深淵で交わる二つの痛み
アサヒ ― 森吉山・深淵 ―
ギンジロウは干し肉を一口噛みしめ、そのままゆっくりと語り始めた。
ギンジロウ「名前はキンコ。女房はキンコを産んだ後、死んだ」
その声はいつもの豪快さとは違い、山の奥に沈む岩のように重かった。
ギンジロウ「俺の女房とは40歳で結婚した。高齢出産だから前置胎盤・癒着胎盤になって、帝王切開の必要が出たんだ。
リスクのある出産だったが、それでも医者は頑張った。だが手術中に魔物が病院に襲いに来てな……」
ギンジロウは視線を落とした。干し肉を持つ手が、わずかに震えている。
ギンジロウ「それでも、医者は最後まで手術をやめなかった。魔物が手術室を破った時も、逃げずにだ。
結果、俺の女房は医者共々殺されちまった。だけど、キンコだけは何とか助かった」
森の風が止まり、空気が重く沈む。
ギンジロウ「みんな、奇跡とか言っていたが、それは違う。女房と医者たちの尽力だと思っている。決して奇跡ではない。
それなのに、俺は魔物にぶっ飛ばされて手術室への侵入を阻止できなかった。ただ片目を失っただけで、何もできなかった」
ギンジロウは片目を細め、悔しげに唇を噛んだ。
ギンジロウ「だから俺は男手一つで必死にキンコを育てた。生き残った俺にできるのはそれくらいだけだった。
だけど大巫女に選ばれちまった。俺は反対したんだがな。キンコは勝手に家から飛び出して行っちまって、それっきりだ」
ギンジロウは干し肉を噛むのをやめ、遠くの森を見つめた。
ギンジロウ「二年後くらいに巫女さんが来て、キンコが邪神王に殺されたと聞かされた」
ギンジロウは深く息を吐いた。
ギンジロウ「聞いた話だと、キンコは囮として仲間たちが逃げる時間を稼ぐために邪神王と戦った。だが邪神王がその威勢が気に入らず、キンコを邪神化させて仲間と殺し合いをさせたんだ」
森の奥で鳥が一羽だけ鳴いた。その声がやけに遠く聞こえる。
ギンジロウ「一人だけ、生きて帰って来た子がいたらしくてな。その子から巫女さんはキンコの様子を聞いていたらしいが、生き残った子は、死んだ仲間の後を追うように自殺した。仲間を守れなかった罪悪感に耐え切れなかったんだってよ。
キンコが邪神王と戦かった意味が無くなっちまったと思ったな」
ギンジロウは悲しい眼差しで森を見つめた。その瞳は獣の鋭さではなく――
父親の痛みだった。
ギンジロウ「キンコは猟師に向かないほど優しい奴だった」
ギンジロウは微笑んだ。だがその笑みは、すぐに哀しみに沈んだ。
ギンジロウ「怪我した小鳥を拾ってきて、俺に『治してあげて』って泣きながら頼んだことがある。あいつは、そういう子だったんだ」
風が吹き、針葉樹の枝が揺れた。
ギンジロウ「夢はお医者さんとか言っていたんだ。そして結婚して、孫を見せてあげたいと俺に言っていた。
それなのに、大巫女になりやがった。人々が困ってるならって言ってな」
ギンジロウは拳を握りしめた。
ギンジロウ「ぶん殴ってでも止めるべきだった。だけど、俺にはできなかった。キンコの優しさを、否定する覚悟が無かったからだ」
その声は震えていた。
ギンジロウ「その結果、あいつは邪神化し、仲間を自分の手で殺して人々の平和を脅かす存在になっちまった」
ギンジロウは俯き、自嘲するように笑った。
ギンジロウ「だから俺が終わりにしなくちゃいけないんだよ。これ以上、キンコを苦しませない為にな。その為に俺は二十年もあいつを探し続けて、やっとここまで来た」
そして、静かに言った。
ギンジロウ「だが、まだ決意が揺らいでいたとは…情けないな、俺は」
俺は黙って聞いていた。ギンジロウの肩がわずかに震えているのが見えた。
ギンジロウ「動物は大人が子供を守るのに、どうして俺たち人間は子供が大人を守るようになっちまったんだろうな……」
その言葉は、森吉山の深淵に沈んでいった。
俺は手にした干し肉を見つめた。鹿の肉特有の鉄の匂いが、森の湿った空気に混じる。
そして静かに呟いた。
アサヒ「神様ってのは、神聖な少女を好むらしい。だから少女は力を宿すことができる。だけど……」
言葉を切り、干し肉を豪快に噛み千切った。歯に伝わる硬さが、胸の奥の苛立ちを刺激する。
アサヒ「んなもん知るかよ!!」
叫んだ瞬間、ギンジロウが驚いたように目を見開いた。その表情は予想外の音に反応した時のようだった。
俺は続けた。
アサヒ「もう女の子に守られるのは懲り懲りだ!!神に選ばれなくても俺は戦う!!そして邪神王に勝つ!!」
森の奥に響く声は、湿った空気を切り裂いた。
