第十二話 一九九五年初夏 【計算機の不具合と、火の鳥の正体】
佐藤誠の本格的な指導が始まってから数ヶ月。吹奏楽部の音は、劇的に、そして「理性的」に変化していた。
音の輪郭から一切の濁りが削ぎ落とされ、数学的に整えられた美しい和音が音楽室を満たす。
しかし、変わったのは音だけではなかった。
佐藤誠の身長は百六十七センチ。男性としては決して大柄な方ではない。しかし、常にピンと伸びた背筋、完璧にプレスされたシャツ、理知的な眼鏡の奥の鋭い瞳。
そして何より、あの「一日二時間で必ず東海へ連れて行く」と宣言し、部員たちの人生を丸ごと背負い込むほどの圧倒的な指導力と包容力が、彼を実際の身長よりもはるかに大きく見せていた。
そんな「大人の男」の存在感を、女子部員たちが放っておくはずがなかった。
「……ねえ、今日も佐藤先輩、すごくカッコよくない?」
「わかる。あの眼鏡を直す仕草とか、なんかすごい色気あるよね……」
休憩時間、音楽室のあちこちで女子部員たちがキャアキャアと盛り上がる声を、真由子は少し離れた場所から「生暖かい目」で眺めていた。
(……そりゃあね。あんなT大を卒業したばかりのハイスペックな社会人が、自分たちのために一生懸命になってくれたら、十六、七の女の子なんてイチコロだわよね)
四十九歳の精神を持つ真由子からすれば、その光景はまるで微笑ましい「若者の群像劇」だ。
そんなある日。佐藤が一人、教壇でスコアを読み耽っているところに、勇気あるフルートパートの女子生徒が歩み寄った。
「佐藤先輩っ。あの、質問してもいいですか?」
「なんだい? フレーズの解釈かな」
「いえ、そうじゃなくて……。先輩って、真由子先生のこと、好きなんですか?」
一瞬、音楽室の空気が凍りついた。聞き耳を立てていた他の部員たちも息を呑む。
佐藤はピクリと眉を動かし、視線をスコアからその生徒へとゆっくり移した。
「……部長としての彼女は非常に優秀だ。信頼しているし、トレーナーとして期待もしている。そこに『好き』という個人的な感情が入り込む余地はないよ」
完璧な大人の対応。一点の曇りもない論理的な回答に、女子生徒は「そっかぁ、やっぱり……」と少し残念そうに引き下がった。
——だが。
佐藤の頭の中にある「人間計算機」は、実は激しいエラーを吐き出していた。
(今の質問に対する心拍数の上昇率は……十五%。論理的な生理反応ではない。……なんだ、この非効率な動揺は。まったく計算が合わない)
涼しい顔の裏側で、佐藤誠は生まれて初めての「タジタジ」を経験していた。
そんな音楽室の空気を少し離れた場所から見守っていた宮坂は、口元に揶揄うような笑みを浮かべていた。
(……やれやれ。あの理屈っぽい男が、ついに年貢の納め時か)
T大卒でS大病院勤務というエリートの肩書きと、あのルックス、誰にでも誠実に対応する優しさ。佐藤にもそれなりの交際経験はあっただろう。
しかし、宮坂は知っている。佐藤誠という男の根底にあるのは、病身の父親をはじめとする『自分のテリトリーに入れた家族』を除いた、他者への圧倒的な無関心だ。
表面上の礼儀は尽くしても、心の中では他人に一切の期待も興味も抱いていない。身内にはどこまでも深い愛情を注ぐ反面、それ以外の他人——唯一無二の親友にして因縁の相棒である健二は例外だろうが——に、本気で心を動かされたことなど一度もない。
その絶対零度の冷徹さは、ある意味、愛憎を剥き出しにする健二よりも残酷だった。
そんな佐藤が今、一人の女子高生を前にして明らかに計算を狂わせ、無自覚な熱に浮かされかけている。
(遅すぎる『本当の初恋』だな)
