第1章 処刑まで七日――世界を救った聖女は、死刑囚になった
聖女セラフィーナは、世界を救った。
だから王国は、彼女を殺すことにした。
王都エルディアの中央広場には、朝から人が集まっていた。
広場の中央に組まれた黒い木組みの台を、誰もが遠巻きに見つめている。まだ血の匂いはしない。まだ刃も据えられていない。けれど、そこに立つだけで、首筋を冷たい指で撫でられるような気配があった。
処刑台。
七日後、その上で一人の女が死ぬ。
魔王ゼルヴァを討ち、人類を滅亡の淵から救ったと讃えられた聖女セラフィーナ・エルシア。
つい半年前まで、彼女の名は祈りの言葉だった。
疫病の村では、母親が子の額に手を置き、「聖女様の加護がありますように」と囁いた。戦場へ向かう兵士たちは、胸元に彼女の聖印を結んだ。教会の壁には、銀髪の聖女が光を掲げる絵が飾られ、子どもたちはその絵に向かって小さな手を合わせた。
だが今、その名は呪いになった。
「裏切り者め」
広場の端で、誰かが吐き捨てた。
「魔王と通じていたんだろう? 聖女の顔をして、俺たちを騙していたんだ」
「勇者様を裏切ったって話だ。討伐隊の騎士も、あの女が殺したって」
「やっぱり、女に奇跡なんて持たせるべきじゃなかったんだよ」
低い声が、石畳の上を這っていく。
その一方で、誰もが心のどこかで迷っていた。
本当に?
本当に、あの聖女が?
救国の英雄と、王国最悪の裏切り者。
その二つの像が、民衆の胸の中でぶつかり合っている。けれど声の大きな者たちは、すでに結論を出したように彼女を憎んでいた。憎むほうが楽だからだ。信じたものに裏切られたと認めるより、初めから悪女だったと思うほうが、ずっと楽だからだ。
広場の掲示板には、王国聖教会の布告が貼られている。
罪状。
一、魔王ゼルヴァとの内通。
一、勇者一行への背信。
一、王国騎士ライネル・フォード殺害。
一、魔王因子を王都へ持ち帰ったことによる国家反逆。
一、聖女の名を騙り、民衆を欺いた大罪。
判決。
死刑。
執行は七日後、王都中央広場にて。
黒々とした文字の下に、王家の紋章と聖教会の印が並んで押されていた。
王と神が、彼女を殺せと言っている。
ならば民は、それを疑ってはならない。
そういう形に、この国は作られていた。
*
「レオン・アルバート」
王国異端審問庁の長官室は、冬の礼拝堂のように冷えていた。
壁一面を埋める書架。重厚な黒檀の机。香炉から立ち上る白い煙。窓の外には、中央広場に建てられた処刑台の上部が、遠く小さく見えている。
レオン・アルバートは、その処刑台から視線を外し、机の向こうに座る男へ向き直った。
アーヴィン・グラント所長。
王国異端審問庁を率いる男であり、レオンの直属の上司でもある。五十を越えた年齢のはずだが、背筋は真っ直ぐで、青灰色の目には老いよりも疲労が濃く滲んでいた。
「はい」
レオンは短く返事をした。
感情の薄い声だと、よく言われる。
実際、レオンは異端審問官として、感情を表に出さないことを習慣にしていた。
怒りは尋問を鈍らせる。哀れみは判断を曇らせる。正義感は、ときに真実よりも自分の快楽を優先する。
だからレオンは、常に記録を見る。
証言を見る。
矛盾を見る。
人を見る前に、事実を見る。
そのせいで庁内では、彼はこう呼ばれていた。
感情を持たない秤。
誉め言葉ではない。
だが、仕事には便利な呼び名だった。
「聖女セラフィーナの最終審問を、お前に任せる」
アーヴィンは、机の上に置かれた分厚い革表紙の記録簿を指で押した。
その名を聞いた瞬間、レオンの胸の奥で、何かが微かに軋んだ。
だが表情は変えなかった。
「私に、ですか」
「不満か」
「不満ではありません。意外だと思っただけです。聖女の件は、王家と聖教会の双方が関与しています。形式上の最終審問であっても、担当者にはもっと上位の者を置くべきでは」
「上位の者は、すでに全員が手を引きたがっている」
アーヴィンは苦く笑った。
「処刑は決まった。判決も覆らない。あとは七日後、手続きを滞りなく終えればいい。誰も、この泥に足を入れたくないのだ」
「ならば、なぜ私に」
「お前は泥を見ても、泥としか言わないからだ」
褒めているのか皮肉なのか、判断しにくい声だった。
レオンは黙っている。
アーヴィンは続けた。
