第十三話 一九九五年夏 【計算外のノイズと、未踏の東海】
一九九五年、八月。長野県吹奏楽コンクール。
会場となる県民文化ホールは、独特の緊張感と、真夏の熱気に包まれていた。
松本蒼峰高校吹奏楽部にとって、今日は運命の日だ。
かつて花岡健二が残した「県大会・ダメ金」という記録を焼き尽くし、その先の東海大会へと羽ばたけるかどうかが決まる。
楽器の最終調整を行うチューニング室へ向かう直前。少し開けたロビーで待機していた時だった。
「……真由子!」
聞き覚えのある、柔らかな声。振り返ると、そこには東京の大学へ進学した浩平が立っていた。
大学生になった彼は、高校生の頃よりも背が伸び、都会の空気を纏ってどこか洗練された「王子様」のような雰囲気を漂わせていた。
「浩平、先輩……。どうしてここに?」
「夏休みでこっちに戻ってて。どうしても、真由子の演奏が聴きたくてさ。これ、差し入れ。頑張ってね」
差し出された、冷たく結露した缶のスポーツドリンクを受け取る。一度目の人生でも二度目の人生でも、彼はいつも、こうして真由子が一番緊張している時に、優しすぎるほどのタイミングで現れる。
真由子はふと、自分の中で『火の鳥』のイワン王子に浩平の姿を重ねていたことを思い出した。
(ああ……私の中の『イワン王子』のイメージは、やっぱり浩平先輩なんだな)
その時。
背後から、ひやりとするような冷たい、けれど心地よい声が届いた。
「——浅野さん。そろそろ移動の時間だ」
佐藤誠だった。
百六十七センチの佐藤に対し、大学生になり背が伸びた浩平の方が物理的な背丈は高い。しかし、完璧にプレスされたシャツを纏い、感情を排した無機質な表情でそこに立つ佐藤から放たれる「大人の男」としての覇気は、浩平のそれを完全に圧倒していた。
佐藤は視線を真由子の手にある缶のドリンクと、その向こう側に立つ浩平へ一瞬だけ向け、鋭く射抜いた。
(……心拍数の乱れ。そして、胸の奥底から湧き上がる、この非論理的な不快感は何だ)
佐藤の頭の中にある計算機が、突如として現れた「元彼」という強烈なノイズを前に、激しいエラー警告を鳴らしている。しかし、彼はその動揺を完璧なポーカーフェイスの奥に隠し通した。
「あ、佐藤先輩。……紹介します。OBの浩平先輩です」
「知っているよ。僕たちが卒業した入れ替わりに入学してきた、有望なトランペット吹きだろう。花岡からも名前は聞いていた」
佐藤は短く答えると、浩平に向かって事務的に会釈をした。
「差し入れはありがたいが、本番直前の水分補給は済ませてある。彼女のコンディションは僕が管理しているから、無用な接触は避けていただきたい。集中力が削がれる」
その言葉に含まれた、圧倒的な威圧感と排他性。
三歳年上の「伝説のT大生OB」の放つピリピリとした空気に、浩平は気圧され、「あ、はい……じゃあ、客席で応援してるね」と言い残して、逃げるように去っていった。
二人きりになった静かなロビー。
佐藤は真由子から視線を逸らし、時計の針を見るように冷淡に告げた。
「……イワン王子は、王女を救うために火の鳥の力を借りる。だが、その王子が元恋人というのは、解釈として少し甘いんじゃないか?」
「えっ……」
「君が今、音楽で向き合うべき相手は、客席の王子じゃない。ステージ上で君の音を支える『設計図』だ。……違うかい?」
その声は、明らかに不機嫌だった。
真由子は、四十九歳の精神でその苛立ちの理由を「論理的」に分析し、小さく息を吐いた。
(なるほど。コンクール直前に部外者と接触して、メンタルやコンディションを乱されるのが嫌だったのね。それにしても、本番前のインスピレーションにまでダメ出ししてくるなんて……本当に、完璧主義で理屈っぽい『音楽バカ』なんだから)
まさか彼が、ただの高校生である自分に対して——全くの無自覚ながら——「男としての強烈な独占欲と嫉妬」を抱いているなどとは、中身が四十九歳の真由子は微塵も想像していなかった。
