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雪解け

 アサコ ― 去年の冬 武山の屋敷 ―


 真冬の畳は、氷みたいに冷たかった。

 吐く息が白くなるほどの寒さなのに、部屋の真ん中に敷かれた布団だけは、妙に生々しい熱を帯びていた。その熱は、病に侵された老人の身体から漏れ出ているものだった。


 カツヤ爺さんは、布団の中で丸まったまま、獣みたいに喉を鳴らしていた。


 カツヤ「ゴホッ……ゴホッ……!」


 咳の音が古い木造の屋敷に乾いた反響を返す。この山奥の道場は、もう何十年も人が寄りつかない。風の音と爺さんの咳だけがやけに大きく聞こえる。


 魔族が日本に攻めてきたときに持ち込んだ病――。

 人間には治せない、不治のやつだ。

 山の空気を吸っても、神社で祓っても、どうにもならない。



 カツヤ爺さんは喉の奥で石が転がるみたいな音を立てながら、ゆっくりと言葉を吐き出した。


 カツヤ「アサコ、お前……トモエさまとアキナさまからの神祓特務隊のお誘いを、また断ったらしいな」


 その声は昔みたいに怒鳴る力もなくて、ただ乾いた風みたいに弱かった。

 私は正座したまま、爺さんの横顔を見つめた。頬はこけて、皮膚は紙みたいに薄くなっていた。


 カツヤ「可愛い女の子が好きなお前が、あのお方の誘いを断るなんてな……」


 爺さんは苦しそうに笑った。その笑い方が昔と同じで、胸が痛んだ。


 アサコ「確かに私は彼女たちをナンパしたし、山を降りて一緒にレストランで楽しくしたよ。だけど、それでもカツヤ爺さんが大事なの」


 言いながら自分の声が震えているのが分かった。

 寒さのせいじゃない。

 爺さんの布団から漂う熱と部屋の冷気の差が、妙に現実味を帯びて胸に刺さった。


 私は爺さんの横で正座を崩さずにいた。

 この人は、私の命の恩人だ。


 私は“前神術総監のアサヒクローン計画”の失敗作として生まれた。旭道を使える大巫女を量産するために作られた、ただの素材。


 だけど私は失敗した。

 旭道は使えない。

 神使にも選ばれない。

 ただの出来損ない。


 そんな私を山奥に捨てた連中は、きっと名前すら覚えていないだろう。

 魔物に喰われかけていた私を救ったのが、カツヤ爺さんだった。


「寂しかったからだ」と、爺さんは笑っていた。

 神武剣流派は神を超える剣という理由で世間から忌み嫌われていた。神を絶対とするこの国で、神を超える技を受け継いだ男は、迫害されるしかなかった。


 江戸の頃には全国にあった道場も、明治になって全部潰された。

 今残っているのはこの山奥のボロ道場だけ。

 弟子は、私ひとり。


 爺さんはみんなを守るために神を超えようとしたのに、人々は爺さんを“神への反逆者”として扱った。


 その爺さんが私を拾ってくれた。

 出来損ないの私を、弟子にしてくれた。


 だから私は爺さんを置いていけない。この道場が朽ちるなら、一緒に朽ちるつもりだった。


 でも――。


 爺さんの咳がまた部屋に響いた。その音は木が折れる音みたいに聞こえた。


 この病は魔族が侵略してきたときに広まった不治の病だ。

 人間には治せない。

 病院に連れて行っても、厄介払いされた。


 だから私は、ただ爺さんと道場が朽ちていくのを見届けるしかなかった。


 その現実が胸の奥でじわじわと広がっていく。冷たい畳の上で、私は拳を握りしめた。


 カツヤ「そう……気を悪くするな。アサコ」


 カツヤ爺さんの声は、薪が燃え尽きる前に立てる最後の音みたいに細くて弱かった。

 それでも、目だけは昔のまま、まっすぐ私を射抜いていた。


 カツヤ「私に、恩返しがしたいのだろう?だが、先の無い老人に恩を返したところで、何も残らない」


 胸の奥が、ぐっと縮んだ。

 爺さんはいつだってこうだ。自分のことなんてどうでもいいみたいに言う。


 アサコ「だからって、カツヤ爺さんを見捨てるなんてできない」


 言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。

 情けない。

 私はいつも、助けられてばかりだ。


 カツヤ爺さんはしばらく天井を見つめていた。古い梁の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。その風に、カツヤ爺さんの白髪がかすかに揺れた。


