第十一話 一九九五年春 【魂の癒しと、無自覚の探求心】
隣の教室から、ホルンの柔らかな、けれど揺るぎない音色が聴こえてくる。
佐藤誠が後輩の指導をしながら、手本として吹いているのだ。
(なんて音……)
真由子はクラリネットのリードを調整する手を止め、その旋律に深く聞き入っていた。
あの定期演奏会で聴いた時ですら、彼のピッチやアタックは高校生離れした完成度を誇っていた。だが、今の彼の音はそこからさらに、はるかな進化を遂げている。
東京というレベルの高い舞台で腕を磨き上げてきたのだろう。圧倒的な大人の深みを帯びた、その音色。
何よりも深く、美しく、自分のすべてを優しく包み込んでくれるようなあの響き。
ただその音に耳を傾けているだけで、一度目の人生で健二に壊され、すり減らされた魂が、少しずつ浄化されていくような錯覚に陥った。
心の奥底にある、最も柔らかい部分をそっと撫でられるような、得体の知れない甘い痺れ。
「真由子先輩?」
「え、えっ、何?」
急に顔を覗き込まれ、真由子はハッと我に返った。同じパートの後輩が、ニヤニヤしながら不思議そうな顔をしている。
「ぼーっとして、どうしたんですか? いつもキリッとしている先輩が、なんだか『恋する乙女』みたいな顔してましたよ。好きなアイドルのことでも考えてました?」
「こ、恋する乙女って……そんなんじゃないわよ」
後輩にからかわれ、真由子は慌てて視線を逸らした。
(恋する乙女、か……)
その言葉の響きに、ふと浩平の顔が脳裏をよぎり、胸の奥がチクリと痛んだ。
彼の純粋な気持ちを、自分の自立というエゴで傷つけてしまった罪悪感。
そして何より、私には『未来』が決まっている。
どれほど魂をすり減らされようと、あのトラウマに縛られていようと、未来で待つ愛娘の『遥』に再び会うためには、いつか必ず健二の元へ戻らなければならないのだ。
他の誰かを本気で愛してしまえば、遥はこの世界に生まれてこられない。
(だから私は、もう恋なんてしない。してはいけないんだ)
今はただ、この優しくて温かい音にだけ、何も考えずにそっと包まれていたかった。
少し長めの休憩時間。
気がつけば、真由子の足は無意識に彼のもとへと向かっていた。 純粋な音楽への探求心と、「なぜだかわからないけれど、どうしても聞いてみたい」という理屈抜きの不思議な衝動が背中を押し、真由子は思い切って、彼に尋ねてみることにした。
「佐藤先輩の音、本当にすごいです。大学時代は、東京のどこで吹いていたんですか?」
「ああ。大学の近くで活動している一般吹奏楽団だよ。社会人と学生が混ざった……」
「えっ、大学の近くって……あの全国常連の超名門ですか!?」
真由子は思わず食い気味に声を上げてしまった。一度目の人生で、たまたま大学時代につてがあり、その吹奏楽団出身の人に何回かレッスンに来てもらったことがあったのだ。
しかし、それを見た佐藤はピクリと眉を動かし、理知的な眼鏡の奥の目を細めた。
「……ん? なんで君が知ってるの? コンクールの全国大会に毎年出ているとはいえ、信州の高校生が知るには、いくらなんでも詳しすぎると思うけど」
「えーと……っ!(マズイ!)」
未来の記憶など言えるわけがない。真由子は顔を引きつらせながら、しどろもどろに言い訳を取り繕った。
「す、吹奏楽の雑誌! 雑誌の全国大会特集で読んだことがあって! すごいなーって!」
「……そう。君は随分と熱心に雑誌を読み込んでいるんだね」
佐藤は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上追及してくることはなく、真由子は心の中で冷や汗を拭った。
(冷や汗かいた……。少し頭を冷まそう)
そう思い、トイレに駆け込んで冷たい水で顔を洗い、音楽室へ戻ろうとした時のことだった。
廊下の少し先の曲がり角で、サックスパートの女子生徒が佐藤を引き留め、淡い色の封筒を差し出しているのが見えた。
「佐藤先輩。これ……よかったら読んでください」
緊張で震える彼女の声が、静かな廊下に響く。
それに対し、佐藤は困ったように、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
