは言えない。父王を告発することも、叔父を裁くことも、聖教会に逆らうことも、簡単にはできない」
「それでも私を呼んだ」
「ええ」
「なぜ」
「あなたが、まだ王国の外側を見られる人だからです」
クラウディアは小さな鍵を取り出した。
銀色の鍵。
先端に薔薇の紋章が刻まれている。
「王宮書庫の第三封印棚を開ける鍵です」
「殿下」
「今は渡せません。ここで渡せば、あなたも私も終わりです。でも、必要になった時、私はあなたにこれを渡します」
「その必要とは」
「あなたが、彼女の沈黙の意味にたどり着いた時」
「曖昧ですね」
「王族の言葉は、曖昧でなければ生き残れません」
クラウディアは鍵をしまった。
「最後に一つ」
「何でしょう」
「セラフィーナは、裁かれることを望んでいるように見えるでしょう」
「はい」
「でも、死にたいわけではありません」
レオンは顔を上げた。
クラウディアの青い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「あの子は、いつも自分を最後に置く。誰かを救うためなら、自分が苦しむことを当然だと思ってしまう。だから、もし彼女が『必要です』と言ったなら、疑ってください」
「何を」
「それは本当に必要なのか。それとも、彼女が自分を犠牲にすれば済むと思い込んでいるだけなのか」
レオンは、地下牢でのセラフィーナの言葉を思い出した。
私は、裁かれなければなりません。
私が死ねば、救われる人たちがいます。
それは本当に必要なのか。
それとも、彼女が勝手に自分を差し出しているだけなのか。
答えはまだ出ない。
だが、問いは増えた。
レオンは礼をした。
「感謝します、王女殿下」
「感謝されることはしていません。私はまだ何も選べていない」
「それでも、記録を見せた」
「それだけです」
「十分です」
クラウディアは少しだけ目を伏せた。
「レオン」
「はい」
「彼女を救うなら、急いでください。処刑までの七日は、たぶん彼女のために用意された時間ではありません」
「どういう意味です」
「処刑の日に、何かが起こります」
レオンは息を止めた。
「何が」
「分かりません。でも、処刑そのものが目的ではない。私はそう感じています」
王女の声は、硝子に落ちる雨よりもかすかだった。
「聖女を殺すだけなら、中央広場で公開する必要はない。王都中の民を集める必要もない。聖教会があれほど同情を禁じる必要もない。叔父上が、あんなに怯える必要もない」
「怯えている?」
「ええ」
クラウディアは言った。
「叔父上は、安堵しているのではありません。怯え続けた末に、ようやく息をしているのです」
*
王宮を出た時、雨は止んでいた。
雲の切れ間から光が差し、王都の濡れた屋根を鈍く光らせている。
レオンは異端審問庁へ戻る道を歩きながら、頭の中で情報を並べた。
セラフィーナは裁かれることを望んでいるように見える。
だが死にたいわけではない。
裁判記録は都合よく選ばれている。
監察官の存在は消されている。
ギルベルト王弟は、セラフィーナが黙っている限り安全。
処刑の日に、何かが起こる。
処刑そのものが目的ではない。
では、何のための公開処刑か。
民衆に見せるため。
聖女を災厄として印象づけるため。
あるいは、民衆の前で何かを成立させるため。
儀式。
その言葉が浮かんだ。
馬鹿げている。
だが、この国では政治と祈りと魔術は、しばしば同じものになる。
レオンが異端審問庁の門をくぐろうとした時だった。
視線を感じた。
足を止める。
背後を振り返る。
人通りはある。雨上がりの街を歩く商人、荷車を押す少年、教会へ急ぐ修道女。だが、その中に一人、明らかにこちらを見ている男がいた。
茶色の外套。
深く被った帽子。
目が合うと、男はすぐに路地へ入った。
