第十話 一九九五年 【合理的な選択と、音楽という名の数学】
年が明け、一九九五年が幕を開けた。
T大の最終学年である佐藤誠は、卒業に向けた研究や手続きのために東京と松本を往復する多忙な日々を送っていた。それでも彼は、約束通り松本蒼峰高校吹奏楽部のトレーナーを引き受け、帰省のたびに音楽室へ顔を出すようになった。
本格的な指導に入る前、佐藤はまず、部長である真由子と二人きりで向き合った。
「浅野さん」
「佐藤先輩。……あの、真由子でいいですよ。みんな『真由子先生』なんて呼んでますけど、先輩から先生と呼ばれるのは、なんだか落ち着かなくて。宮坂先生ならともかく」
真由子が少し照れくさそうに笑うと、佐藤は眼鏡の奥の瞳をわずかに和ませた。
「……わかった。じゃあ、真由子ちゃん。トレーナーを受けるにあたって、部員全員に伝えたいことがあるんだ。内容は同じだが、責任者である君には先に話しておきたい」
そう前置きして、佐藤はポケットから一枚のメモを取り出し、真由子に差し出した。そこには、整った字で数字が書き込まれていた。
「あと、これは君だけに。僕の自宅の電話番号だ」
「えっ……」
「今はもう、あの家には僕しかいない。困ったことがあったら、いつでも電話していい。東京にいる間も留守電を確認するようにしておくから」
携帯電話がまだ普及しきっていないこの時代、自宅の直通番号を教えることは、現代よりもずっと重い意味を持っていた。しかも「君だけに」という言葉。真由子の心臓が、また一つ大きく跳ねる。佐藤の不器用だが真っ直ぐな気遣いに、真由子は深く感謝し、その小さな紙を大切に制服のポケットにしまった。
その後、佐藤は全部員の前で、淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調で語り始めた。
特に、新三年生に向けて放たれた言葉は、彼らの不安の核心を論理的に突くものだった。
「まず、大前提として確認しておきたい。君たちの代は『旧課程』の最終年だ。万が一浪人すれば、来年は全く新しい教科書で受験を戦い直さなければならない。今年度の受験における失敗リスクは平年よりもはるかに高い。だからこそ、僕は君たちに『浪人』という選択を絶対に推奨しない」
部員たちが固唾を呑んで見守る中、佐藤の眼鏡の奥の瞳が理知的な光を放った。
「厳しいことを言うようだが、学業をおろそかにするプレイヤーを、僕は二流だと思っている。いいかい、音楽と勉強は切り離されたものではない。どちらも論理と構築だ。目の前の学業から逃げ、考えることを放棄する人間に、複雑なスコア(楽譜)の意図を正確に読み解くことなどできない。だから、勉強から逃げる言い訳に部活を使うことを、僕は許さない」
音楽室の空気がピンと張り詰める中、佐藤の声はふっと静かな熱を帯びた。
「僕たちはプロではない。けれど、利益を求めないアマチュアだからこそ、学問と同じように純粋に音楽を『研究』し、どこまでも突き詰めることができると僕は信じている。……その上で、一番重要な話をしよう」
佐藤は部員たちの目を見渡し、特に新三年生たちの顔を真っ直ぐに見据えた。
「今、新三年生の中には、自分の進路についてひどく悩んでいる人がいるはずだ。最も重要な条件だから繰り返すが、君たちの代は、浪人することが圧倒的に不利な旧課程の最終年だ。現役での戦いが過酷なものになるからこそ、二年が終了したこの冬に退部するのも、六月の定期演奏会を区切りにするのも、自分の将来を見据えた上での、極めて真っ当で合理的な判断だ。僕はそれぞれの決断を全面的に尊重するし、誰にもそれを責めさせない」
その言葉に、数人の三年生がふっと肩の力を抜くのが見えた。
冷徹な「人間計算機」に見えて、彼の言葉の根底には、誰よりも生徒の不安に寄り添う深い優しさがあった。
しかし、次の瞬間。佐藤の眼鏡の奥の瞳に、強烈な光が宿った。
「ただし。もし君たちが、その貴重な人生の時間を賭けて『東海大会への切符』を本気で狙う、つまり夏のコンクールまで残ると決めたなら——迷いや中途半端な覚悟は、アンサンブルにおいて致命的なノイズになる。残ると決めた以上は、僕が君たちの時間を完璧に管理する。一切の妥協は許さない」
ざわめきが起きかけた音楽室を、彼の一言がピタリと制した。
「その代わり、僕から一つの約束をしよう。学校が夏休みに入ってからは、部活の練習をきっちり『一日二時間』のみとする。それ以外の時間はすべて、君たちの本来の本分である受験勉強に充てなさい」