アサヒ「神がいなくても、自分の力で勝てると世界に証明する!!そうすれば、子供が戦わない世界になるだろ?」
干し肉をギンジロウへ向けて突き出す。
アサヒ「俺の革命は大人たちへの期待が軸だ。あんた達大人が動けば、世界は変わる」
ギンジロウは黙って俺を見ていた。
アサヒ「ギンジロウ。あんたは今、動いている。その時点ですでに世界は変わっている」
風が吹き、針葉樹の枝が揺れた。その音が、俺の言葉を肯定するように響く。
アサヒ「故に迷うことなく誇れ。
そうすれば、失われた命に意味を与えることができる」
ギンジロウは干し肉を握ったまま、しばらく動かなかった。
森吉山の深淵で、二人の影が静かに揺れた。
ギンジロウの表情が、ふっと明るくなった。さっきまでの重苦しい空気が、少しだけ軽くなる。
ギンジロウ「だはははははっ!!!面白い奴だなお前は!!」
豪快な笑い声が森に響き、針葉樹の枝が揺れた。その揺れは、山が笑っているようにも見えた。
ギンジロウは空を見上げた。薄い雲が流れ、太陽の光が差し込む。
ギンジロウ「誇れ、か。子供のくせに生意気な…だが、悪くない気分だ。流石、旭将軍」
その声は、どこか誇らしげだった。そして――静かに呟いた。
ギンジロウ「生きろよアサヒ。お前は俺とは違い、家族がいるんだからな」
俺は首を傾げた。
アサヒ「何を言っているんだ?俺に家族はいない。みんな死んだぞ?ユウマ大尉から聞いていなかったのか?」
ギンジロウは豪快に笑った。
ギンジロウ「だははは!何を言う!アキナという未来の女房がいるではないか!!アキナはお前に惚れていることぐらい、分かるぞ?」
その言葉に、俺は一瞬だけ固まった。
アサヒ(そういえばアキナにすっげえ見られた時があったな……)
アキナがごろつきが殺されないようにギンジロウへ交渉している時だ。
いつも綺麗事ばかり言っていた彼女が、論理的に、冷静に、ギンジロウを納得させていた。
あれは――
通常のアキナなら有り得ないことだ。
アサヒ(成長、したんだな……)
その瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなり、うっかり微笑んでしまった。それをアキナに見られてしまい、ガン見されてしまった。
明らかに、アキナは俺の正体を知っているようだった。
アサヒ(いや、今はそれを考えている状況ではないか)
俺は干し肉を握り直し、ギンジロウへ向き直った。
アサヒ「悪いが、俺は誰とも付き合おうとは思っていない。生涯独身を貫くことに決めている。結婚は面倒くさいからな」
森吉山の風が吹き抜ける。典型的な理由を答えたつもりだった。だが、ギンジロウは即座に見抜いた。
ギンジロウの表情が、ふっと鋭くなる。
ギンジロウ「違うな。お前……死ぬつもりだろ」
空気が一瞬で冷えた。森吉山の風が止まり、木々の影が動かなくなる。
俺は口を閉じたまま、ただギンジロウを見返した。
アサヒ「………」
沈黙が重い。ギンジロウは容赦なく踏み込んできたのだ。
俺は呆れたように息を吐いた。
アサヒ「死ぬ?何を言っているんだギンジロウ。俺は死ぬつもりはない」
ギンジロウは俺を睨みつけた。その眼光は、獣が嘘を嗅ぎ取った時のそれだった。
ギンジロウ「アサヒ。俺に嘘は通用しないぞ」
ギンジロウは干し肉を握りしめ、低く、獣の唸りのような声で続けた。
ギンジロウ「それにお前が食べていた金平糖。砂糖の匂いはしなかった。
その代わり、薬の匂いがしていた。苦くて不味そうな匂いだ」
胸の奥がわずかに跳ねた。
ギンジロウは、さらに言葉を重ねる。
ギンジロウ「かつて俺の親父も飲んでいた薬と同じ匂いだ。あの薬は細胞の壊死を抑えるものだった。
どうしてお前がそれと似たような薬を使っているんだ?」
ギンジロウの眼光は、俺の嘘を完全に見抜いていた。
アサヒ(下手に誤魔化せば、今度はアキナへ聞くだろうな。そうなればアキナはあらゆる手段を使って真実を知り、俺を看護する為に外へ出させないだろう)
俺はため息を吐き、嫌々ながら口を開いた。
アサヒ「分かった。あんたは自分の秘密を話したんだから、俺も話してやる。
寿命が、無いんだよ……」
ギンジロウの表情が止まる。
俺は続けた。
言いたくない。
でも、言わなきゃいけない。
アサヒ「だから、薬を使って……
無理矢理、延命させているんだ」
その言葉を吐いた瞬間、胸の奥がひどく重くなった。
ギンジロウは干し肉を握ったまま、ただ俺を見つめていた。
森吉山の風がようやく吹き始めた。その風は冷たく、どこか哀しかった。