「ありがとう。気持ちはとても嬉しいよ。でも、僕はあくまで君たちのトレーナーとしてここに来ているから、これは受け取れないな。……ごめんね。その気持ちだけ、ありがたくもらっておくよ」
そう言って、彼は決してその手紙を受け取ろうとはしなかった。
(さすが、完璧な大人の対応ね……。でも、あんなに真っ直ぐに想いを伝えられて、本当に何も思わないのかしら)
物陰からそっとその様子を窺いながら、真由子は密かに息をついた。自分には関係のないことだと頭を振り、気配を消して音楽室へと向かって歩き出そうとした、その時だった。
「——真由子ちゃん」
背後から、不意にその深く温かい声に呼び止められ、真由子はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、先ほどまで女子生徒に向けられていた『完璧な指導者の仮面』をスッと脱ぎ捨てた佐藤が、静かな足音で近づいてくるところだった。
「あ……お疲れ様です、佐藤先輩」
「少し、いいかな」
彼は真由子の隣に並ぶと、少しだけ視線を下げて、理知的な眼鏡の奥の瞳で彼女を真っ直ぐに捉えた。 その静かな視線には、先ほどの女子生徒には微塵も向けていなかった、底知れない『探求心』が宿っている。
「君のクラリネットについて、ずっと不思議に思っていたことがあってね」
「えっ、私の音、ですか?」
佐藤は頷き、探るように、彼女の瞳の奥を覗き込みながら言葉を紡いだ。
「君の音は、表現の深みも、息のコントロールも、音の引き際の余韻も……どう聴いても、楽器を始めて数年の高校生が出せるレベルじゃない。まるで十年以上、酸いも甘いも噛み分けて吹き込んできたような『大人の音』だ。……君は一体、どんな練習をしてきたんだい?」
核心を突く鋭い問いに、真由子の心臓が早鐘を打つ。
(ひっ……! さっきの雑誌の言い訳よりマズい!)
未来の記憶など、絶対に言えるわけがない。真由子は顔を引きつらせながら、しどろもどろに言い訳を取り繕った。
「そ、それは……! 昔から、プロの演奏家のCDをよく聴いて、真似をしているからだと思います! あとは……ひたすら吹き込む、気合と根性です!」
四十九歳の知恵をかなぐり捨てた、まさかの「気合と根性」という体育会系な言い訳。
しかし、佐藤はそれを鼻で笑うどころか、ますます興味深そうに目を細めた。
(気合と根性?……いや、そんな非論理的な理由で、あの音が出せるはずがない)
佐藤の頭の中の計算機は、真由子の不可解な存在を前に、激しく駆動していた。
なぜ自分は、これほどまでにこの少女の音が、存在が、気になって仕方ないのか。彼女の秘密を暴き、彼女の心の奥にあるものを誰よりも深く知りたいという、抑えきれない衝動。
——それは、強固な計算式を崩壊させる『恋』という名のバグそのものなのだが。
当の佐藤誠本人はまだ、自分のこの異常な執着を「彼女の特異な技術に対する、純粋で論理的な探求心」だと思い込んでいるのだった。
そんな不器用な二人のやり取りを、宮坂が廊下の少し離れた物陰から見守っていた。
(……やれやれ)
宮坂は、愛弟子の微笑ましい不具合を一人ひっそりと見届けながら、気づかれないようそっとその場を離れていった。
第十一話 吹奏楽用語辞典
・リード
クラリネットやサックスの吹き口 (マウスピース)に取り付ける、植物(葦)を削って作った薄い木片。ここに息を吹き込み振動させて音を出します。
天然素材ゆえにとても気まぐれで、「一箱(10枚)買って、本番で使える“アタリ”は一枚あるかないか」と言われるほど。アタリがなければ、奏者自ら紙ヤスリやナイフでミリ単位の削り出しを行い、自分の息に合うよう『調整』することもしばしばあります。
・アタック
楽器の「発音(音の出だし)」のこと。
輪郭をはっきりと鋭く出すアタックや、いつ始まったかわからないように空気に溶け込ませるアタックなど、曲の表情によって多種多様な技術が求められます。
中でもホルンは管が極端に長く、マウスピースが深いため、狙ったピッチとタイミングで正確なアタックを決めるのが、金管楽器の中で最も難しいとされています。




