壊れる心
トウカ ― 路地裏 ―
ガサガサッ
髪喰いババァ「髪どこ!?髪は!?」
路地裏の薄闇の中、髪喰いババァがゴミ箱を荒々しく漁っていた。
アサコと別れてからしばらく歩いたはずなのに、気づけばこんな場所に迷い込んでいる。
トウカ(アサコが心配ね……)
胸の奥でひとつだけ温かいものが揺れた。でも、その温度はすぐに別の感情に飲み込まれる。
アキナさまが、壁に手をついて咳き込んでいた。
アキナ「けほけほっ!」
ヒマリさまが背中を撫でる。
ヒマリ「大丈夫アキナ?」
その声は優しいのにどこか遠い。触れているはずなのに、心だけ別の場所に置き去りにしているような、そんな手つき。
私はその光景を、ただ見つめていた。
トウカ(あの時……)
アサヒクローンを見ただけで怯え、許しを乞うアキナさま。あの凛々しくて、優雅で、誰よりも強かったはずの人が。
トウカ(これが……ずっと私が憧れていた人なの?)
胸の奥に黒い染みが広がる。それは感情というより、世界の色が変わる音に近かった。
――スニーアの声が、脳裏で反響する。
スニーア「アキナはみんな大好きとか言いながら、本当は誰も愛したことなんて無かったんでしょ?
ただ自分の存在価値を見出したいだけの寂しがり屋。
だけど、アサヒとの出会いで、愛を知った」
世界を壊す魔王に心を奪われた少女。
その言葉が、まるで呪いのように胸に刺さる。
トウカ(……失望した)
初めて、アキナさまを否定した。
その瞬間、路地裏の影がゆっくりと揺れた。私の心の形に合わせて歪んでいくみたいに。
トウカ(はっ!駄目だ!!アキナさまを否定しては駄目!!)
私は首を振る。
否定してしまえば、私が信じてきた全てが崩れてしまう。
そんなの、嫌だ。
そんなの、耐えられない。
トウカ(そうだ!アキナさまは、きっとまだアサヒの洗脳が残っているんだ……!)
私は必死に言葉を紡ぐ。
トウカ「ヒマリさま。きっとアキナさまはアサヒの洗脳が残っているんです。本部へ連れて行ってトモエさまに治してもらいましょう」
ヒマリさまは、アキナさまの背を撫でたまま、動かない。
ヒマリ「……」
返事はない。
でも、その沈黙は“優しい拒絶”だった。
言葉じゃなく、空気で分かる。ヒマリさまの沈黙は、私の願いをそっと押し返してくる。それは、私の信じている世界が、もうどこにも存在しない
と言われているみたいだった。
影が、またひとつ揺れた。
世界は動いているのに、私だけが取り残されていく。
胸の奥の黒い染みが、音もなく広がった。
髪喰いババァ「ひぎゃああ!ヘビィイ!!」
突然、髪喰いババァが頭を押さえてのたうち回った。路地裏の空気が一瞬だけざらついた。
ポトッ
白い何かが落ちる。
落ちた瞬間、周囲の影が一拍遅れて揺れた気がした。
トウカ「これは、もしかして…」
天の巳――トモエさまが語っていた、世界を救う儀式に必要な神使。
初めて見るはずなのに、胸の奥がざわりと震えた。“これが現れた理由”を理解した瞬間、世界の色がひとつ変わる。
アキナさまが天照の転生者だから。その事実が、路地裏の薄闇を淡く照らす。
ヒマリ「ほらっ!ボサッとしてないで早く捕まえるよ!!」
その声に、思わず身体が跳ねた。
トウカ「はっ、はい!」
返事をした自分の声が少し遅れて耳に届く。
アキナ「わっ、私も…」
アキナさまが立ち上がろうとする。
弱々しく、折れそうで、触れたら壊れてしまいそうなほど脆い。
ヒマリ「アキナはそこで休んでいて」
ヒマリさまは優しく微笑む。
そして私とヒマリさまは、逃げる天の巳を追って路地裏を駆ける。
角を曲がった先――
茶色の薄手コートを着た男女が立っていた。
眼鏡をかけた女性「やはり魔族は旧創造神唯一派と手を組んだか…ん?」
青年「子供?」
眼鏡をかけた女性「その制服… 神祓高校の学生?」
青年の手には、天の巳。捕まえられた白蛇は静かに身をくねらせている。
トウカ(民間人?)
トウカ「すみません!その蛇をこちらに渡して下さい!」
手を伸ばした瞬間――
ヒマリ「サユリ…さん?」
ヒマリさまの声が震えた。
その震えは恐怖でも驚愕でもなく、もっと複雑な色をしていた。
トウカ「サユリ…?まさか、川波サユリ!?」
川波サユリ。
アサヒが結成した武装組織、旭軍の幹部。
トウカ「このテロリストが!!」
その言葉を吐き出した瞬間、
空気がきしむ。
影が伸びる。
世界が、私の怒りに合わせて歪んでいく。
私はモンハナシャコを召喚し、拳銃を形成して構えた。指先が震えているのに、銃口だけはまっすぐだった。
青年「少佐!下がって下さい!!」
青年がサユリを庇うように前へ出る。その動きに迷いがなかった。
ヒマリ「待ってトウカ!」
ヒマリさまの声が届く。でも、届くだけで止まらない。心の奥で何かが切れていた。
トウカ「死ね!人類の裏切り者!!」
ダンダンダンッ!