「この件で必要なのは、余計な感情を挟まない審問官だ。聖女に同情する者でも、聖女を憎む者でもない。ただ記録を確認し、本人に最後の意思を問い、処刑に必要な書類を整える者。それだけでいい」
「……承知しました」
レオンは記録簿を受け取った。
ずしりと重い。
人一人の命を殺すには、これほど紙が必要なのかと思った。
「レオン」
部屋を出ようとした背中に、アーヴィンの声がかかった。
「これは再審ではない」
「分かっています」
「お前が何を思おうと、七日後に聖女は死ぬ」
「分かっています」
「ならいい」
その言葉は、警告というより祈りに近かった。
レオンは一礼し、長官室を出た。
廊下には、審問庁特有の冷たい石の匂いが満ちている。壁には歴代の異端審問官たちの肖像画が並び、誰もが死人のように厳格な顔をしていた。
レオンは記録簿を抱えたまま、自分の執務室へ戻った。
扉を閉める。
机に記録を置く。
そして、しばらく動かなかった。
セラフィーナ・エルシア。
その名前を、レオンは知っている。
もちろん、王国民なら誰でも知っている名だ。だがレオンにとっては、布告や聖画よりも前に、一つの記憶と結びついていた。
三年前。
北方都市ラグレスを襲った魔族災害。
レオンは当時、まだ正式な審問官ではなく、現地調査官として派遣されていた。市壁は破られ、教会は焼け、逃げ遅れた民が雪の中で倒れていた。レオンもまた、魔族の瘴気にやられ、瓦礫の陰で呼吸すらままならなくなっていた。
その時、白い光が降った。
雪を照らすような、静かな光だった。
誰かの手が額に触れた。
「もう大丈夫です」
女の声がした。
優しくて、けれど悲しそうな声だった。
「あなたは、まだ死ななくていい」
その言葉とともに、肺に詰まっていた黒い熱が消えた。
レオンが目を開けた時、そこにいたのが聖女セラフィーナだった。
銀色の髪。
透き通るような肌。
青い瞳。
血と泥に汚れた戦場の中で、彼女だけが、祈りそのものの形をしていた。
彼女はレオンを見て、微笑んだ。
それだけだった。
彼女にとっては、戦場で救った大勢のうちの一人にすぎない。名前も覚えていないだろう。顔すら記憶に残っていないかもしれない。
だがレオンにとっては違った。
あの時、彼は初めて思った。
人が人を救うという行為は、これほど静かなものなのか、と。
そして今、その人が死刑囚になっている。
「……仕事だ」
レオンは自分に言い聞かせ、椅子に座った。
私情は要らない。
必要なのは記録だ。
彼は革表紙を開いた。
*
裁判記録は、驚くほど整っていた。
整いすぎていた。
聖女セラフィーナ・エルシアは、半年前、勇者ユリウス・ヴァン・グレイ率いる魔王討伐隊の一員として、魔王城へ向かった。
同行者は五名。
勇者ユリウス。
聖女セラフィーナ。
王国騎士ライネル・フォード。
宮廷魔術師エルネスト・バルク。
王国監察官――名は黒塗り。
レオンはそこで手を止めた。
「……黒塗り?」
公式裁判記録で、討伐隊同行者の名が伏せられている。
しかもただの伏せ字ではない。後から墨で塗り潰した跡がある。元の文字がわずかに紙の凹みとして残っているが、判読は難しい。
レオンは眉をひそめ、読み進めた。
記録によれば、討伐隊は魔王城最奥で魔王ゼルヴァと交戦。勇者ユリウスが魔王に致命傷を与えたが、その直後、聖女セラフィーナが魔王へ祈りを捧げ、魔王因子の一部を王都へ持ち帰ろうとした。
騎士ライネルはそれを止めようとして死亡。
宮廷魔術師エルネストは重傷。
監察官は行方不明。
勇者ユリウスのみが聖女の裏切りを告発し、王都帰還後、セラフィーナは逮捕された。
証言記録。
勇者ユリウス。
『私は見た。聖女は魔王へ祈っていた。あれは討伐の祈りではない。忠誠の祈りだった』
宮廷魔術師エルネスト。
『聖女の身体から、魔王因子と一致する魔力波長を検出した。彼女はすでに聖女ではない。魔王の器だ』
聖務卿オズワルド。
『魔王因子を宿した者は、人の形をした災厄である。民を守るため、速やかに処刑すべきである』
被告人セラフィーナ。
『裁きに従います』
レオンはそこで、紙をめくる手を止めた。
否認なし。
弁明なし。
反論なし。
それは有罪を認めたに等しい。
しかし、違和感があった。
彼女は魔王と通じていたとされている。
ならば、なぜ王都へ戻った?