宮坂は、不器用な愛弟子の不具合を微笑ましく見守るように目を細めた。
当の真由子は、佐藤のバグにも、宮坂の視線にも、まったく気づいていない。彼女の心にはまだ浩平の残像がこびりついており、佐藤への感情は「尊敬する恩人」の域を出ていなかった。
「……さて。ピッチとリズムの『形』は、ほぼ完璧に整った。ここからは、次の段階に入る」
休憩が終わり、指揮台に立った佐藤の声が、今まで以上に深く、重くなった。
「この『火の鳥』という曲は、どんな物語で、誰が、どんな想いでそこにいるのか。君たちの音に『魂』を込めてほしい。数学を、物語へと昇華させるんだ」
(……楽曲の解釈。そういえば)
真由子はふと、一度目の人生の記憶を思い返していた。
当時の真由子は、市民吹奏楽団で課題曲の解釈にひどく迷っていた。そんな時、誘われて共にしたランチの席で健二が得意げに言ったのだ。
『俺の親友の誠ってやつがいるだろ? 楽曲研究や曲の解釈に関しては、あいつの右に出るものはいないよ』
健二のお墨付きならばと、真由子はある日の練習中、思い切って『佐藤さん』に声をかけ、課題曲の解釈について尋ねてみた。
佐藤は嫌な顔一つせず、とても丁寧に、そして完璧な論理で解説してくれた。そして最後に、優しく微笑んでくれたのだ。
『君は、いつも真面目に音楽と向き合っているね』と。
一度目の人生で、真由子が佐藤と言葉を交わしたのは、薄い記憶ながら多分あの時の一回だけだった。
というのもその直後、当時はまだ付き合ってすらいなかった健二から突然プロポーズされ、「交際ゼロ日」のまま怒涛の勢いで結婚の準備へと押し流されてしまったからだ。
(あの時の的確なアドバイス……やっぱり、佐藤先輩の音楽の捉え方は、昔からずっと深くてすごいんだ)
物語の登場人物。
不死の魔王カスチェイ、勇敢なイワン王子、囚われの王女、そして魔法の力を持つ火の鳥。
佐藤の言葉を聞きながら、真由子の脳内には鮮明な配役が浮かんでいた。
(……魔王カスチェイは、間違いなく健二さんだわ)
傲慢で、支配的で、他者の自由を奪う闇の象徴。
(そして、イワン王子は……浩平先輩)
優しくて正義感に溢れているけれど、どこか「守ってあげる」という枠の中に、無意識に王女を閉じ込めてしまう、光の側の支配者。
一度目の人生の真由子は、ただ助けを待つだけの「王女」だった。
魔王の宮殿に閉じ込められ、王子の到来を待つだけの、か弱い存在。
(でも、今度は違う。私はもう、王女じゃない)
真由子はクラリネットを強く握りしめた。
魔王の呪縛を打ち破り、自分自身で未来を切り拓く力。
(私は……火の鳥になりたい)
それは、二度目の人生を自らの足で歩むと決めた真由子の、静かな、けれど烈火のような決意だった。
「……浅野さん。君のパートから始めよう。君の『火の鳥』を聴かせてくれ」
佐藤に指名され、真由子は真っ直ぐに彼を見据えた。
数学的な正確さを土台に、その上に、四十九年分の後悔と、十七歳の瑞々しい野心を乗せて。
吹き始めた瞬間に、音楽室の空気が変わった。
それは、誰かの救済を待つ祈りではなく、自らが光を放つ、生命の咆哮だった。
第十二話 吹奏楽用語辞典
・スコア
楽譜のこと。吹奏楽の世界で単に「スコア」と呼ぶ場合は、それぞれの担当楽器の楽譜ではなく、全楽器のパートが一覧で書かれている「フルスコア(総譜)」を指すことが多く、本作でもその意味で書いています。
・フレーズ
音楽における、メロディや音のひとまとまりのこと。管楽器の場合、ひとつのフレーズは原則として「途中で息継ぎ(ブレス)をせずに一息で」吹き切ることが求められます。