レオンは迷わず追った。
路地は狭く、雨水が溜まっている。
男は思ったより足が速い。角を曲がり、裏通りへ抜け、古い石橋を渡る。レオンも追うが、距離は縮まらない。
「止まれ」
男は止まらない。
レオンは腰の短剣に手をかけたが、投げなかった。
殺す相手ではない。
尾行者を捕まえることが目的だ。
だが次の角を曲がった瞬間、男の姿は消えていた。
行き止まりだった。
古い倉庫の壁。
積まれた木箱。
濡れた地面。
逃げ道はない。
魔術か。
それとも、隠し戸か。
レオンは壁を調べたが、仕掛けは見つからなかった。
代わりに、木箱の上に一枚の紙が置かれていた。
濡れないよう、油紙で包まれている。
レオンは周囲を確認し、油紙を開いた。
中には、王都地下水路の古い地図が入っていた。
公式の地図ではない。
現在使われている地下水路とは、構造が違う。より古く、より複雑で、王城と中央大聖堂の下を通る細い通路まで描かれている。
地図の一部に、赤い印がつけられていた。
旧聖堂。
その横に、小さな紙片が添えられている。
震えた筆跡で、短く書かれていた。
――ライネル卿は、魔王城で死んでいない。
レオンはしばらく、その文字を見つめた。
雨上がりの路地は静かだった。
遠くで鐘が鳴る。
昼を告げる鐘だ。
処刑まで、あと六日。
騎士ライネル・フォード。
魔王城で死亡したはずの男。
遺品のない死者。
死亡確認者を黒塗りにされた騎士。
彼は、魔王城で死んでいない。
ならば、どこで死んだ。
誰が殺した。
なぜ、彼の死を魔王城に置き換える必要があった。
レオンは地図を畳み、外套の内側へしまった。
*
その夜、レオンは再び地下監獄へ向かった。
単独面会は禁止された。
だが、記録官同席であれば面会は可能だ。
今回、同席した記録官は若い女だった。彼女は緊張した様子で筆記板を抱え、レオンの後ろを歩いている。看守たちの警戒も昨日より厳しい。通路の角ごとに兵が立ち、セラフィーナの牢の前には聖教会の司祭までいた。
明らかに監視が増えている。
レオンが何かに触れた証拠だ。
牢の扉が開く。
セラフィーナは昨日と同じように、机の前に座っていた。
短く切られた銀髪。
白い囚人服。
聖銀の枷。
それでも彼女は、静かな祈りの中心にいるようだった。
「レオン」
彼女は名を呼んだ。
記録官の手が、ぴくりと動く。
レオンは無表情で言った。
「最終審問を続ける」
「はい」
「今日は裁判記録映像について確認する」
「はい」
「公開裁判で、聖務卿オズワルドがこう言った。『魔王因子を宿した者は、人の形をした災厄である』」
セラフィーナの瞳が、ほんの少し揺れた。
レオンは続ける。
「その時、あなたは笑った」
記録官が驚いたように顔を上げた。
セラフィーナは黙っている。
「あれはなぜだ」
「笑っていましたか」
「記録水晶にはそう残っている」
「そうですか」
「質問に答えろ」
セラフィーナは、膝の上で指を重ねた。
枷が微かに鳴る。
「きっと、安心したのだと思います」
「何に」
「皆が、私を恐れてくれたことに」
記録官の筆が止まった。
レオンも一瞬だけ沈黙した。
「恐れられて、安心した?」
「はい」
「なぜ」
「人は、恐ろしいものから距離を取ります」
「あなたから距離を取らせたかったのか」
「そのほうが、安全です」
「誰にとって」
セラフィーナは答えない。
レオンは一歩、鉄格子へ近づいた。
「セラフィーナ。昨日、あなたは言った。真実だけで人が救われるとは限らないと」
「はい」
「今日はこう言う。恐れられたほうが安全だと」
「はい」
「あなたは、自分が悪だと信じられたかったのか」
セラフィーナは目を伏せた。
長い沈黙。
記録官が困惑したように、レオンとセラフィーナを交互に見る。
やがて、セラフィーナは小さく言った。