本当に逃げるつもりなら、魔王城崩壊の混乱に紛れて姿を消せばよかった。勇者が生還した以上、告発される可能性は高い。にもかかわらず、彼女は王都へ戻り、逮捕され、裁判で一切弁明していない。
まるで、捕まることを望んでいたように。
死刑になることを、受け入れていたように。
レオンはさらに記録を確認した。
討伐隊帰還時の所持品目録。
勇者ユリウス。
聖剣、破損。
鎧、損傷。
聖女セラフィーナ。
祈りの杖、紛失。
聖印、未回収。
宮廷魔術師エルネスト。
魔導書三冊、焼損。
騎士ライネル。
――記載なし。
「おかしいな」
レオンは低く呟いた。
ライネルは魔王城で死亡したと記録されている。ならば遺品があるはずだ。遺体が回収できなかったとしても、剣、鎧、紋章、血痕の付いた布片、何かしらの記録が残る。
だが目録には何もない。
まるで、最初から存在しなかったかのように扱われている。
別紙を探す。
あった。
後日追記された遺品目録。
騎士ライネル・フォード。
剣、魔王城にて焼失。
鎧、魔王城にて焼失。
遺体、魔王城崩落により未回収。
死亡確認者――黒塗り。
まただ。
レオンは黒塗りの部分を指でなぞった。
死亡確認者の名を隠す理由は何だ。
死亡確認をした者が、裁判に出ていないからか。
それとも、その者が存在していては都合が悪いからか。
記録は整っている。
整っているからこそ、継ぎ目が見える。
誰かが作った布なら、必ず縫い目がある。
レオンは椅子の背にもたれ、目を閉じた。
聖女は罪を認めた。
勇者は彼女を告発した。
聖教会は処刑を望んだ。
王家は判決を承認した。
では、この裁判で最も得をするのは誰だ?
聖女が死んで、最も安心するのは誰だ?
窓の外では、中央広場の処刑台が夕陽を浴びて赤黒く染まっていた。
*
その夜、レオンは王国地下監獄へ向かった。
王城の西側にある監獄塔は、地上から見ると細い鐘楼のように見える。だが本体は地下にある。異端者、反逆者、魔術犯罪者。通常の牢では収容できない者たちが、聖銀で封じられた石室に閉じ込められている。
セラフィーナの牢は、最下層にあった。
当然だ。
彼女は聖女であり、魔王因子を宿した死刑囚なのだから。
階段を降りるたびに、空気が冷たくなる。壁に刻まれた封印文が青白く光り、足音だけが長く響いた。
案内役の看守は、レオンより一回り年上の男だったが、ひどく緊張していた。
「お気をつけください、審問官殿」
「何に」
「あの女にです」
看守は声を潜めた。
「聖女の顔をしているが、中身は魔王だと聞いております。目を合わせただけで操られるとか、祈り声を聞くだけで魂を抜かれるとか」
「誰から聞いた」
「教会の方から」
「なら半分は説教で、半分は脅しだな」
看守は困った顔をした。
レオンは歩き続けた。
最下層の扉は、三重の封印で閉ざされていた。聖銀の鍵、血判認証、審問官の認可印。手続きを終えると、重い扉が音を立てて開いた。
中は、思ったより静かだった。
狭い石室。
壁に固定された寝台。
小さな机。
水差し。
鉄格子の向こう、白い囚人服の女が座っている。
銀色だったはずの髪は、肩の上で短く切られていた。聖女の象徴である長い髪を奪うことも、処刑前の罰の一つなのだろう。手首には聖銀の枷。足首にも同じ枷がある。首元には、魔力の流れを封じる黒い首輪が巻かれていた。
それでも、彼女は美しかった。
いや、美しいという言葉では足りない。
清らかなのではない。
穢れを知らないのでもない。
むしろ、すべてを見て、すべてを背負い、それでも壊れなかったものだけが持つ静けさがあった。
牢の中にいるのに、彼女の周囲だけが礼拝堂のように見えた。
女が顔を上げる。
青い瞳が、レオンを映した。
「あなたが、最後の審問官なのですね」
