第十四話 一九九五年夏 【約束の二時間と、銀色の誇り】
一九九五年、夏。
松本の街が力強い蝉時雨に包まれる中、松本蒼峰高校吹奏楽部の音楽室は、かつてないほどに研ぎ澄まされた熱気に満ちていた。
東海大会への切符を手にした真由子たち三年生は、佐藤誠との「約束」を厳格に守り続けていた。
一日の練習時間は、わずか二時間。
強豪校が朝から晩まで楽器を鳴らし続けるこの時期に、二時間という制約はあまりに無謀に思えた。しかし、佐藤の指導は徹底していた。
「時間をかければ良い音が鳴るわけじゃない。集中力が切れた状態で吹く音は、音楽ではなくただの騒音だ。君たちの貴重な人生の時間を、一秒たりとも無駄にするな」
その言葉通り、二時間の練習は一分一秒が戦いだった。
無駄な私語は一切なく、佐藤の振るタクトと論理的な指示のもと、全員が脳に汗をかきながら音のピッチとリズムを合わせていく。一音のミスも許されない極限の集中。
そして二時間が経過し「今日の練習はここまで」という声がかかると、部員たちは即座に楽器を置き、まるでスイッチを切り替えるように図書室や自習室へと散っていく。
佐藤は楽器のトレーナーとしてだけではなく、受験勉強の壁に突き当たった部員たちの相談にも乗った。
「先輩、ここの物理の公式がどうしても……」
「それは公式を丸暗記しようとするからだ。事象の理屈を根本から理解すれば、式は自然と導き出せる。貸してごらん」
この春にT大薬学部を卒業し、現在はS大病院の薬剤部で働く佐藤の知性は、音楽室の外でも絶大な信頼を集めた。
真由子は、黒板に鮮やかな数式を書き込みながら後輩に勉強を教える社会人の彼の横顔を、どこか誇らしい気持ちで眺めていた。
(やっぱり、この人はすごい。一度目の人生では、こんなに多面的で誠実な大人に、私は出会えなかった)
忙しくも、自分の人生を自分の意志で動かしているという確かな充実感が、真由子の胸を満たしていた。
そして迎えた、東海大会当日。
静岡の巨大なホールに、各県の代表校が集結した。
中でも全国大会常連である静岡や愛知の学校の演奏は、真由子たちも初めて耳にするような純度の高い、圧巻の名演だった。
特に舞台袖で聞いた代表校のステージには息を呑んだ。真由子たちが血を吐くような思いで苦労して作り上げたあの課題曲を、まるで呼吸をするようにいとも簡単に、そして完璧な美しさで吹きこなしたのだ。その後、真由子が今まで全く聴いたことのない自由曲を、信じられないほどの華やかさで吹き鳴らしていた。
金管の澄み切った、それでいてホールを揺るがすようなものすごい音圧のフォルテ。
それは、努力や論理だけで埋められるものではない、積み重ねてきた圧倒的な練習量と執念が作り出す「音の壁」だった。すべてにおいて、自分たちとの歴然とした差を突きつけられた。
しかし、真由子の心に折れるような影はなかった。
本番、松本蒼峰高校の『火の鳥』は、佐藤の描いた緻密な「設計図」を見事に具現化した。
力任せの音量で勝負するのではなく、進学校である自分たちらしく、持てるすべての知性と情熱を込めた、透明で純度の高いアンサンブル。
最後のファンファーレが吹き鳴らされ、全員の音が火の鳥となってホールに昇華された瞬間、真由子の視線の先で、佐藤が満足そうに、けれどどこか寂しげに頷くのが見えた。
結果は――銀賞。
全国大会への道は、ここで途絶えた。
コンクールを終えた後の、楽器運搬の喧騒。
「やっぱり全国レベルの壁は厚いね」と苦笑いしつつも、決して下を向く者はいない。自分たちの実力を冷静に受け止め、銅賞ではなく堂々の「銀賞」を手にした喜びに沸き立つ部員たちを眺めながら、真由子の心は不思議なほど晴々としていた。
一度目の人生では、何かに全力を尽くすことも、その結果を正面から受け止めることもなかった。ただ流されるままに生きていた自分が、今は「やり切った」という重みを噛みしめている。
すべての片付けが終わった、静岡のホール裏。
真由子は、一人でスコアを整理していた佐藤のもとへ歩み寄った。
「佐藤先輩」
佐藤が眼鏡を外し、疲れた瞳を真由子に向けた。
「……お疲れ様。銀賞だったが、君たちは僕の出した最も難しい解を、完璧に導き出してくれた。誇っていい演奏だったよ」
「ありがとうございます」
真由子は深く、深く頭を下げた。
「先輩がいてくれたから、私たちはあそこまで行けました。音楽だけじゃない、自分の足で立つっていうことがどういうことか、先輩に教えてもらった気がします」
引退。
今日で、制服を着て楽器を吹く日々は終わる。胸の奥には、まだ少しだけ初恋の終わりの痛みが残っている。
けれど、真由子にはわかっていた。これが「終わり」ではなく、自分の力で運命を掴み取るための、新しい人生の「序曲」なのだと。
「先輩。私、約束、守ります。……次は、第一志望の薬学部合格。絶対に勝ち取りますから」
真由子の真っ直ぐな宣言を聞いた瞬間。
佐藤の胸の奥で、再びあの「計算外のエラー」が静かに警鐘を鳴らした。
(引退。……そうか。明日から彼女は、僕のいる音楽室には来ないのか)
それは、人間計算機である佐藤が生まれて初めて味わう、他人への『喪失感』という名の不具合だった。なぜこんなにも胸が軋むのか、彼にはその数式が解けない。この非論理的な痛みの正体が「恋」であることなど、感情の機微に疎い彼が自覚するのはまだ先の話だ。
ただ、薬学部という「自分のいる世界」へ向かって力強く歩み出そうとする彼女に、どうしようもなく惹きつけられている。
(この寂しさが何なのかはわからない。だが……彼女に、また会いたい)
佐藤は、胸の奥で暴れるその未知の感情を持て余しながらも、いつものように淡々とした口調で答えた。
「ああ。……期待しているよ。待っているから」
夏の終わりの風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
第十四話 吹奏楽用語辞典
・銅賞
吹奏楽コンクールの賞の名称。多くの大会では、出場校に対して「金賞」「銀賞」「銅賞」のいずれかの賞が授与されます(県や地区によって他の賞が設定されている場合もあります)。
つまり、コンクールの銅賞は「3位」という意味ではありません。「金・銀・銅」の評価基準の中で最も下の賞に位置づけられており、極端に言えば、あまり練習ができていない状態でも出場すれば貰えてしまう賞でもあります。そのため、血のにじむような努力をしてきた学校にとっては、「頑張ったのに同情(銅賞)賞だった……」と、やるせない気持ちになってしまうことも少なくありません。




