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シンクロニシティ―青い調和(ハーモニー)―〜二度目の人生、モラハラ夫から逃れ、不器用で重たい愛に全てを上書きされるまで〜  作者: 滝丸
【第一楽章:前奏曲(PRELUDE)】

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第九話 一九九四年冬 【「ダメ金」の壁と、火の鳥の目覚め】

高校二年の冬。

松本の底冷えする寒さが、真由子の心をさらに重くさせていた。


吹奏楽部の部室。一番目立つ場所に飾られた、四年前の集合写真。中央でアルトサックスを持ち不遜な笑みを浮かべる花岡健二。だが、その下に記された文字は『長野県吹奏楽コンクール 金賞』。

一度目の人生で健二が吹聴していた「俺たちの代の伝説」は、実のところ、県大会で代表権を逃した「ダメ金」で終わっていた。


(健二さん……あなたはここで止まった。でも、私はその先へ行く)


放課後、凍えるような音楽室で、真由子は部員たちの前に立った。

「みんな、あそこの写真を見て」

真由子が指差したのは、健二たちの写真だった。

「五年前、この部は『黄金時代』と呼ばれていたそうです。でも、結果は県大会止まり。私たちは、その『伝説』を今年、塗り替えます。目標は金賞じゃない。その上にある、東海大会進出です」


部内に動揺が走った。進学校である松本蒼峰高校にとって、東海大会という壁はあまりにも高く、険しい。

「そんなの無理だよ」

「勉強との両立はどうするの」

不安な声が上がる中、真由子は一歩も引かなかった。

「精一杯頑張って、それでも届かないなら仕方ない。でも、最初から限界を決めるのはもうやめませんか。やらないで後悔するより、全部やりきって後悔したいんです。私に、力を貸してください」

凛とした部長の宣言に、部員たちも少しずつ心を動かされていった。


東海大会への切符を掴むための勝負曲は、部員全員で話し合い、ストラヴィンスキーの組曲『火の鳥』に決まった。


しかし、現実は真由子の情熱だけで乗り切れるほど甘くはなかった。

冬のアンサンブルや基礎練習の時期に入り、『火の鳥』の難解な楽譜を前に、金管セクションが完全に技術的な行き詰まりを見せ始めたのだ。木管担当の真由子には、それを打破する具体的な指導の術がない。


さらに、T大をはじめとする難関大学を目指す部員たちの「時間がない」という焦燥感は、日に日に部をバラバラにしていった。

T大を目指すトップ層が抱えるヒリヒリするような重圧に、どう寄り添えばいいのか。一度目の人生で受験勉強に命を懸けた経験のない真由子にとって、それは依然として乗り越えられない壁だった。


健二の幻影を超えたいという自分のエゴが、部員たちを苦しめているのではないか。孤独と重圧に押し潰されそうになっていた、そんなある日の放課後だった。



打楽器専門の顧問であり、物理教師の宮坂が、一人の青年を伴って音楽室に現れた。


数日前、宮坂は真由子を職員室に呼び出し、ある「特命」を下していた。


『……優秀なOBが、東京から松本に戻ってきているんだ。松本蒼峰高校からT大の理科二類に進み、薬学部で将来を嘱望されていた男なんだがね。実家の事情で研究を断念し、絶望しているらしい。浅野、彼を……佐藤を吹奏楽部に呼んでくれないか。君の持つ不思議な包容力が、彼をもう一度音楽に向き合わせてくれるかもしれない』


真由子にそう告げながら、宮坂は内心で強く願っていた。

(あの不器用な佐藤のことだ。家族のために、自分の人生をまるごと計算式から切り捨てたんだろう。……だが、あいつの本当の才能は、すべてを完璧に成立させる異常なまでの計算能力のはずだ。

浅野、頼む。彼に音楽の情熱を取り戻させてくれれば、あいつの止まった計算機も再び動き出す気がするんだ)




そして今、目の前にその男が立っている。


放課後の音楽室からは、すでに部員たちの姿は消えていた。

先ほどまで部屋を暖めていた石油ストーブは火を落とされ、微かな灯油の匂いとともに、松本の冬の底冷えする空気が足元から忍び寄ってくる。時折、冷えゆく金属がカチン、と小さな音を立てた。


宮坂に「佐藤、金管の指導を頼む。浅野、細かいことを伝えてやってくれ」と体よく二人きりにされた真由子は、目の前に立つ青年の顔を静かに見つめていた。


佐藤誠。T大の薬学部で輝かしい未来を約束されていたはずの彼は今、そのすべてを捨てて松本に戻る決意を固めている。


「——お話は宮坂先生から伺いました」

真由子が緊張を隠して声をかけると、佐藤は感情の起伏が見えない薄い硝子のような瞳をこちらに向け、丁寧な口調で、しかし明確にそれを拒絶した。

「申し訳ないけれど、トレーナーの件はお断りさせてほしい。今の僕には、高校生の部活動に割けるような時間的・精神的な余裕は、微塵も残されていないんだ」

「それは……ご実家のことで、ですか?」


踏み込んだ真由子に対し、佐藤は自嘲気味に、けれど淡々と理由を教えてくれた。

「……僕が東京の研究室を去り、松本に戻るのが、一番合理的で効率がいいんだよ」

佐藤は、真由子の目をまっすぐに見つめて言った。その声に揺らぎはない。


「兄は家を建てたばかりで、子供も生まれた。そこに父の看病という巨大な負荷がかかれば、兄の家庭は高確率で破綻する。新しい命と家族のシステムを守るためには、身軽な次男の僕が研究を諦めて実家に戻り、すべての負荷を引き受けるのが、被害を最小限に抑える唯一の最適解なんだ」


