第十六話 一九九五年秋【諏訪湖の宝石と、左腕の宝物】
その日の夕方。
新宿発、松本行きの特急あずさ。
車窓の外は、すでに深い秋の夕闇に沈み始めていた。
宮坂は気を利かせたのか、「引率者は疲れた。俺は後ろの席で寝るから、お前たちで反省会でもしていなさい」と早々に目を閉じている。
二人がけの座席。佐藤は当然のように、真由子を奥の窓側へと誘導した。自分が通路側に座ることで、車内を行き交う他の乗客(外敵)から彼女を物理的にガードするためだ。彼はあくまで「引率としての責任」だと自分に言い聞かせていたが、その過保護な行動原理は、もはや無自覚な独占欲の表れに他ならなかった。
「すごい演奏でしたね……。まだ、耳の奥でサックスのソロが鳴ってます」
興奮冷めやらぬ様子で語る真由子に、佐藤は穏やかに頷いた。
「ああ。本当に素晴らしい『心』の音楽だった。……でも、明日からはまた現実だ。ところで真由子ちゃん。志望校に向けた青い本の『確率・統計』はどこまで進んでいる?」
「えっ、あ……ええと、半分くらい……でしょうか……」
「……正直に言いなさい」
「……三分の一です。すみません」
真由子が肩をすくめて白状すると、佐藤は眼鏡のブリッジを押し上げ、深い溜息をついた。
「致命的な遅れだ。いいかい、次の土曜日。午前の授業が終わったら、学校の空いている教室で君の数学を叩き直す。いいね?」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「勘違いするな。これは、松本蒼峰高校吹奏楽部を未踏の東海大会まで導いた功労者に対する、指導者としての最後の務めだ」
佐藤はあくまで冷徹に言い放ったが、内心は(よし。これで土曜の午後は、静かな教室で彼女と二人きりだ)という期待で満ちていた。
やがて列車が上諏訪を過ぎた時、窓の外に、街明かりを反射して黒曜石のように煌めく大きな湖が姿を現した。
「あ……諏訪湖の夜景。綺麗ですね」
「……ああ。本当に」
真由子の横顔の向こう側に広がるその景色を、佐藤も静かに見つめる。
(いつか、君が大人になったら。あの景色を一望できる場所へ連れて行こう。……そして、君の隣に立つ権利を、完全に僕のものにしよう)
やがて列車の頭上に巨大な岡谷ジャンクションの高架橋が迫り、あずさは長大な「塩嶺トンネル」へと突入した。
ゴォォォォという重い轟音が車内に反響し、お互いの声が聞き取りにくくなる。会話は自然と途切れ、二人は暗闇の窓をただ見つめていた。
数分後。
列車がトンネルを抜け、不意に車内の騒音がスッと遠のいた、その時だった。
こてん、と。
佐藤の左肩に、柔らかな重みが乗った。
「……っ!?」
驚いて横を見下ろすと、真由子がすうすうと規則正しい寝息を立てていた。
部長としての重圧、東京への長旅、そして何より、強張っていた感情が涙とともに浄化されたことで、彼女は完全に安心しきって眠りに落ちてしまったのだ。
(なっ……!? 左肩への局所的な荷重。真由子ちゃんが、寝ている……?)
佐藤の身体が、石のように硬直した。彼の頭の中にある『人間計算機』が、反射的にアラートを鳴らし始める。
(現在の僕の心拍数は推定百二十を超えている。特急列車の座席で安静にしている状態としては明らかな異常値だ。松本到着までのタイムリミットは残り推定十七分。この姿勢を維持した場合、僕の左腕の尺骨神経が圧迫され、確実に痺れを伴う。医学的見地から言えば、優しく揺り起こして姿勢を正させるのが『最適解』だ。……だが)
シャンプーの微かな香り。あどけない寝顔。自分の肩に預けられた、無防備で愛おしい体温。
(……ああ、もう計算はやめだ)
佐藤は小さく息を吐き出し、頭の中でせわしなく動いていた数式をすべて放棄した。
残ったのは、ただ一つの絶対的な真実だけだった。
(ただ、幸せだ。……ずっと、このままでいたい)
完全に感情へと降伏した佐藤は、微動だにしないよう全身の筋肉を固めながら、右手でそっと自分の上着を真由子の肩に掛けた。もはや「空調による体温低下を防ぐため」といった小賢しい言い訳すら必要なかった。ただ純粋に、こんな無防備な寝顔を他の誰にも見せたくないという、深い愛情と独占欲からくる行動だった。
夜の闇に包まれた車窓のガラスには、自分の肩に頭を預けて眠る少女と、痺れゆく左腕の感覚さえも愛おしむように、優しく熱を帯びた瞳で見つめる自分自身の姿が映っていた。
やがて。
『——ご乗車、ありがとうございました。まもなく、終点、松本に到着いたします』
車内アナウンスのチャイムとともに、真由子が「ハッ!」と体をビクつかせて目を覚ました。
「ご、ごめんなさい佐藤先輩! 私、先輩の肩でずっと……っ、重かったですよね!?」
顔を真っ赤にして平謝りする真由子に、佐藤は手で眼鏡のブリッジを押し上げ、極めて涼しい顔で答えた。
「……気にするな。人間の頭部の重量は約五キロ前後だ。僕の肩周りの筋肉量と骨格から計算すれば、これくらいの負荷は誤差の範囲内にすぎない」
「け、計算……? そ、そうですか……?」
ホッとしたように胸を撫で下ろす真由子。彼女はまったく気づいていなかった。
理屈をこねて平静を装っているその男の左腕が、現在進行形で完全に痺れきり、プルプルと微かに震えていることに。