声は記憶より少し低く、少し掠れていた。
だが、あの雪の日に聞いた声と同じだった。
もう大丈夫です。
あなたは、まだ死ななくていい。
レオンは心の中の記憶を切り離した。
今ここにいるのは、彼女に救われた少年ではない。
異端審問官レオン・アルバートだ。
「王国異端審問庁所属、レオン・アルバート。聖女セラフィーナ・エルシア、あなたの最終審問を担当する」
「聖女ではありません」
彼女は静かに言った。
「私はもう、その名で呼ばれる資格を失いました」
「では、何と呼べば」
「セラフィーナで構いません。死刑囚に敬称は不要でしょう」
「死刑囚にも名前はある」
レオンがそう言うと、セラフィーナはわずかに瞬きをした。
驚いたようにも、困ったようにも見えた。
「……では、セラフィーナと」
「質問を始める」
「はい」
「あなたは、魔王ゼルヴァと内通していたのか」
「いいえ」
即答だった。
レオンは眉を動かさなかった。
「裁判では否認していない」
「聞かれませんでした」
「罪状は読み上げられたはずだ」
「はい」
「なら、なぜ違うと言わなかった」
セラフィーナは、膝の上で手を重ねていた。
枷が小さく鳴る。
「言っても、何も変わらなかったからです」
「それを判断するのは、あなたではない」
「いいえ」
彼女は静かに首を振った。
「変わってはいけなかったのです」
レオンは目を細めた。
「どういう意味だ」
「申し訳ありません。それは、お話しできません」
「あなたは七日後に死ぬ」
「はい」
「自分の命がかかっていても、話せないのか」
「私の命だけなら、話せたかもしれません」
その答えは、あまりにも穏やかだった。
だからこそ、レオンの胸に棘のように刺さった。
私の命だけなら。
つまり彼女は、自分以外の誰かの命を秤に載せている。
「騎士ライネル・フォードを殺したのは、あなたか」
「いいえ」
「彼は魔王城で死んだのか」
セラフィーナの指先が、ほんのわずかに強張った。
見逃すには小さすぎる。
だがレオンは見逃さない。
「もう一度聞く。ライネル・フォードは魔王城で死んだのか」
「……私は、彼の最期を見ていません」
「裁判記録では、あなたが彼を見殺しにしたとされている」
「そうですね」
「そうですね、ではない」
レオンの声が、少しだけ低くなった。
「あなたは、自分にかけられた罪を理解しているのか。魔王と通じ、勇者を裏切り、騎士を殺し、王都に災厄を持ち帰った。王国はあなたを人間ではなく災害として処分しようとしている」
「理解しています」
「なら、なぜ黙っている」
セラフィーナはレオンを見た。
その瞳には、恐怖がない。
諦めもない。
あるのは、覚悟だった。
あまりにも深く、あまりにも静かな覚悟。
「私は、裁かれなければなりません」
レオンは一瞬、言葉を失った。
自白ではない。
懺悔でもない。
それは、祈りのように聞こえた。
「罪を認めるという意味か」
「そう受け取っていただいて構いません」
「真実ではなくても?」
「真実だけで、人が救われるとは限りません」
レオンは、牢の中の女を見つめた。
セラフィーナは本気で言っている。
自分が死ぬことで、何かが守られると信じている。
だが、それは正しいのか。
審問官としてのレオンは、答えを知っている。
真実を隠して作られた平穏は、必ず次の犠牲を要求する。
それでも人は、ときに真実より嘘を選ぶ。
傷つかないために。
誰かを守るために。
あるいは、罪を見ないために。
「セラフィーナ」
レオンは初めて、彼女の名を呼んだ。
「私は、あなたを救いに来たわけではない」
「はい」
「私は審問官だ。記録を確認し、矛盾を問い、必要ならば嘘を暴く」
「はい」
「だから聞く。あなたは本当に、七日後に死ぬことを望んでいるのか」