完璧な論理だった。感情をすべて排除した、恐ろしいほど冷徹な計算式。

しかし、その淀みない言葉とは裏腹に、佐藤はふっと真由子から視線を外した。火の消えたストーブの天板へ、そして足元のホルンケースへと落ちたその横顔には、完璧な論理の裏側に隠された、ひび割れそうなほどの痛みが張り付いている。


(ああ……)


視線を落とし、自らの計算式という名の冷たい海に沈んでいこうとする彼の姿を見て、真由子の中で点と点が繋がった。


かつて二度目の人生の中学時代に聴き、心を奪われた、あのすべてを包み込むようなホルンの音。健二の暴力的な自己顕示の音とは対極にあった、あの音色。

あれは、この不器用で誠実すぎる先輩の『心』そのものだったのだ。兄の新しい家族を守るために、自分の夢を自らの手で切り捨てる。その痛々しいほどの優しさが、あの音を鳴らしていたのだと。


一度目の人生で、他人に尽くして自分をすり減らし、絶望の果てに歩道橋から落ちた四十九歳の真由子だからこそ、彼の抱える『自己犠牲の息苦しさ』が痛いほどわかった。


「先輩」


冷えた空気を切り裂くような、凛とした声。

ビクッと佐藤が肩を揺らした。


「あなたは次男で、本当は自由になれるはずなのに、優しすぎるから自分を縛っている」


真由子は、女子高生としての建前を捨てた。人生の酸いも甘いも噛み分けた、一人の人間としての重みを持って、彼の痛みの核心を突く。


「でも、その誠実さを呪わないで。あなたが守ろうとしているものは……いつか必ず、あなた自身を助けるから。だから、どうかご自分を犠牲にすることだけを正解にしないでください」


佐藤が弾かれたように顔を上げた。

逃げていた視線が、再び真由子と真っ直ぐに交わる。驚きと、戸惑い。そして


「世界中で誰も気づかなかった僕の本当の痛みを、完璧に理解してくれた人間がいた」


という圧倒的な救済。



死んだ魚のように諦観で濁っていた彼の瞳の奥で、カチン、と何かが切り替わる音がした。それは、失われていた『未来への熱』が真由子という強力な引火点を見つけ、佐藤誠本来の鋭い知性の光を取り戻していく瞬間だった。


(……なんだ、この少女は)


佐藤の頭脳の計算機が、今まで経験したことのない未知のエラーコードを弾き出していた。

実家の事情、狂った人生設計、諦めたはずの薬学。それらすべての絶望的な数式が、目の前の少女が放った、わずか数行の言葉によって木っ端微塵に破壊されていく。


彼はまるで、人生最高の奇跡の数式でも見つけたかのように、まじまじと真由子を見つめ返した。


「浅野さん……君は、不思議だね」


その声は先ほどまでの理屈っぽい冷たさを抜け落ち、どこか熱を帯びていた。


「まるで、僕の倍くらい……いろんな人生を生きてきたみたいだ」


ドクン、と。

今度は真由子の心臓が大きく跳ねた。自分の魂の正体(四十九歳であること)を無意識のうちに言い当てられた驚きと、真っ直ぐに向けられた彼からの射抜くような眼差しに、冷え切っていたはずの音楽室で、頬がカッと熱くなるのを感じた。


「……トレーナーの件、引き受けさせてほしい」

佐藤は眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、不敵に口角を上げた。その顔には、もう絶望の影など欠片もなかった。

「君の言う通りだ。自分を犠牲にするだけの計算は、今この瞬間に破棄する。……じゃあ、また来るよ。『火の鳥』、完成させなきゃいけないからね」

そう言い残し、佐藤は足早に音楽室を後にした。


外は、肌を刺すような松本の冬の風が吹いていた。しかし、風に向かって歩く佐藤の胸の奥底は、かつてないほどの熱い血が脈打っている。

彼の脳内を支配していたのは、諦めたはずの研究への未練ではなく、先ほどまで目の前にいた浅野真由子という少女の、あの凛とした佇まいと、潤んだ瞳の残像だけだった。


(あの、すべてを見透かしたような目を……もう一度、見たい)


自分自身でもそれが「初恋」という名のバグの始まりだとは、まだ気づいていない。ただ、彼女という未知の変数を前にして、かつてないほどの知的好奇心と、胸の奥を焦がすような熱が彼を突き動かしていた。


彼は高校前の公衆電話に飛び込むと、かじかむ手でダイヤルを回した。受話器の向こうに出たのは、T大の教授だ。


「……先生、申し訳ありません。やはり研究は続けます。県内の国立大医学部でポストを探します」

彼の頭の中の計算機は、すでに全く新しい、そして最高に野心的な未来のルートを弾き出していた。

「ただ、一年……この一年だけは、こちらの『仕事』に専念させてください」


白い息を吐きながら告げたその『仕事』が、実家の整理のことなのか、それとも一人の不思議な少女とともに『火の鳥』を創り上げることなのか。

受話器を握る佐藤の瞳には、冷徹な計算機としての光と、ひとつの熱狂が同居していた。

第九話 吹奏楽用語辞典


・金管セクション

いろいろな意味や分け方がありますが、本作では吹奏楽の世界で使われる「金管楽器のパート全体」を指します。トランペットやホルンなど、バンドの骨組みとなる重厚で輝かしいサウンドを生み出す部隊です。


・トレーナー

吹奏楽の世界でも部によって役割や呼び方が異なりますが、主に合奏やパートの基礎を作り上げていく専門の指導者を指すことが多いです。

本作の佐藤誠さんは「金管の基礎固め」のつもりで呼ばれましたが、完全復活を果たした彼は……

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