第十五話 一九九五年秋 【東京の白い空と、計算機の初恋】
一九九五年、秋。
佐藤誠は、母校である松本蒼峰高校の職員室を訪れ、顧問である宮坂のデスクの前に立っていた。
「宮坂先生。全日本吹奏楽コンクール、高校の部のチケットが三枚手に入りました。東京の普門館です。一緒に行きませんか?」
「おお、それはすごい。プラチナチケットじゃないか」
宮坂は目を丸くしたが、すぐに残りの一枚の用途に思い至った。
「……あと一人は、誰を誘うつもりだい?」
「部を率いて東海大会まで導いた、浅野さんはいかがですか。彼女のこれからの音楽観、ひいては人生において、あの場所の空気を吸うことは必ずプラスになるはずです」
理路整然と、あくまで「指導の一環」であるかのように語る佐藤。しかし、宮坂は眼鏡の奥の目を細め、(はっはーん)と生暖かい笑みを浮かべた。
「そうだな。真由子先生は本当によく頑張ったからな。ご褒美が必要だ」
ニヤニヤと笑う宮坂に、佐藤は少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らす。
「浅野と、彼女のご両親への説得は俺からうまく伝えておこう。……佐藤、お前は本当に『真面目』だな」
「……どういう意味ですか」
「いや、なんでもないよ」
十月二十八日。東京、新宿駅。
前日から東京入りしていた佐藤は、松本から特急あずさでやってきた宮坂と真由子をホームで出迎えた。
佐藤は前日、T大の教授と面会し、今後の研究ポストと松本でのキャリアパスについての盤石な算段をつけていた。彼自身の輝かしいエリートコースへの切符、その「未来の計算」を確固たるものにして、今日の待ち合わせに臨んでいたのだ。
「佐藤先輩、お待たせしました!」
人混みの中から現れた真由子を見て、佐藤の呼吸が微かに止まった。
制服姿しか見たことのなかった彼女の私服。紺のシンプルなワンピースに、歩きやすそうな白いスニーカー。派手さはないが、彼女の持つ大人びた静かな空気に酷く似合っていた。
「……あ、ああ。長旅、お疲れ様」
佐藤は平静を装いながら短く答えたが、その耳の先がうっすらと赤く染まっているのを、隣に立つ宮坂だけは見逃さなかった。宮坂がニヤニヤと笑うが、当の真由子は「東京って、やっぱり人が多いですね」とキョロキョロしており、佐藤の動揺にまったく気づいていない。
一行は地下鉄に乗り換えるべく移動した。
(あ、ICカード)
真由子は無意識にバッグの中の定期入れを探し、そのまま改札に近づこうとした。
「おーい、真由子先生! 地下鉄に乗る時は切符買うんだぞ!」
宮坂の声に、真由子はハッとして足を止めた。そうだ、今は一九九五年。交通系ICカードなど影も形もない時代なのだ。
三人は切符を買い、地下鉄を乗り継ぎ、吹奏楽の聖地・普門館へと足を踏み入れた。
(あ……普門館、まだある)
『聖地』は、真由子が元いた二〇二〇年代にはすでに存在しない。二〇一一年の震災後、耐震構造の関係で使えなくなり、のちに解体されて広場になっているのだ。
その巨大で黒光りするステージを見た瞬間、真由子の胸に郷愁が込み上げ、思わず涙が出そうになった。
「普門館、あるに決まってるだろ。真由子先生はいつもしっかりしてるくせに、たまに変なこと言うよな」
独り言を聞きとがめた宮坂が、不思議そうに笑った。
全国から集まった頂点の音。その中でも、真由子の魂を決定的に揺さぶる演奏があった。
ある高校のステージ。
初老の指揮者がタクトを振り下ろした瞬間、会場の空気が一変した。
圧倒的な世界観の中、静寂を切り裂いて、サックスのソロが響き渡る。演奏しているのは、小柄な女子生徒だった。
(ああ……)
真由子は息を呑んだ。
普門館の広大な空間に響き渡ったそのソロは、純粋で、どこまでも優しく……けれどその奥底には、決して揺らぐことのない強い情熱を秘めている、胸が締め付けられるほどに切ない音だった。