コンクール直前の夏休みといえば、朝から夕方まで一日中練習するのが強豪校の常識だ。ざわめきが、今度は明確な驚きへと変わった。
「ダラダラと時間をかければ質が上がるというのは非論理的な錯覚だ。一日二時間の圧倒的な密度で、僕が君たちを必ず東海へ連れて行く」
一日二時間。強豪校ではあり得ないその宣言。
それは、彼自身の圧倒的な頭脳と指導力への自信であり、同時に「僕についてくるなら、音楽も受験も、君たちの人生は僕が絶対に壊させない」という、不器用で、恐ろしいほどに重たい愛情の裏返しだった。
「自分の限られた物理的な時間を、どこまで音楽に割り当てるべきか。僕が次に来るまでに、各々で計算し、自分なりの『最適解』を出しておいてほしい」
佐藤は極めて冷静に話を締めくくり、一礼して壇を降りた。
一度目の人生の真由子なら、「なんて冷たい人だろう」と思ったかもしれない。しかし、四十九歳の魂を持つ今の真由子には、彼の言葉が誰よりも部員たちの人生を重んじた、真実の誠実さであるとわかっていた。
その日を境に、部員たちの表情から迷いが消えた。自分の限界と将来を天秤にかけ、悩み抜き、それぞれが納得した「引退時期」を決めていった。無理に引き止める者も、去る者を責める者もいなかった。
残ったのは、佐藤誠の示す「設計図」を信じ、東海大会という未踏の地へ本気で手を伸ばそうとする、精鋭たちだけだった。真由子は、自分一人では決して作り出せなかったこの「研ぎ澄まされた空気」に震えながら、ポケットの中のメモをそっと指先でなぞった。
佐藤の指導は、驚くほど論理的だった。
「音楽は勉強と同じ。まずは基礎だ。型を完璧に身につける。音楽の基礎とは、縦と横を合わせること。リズムとピッチのズレを数学的に排除していくんだ」
個人練習で徹底的に基礎を固め、合奏では全体でその基礎を摺り合わせていく。佐藤がタクトを振ると、混沌としていたバンドの音が、みるみるうちに安定した透明な響きへと変わっていった。
無駄な精神論は一切ない。
その徹底した合理性に、真由子はふと不思議な感覚に陥った。
「先輩……なんだか、音楽をやっているのか勉強をしているのか、わからなくなってきました」
休憩時間、そう問いかけると、佐藤は眼鏡の縁を押し上げ、ふっと微かに笑った。
「そうだよ。だって、音楽は数学だからね」
(T大に合格する人って、やっぱり異次元なんだな……)
真由子は、その理路整然とした頭脳に感服するしかなかった。
でも。
真由子は知っている。あの定期演奏会で聴いた、佐藤誠のホルンの音を。
あの音は、決して冷たい数式だけでは構成されていなかった。聴く者の心を安らかにし、すべてを包み込むような、深い深い包容力。
(あんな音、私も出してみたい)
数学のような正確さの奥に、誰かを守りたいという情熱を秘めた佐藤誠の背中。
真由子は、自分もまた「自立した一人の奏者」として、彼に並び立ちたいと強く願った。
一方、佐藤もまた、指導を通して真由子の音が気になって仕方なかった。
純粋に素晴らしい音色だ。音大を望めるレベルだが、どう聴いても、楽器を始めて数年の高校生が出せる音ではないのだ。
表現の深み、息のコントロール、音の引き際の余韻。それは少なくとも十年、いや、それ以上吹き込んできたプレイヤーが持つ『大人の音』だった。
(……おかしい)
佐藤の頭の中にある「人間計算機」が、初めてエラーを弾き出していた。論理的に計算すれば、高校二年生の彼女がこの音色と技術を持っていることは、物理的な時間軸において絶対にあり得ないのだ。
だが、そのエラーの原因を探ろうとすればするほど、彼は無自覚のうちに彼女の音——浅野真由子という存在そのものに、深く惹きつけられていくこととなる。
一九九五年、冬。
合理的で残酷なまでの選択の果てに、新生松本蒼峰高校吹奏楽部の『火の鳥』は、確かな「設計図」を得て羽ばたき始めた。
第十話 吹奏楽用語辞典
・リズム(縦)
拍子のことです。主に音の長短や音を出すタイミング、吹奏楽の合奏では、メンバー全員の音のタイミングを揃えることを「縦を合わせる」と表現します。総譜上で、同時に鳴る音符が縦に並んでいることが由来です。論理を重んじる佐藤誠が徹底的にこだわるポイントの一つです。
・ピッチ(横)
音程のこと。合奏では和音の美しさを決める「横の調和」にあたります。ピアノなどの鍵盤楽器とは違い、管楽器はただ息を吹き込めば正確な音(平均律)が出るわけではありません。楽器の構造や癖、またプレイヤーの癖によってピッチは絶えず変化し、たった数セント(半音の100分の数ミリ)ずれるだけでも、和音は濁り、美しい響きが失われてしまいます。