「人は、分かりやすい悪があれば、明日を迎えられます」
「あなたがその悪になると?」
「私一人で済むなら」
その声は、あまりに静かだった。
静かすぎて、怒りが湧いた。
レオンは自分の中に生じた感情を自覚し、すぐに抑えた。
審問官は怒らない。
怒りは尋問を鈍らせる。
だが、言葉は鋭くなった。
「思い上がりだな」
セラフィーナが顔を上げる。
「あなた一人で済むかどうかを、あなたが決めるな」
記録官が息を呑んだ。
セラフィーナは何も言わなかった。
レオンは続けた。
「あなたが悪になれば民が救われる? あなたが死ねば誰かが助かる? それは本当に事実か。誰かにそう信じ込まされたのではないのか」
「違います」
「なら説明しろ」
「できません」
「なぜ」
「説明すれば、意味がなくなるからです」
「何の意味だ」
セラフィーナの顔に、初めて寂しげな色が浮かんだ。
昨日も少しだけ見せた表情。
けれど今は、もっとはっきりしていた。
「私が死ねば、救われる人たちがいます」
レオンは、鉄格子を挟んで彼女を見つめた。
「それは誰だ」
「言えません」
「王国か」
セラフィーナは沈黙する。
「王都の民か」
沈黙。
「王家か」
彼女の指が、わずかに動いた。
見逃さなかった。
「ギルベルト王弟か」
「違います」
即答だった。
早すぎる。
庇ったのか。
それとも、本当に違うのか。
「なら、なぜ王弟はあなたの有罪に安堵した」
セラフィーナの顔色が変わった。
ほんの少し。
だが明確に。
「王弟殿下が?」
「裁判記録に残っていた。昨日、監獄前でも見た」
「……そうですか」
「あなたは理由を知っている」
「知りません」
「嘘だ」
レオンは言った。
記録官の筆が止まる。
セラフィーナは、悲しそうに微笑んだ。
「レオンは、嘘がお嫌いなのですね」
「好きな審問官がいるなら会ってみたい」
「では、私のことも嫌いになります」
「なぜ」
「私は、これからも嘘をつきます」
それは宣言だった。
自白よりも重い宣言。
レオンは何も言わず、彼女を見た。
セラフィーナは続けた。
「レオン。どうか、これ以上は」
「調べるなと言うのか」
「はい」
「断る」
「あなたが傷つきます」
「それは昨日も聞いた」
「死ぬかもしれません」
「審問官の仕事に危険は付きものだ」
「そういう意味ではありません」
セラフィーナの声が少しだけ強くなった。
「あなたは、真実を知れば戻れなくなります」
「戻るつもりはない」
「レオン」
「私は、ライネル・フォードの件を調べる」
その名を出した瞬間、セラフィーナは息を止めた。
記録官がまた顔を上げる。
レオンは一語ずつ告げた。
「ライネル卿は、魔王城で死んでいない。そう書かれた地図が届いた」
「……誰が」
「差出人は不明だ」
「その地図を、見たのですか」
「見た」
「どこを示していましたか」
「王都地下旧聖堂」
セラフィーナの顔から、血の気が引いた。
これまでで最も大きな反応だった。
「行ってはいけません」
「なぜ」
「お願いです。そこには行かないでください」
「理由を言え」
「言えません」
「なら行く」
「レオン!」
彼女が立ち上がった。
枷が激しく鳴った。
看守が身構える。
記録官が椅子から腰を浮かせる。
セラフィーナは鉄格子の内側で、両手を胸の前に押さえていた。
その顔には、恐怖があった。
自分の処刑にも見せなかった恐怖。
レオンが旧聖堂へ向かうことを、本気で恐れている。
「そこには、誰かが死んでいるのか」
レオンは静かに問うた。
セラフィーナは答えない。
「ライネルか」
「……」
「監察官か」
セラフィーナの瞳が揺れた。
レオンは確信した。
彼女は知っている。
王都地下旧聖堂に何があるのかを。
ライネルの死に関係する何かを。