『こんな優秀なエリート社会人が、高校生の私に恋愛感情を抱くわけがない』という達観したおばちゃんメンタルが、彼の態度のすべてを「指導者としての責任感」へと完璧に変換させていたのだ。
そんな不器用で理屈っぽい彼が少しだけおかしくて、真由子は思わずクスリと笑ってしまった。
「……何がおかしい」
「いえ。佐藤先輩、心配しすぎです。私の『火の鳥』、ちゃんと聴いていてくださいね」
少し離れた場所からそのやり取りを見ていた、本番用の指揮棒を持った宮坂は、呆れたように天を仰いでいた。
(生徒たちは『佐藤先輩の厳しいコンディション管理だ』と震え上がっているが……やれやれ。俺から見れば、ただの不器用な男の嫉妬丸出しじゃないか。しかも当の真由子先生は、その不機嫌さを指導熱心だと完全に勘違いしている。……お前ら、二人とも早く気づけよ)
生徒たちには絶対にバレない鉄壁のポーカーフェイスを被った愛弟子の初恋と、どこまでも鈍感な教え子のすれ違いに、宮坂は一人で頭を抱えていた。
そんな周囲の気配など意に介さず、真由子は真っ直ぐに佐藤の瞳を見つめ返し、自信に満ちた微笑みを浮かべた。
「私が救い出してほしいのは、客席にいるイワン王子じゃありません」
「……どういうことだ」
「私自身が、この音で『火の鳥』になるんです。王女として王子様の助けを待つんじゃなくて、自分の力で空を飛びたい。……先輩の完璧な『設計図』があれば、私はどこまでも飛べる気がするから」
ドクン、と。
佐藤の胸の奥で、何かが軋む音がした。
ただ守られるだけの王女ではなく、自らの力で未来を切り拓く火の鳥。彼女のその圧倒的な自立心と強さは、計算機である佐藤の想定を軽々と飛び越え、彼の心に深く、熱を帯びた変数として組み込まれたのだった。
本番のステージ。
課題曲のあと、静寂が訪れたホールにいきなり響く、フォルティッシッシモの八分音符。
魔王カスチェイとイワン王子の対峙。そして怒涛のように押し寄せる変拍子。
佐藤の指導の元、合わせてきた機能的なリズムに、部員たちの魂が宿り、一つの物語になっていく。
やがて、曲はフィナーレへ。
平和の象徴である、柔らかなホルンのソロ。佐藤が鍛えに鍛え上げた三年生が奏でる、祈りのようなその音色を、真由子たちクラリネットパートが静かに受け継ぐ。
ひとり、またひとりと音が重なり、旋律はいつしか光に満ちた壮大なファンファーレへといざなわれていく。
そして、全員で最後の音を重ねる瞬間。
ピアノからフォルティッシモまで、全員が同じ熱量でダイナミクスを限界まで引き上げ、すべてを吹き切った。
ホールに残る美しい倍音の輝きと共に、真由子たちの『火の鳥』は、どこまでも高く、遠い空へと飛び立って行った。
その演奏は、客席にいた浩平を圧倒し、誠実な音を愛する佐藤の心を、激しく揺さぶるほどに鮮烈だった。
結果は——松本蒼峰高校、創部以来初となる、東海大会進出決定。
健二が届かなかった壁を、真由子は「最強の音楽バカ」な佐藤誠と共に、ついに飛び越えたのだった。
第十三話 吹奏楽用語辞典
・チューニング
音合わせのこと。
オーケストラでは基準音を「ラ(A)アー」で合わせますが、吹奏楽では楽器の構造上の特性から、「シのフラット(B / ベー)」の音を基準にして楽器全体の音程を合わせます。
・倍音
楽器で音を鳴らした際、その音だけでなく、さらに高い周波数の音が同時に響いている現象のこと。
ソロで鳴ることもありますが、ここではバンドの音で倍音が鳴っている様子を書きました。
たとえば合奏で「ド・ミ・ソ」と和音を鳴らした時、全員のピッチ(音程)やバランスがかっちり綺麗に合った瞬間、その上の高い「ド」や「ソ」の音までが「倍音」として鳴り響きます。音がただ重なるだけでなく、空間全体を包み込むような豊かなハーモニー(共鳴)が生まれる、吹奏楽の醍醐味の一つです。