一度目の人生で真由子を支配し続けた、健二のあの派手で暴力的な自己顕示の音とは完全なる対極。ここにあるのは、誰かを深く愛し、ただひたすらに慈しみ、すべてを懸けて守り抜こうとするような——深く静かな、情愛の響きだった。
サックスという楽器が、こんなにも人の心に寄り添い、優しく切なく泣くことができるのだと。
真由子は四十九年の人生で、初めて知った。
二度目の人生の根底にこびりついていた、健二の音によるトラウマ。それが、このひたむきで深い「情愛の音」によって、サラサラと浄化されていくのを感じた。
真由子の瞳から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。健二への恐怖、一度目の人生での後悔、そして今、本物の音楽に触れた圧倒的な感動。すべての感情が混ざり合い、真由子は声も出さずに泣き続けた。
その隣で、佐藤誠の頭の中の「計算機」が、致命的なエラー音を立てていた。
昨日、彼はT大の教授と面会し、自分の人生の「完璧なスケジュール」を確定させてきたばかりだった。
『——父の看病があるため、引き続き松本で働きながらS大の医学部で研究を続けます。ですが、父のことが落ち着いたら、必ず東京へ戻ります。その時はまた、よろしくお願いします』
自分のキャリアと家族の事情を天秤にかけ、被害を最小限に抑えつつ未来を担保する、彼らしい冷徹で合理的な計算の極みだった。
しかし今、隣で涙する少女を見た瞬間。
彼女の涙の理由を、彼は論理的に説明することができなかった。ただ、その透き通った涙を指ですくい取りたいと願う激しい衝動と、彼女の奥にある得体の知れない傷ごと、すべてを自分だけの腕で守り抜きたいという恐ろしいほどの熱がこみ上げてきた。
その瞬間、これまで彼の頭の中で鳴り響いていた「非論理的な不快感」や「未知の心拍数の上昇」というバグの正体が、たった一つのシンプルな『解』へと収束していく。
(これが……『心』か)
隣で涙する少女が溢れさせた感情。どんな複雑な数式でも解き明かしてきた彼が、その最も原始的で温かいものの前に、完全に敗北した瞬間だった。
(……ああ。計算が合わないはずだ)
その非論理的な解の名は、『恋』。
佐藤誠は、二十三歳にして、遅すぎる、そして決定的な初恋に落ちたのだ。
興奮冷めやらぬまま、会場を出た三人の頭上には、松本の澄み切った青空とは違う、少し濁った「東京の白い秋空」が広がっていた。
どこか曖昧で、輪郭のぼやけた白い空。それはまるで、完璧だった佐藤の計算式に、感情という名の美しいノイズが入り込んだことを象徴しているかのようだった。
宮坂は知り合いを見つけたらしく、「ちょっと挨拶に行ってくる」と席を外していた。
泣き止んだ真由子に、佐藤は自販機で買った温かい缶のミルクティーを手渡した。
「あったかい……いただきます」
冷えた手にじんわりと伝わる熱に、真由子はホッと息をつく。そんな彼女を見つめながら、佐藤はひどく優しい、けれどどこか熱を帯びた声で言った。
「今はまだ、お茶しか奢れないな。君は未成年だから。……いつか、君が大人になって、自分の足で立てるようになったら。その時は、美味しいお酒を飲みに行こう。約束だ」
その甘く穏やかな声の裏側で、佐藤の頭脳は猛烈なスピードで新たな「数式」を再構築していた。
彼女が大学生として過ごすこれからの数年間。それはもはや、彼が松本で父を看取るための単なる待機期間ではない。「愛する彼女が大人になるのを一番近くで見守り、完全に自分のものにするための、完璧な準備期間」へとすり替わったのだ。
彼は決して、自己犠牲を強いるだけの「ただのいい人」ではない。
自分の計画のレールの上に、彼女の人生を丸ごと乗せて上書きするために、自らのすべてを懸けて地盤を構築する。胸の奥で静かに燃え上がったのは、そんな底知れない野心と狂気にも似た愛だった。
東京の白い空の下で生まれた「計算機の初恋」は、やがて来る運命の時に向けて、静かに、そして強固に熟成されようとしていた。