セラフィーナの唇が、わずかに震えた。
ほんの一瞬だった。
けれど、それは今日初めて見せた迷いだった。
「望んでいるわけではありません」
「なら」
「けれど、必要なことです」
「誰にとって」
彼女は答えなかった。
牢の中に、沈黙が落ちる。
水滴の音が遠くで響いた。
やがてセラフィーナは、目を伏せた。
「審問官様」
「レオンでいい」
「レオン様」
「様も要らない」
セラフィーナは少しだけ困った顔をした。
それは死刑囚の顔ではなく、叱られた少女のような表情だった。
「……レオン」
名前を呼ばれた瞬間、三年前の雪が胸の奥に降った。
レオンはそれを押し殺した。
「あなたは、良い審問官なのですね」
「まだ何もしていない」
「だからです」
彼女は微笑んだ。
裁判記録にあったという、あの微笑みもこうだったのだろうか。
安堵と諦めが混じった、悲しい笑み。
「どうか、私のことはお忘れください」
「それは命令か」
「お願いです」
「却下する」
セラフィーナが目を見開いた。
レオンは記録簿を閉じた。
「最終審問は七日後まで続く。今日はここまでだ」
「レオン」
「何だ」
「調べないでください」
その声には、初めて切実な響きがあった。
「これ以上は、本当に危険です」
「あなたにとってか」
「あなたにとってです」
「なら、なおさら調べる」
「なぜ」
レオンは少しだけ考えた。
彼女に命を救われたから。
彼女の沈黙が不自然だから。
裁判記録が整いすぎているから。
騎士ライネルの死亡確認者が黒塗りだったから。
理由はいくつもあった。
だが、口にしたのは一つだけだった。
「私は、嘘の書類に署名したくない」
セラフィーナは何も言わなかった。
ただ、痛みに耐えるように目を伏せた。
レオンは看守を呼び、牢を出た。
扉が閉まる直前、彼女の声が聞こえた。
「あなたは、まだ死ななくていい人です」
足が止まりかけた。
三年前と同じ言葉。
彼女は覚えているのか。
それとも、ただ偶然同じ言葉を口にしただけなのか。
レオンは振り返らなかった。
振り返れば、審問官ではいられなくなる気がした。
*
地下監獄を出ると、夜風が冷たかった。
王都の空には薄い雲がかかり、月がぼんやり滲んでいる。
レオンは外套の襟を直し、監獄塔の石段を降りた。
その時、塔の門前に停まっている馬車に気づいた。
黒塗りの車体。
王家の紋章。
護衛の数は少ないが、身なりがいい。通常の近衛ではない。私兵だ。
馬車の横に、一人の男が立っていた。
濃紺の外套。
灰色の髪。
鋭い鷲鼻。
王弟ギルベルト・レグナ・エルディア。
現国王の弟であり、王位継承権第二位の男。
彼は看守長から何か報告を受けていた。距離があるため声は聞こえない。だが、看守長が深く頭を下げ、ギルベルトが短く頷くのは見えた。
次の瞬間、レオンはその表情を見た。
ギルベルト王弟は、安堵していた。
怒りでもない。
悲しみでもない。
勝利の笑みですらない。
ただ、胸のつかえが下りたように、静かに息を吐いていた。
聖女が黙っている。
聖女は罪を認めたままだ。
七日後に処刑される。
そのことに、彼は安心している。
レオンは石段の途中で足を止めた。
夜風が外套を揺らす。
処刑台。
黒塗りの記録。
消えた監察官。
遺品のない騎士。
沈黙する聖女。
安堵する王弟。
点はまだ線にならない。
だが、点がある。
それだけで十分だった。
レオンは審問官である。
嘘を暴くのが仕事だ。
たとえその嘘が、王と神の印で封じられていたとしても。
「七日か」
彼は小さく呟いた。
聖女セラフィーナの処刑まで、あと七日。
それは、王国が彼女を殺すまでの時間。
そしてレオン・アルバートが、この裁判の縫い目をすべて暴くまでの時間だった。