銃声が響いた。
青年「旭道初段!」
トウカ「…え?」
その言葉を聞いた瞬間、思考が止まった。
“旭道初段”――
神術監クラスでなければ扱えない、極めて高度な奥義。
ただの青年が、そんなものを?
紫色のオーラが青年の身体から立ち上る。
青年は腰からナイフを抜き、迫り来る銃弾を“切り裂いた”。
その動きは速すぎて、身体が追い付いていけない。次の瞬間、私は地面に押さえつけられていた。
トウカ(そんな……)
動きは見えていた。でも、身体が追いつかなかった。
トウカ(こんなこと、あり得ない)
ただの男が、旭道を使い、しかも一瞬で私を拘束した。
トウカ(それなら私を、殺せた筈だ。それなのに……)
青年の手は、致命的な力を加えていない。“明らかに手加減されている”と分かる。
その事実が、胸を刺した。
私はトモエさまに選ばれた大巫女。
神の力を授かった、特別な存在。
努力して、努力して、
血を吐くほど鍛えて、
ようやくここまで来た。
それなのに――
トウカ(ただの男に……負けた。しかも、手加減されて)
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
世界の色が、またひとつ落ちる。
影が濃くなる。
空気が冷える。
トウカ「このっ!触るなぁあ!!」
必死で身体を捩る。
けれどアサガオ玖の腕は鉄のように硬く、逃げ場はどこにもなかった。私の抵抗は、ガラスを叩く音みたいに虚しく響くだけ。
ヒマリ「大丈夫だよトウカ。彼女たちは、私たちに危ないことはしないから」
ヒマリさまの声は優しい。優しいのに、どうしてこんなに冷たく感じるのだろう。
その冷静さが私の心をじわじわと侵食していく。
トウカ(私が負けるのは当然だと思っているの…?そんな風に私を見ていたの……?)
胸の奥で、何かがひび割れた。
大巫女としての矜持。
努力して積み上げてきた自分。
その全てを、ヒマリさまの沈黙が否定していく。
サユリ「……アサガオ玖。その子から離れろ」
アサガオ玖「了解」
アサガオ玖の手が離れた瞬間、私は反射的に銃口を向けた。
だが、次の瞬間にはもう――
アサガオ玖はサユリの横に立っていた。
トウカ(速い……!)
アサヒクローンよりも、明らかに速すぎる。
トウカ「どうして、お前たちは旭道を使えるの!?」
叫びは震えていた。
怒りか、恐怖か、屈辱か。
自分でも分からない。
サユリ「知りたければヒマリさんに聞けばいいわ。私たちは時間が無いから帰らせてもらう。
アサガオ玖。天の巳を渡してあげて」
アサガオ玖「了解」
アサガオ玖が天の巳をヒマリさまへ渡す。
その動作は軍人のように正確で、無駄がなかった。
ヒマリ「何か、企んでいるの?」
ヒマリさまの問いかけは柔らかい。けれど、その奥には確かな警戒があった。
サユリ「貴女たちが持っていた方が都合がいいだけよ」
その声は機械のように冷たく、感情の温度が感じられなかった。
ヒマリ「サユリさん。まだ、戦い続けるの?」
ヒマリさまの声が震える。
悲しみが滲んでいた。
サユリ「ええ。子供たちが戦うことの無い世界になるまでは、私たちは戦い続ける。例え肉体が滅びようと…諦めない。アサヒ君がいなくても、旭軍は不滅よ」
その言葉は祈りのようで、呪いのようでもあった。
ヒマリ「それは妹さんが望んでいないことだよ?サユリさんが苦しむところなんて、見たくないよ…」
サユリ「それは貴女たちにも言えることよ。大巫女になっても、私たちにとって、貴女たちは子供であることに変わりない。戦いは、私たち大人が背負うもの。それが間違いだというなら、認めさせるまで戦う。それだけよ」
サユリが深く息を吸い、吐く。
その瞬間、空気が震えた。
サユリ「旭道初段」
紫色のオーラがサユリの身体から立ち上る。
トウカ(サユリまで、使えるの!?)
サユリやアサガオ玖が旭道を使えるということは、他の人も使えるのかもしれない。
トウカ(もしかしたら、旭軍全員が旭道を!?)
世界が揺れる。
影が伸びる。
私の中の“常識”が、音を立てて崩れていく。
サユリ「ヒマリさんがどう思おうが、対話なんて無駄。さよなら」
サユリとアサガオ玖は重力を無視するように高く跳び、空の向こうへ消えていった。
残されたのは、
静寂と、
敗北と、
胸の奥に沈む黒い塊だけ。