そして、消された監察官のことも。
「面会はここまでだ」
レオンはそう言って、記録官へ視線を向けた。
記録官は慌てて筆を止める。
「レオン」
セラフィーナの声が追いかけてきた。
「あなたは、本当に良い審問官です」
「褒めても無駄だ」
「だから、怖いのです」
レオンは鉄格子越しに彼女を見た。
セラフィーナは泣いてはいなかった。
けれど、泣くよりも痛ましい顔をしていた。
「良い人から順番に、真実に殺されます」
レオンは答えなかった。
扉が閉まる。
重い音が、地下牢に響いた。
*
異端審問庁に戻る頃には、夜が更けていた。
庁舎の廊下には人影が少ない。夜番の審問官と記録官が、低い声で言葉を交わしているだけだ。壁の燭台が揺れ、影が長く伸びている。
レオンは自分の執務室へ向かった。
扉を開ける。
中は暗い。
窓の外には、雨上がりの王都が広がっている。中央広場の処刑台は、夜の闇の中で黒い影になっていた。
レオンは机に近づき、足を止めた。
机の上に、何かが置かれている。
古い紙。
いや、地図だ。
昼に受け取ったものとは別の、さらに古い地図。
王都地下水路。
赤い印は同じ場所を示していた。
旧聖堂。
だが今度は、地図の端にもう一つ、短い文が添えられていた。
震えた筆跡。
だが、昼の紙片よりも文字が乱れている。
――ライネル卿は魔王城で死んでいない。
――あの方は、王都で殺された。
――聖女様は、裏切っていない。
レオンは地図を手に取った。
その瞬間、窓の外で何かが動いた。
視線を向ける。
誰もいない。
ただ、向かいの屋根の上に黒い影が一瞬見えたような気がした。
尾行者か。
それとも、地図を置いた者か。
レオンは窓を開けた。
冷たい夜風が流れ込む。
屋根の上には、もう誰もいない。
遠くで鐘が鳴った。
深夜一刻。
処刑まで、あと六日を切った。
レオンは窓を閉め、地図を机に広げた。
王都地下旧聖堂。
聖女が恐れた場所。
ライネルが死んだかもしれない場所。
監察官の名が消された理由に繋がる場所。
事件は、魔王城ではなく王都から始まっていた。
そんな馬鹿げた仮説が、今や最も筋の通る答えになりつつある。
レオンは燭台に火を足した。
机の上の地図に、赤い印が浮かび上がる。
旧聖堂。
そこへ行けば、何かが分かる。
おそらく、戻れなくなる。
セラフィーナはそう言った。
真実を知れば戻れなくなる、と。
レオンは静かに笑った。
笑ったと言っても、口元がほんの少し動いただけだ。
「戻る場所など、最初からない」
彼は外套を取り、短剣を腰に差した。
審問官が夜に地下へ向かうには、あまりに軽装だった。
だが正式な捜査にはできない。
正式にすれば、誰かが先回りして証拠を消す。
ならば、一人で行くしかない。
レオンは執務室の灯りを消した。
廊下へ出る。
異端審問庁の石壁は冷たく、足音だけが響いた。
階段を降りながら、彼は頭の中で最後にもう一度、今日見たものを並べた。
聖女は、人々に恐れられて安堵した。
王弟は、聖女が死刑になって安堵した。
王女は、裁判記録を信じるなと言った。
セラフィーナは、旧聖堂へ行くなと叫んだ。
そして机の上に置かれていた地図は、こう告げている。
ライネル卿は魔王城で死んでいない。
ならば、真実は地下にある。
王都の光が届かない場所に。
祈りも、王権も、裁判記録も届かない場所に。
レオンは庁舎の裏門を抜け、夜の王都へ踏み出した。
雲の切れ間から、月が顔を出している。
白い月光が石畳を照らし、濡れた街路を銀色に変えていた。
その光の先に、中央大聖堂の尖塔が見える。
尖塔の下。
王都の地下。
忘れられた旧聖堂。
そこで、死んだはずの騎士が待っている。
レオンは歩き出した。
聖女の処刑まで、あと六日。
そしてこの夜、王国が隠した最初の死体が、彼を待っていた。




