第八話 一九九三〜一九九四年 【二つ目のボタンと、未踏の譜面】
一九九三年、夏。高校一年生のコンクール。
松本蒼峰高校吹奏楽部は、県大会のステージに立っていた。
浩平の吹くトランペットのソロは、中学生の頃の真っ直ぐさそのままに、経験を重ねた『大人の色気』と深みを帯びていた。
瑞々しく、どこまでも優しい音色。ステージ上でその音を背中に浴びながら、真由子の胸は張り裂けそうだった。
(浩平先輩の音が、眩しい……)
この人と一緒にいれば、きっと穏やかで優しい未来が待っている。彼の背中に隠れて、『ずっと一緒にいたい』と甘えてしまいたくなる自分が、たしかに存在していた。
——でも。
二回目の人生は、私の足で歩きたい。誰かの所有物になるのではなく、自分の名前で生きていきたい。
コンクールの結果は、県大会で「銀賞」。
次のステージには進めない、完全燃焼できないまま終わる、中途半端な結果だった。
翌日。浩平の部屋で、真由子は彼に別れを告げた。
涙をこらえ、真由子の「自立したい」という決意を静かに受け止めてくれた彼の横顔を、真由子は一生忘れないだろうと思った。
そして季節は巡り、一九九四年、春。卒業式。
喧騒に包まれる体育館の裏手で、真由子は浩平と向かい合っていた。
「真由子。……俺、国立は届かなかったけど、東京のK大に合格した。春から東京に行くよ」
「……おめでとうございます。先輩なら、絶対大丈夫だと思ってました」
浩平は少し大人びた苦笑いを浮かべ、学生服の第二ボタンを引きちぎった。
「真由子のこと、本当に好きだった。……今でも、好きだよ。だから、このボタンだけは、中学の時と同じように、真由子にもらってほしい」
浩平の真っ直ぐな瞳に、真由子の視界が滲んだ。
別れた彼女に対して、こんなに誠実な思いを向けられる彼だからこそ、真由子は彼を愛したのだ。彼を振った自分のエゴの深さを噛み締めながら、真由子は震える手でそのボタンを受け取った。
「……じゃあ、さよなら。ありがとう」
「……こちらこそ。ありがとう、浩平先輩」
春の風の中、背を向けて歩き出す初恋の少年の背中を、真由子は最後まで見送った。
四月。真由子は高校二年生になり、希望通り『理系』のクラスへと進んだ。
ここから先は、一度目の人生(文系クラス)とは交わらない、完全に未踏の未来だ。
理系クラスは圧倒的に男子の数が多く、女子は少数派だった。しかし、数が少ないがゆえに女子同士の結束は固く、サバサバとした雰囲気は意外なほどに居心地がよかった。
とはいえ、勉強には苦労した。理科を二科目並行して高いレベルでこなすのは、一度目の人生で文系だった真由子の脳にはかなりの負荷がかかった。
だが、暗記地獄となる文系の社会二科目に比べれば、論理で解を導き出せる理系科目のほうが、真由子にとってはよほど苦痛が少なかった。
「総じて、私には文系より理系の方が向いているんだな」
深夜の机に向かいながら、真由子は自分の新たな適性に静かに納得していた。
薬学部という難関を目指し、勉強には当然全力を尽くす。
しかし、真由子にはもう一つ、どうしても叶えたい『目標』があった。
それは、音楽の世界で、あの花岡健二の残した影を乗り越えること。
一度目の人生で、健二はよく『俺のいた代は、松本蒼峰高校吹奏楽部の黄金時代だった』と吹聴して回っていた。しかし、実際のコンクールの結果は、県大会での金賞——いわゆる『ダメ金(代表権を逃した金賞)』に過ぎない。
(口では偉そうなことを言っても、結局、ダメ金で終わってるじゃない)
真由子の目標は、彼が到達できなかった『東海大会出場』という明確な実績を自らの手で打ち立て、健二の張りボテのプライドを過去のものとして完全に断ち切ることだった。
(精一杯頑張って、それでも届かないなら仕方ない。やらないで後悔するより、全部やりきって後悔してやる)
夏。三年生が引退し、新体制へと移行するミーティングの席で、真由子は自ら手を挙げ、新部長に就任した。
一度目の人生では波風を立てないよう誰かの後ろに隠れていた真由子が、主体的に部を牽引する決意を固めたのだ。
しかし、大所帯の吹奏楽部をまとめていくのは、想像を絶する困難の連続だった。
松本蒼峰高校は松本地区では名の知れた強豪校であり、部員たちの音楽に対する意識はすこぶる高い。だが、同時に県内有数の進学校でもあるという事実が、真由子の前に重く立ちはだかった。
部員の中には、勉強との両立に深く思い悩む者が少なくなかった。特に、T大をはじめとする超難関大学を目指す生徒たちは、「部活に時間を割くか、勉強に専念するか」という残酷な二者択一に常に引き裂かれそうになっていた。
「浅野先輩……私、T大の文科三類に行きたいんです。でも、このままじゃ時間が足りなくて。部活、辞めたほうがいいんでしょうか……」
涙ぐむ後輩や同級生に対し、真由子はどう言葉をかけていいかわからず、奥歯を噛み締めた。
一度目の人生での真由子は、地元の国立大学しか選択肢がなく、受験勉強も人並みにしかしていなかった。未来で娘の遥が最難関の中高一貫校からトップクラスの理工系大学を目指していたとはいえ、当時の真由子は莫大な学費を工面し、夫の理不尽な怒りから娘を守るだけで精一杯だった。志望校のレベル感や、勉強のノウハウまで頭に入れる余裕など、まったくなかったのだ。
ましてや、受験情報が溢れ返る二〇二六年の東京と、一九九四年の地方都市とでは、環境も常識も違いすぎる。だからこそ、T大を目指すトップ層が抱える特有の重圧や、ヒリヒリするような焦燥感が、四十九歳の人生経験をもってしても、手にとるようには理解できなかった。
軽々しく「両立できるよ」とは言えない。かと言って「辞めて勉強しなさい」と切り捨てることもできない。
健二の幻影を超えたいという自分の情熱だけでは、越えられない巨大な壁。
一人で部を牽引する孤独の中、不意にかつての浩平の優しい笑顔が脳裏をよぎる。あのまま彼に甘えていれば、こんな思いをすることはなかったかもしれない。
「……でも、私が選んだ道だから」
真由子はその感傷を振り払うように、誰もいない音楽室で一人、ひんやりとしたクラリネットの黒い木肌にそっと頬を当てた。
第八話 吹奏楽用語辞典
・トランペット
華やかで輝かしい音色が特徴の金管楽器。吹奏楽でもオーケストラでも一番目立ち、楽曲の主役・花形となる楽器です。
高音域を担当し、楽団全体のメロディやファンファーレを牽引する「ファースト・トランペット」が背負うプレッシャーと責任の重さは半端ではありません。
【今後の更新に関するお知らせ】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
明日からの更新につきまして、いくつかご連絡です。
① 明日からは【20:10】の更新になります。
明日のエピソードでは、ついに『彼』が本格的に姿を現します。二人の運命がどう交わっていくのか、どうぞご期待ください!
② 今後の連載ペースについて
明後日は一度お休みをいただき、以降は「2〜4日ほど更新して1日休載」というサイクルで進めていく予定です。ただ、お休みの予定でも「おまけエピソード」を公開する場合がありますので、油断せず(?)お待ちいただけると嬉しいです。
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