 カツヤ「そうだな……それなら、恩送りだと思って、彼女たちを救ってやってくれ」


 私は顔を上げた。

 カツヤ爺さんの言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。


 アサコ「トモエとアキナのこと?」


 カツヤ「ああ。私には、もう未来は無い。しかし、彼女たちの未来は続く」


 カツヤ爺さんは、ゆっくりと息を吐いた。その息は、白くもならず、ただ薄く消えていった。


 カツヤ「それに……」


 カツヤ爺さんの視線が、また天井へ向いた。まるで、そこに誰かがいるみたいに。


 カツヤ「トモエさまとアキナさまが、アサコの神武剣流を見込んで必要とされたことが……嬉しかった」


 その言葉は胸の奥にずしりと落ちた。

 爺さんは、弱々しく笑った。その笑みは、昔、私が初めて木刀を振れたときに見せてくれた笑顔と同じだった。


 カツヤ「私の弟子が、神に認められた。それは、私の教えが正しかったということだ。

 そして、その教えに導かれたアサコも、正しかった……」


 爺さんの声が、かすかに震えた。

 私は息を呑んだ。

 カツヤ爺さんがこんな顔をするのを、私は一度も見たことがなかった。


 カツヤ「これほど嬉しいことは無い。ありがとう、アサコ。

 お前は、最後にちゃんと恩を返したんだ」


 カツヤ爺さんの手が、布団の上から私の手を探すように伸びてきた。

 その手は、昔よりずっと軽かった。


 カツヤ「それでも足りないと思うなら……自分を必要としている子を助けてあげなさい。

 それが、恩送りだ」


 その言葉は、静かに、でも確かに私の胸に刻まれた。

 外では風が吹いていた。古い道場の壁が、ぎしりと鳴った。


 私は爺さんの手を両手で包み込んだ。その温もりは、もう長くは続かないと分かっていた。


 ゴォオオオオオッ――。


 真冬の山に似つかわしくない、獣の咆哮みたいな炎の音が響いていた。

 カツヤ爺さんの屋敷は乾いた木材から順に崩れ落ち、火の粉が雪の上に散っていく。

 私は、その光景をただ黙って見ていた。


 アキナが、背後からそっと声をかけてきた。


 アキナ「……屋敷を燃やして、本当に良かったの?」


 振り返るとアキナは眉を寄せていた。その表情は、寒さよりも迷いの色が濃かった。


 アサコ「カツヤ爺さんのお願いだからな」


 自分で言いながら胸の奥がじんと痛んだ。

 魔族の病は動物に移れば山全体が死ぬ。爺さんはそれを分かっていた。だから、自分ごと焼けと言った。


 そして――その言葉を残して、息を引き取った。


 トモエが私の隣に立つ。炎の赤が、彼女の横顔を照らしていた。


 トモエ「それにしても、魔族のウイルス……ルナウイルスに感染しないなんて、驚いたわ。アサコ」


 アサコ「……」


 トモエ「やっぱり、あなたがアサヒのクローンだからかしら?」


 トモエはまるで計算が一つ進んだとでも言いたげに微笑んだ。その笑みは焚き火に手をかざすみたいに、どこか冷たかった。


 アサコ(私はトモエの思い通りに動いているのかもしれない)


 トモエが私に近づく理由は分かっている。

 天陽地照――神武剣流の奥義を私から引き出すためだ。

 彼女はそれを隠そうともしない。


 それでも構わない。

 私にとって大事なのは、爺さんの願いだけだ。


 アサコ「行こう」


 私は炎に背を向けて歩き出した。

 雪が、足の下でぎゅっぎゅっと鳴る。


 カツヤ爺さんに返せなかった恩を、

 助けを求める誰かに渡すために。


 それが、カツヤ爺さんの言った“恩送り”だ。


 背後で屋敷が崩れ落ちる音がした。

 炎の光が雪を溶かし、蒸気が白く立ち上る。

 その光景が、まるでカツヤ爺さんが「行け」と背中を押してくれているように見えた。


 悲しみよりも、胸の奥に灯った温かさの方が強かった。


 私はもう、立ち止まらない。

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