痛みと成長①
アサヒ ― 森吉山・深部 ―
一人のごろつきを逃したと気づいた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。内側を刺すような、鋭い冷たさだった。俺は舌打ちし、双眼鏡をわずかに下げた。
アサヒ「チィ…一人逃した」
自分の判断の甘さが痛かった。アキナが一人を庇い、もう一人はいつの間にか姿を消していた。
アサヒ「俺としたことが…」
ギンジロウは猟銃の構えを解き、もう一丁の猟銃を取り出し――
白い弾を込め始めた。
ギンジロウ「いいや、アサヒ」
ギンジロウは前方の森を見据えたまま言った。その声は低く、山の男らしい重みがあった。
ギンジロウ「あのごろつきは逃げ切ったんじゃない。目に見えない速さで魔物に食われたんだ」
その言葉はあまりにも突飛で、一瞬、耳を疑った。
アサヒ「目に見えない速さだと?それなら何故、魔物の仕業だと分かるんだ?」
ギンジロウは弾を装填しながらゆっくりと口角を上げた。その笑みは人間のものというより、獲物を見つけた獣のそれに近かった。
ギンジロウ「決まっている。あの魔物は俺の獲物だからだ。その為に、俺はここへ来たんだよ」
風が吹いた。森吉山の土と広葉樹の匂いを含んだ風だ。その風が、ギンジロウの言葉を肯定するように俺の頬を撫でていった。
ギンジロウの背中は人間のそれではなかった。獣の理を知る者の背中だった。
俺は息をひとつ吐き、双眼鏡を再び目に当てた。
森は静かだ。だが、その静けさは死の気配を孕んでいる。
アサヒ「……行くぞ、ギンジロウ」
ギンジロウは白い弾を込め終え、猟銃を構えながら、獣のような笑みを浮かべた。
ギンジロウ「おうよ。狩りの時間だ」
森吉山の深部で、二人の影が静かに動き出した。
アキナ ― 森吉山・川沿いの桜並木 ―
私は立ち上がり、男を守るように一歩前へ出た。背後で男が怯えた声を漏らし、私の背中にしがみつく。その震えが、服越しに伝わってくる。
トウカちゃんはすでにモンハナシャコを召喚し、拳銃を形成していた。その動きは鋭く、迷いがない。彼女の視線は魔物に向けられ、眉がわずかに寄っている。
トウカ「魔物!?気配すら感じなかった!!」
トウカちゃんの声が震えていた。それほどまでに、この魔物は異質だった。
魔物は、嘲笑った。
身体は猿。
顔は黒い長髪の女。
そして、目が――たくさん。
そのすべてが、鋭く光り、私たちを見ていた。
その手には、逃げ切ったと思っていた男の“下半身”がぶら下がっていた。血がぽたぽたと落ち、川沿いの土を赤く染めていく。
胸がぎゅっと痛くなる。息が詰まり、視界が少し白くなる。
アキナ(食べられた……あの人……もう……)
魔物は笑った。
その笑みは、私の優しさを嘲るようで、私の心を壊そうとするみたいだった。
魔物「キッ!!」
魔物が声を上げた瞬間――
足が石になった。ううん、違う。足元から石化していった。
私だけじゃない。トウカちゃんも同じように、石化が広がっていく。
アキナ「このっ!」
私は破壊神の力を全身に発動した。身体の奥が熱くなり、石化が砕け散るように解けていく。
トウカ「嘘…!石化してる!?」
トウカちゃんの声に反応して振り向く。彼女の下半身はすでに石になっていた。石化は胸まで迫り、動けない。逃げられない。
アキナ「トウカちゃん!!」
私は駆け寄ろうとした。
破壊神の力なら、魔物の魔法も壊せる。
でも――
アキナ(私の肌に触れないと、壊せない……!早く……早く触れないと……!)
私はトウカちゃんへ向かって走り出した。
その瞬間――
ガシッ!
背後から、男に抱きしめられた。
ごろつきD「俺を守るって言っただろ!?離れるなよ!!」
突然の力に身体が止まる。腕が動かない。トウカちゃんの方へ行けない。
アキナ「でも!それだとトウカちゃんが!!」
ごろつきD「知るかよ!!市民の為に死ぬのが神祓特務隊の仕事だろ!!税金を払ってるんだから、きちんと俺を守れよ!!」
胸の奥がズキリと痛くなる。
苦しい。
でも――この人も、守りたい。
パキン…
石化の音が止まった。
トウカちゃんの石化が――終わったんだ。
アキナ「トウカ……ちゃん……?」
振り向くと、トウカちゃんは驚いたまま固まっていた。全身が石になり、動けない。表情だけが、必死に私を見ている。
私は――守れなかった。
その事実が胸に突き刺さり、思考が止まった。
アキナ(どうして……どうして、こんな……)
その隙を、魔物は見逃さなかった。
黒い長髪の女の顔が、
猿の身体が、
たくさんの目が、
鋭い歯が――
私に向かって襲いかかってきた。
魔物の影が、桜の影を飲み込むように迫ってくる。私は男を抱えたまま、動けなかった。
胸の奥が、ひどく痛かった。
パァンッ
乾いた銃声が、桜並木の静けさを裂いた。その瞬間、空気がわずかに震え、私の肌に別の魔力が触れた気がした。
魔物の右腕に白い弾丸が命中し、肉が裂ける音が響く。
魔物「ギッ!?」
私は息を呑んだ。あの魔力は――忘れようにも忘れられない。
アキナ(この魔力は……ギンジロウさんが、私と戦った時に撃った弾丸と同じ……)
男たちを撃った時の弾丸は普通の弾だった。でも、今の弾は違う。ギンジロウさんが二丁の猟銃を持っていた理由が、今ようやく理解できた。
普通の弾丸用の猟銃と、魔力を纏った白い弾丸用の猟銃に分けていたんだ。
その白い弾が、魔物の腕を撃ち抜いた。
魔物「ギガァア!!」
魔物は怒りに身を震わせ、黒い長髪を蛇のように伸ばした。その髪は、石化したトウカちゃんへ向かって一直線に伸びる。
アキナ「トウカちゃん!!」
叫んだ時にはもう遅く、髪は彼女の身体に巻きついていた。
アキナ(連れ去られる!!トウカちゃんが……!!)
私は駆け出そうとした。
でも――
ガシッ
背後から、また男に腕を掴まれた。その力は必死で、恐怖に満ちていた。
ごろつきD「だから離れるなって言っただろ!!」
アキナ「でも……!」
声が震える。
守りたい。
でも…
パァンッ
再び銃声が響いた。しかし、もう遅かった。
魔物の姿は消えていた。
そして――
石化したトウカちゃんも、いなくなっていた。
桜の花びらがひらりと舞い落ちる。その一枚一枚が、私の肩に触れた。
私は――また、トウカちゃんを守れなかった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、
息が詰まり、
世界が少しだけ白くなる。
アキナ(どうして……
どうして、こんなことに……)
桜は静かに揺れていた。
まるで泣いているみたいに。




